フェルガナだより(0)

<まえがき>
 ウズベキスタンをご存知ですか? 旧ソ連中央アジアの民族共和国の一つで、ソ連崩壊に伴って独立した国です。「二重陸封国家」と呼ばれます。つまり国境を接するカザフスタンキルギスアフガニスタン・トゥルクメニスタン(スタンばっかりだ。キルギスもふつうにはキルギスタンと言われますからね)すべてが海洋に面していない内陸国で、海に出るまでに国境を二つ以上越えなければならない国、まさに「中央」アジアのそのまた中心と言っていいところです。「シルクロードの国」と言ったほうが日本人にはわかりやすいでしょう。中国新疆のタクラマカン砂漠南北路を抜けた隊商が、天山・パミールを越えて至った地、むろん三蔵法師も通りました。古都サマルカンドの名は高い。周りのカザフやキルギス、トゥルクメンが遊牧民地域であるのに対し、古くから都市文明と交易の栄えたオアシス農耕の土地で、ロシア領になる前に栄えたブハラ・ヒワ・コーカンド三汗国の首都とその周辺に、中央アジアメトロポリスタシケントを継ぎ合わせたいいとこどりの国です。観光資源や名所旧跡に恵まれていますが、その割に観光客が押し寄せていません。
縁あって、このウズベキスタンの首都タシケントの経済大学で1年日本語を教えたあと、誘われるままに、タシケントの東南300キロのところにあるフェルガナ盆地フェルガナ州の州都フェルガナ市のフェルガナ国立大学(フェルガナずくめですね)で、2003年9月から翌年7月まで日本語教師として働きました。フェルガナ大学の日本語コースは私の赴任をもって始まりました。初代の教師ということになります。
ここはしかし、フェルガナ盆地としては二つ目の日本語教育機関です。フェルガナの西50キロのところにあるリシタンという陶器の町には、小松製作所を退職した元主任技師の大崎重勝氏が1999年に始めた、町の子供たちに日本語を教える「のりこ学級」なるものがありました。大崎氏が病気で帰国されたあと、ボランティア教師がかわるがわる訪れて、授業を続けています。
私自身も、現地契約教師として月給は円に直して3、4000円程度(食費は賄えます)のボランティア・ベースの仕事でした。その間、この土地の生活や日本語コースをめぐる話題についての報告や見当外れのコメントを載せた広報誌「フェルガナだより」を編集し、友人知人にメールで配信していました。それをまとめたのがこの本です。ゼロから始まった日本語講座が、1年でどのように成長したかの記録でもあります。フェルガナ大の学生たちの作文も載せました。周囲への配慮から、あるいは時間や分量の関係でその時は書けなかったことを帰国後に補いました。この地域に、外国での日本語教育に興味ある人には、おもしろく、参考になることもあるのではないかと思いますが、さてどんなものでしょう。


東洋史の効用>
 「明治末から大正、昭和にかけて、日本には優れた敦煌学者や西域学者がたくさん出ている。そうした学者たちの研究や論文には、今でもふしぎに思うほど一種独特の魅力があった。彼等にとっては、敦煌も西域も、足を踏み入れることのできる所ではなかった。行くことのできない聖地であったに違いない。一生行くことはできない、そういう覚悟の上に立っての研究であったればこそ、一種言い難い熱っぽい魅力が、その難しい論文の中に醸成されたのであろう」。井上靖は愛読書「敦煌物語」(松岡譲著、昭和18年刊)を紹介する文で、こう述べています。日本の東洋史学というのは、戦前にひとつのピークを迎えました。文献の精査による研究は、その頃に極められたと言っていい。ここフェルガナ盆地についても、汗血馬を得るために武帝に遣わされた将軍李広利の大宛遠征を記す「漢書」中の貴山城はどこかをめぐり、学者たちの論争が繰り広げられました。戦後しばらくの時代までの東洋史学界には、ある憧れを抱いて、和漢洋の文献を渉猟し、詮議考証細密を極め、しかし実景をその目で見ることなく、歩を印すことなかった碩学が数多くいます。
たとえばキルギスに旅行して、機窓から見えるあれがタラス川かと認め、イシク・クル(「熱海」)やバラサグン(砕葉城)などへガイドブック片手にのこのこ出かけ、よかったね、それほどでもなかったねと勝手なことを言う。まさに見るべきだった彼らが見たくとも見られなかったものを、単に時代に恵まれているだけの現代のわれわれが何心なく眺めていていいのだろうかと思ってしまいます。価値を知らぬ者が知る者にとっての宝を無造作に浪費しているのも、また人生の妙ではありますが。だが、彼らの眼を借りて眺めることで、その風景に地元の人間の見る以上のものを見ることができる。それに感謝し、敬慕の念を深くする。学問は進歩するものと勘違いし、つい忘れてしまいそうになる先人古人への尊敬の念の新たにするのもまた効用です。
