フェルガナだより(3)

 早いもので、「フェルガナだより」ももう3号を数えます。月日のたつのは早いもの早いものと、月並みな挨拶を言いながら、馬のごとき齢を重ね来たりました。フェルガナ地方はしかし、馬ではなくて驢馬が多いのですけれどもね。「歳の暮 馬より驢馬に似たりけり」。おやおや、駄句の駄の字も馬へんだぞ。


<フェルガナ鳥瞰>
 11月27・28日の両日、タシケント日本語教育巡回セミナーが開かれた際、大使館から交通費として航空券代が支給されたので、空路首都へ飛びました。26日は好天で、機窓からフェルガナ盆地がくっきりと眺めおろせました。40人乗りの尻から乗るような小さな飛行機だから、あまり高くは飛べないのか、その眺望はとてもよかった。山地は木がなく開発もほとんどされておらず、地球の形造った地形がそのまま眼下にあり、若い頃こんなものを見ていたら、地理学者を志したかもしれないなと思いました。そして、越えてゆく雪をかぶった山々の美しさにもまして、ややもすれば気にとめず見過ごしてしまいそうなどこまでも続く耕地の眺めに、ある感銘を受けました。盆地の中心部は森なく林なく、平らに広がる可耕地はすっかり耕しつくされて、畑かさもなくば集落を見るのみ。感銘のひとつの理由は、孜々とした人間の働きの結果を目に見える形で見たことだが、もうひとつには、その働き手の多さです。
 フェルガナ盆地主要部の大半はウズベキスタン領だけれど、取り囲む山岳を含む縁辺部はキルギスに属し、盆地の口の部分はタジキスタン領です。そして飛び地というものがあり、キルギスの中にウズベキスタンに属す飛び地シャヒマルダンとソフ、タジク領の飛び地もウズベクキルギス領内にあって、およそ不自然を地図上に描けばこうなるという見本のような国境線です。北は天山へ連なり、南はパミールへ続き、5000m級の山々に囲まれたシルダリヤの流れる土地。地理や歴史の授業である憧れをもって聞いていた地名が次々に出てきて、漢の武帝の汗血馬のと、記憶の奥から読みかじりが、おぼろげな分だけさらに魅惑的に立ち現われてきます。
 「栄えた」というのは「人口が多い」の謂いです。そのかみもそんな土地だったのかは筆者の詳らかにするところではありませんが、現在の人口密度は大したものです。ウズベキスタンのそれは55人、フェルガナ3州は367人で、日本の人口密度(331人)をもしのぎます。ウズベキスタン(日本より広い)の総面積のわずか4%あまり(秋田県山形県を併せたほどの大きさ)に、総人口の4分の1以上、677万人が住んでいます。現在のこの地方の美点も抱える困難も、こういう事情を背景にして考えるべきなのでしょう。


<交通・通信事情>
 タシケント経済大に悪いことをしたかなあという気持ちが頭のどこかにあります。あそこを袖にしてフェルガナに移ったような格好ですから。実際のところは、経済大在任時の派遣元は1年しか補助をくれないので、さんざん考えた末、辞めて帰国することに決めたのですが、そう決断したあとにフェルガナの話があり、その魅力にふらふらと惑わされたわけなのです(かなり持ち出しになるのに)。だからあっちを辞めてこっちに移った不義理ではないのですけどもね。ではどうして魅力的かと言うと、その大きな部分は、ここが田舎だということによっています。
 田舎が好きなのです。外国暮らしも数えればもう14年ぐらいになりますが、その間首都に暮らしたのは4年だけ。不便で困るの何のとぼやきつつ、やっぱり田舎に行ってしまう、根っからの田舎者です。
 しかし田舎と言ったって、フェルガナは18万、前に住んでいたハバロフスクは60万、カザンは100万都市で、それぞれ州都ですから、たとえばムイナクでもどこでもいいが、そういう本当の田舎とは比べものにならない便利なところに住んでいるわけです。不便の便利のというが、それは他と比較した場合の相対的なものに過ぎません。
 けれどやはり、首都との関係で不便を意識させられることは多い。通信・交通事情を例にとって、この問題を考えてみましょうか。
