フェルガナだより(5)

<会話帳ウズベク語訳>
先月JICAの柳沢所長が当地に来られたとき、大学に寄贈して下さった "Simple Conversation in Japanese"(JICA刊・非売品) は、たいへんおもしろい会話帳でした。いわゆる会話帳というものは、書店の棚を見れば数々並んでいますから、きっとよく売れているのでしょうが、筆者をして言わしむれば、ことごとく遺棄して可です。いくらそれを見ていたってその言葉ができるようになるわけではなし、それを棒読みして質問をしても、相手の答えがわからなければ意味がない。言葉の通じぬ外国で苦労して得た結論は、必要なのはあいさつ表現と決まり文句、数(非常に重要)、そして疑問詞といくつかの基本的な動詞、形容詞を覚え、それで用を弁ずることです(その「会話」に、日本語なり英語なり自分の知っている言葉をおりまぜ、その言葉のできる人を巻き込むようにはかることもかなり重要)。会話帳に意味があるとすれば、そのようないくつかのフレーズや単語を集めるソースになるということだけです。
JICA会話帳は、日本語の文法の最低限の知識をもたせ、その最低限(まったくの最低限、「みんなの日本語」で言えばⅠの前半どまり)の文法で言えることだけ書くというコンセプトで作られています。つまり日本語の学習と連動しているわけで、これが類書にないよさです。箸の使い方や日本の家の造りの紹介(日本事情ミニマム)や、巻頭にひらがな・カタカナの表記法、巻末には数詞・助数詞の一覧などもあって、日本への旅行者のみならず、日本語の学習を始めたばかりの者にも非常に役に立つ本です。実際、日本語がこのくらいできれば十分というニーズの者もあろうし、学生たちが卒業して日本語から離れ忘れても、これくらい残っていればよしとしうるだろうとも思います。
しかし、外国に暮らしていていちばん多く使うのは、「わかりません」「知りません」「(日本語)が話せません」「(英語)ができますか」「(英語)ができる人を呼んでください」等の文です。結局当人はその言葉ができず、少しこみいった話をするとなると自分のできる言葉によらざるを得なくなるのだから、当然です。私自身、いちばん唇に慣れている露文は「ニ・ズナーユ」「ニ・パニマーユ」ですし(あ、それから「ニ・トゥダ・パパーリ」。かかってくる電話のおよそ三分の二は間違い電話なものだから)。外国の会話帳にはだから、これらの文が必ず載っていますが、日本のものにはまま欠落していますね。それはその会話帳の編者、当該言語の達人であるはずの編者が、読者もその言葉ができるようになってほしいと無意識に念願していることの現われでしょうか。実用一点張りの欧米人に対する善意あふれる日本人、というふうに好意的に解釈しておきましょう。JICA会話帳も、これらの表現が手薄な気味はあります。
とてもよい本だから、教科書のない(各課数ページをコピーで与えられるだけの)学生たちに参考書がわりに読ませたいと思いましたが、いかんせん英語のあまりできない者が多い。そこでウズベク語訳を急ぎこしらえました。拙速のため誤りもあろうかと思います。ウズベク語のできぬ筆者に無論翻訳できるわけがなく、タシケント東洋学大の学生やフェルガナ大学教師の協力を得ました。記して感謝する次第です。やさしくてかしこい女性たちにいつも助けられます。日の本は女がなければ夜の明けぬ国と言いますが、ウズベキスタンもたぶんそうです。