そして、古典の価値にも今さらのように気づきます。われわれは「日進月歩」に慣らされています。IT技術などまさにそうだし、さまざまなハイテクが昨日の新製品を今日は廃品にする。わが直接の環境、ウズベキスタンの独立後始まったばかりの日本語教育界も、日々拡大拡充していると言って過言でない時期にあります。明日は今日よりよくなると、うっかり信じてしまいそうになるが、どっこい、それは見せかけに過ぎぬと、正しく認識させてくれます。知恵と知識(技術も含む)に二分すれば、なるほど知識のほうは「日進月歩」で増大している。だが知恵のほうはというと、春秋戦国の昔から1ミリたりとも進歩も退歩もしていないのではありませんか。イラクチェチェンを見るにつけ。
もうひとつの効用は、文才乏しく、みごとな葡萄を目の前にしても、さてどう伝えたものかとまどってしまうときに、しかとこうだと模範を示してくれることです。チンギス・ハンの時代、河中府サマルカンドに赴いた耶律楚材の詩文を見れば、「黯紫の葡萄は垂れたる馬乳のごとく、軽黄の杷欖はかがやける牛酥のごとし」「せわしく賢姫をよび器皿を尋ね、さらに遼客を呼び筝 を奏せしむ。葡萄の架底に葡萄の酒、杷欖の花前に杷欖の仁。酒かもし花しげくして正に如許、錦城の春にそむかしむることなし」。昔の人は、私くらいの者が言いたいことはもう言ってくれています。古典的に簡潔に。すべて新しいことは過去のうちにあるのだと言えば、言い過ぎになりましょうか。


 おしまいに、いささか東洋史づいて、古書からフェルガナ地方についての記述を書き抜いてみましょう。
紀元前4世紀、ペルシア帝国を滅ぼし、インドまで軍を進めたアレクサンドロス大王は、途中サマルカンド(マラカンダ)も征服した。そして今のホジャンド付近に「最果てのアレクサンドレイア」を建設している。「アレクサンドロス大王東征記」(大牟田章訳)によれば、大王は「タナイス川(シルダリヤ川)のほとりに町を建設し、これを自分の名前をもつ町にしたい、という考えをいだいた。彼の見るところ場所柄は、町が将来大きく発展するのに適っているし、スキュティア進攻がこの先いつか起こるとすれば、その基地としても好都合な位置にあるうえ、川の対岸に住む夷狄どもの襲撃にそなえる、地域防衛の拠点としても、良い立地だと思われたからだ。彼はこの町が、そこに住みつく人間の数の多さからも、それに町の名前の輝かしさからしてもきっと、将来大きな都市になるだろうと考えたのである」。「アレクサンドレイア」はけっこうだけど、土地に住む人が考えもしない「最果て」だなんて、外から来る連中は勝手な名をつけるものです。
司馬遷の「史記」大宛伝には、漢代前2世紀に西域に派遣された張鶱の報告が載っています。「大宛は匈奴の西南、漢の真西にあり、漢を去ること一万里ばかりであります。その習俗は、土着して田を耕し、稲麦をうえております。葡萄酒があり、また良馬が多く、馬は血の汗をかきます。その馬の先祖は天馬の子です。城郭や家屋があり、その属邑は大小七十余城で、人口は数十万ほどです。その兵器は弓・矛で、騎射に長じております。大宛の北は康居、西は大月氏、西南は大夏、東北は烏孫、東は  ・于䉤です」。「大宛より西、安息国にいたるまでは、すこぶる言語を異にしていたが、しかし習俗は大いに似かよっていて、たがいに相手の言語を知っていた。住民は、みな眼がくぼんでいて、あごひげやほおひげのあるものが多かった。商売が上手で些細の利益をあらそった。その習俗は女子を尊重し、女子の言葉によって男子は事を決定した。この地方はどこでも絹・漆を産出せず、銭や品物を鋳造することを知らなかった」(野口定男訳)。
唐代7世紀の求法者玄奘三蔵の「大唐西域記」には、「 捍国は周囲四千余里あり、山が四辺をめぐっている。土地は肥沃に、農業は盛んである。花や果が多く、羊や馬に適している。気候は風寒く、人の性質は剛勇である。言語は諸国と異なり、顔かたちは醜くおとっている。ここ数十年来、大君主はなく力のある豪族が競いあっていて、互いに服従しようとしない。川に依り険に拠り、土地を画し首都を別にしている。これより西へ行くこと千余里で窣堵利瑟那国に至る」(水谷真成訳)という簡潔な叙述があります。しかし玄奘自身はこの地域に足を踏み入れていません。