 まず第一に気づくのは、ここでも「アンナ・カレーニナ公理」は真だということです。便利というのは一様でのっぺりしているが、不便はそれぞれ極めて個性的で、一律に扱えない。フェルガナ的不便とサマルカンド的不便は同一でなく、それぞれ固有の事情に深く染まっています。テルメズ的、ムイナク的不便等々もまたしかり。では、われわれがその下で暮らしているフェルガナ・リシタン的不便(フェルガナ大とのりこ学級は運命共同体的に結ばれています)とはどのようなものか。
 電話が時々かかりにくくなる、壊れる云々は置きましょう。それは首都たるタシケントも免れ得ない運命ですから。タシケントからフェルガナ市へはかかります、多少の根気があれば。だがリシタンの場合、私はタシケントからもフェルガナからも何度か電話しようと試みましたが、まだ一度もかかったことがありません。むろんかからないことはないでしょう。かかることもあるのでしょう。だが、かかることを前提に計画は立てられません。緊急時に電話で連絡などということは、もう私の念頭にはありません。携帯電話にはかかります(携帯はフェルガナの局番なのです)。だからリシタンとの電話連絡は、ガニシェル氏の携帯にのみ依存する状況です。
 電話がかからないというのは、つまりリシタンからはEメールができないということを意味します。リシタンの日本人住民およびガニシェル氏は、週に一二度フェルガナへ出てきてメールチェックをします。だからメールを送る人は、受け取りまでに時差があることを考えに入れておかねばなりません。緊急時の連絡手段としてメールを考えるのも、リシタンの非常識です。
 フェルガナ盆地の入り口はタジキスタン領になっていて、現在ここは実質的に通れません。したがって首都へ行くには、空路によらずんば海抜2000mを超えるカムチック峠道を越えなければなりません。そしてこの道はバスが通れない(通れないわけではない、大型バスはともかく、ミニバスなら絶対通れるはずです。トラックは大きいのが行き来しているのですから。けれど何かの理由で7人乗りバン以上の車は通行不可になっています)。そのため、自家用車で行くのでなければ、乗合タクシーに乗るしかない。なにせ天山の支脈を越える峠だから、冬には雪が積もる。スノータイヤもチェーンもつけないでそれを越そうというのだから、危ない(チェーンぐらいはつけたらいいと思うのですがねえ)。いかに百戦錬磨のタクシードライバーといえど、雪の日には出る車が少なくなる。すると料金が跳ね上がる。これは、先日のハイトの休みのように皆が里帰りする時も同じで、ふだんは片道一人5000スムぐらいですが、1万スムまで上がります。小学生にもよくわかる需給バランスによる価格決定メカニズム、ウズベキスタンのバザール経済万歳、みたいな交通事情ですが、これは空路鉄路にバスの便もあるサマルカンドとはかなり異なりますね。また、独立記念日ナウルーズ(春分)のような大祭日には、フェルガナ盆地のナンバーの車は首都に入れてもらえず、そのためタシケントの車しかタクシーがないので、このときも値段が高騰します(盆地から行く場合は、タシケント市域の境界で降ろされます)。乗合タクシーはコーカンドに屯しているので、フェルガナからもリシタンからもコーカンドまで行ってつかまえることになります。朝早くはつかまえやすいし値も安いので、前日リシタンで一泊して出向きます。上京は覚悟のいる事業です。
 要するに、リシタン・フェルガナ運命共同体の生命線は、ガニシェル氏の携帯とティコなのです。だから先日のように、ガニ氏が長くタシケントに行っていて不在だったり、料金滞納で携帯電話が切られているというような状況では、機能不全をきたします。急ぐときは実際に誰かがリシタンやフェルガナに赴いて連絡を取るという、ほとんど飛脚・伝令の世界になってしまいます。