<日本人の使命>
大使館の最大の任務は、そこにあること、ありつづけることです。企業の駐在員の任務も同じで、撤退は敗れることだし、加えて事業を拡張するのも期待される役割です。しかし日本人教師の仕事はそれとは非常に異なっています。日本人教師の最大の使命は、いなくなることです。われわれがここですることは、すべていなくなるための準備でなければなりません。来た瞬間からそうなのです。後任者にバトンを渡すのが、仕事のいちばん重要な部分です。その後任者は、できれば日本人でないほうが望ましい。明治時代の「お雇い外国人」が消えねばならぬのと同じこと。われわれの場合は、「お雇い」ではなく「押し掛け」なのですがね。
日本語を教えるのは、われわれの主要な業務ではあるが、それが全部ではない。それはもう続々と現われてきている現地人教師にもできることです。力点を置かなければならないのは、彼らにまだできず、われわれには彼らよりよくできることをすること。つまり教えるため、学ぶための環境を整備することがもっと重要です。学習者と教師の双方に対し、自己表現や研鑽の機会を設けること。教える人を教える、とまではいかなくても、力を貸す。教師の給料が安く、よい人材が他へ流れてしまうという構造的な、一介の日本人教師にはどうすることもできない問題があるだけに、実に悩ましい仕事だけれど。また技術移転。ネットワーク作り。教材(ウズベク語の!)の開発。辞書、教科書、文法書の編集(このごろその考えに取り憑かれています)。すべて、あとに続く者のためにすることです。それが整えば、後任者(願わくは現地人)の仕事はずっとやりやすくなるでしょう。そしてわれわれは去ってゆく。仮の宿りに住む者の必然として。
もう一つ、日本から援助を引っ張ってくるのも日本人教師に期待されている役割で、こちらはちと憂鬱ですね。前項が精神的な部分とすれば、それを支える物質的な部分も手当てせねばならない。しかしその場合も、システムを作り上げることが重要で、金銭的な負担を自分がかぶるという解決法は、解決でないばかりか、問題の先送りに過ぎないということは認識しておくべきです。ごく一部の永住する人を除き、われわれは必ずいなくなる。あとを襲った現地人にできない「解決法」を、先例として残していってはなりません。
そして決してやってはならないのは、それなりに機能している現地の組織や体制を、みだりに干渉して恣意的に改変すること。当人は善意や信念に基づいてよいことをしているつもりなのだが、企業のように利益をあげるという明白な目標にして基準になるものがある場合と違い、われわれのような仕事の場合は、腹立たしく将来に禍根を残す干渉か、いいところとんでもない勘違いに終わるでしょう。いなくなる人間がいつづける人の運命を決定してはいけない、とは言わずとも、そのことに対しては非常に慎重でなければなりません。その土地に権利を持つのは、そこに血と汗と涙を流した人だけです。たかだか1年か、長くて3年しかいない外貨生活者が、冗談のような少額の給料を補うために齷齪し、結婚し一家を構え、子供を産み育て、親戚縁者や友人、そして本人の慶事災厄に心と体を労し使い、一言で言えばその地で真に生活をしている人たちに敬意を持たずに、何で仕事ができましょう。そのような者は去れ、というのがルールです。われわれがしているのはお手伝いでしかないのだから。
まだ年若いウズベキスタン日本語教育は、日本人が植え育てたものといっていい。それは今働いている現地人教師の年齢を見ればすぐわかります。日本人教師に育てられたのでない人はいません。だからこそ自覚と自戒が必要です。
主演級の日本人教師諸氏よ、しっかり任務を果たし、がんばって消え失せましょう。あとを主演級の現地人と助演級の日本人に任せて。


<新年会への旅>
1月16日には大使公邸で在留邦人の新年会が、翌土曜日にはウズベキスタン弁論大会の実行委員会があったので、久しぶりにガニティコでカムチック峠を越え、タシケントに出かけてきました。旅は日常から一歩外へ踏み出すことだから、フェルガナからリシタンまでのわずか50キロも、もう旅です。詰め込まれたミニバスの車窓から、旅情が早くも覗きます。鍬を肩にかついでいく男、所在なげな野良犬。車内は狭苦しく、音楽がやけにうるさい。そして気づきます、旅とは快適さの欠如であることに。日常生活ではたえず追求している快適さを、旅に出るときは、望んでか望まずか、一時放擲します。快適さの欠如の究極はシベリア流刑囚の旅ですが、そのようなものまでは誰も望まぬにせよ、特に現代の文明生活に慣れた者は、快適さのもたらす垢を時々洗い落とさねばならないかもしれません。
特に寒い日ではなく、麓は雨でしたが、峠に近づくとそれが雪に変わりました。降り続く湿った雪が積もっているところで、20キロの徐行運転をしていても、下りにかかる道では時々すべりそうになりました。ガニシェル氏はあとで、この間目立ってきた白髪を染めたばかりなのに、あれでまた白いのが出ちゃったよと述懐したものでした。三蔵法師が西方取経の旅で遭難しそうになったのは、新彊のもっと高い峠であったでしょうが、同じ山系に連なるもののはずです。内燃機関があっても、甘く見てはいけない。畏敬の念を忘れてはならない。
フェルガナへ帰る日は朝から思い切った快晴でした。宿をとった町中のウズベキスタン通りから、雪山の連なりがくっきり見えました。ここからも山が見えるとは、タシケントに住んでいるときには気づかなかった。ぐんぐん登っていく山道も、二日前は視界もなく雪で難渋したのが嘘のように、きれいに雪のない道を、あたりの新雪に美しい山景を眺めながら快走する。山の天気の変わりやすいことはどうだろう。ダム湖のあるあたりでは、道端で釣った魚を売っている若者がたくさんいる。峠を越えると、今が猟のシーズンだそうで、子供たちが手に手に山鳥を下げて、止まる車に寄ってくる。粗末な小屋掛けの売店がいくつか並ぶところで、ヨーグルトを食べました。見上げると軒先から白い山嶺が見えて、絵心がないのを悔やむ風景でした。
峠を越えるのは易いことではありません。あの屯している乗合いタクシーの運転手たちが毎日していることだとしても、そうなのです。やったことはつまり三蔵法師と同じなのだ。ただ比較にならないほど簡便なだけです。平地に降り、柴を積み上げた荷車を曳く驢馬を、毛皮帽子をかぶりチャパンをまとって自転車をこいでいく白髭の老人を、塩を洗うために小さく区画した畑に水が引かれているのを、親しいフェルガナ盆地の眺めを見つつ、カシュガルバグダッド、ボストンといった面白い地名の標識を問いつつ、帰りついたリシタンで一泊した夜、街灯もなく舗装もされぬ暗い夜道からふと見上げた満天の星空を賛嘆し、この旅は終わりました。翌朝、ガニシェル家できのう買った鮎に似た美味な魚を食し、またフェルガナの日常へと戻っていったことでありました。
(2004.1.25.)