ティムール五世の孫にあたるバーブルは、のちにインドにムガール帝国を建てた英雄にして詩人で、フェルガナ盆地アンディジャンに1483年に生まれました(市外に立派な博物館があります)。その自伝「バーブル・ナーマ」はだから、フェルガナ人のフェルガナ記述です。「フェルガーナ地方は小さな地方である。穀物と果物が豊富である。周囲を山々に囲まれているが、ただサマルカンド及びホジャンド方面にあたる西方には山が無い。冬期にはまさにこの方面以外では、どの方面からも敵が侵入する事は不可能である。ホジャンド川の名で知られているサイフーン川(シルダリヤ川)が東北の方面から流れて来て、この地方の内部をよぎり、西方へと流れて行く。… 7つの都市がある。その内の5つはサイフーン川の南にあり、2つは北にある」。「南側にある都市の1つがアンディジャーンで、中央に位置し、フェルガーナ地方の首都である。穀物が豊かで果物も多い。メロン、葡萄がすばらしい。メロンの季節にメロン畑の所でメロンを売るという習慣は無い。アンディジャーンの梨よりも良い梨は無い。マー・ワラー・アンナフル(「アム川の彼方の地」)でサマルカンドとケシュの城を別にすれば、アンディジャーン城より大きな城は存在しない。3つの門を持ち、内城は南側にある。9本の水路を通って水が流れこんでいる。しかし不思議な事に水はどの1箇所からも城外に出ていない。… 住民はトルコ人である。町やバザールでトルコ語を知らぬ者はいない。住民の言葉は筆になじむ。なぜなら、ミール・アリー・シール・ナヴァーイー(ナヴォイ)の諸作品は、彼がヘラートで成長したにもかかわらず、この地方の言葉で書かれているからである」。「次はマルギーナーンである。アンディジャーンの西にある。アンディジャーンから7ユガチの道のりで、よい町である。すばらしいものが多く、ざくろとあんずが非常にすぐれている。1種のざくろがあって、「大種」と呼ばれている。… また1種のあんずがとれる。その種子を取り出して、空いた所に仁をつめて保存する。「神種」と呼ばれ、大変おいしい。鳥獣もよい。近郊で白鹿がとれる。住民はサルト人である。喧嘩好きで、悪意に満ち、激し易い連中である。殴り合いはマー・ワラー・アンナフルでは日常茶飯事である。サマルカンドやブハーラーで悪名高い殴手たちは、ほとんどがマルギーナーン人である。「ヒダーヤ」(有名な法学書)の著者はマルギーナーンのルシュダーン(リシタン)という村の出身である」(間野英二訳)。果物や詩に触れること多いのが、武人の回想録らしくなくて新鮮です。
1875年のロシアのコーカンド汗国征服からまだ時のたたぬ1880年にこの地方を旅した日本人外交官西徳二郎(ロサンゼルス五輪馬術の金メダリストで、硫黄島で玉砕したバロン西竹一大佐の父)は、「中亜細亜紀事」のうちに当時の様子を書き留めています。フェルガナ市はまさにそのとき建設中でした。「シル・ダリア河上流の土地であるフェルガーナ渓谷と呼ばれる地方は、土地の三方面が高山に囲まれ、平地が東西に延びている。その長さはざっと一八○−一八四キロ、幅は平均八四−八八キロあって、その中央部に砂漠地帯が東西に細長く分布し、曠野を形成している。その他の残りの山麓をとりまく土地は、みなよく肥えたところで、四方の山地から渓流も多く流れ下り、田園の広がる各地はその水を灌漑にしているおかげで、雑穀・果樹・桑・綿などがみなよく生育する。そのため紡績や裁縫の生産が最も盛んである。古くから豊かなことでその名の知られたコーカンド、マルギラン、ナマンガン、アンディジャン、ホージェントなどの諸城市はみなこの渓谷にある」。コーカンドの「王宮などは、当時、後宮の女官たちの化粧の間であった美しい部屋も、すでに変わり果ててロシアの武器庫となり、あちこちに旧砲や弾丸が積み上げられ、見る人をしてうたた感慨の情を起こさしめることだ」。「マルギランもタシケントと同じように城下は新旧の二つに分かれていて、ロシア人が新しく居住地にしたところを新マルギラン(現フェルガーナ)といっている。その建設は一八七八年から開始され、いまではすでに大通り一条と、二、三の支街路ができ上がり、新街区域の外側に兵営がぐるりと建ち並んでいるだけである。ところが、城下の都市計画ははなはだ構想が雄大でかつ適正であり、路幅も広く、街路樹をその両側に植え、すでに出来ている家屋はみな煉瓦造りで、全くヨーロッパ風の市街を形成している。もしこれから後も、これまでの二年間の割合で建築の成果を上げていったなら、今後十年間には一大城下を形成することができるであろう」(金子民雄現代語訳)。どうぞ「フェルガナだより」中の町の姿と突き合わせてみてください。
(2004.11.30.)