 じゃあこんなところに住んでいるわれわれは不便で不幸かと言えば、そんなことはさらさらないので、所与の条件を所与として受け入れて、大して困りもせず、ときどき思い出したようにぼやきながら暮らしています。不便は一にかかって首都との関係において現われるのみ。タシケントとの連絡も交通も、あらかじめ予定を立ててするならば、別段それほどの苦情はない。急な期限を切られさえしなければいいのです。首都の人に首都の(わけてもボドムゾール租界の)通信・交通事情で測った期限を設けられると、途端にフェルガナは不便の地と化す。タシケントだっておそらくは、本省の人たちに不便がられているのでしょう。巡回セミナーの終わったあと、タシケントのスーパーでサマルカンドの先生に会い、買出しだなあ、ご同輩、と思ったけれど、なに、CIS弁論大会翌日のモスクワのスーパーでタシケントの先生方が買出ししてござるのと同じです。電話のなかった明治の小説を読むと、市内に住んでいる人との連絡にも手紙を書き、郵便で送ったり書生に持たせて届けたりしていて、別にそれを苦にしているわけではない。世の中そんなものだったから。戦後の小津の映画でも、東京から尾道へ行くのが大変なのに今の私たちは驚くが、気の毒がるのは私たちで、笠智衆は平気です。不便は関係性のうちにあり、相対的なものなのだと気づかされます。ここの生活ときたら、日々いろいろなことに気づかせてくれます。だからウズベキスタン暮らしは楽しい、かな?
 通信事情と言いながら、郵便のことを書き漏らしました。これについては実はまだよく知りません。非常に悪いタシケントの状態から、さらに1・2割減じた程でしょうか。日本への手紙は、誰か帰国する人に託して、日本で投函してもらうことにしています。これからこの国に赴任する人に、日本の切手が必需品だとアドバイスしておくにとどめます。


<日本語授業本格的に始まる>
 綿摘みにふりまわされた日本語の開講も、ようやく成りました。今年の綿は結局10月17日ごろに始まり、11月14日に終わりました。その間も毎週1回授業をしていましたが、病気で綿摘みに行かない学生が1人来ていただけです。実質的には11月19日をもって開講と認めるべきでしょう。ずいぶん出遅れてしまいました。
 1・2年生のクラスは週に3コマ(1コマ80分)、外国語教育センター(語学センター)のほうは週2コマで、午後4時半からなのは、働いている人も通うコースだから。学生は午後3時から。正規の必修授業がすべて終わってからの自由選択科目です。
 受講希望を届けたのは57人。しかしそのうちの6人は登録しただけで一度も教場に姿を見せず、16人は一度来たきりだから、実質(これからもこの言葉を多く使うことでしょう)35人だったわけです。教室に入りきらない人数なので、12月3日にひらがなカタカナのテストをやって、半分以上書けた者19人を受講者としました(甘い基準ですが、それでもだめなのが4人いたのですからね)。しかしこれでも多すぎます。中国で教師経験のある人は目を剥いているかな。でもこれまで教えたことのあるハバロフスクでもカザンでもタシケント経済大でも、一クラスの人数は7−12人でしたからね。フェルガナ大では、大学のコースではない独立の韓国センターがあり、学内に講座室教室の提供を受けて、3人の韓国人専任教師による韓国語講座が開かれています。受講希望者が50人くらいいるのを10人に選抜して、毎日授業をし、卒業時には修了証を交付するそうです。形態的には違いますが、人数としては似たような道をたどっている日本語も、だいたい同じ程度の数に落ち着くことでしょう。
 19人の内訳は女13人男6人です。登録数ではおよそ半々だったから、女子のほうが真面目に勉強することがこの短期間にも立証された格好です。外国語学部の学生が11人を占めたのも、さもあるべきことです。男女比にもどれば、10月2日の開講以来、綿にわずらわされることなく順調に進んでいる語学センターの一般人コース(有料)の受講者7人も、女5人男2人の内訳で、開講時に7人いた男の5人がやめてしまったのに対し、女性は全員続けています。前任校のタシケント経済大では男子学生の数が異様に多く、中には男だけのクラスもあって、世界的な傾向に独り反逆している趣きがありましたが、フェルガナは世界の大勢に忠実です。
