広い世界の片隅に

 日本とのつながりの薄いウズベキスタン、国名を言ってもどのくらいの日本人がその存在を知っているか怪しい国の中でも、首都から450キロ、2200メートルの峠越えをしなければたどりつけない地方都市で、20年前に日本語を教えていた。

 フェルガナ国立大学の、後任に人を得ず2年で打ち切りになった幻と言ってもいい講座のことである。必修ではなく自由選択であった。そのころはまだオタクもおらず、彼らはただ日本や日本語に漠然と興味を持って履修したに違いない。

 20年後に縁あってまたその町で教えることになり、赴いた。当時学生だった日本語教師らに招かれてのことである。昔の学生9人に会った。うち7人はまだ日本語が多かれ少なかれ話せる。そのほか5、6人いたはずで、彼らにはまだ会っていない。その中でも2人はたしかに日本語ができる。それ以外の人はおそらく日本語を忘れたのだろうが、無理もない。20年は長く、ことばは使わないとすぐ忘れるから。まだ忘れていない人が半数もいるほうが驚きだ。

 日本へ留学したのは2人だけ。2人はその後旅行などで行った。近くもう1人日本へ行く。若さはこの上ないメリットだ。在学中や卒業後すぐにはそれを使う機会が得られなくても、20年後にそれを役立てることができる(今のこの学校のスタッフのように)。

 首都がきらいで、田舎が好き。だからタシケントで教えていたときにフェルガナに来てくれないかと声をかけられたら、ふたつ返事で引き受けた。いろいろなところで働いてきたけれど、ほかは前任日本人教師の後任として赴任したのであり、行った先には現地人教師もいた。ゼロから独力で始めた講座はこれだけだ(チークセレダもそうだったが、あのときはまだ駆け出しだった)。

 かつての学生のうち3人は日本語教師になっている。つまり、「子」であるその教師たちにフェルガナに招かれ、「孫」ができてきているわけだ。

 わずか2年でも、夢まぼろしではなかった。種がまかれ、育っていた。これがうれしくなくてどうする。「うれしさは中より上なり おらがフェルガナ」、というところだ。