 しかし不思議なのは、相当数いるはずのロシア人学生の姿がなく、あの向学心旺盛な朝鮮系の学生も見えず、ウズベク人(とタジク人)ばかりだということ。ちょっと妙です。
 私は直接法(英語で英語を教えるというような、媒介語を使わない教授法)の信奉者ではありません。直接法信者に対して文法訳読法のよさを力説してもいいくらいだと思っています。しかしここでは、ウズベク語もロシア語もできない私はもちろん直接法で教えます。だが授業には「教授の文法」、あるいは型といってもいいが、そういうものがあります。それは、このように教えるもの、このように習うものという教師と生徒の間の暗黙の了解で、学齢に達して以降の長い学校生活の中で身につき染みこんだものです。フェルガナのこの学生たちに、「直接法」という「教授の文法」のカテゴリーはない。ネイティブ・スピーカーに教わった経験がありませんから。だから、よく聞いてよく考えればしまいにはわかるように教えているのに、とにかくはなっから全部訳して理解したがり、そうでないと安心できない。無理からぬことです。だが早いことこのやり方に慣れ、直接法ではどのように学んだらいいかを体得してもらわねばなりません。顔を水に浸けさせられたり、足の届かないところに連れて行かれたりしてパニックになるのはわかりますが、今の彼女たち(彼らはそうでもない)は、水に浸かっているというだけでパニックになっているような状態です。まあ可愛らしくもあるのですがね。板書したものを写すときや、単語の意味を説明されているときは、実に静かに集中している。もってこの国の学校の「教授の文法」が知れます。どのくらいで直接法の受け方をマスターするだろうか。教師の側の興味です。


<はるかさん>
 12月3日、菊田悠さんが日本へ帰りました。1年半ガニシェル氏の家に寄寓して、民族学の調査をやっていた大学院生です。予定の期間を終えて、時満ちての帰国です。ウズベク語が堪能で、のりこ学級の子供たちに慕われていました。物静かで淡白で、出しゃばらず、することはきちんとする人でした。目立たず目立とうとせず、心地よい倍音を響かせて、ハーモニーに潤いを与えていました。大崎夫妻の去ったあとの学級を、ガニシェル氏とともに現場で支えていた人です。短いスパンで入れかわり立ちかわりやってくるのりこ学級のボランティア教師が華やかな彩りだとすれば、菊田さんはそれを支える変わらぬ定点でした。にぎやかなガニシェル家から彼女の細い声が消えても、子供たちの声がけたたましくて、量的には大して減じはしないだろうが、質としては変わります。
 私が印象的だったのは、フェルガナのアパートに来てメールチェックをするときに、コンピューターがダイヤルして出るピポポポピポという音を、「ああ、いい音」と言いながら聞いていたことです。というのは、私はあの音が嫌いなのです。電話線自体の接続、サーバーへの接続がうまくいかないことあまりに多く、あの音のあとに、果たしてちゃんとつながるかという緊張の時間を強いられるから。だが菊田さんの場合、その音すらなかなか聞けない環境に長くいたわけです。恵まれた(!)我が身に気づかせてもらいました。
 のりこ学級の、ガニシェル家のページがひとつめくられました。それは心地よい、美しいページでした。寂しさとともに、同じくらい美しくあってほしい次の風景が結ばれるのを待っています。


<ハイト>
 断食月ラマザンの終わった11月25日は、ハイトの祝日でした。リシタンは早朝から人が立ち働いていました。墓参りをするのです。主に女性ですが、近親者の墓に参って、掃除をし、ひとしきり声をあげ、涙を流して泣きます。たとえずっと以前に亡くなった者であろうとも。女たちの泣き声が、早朝のよく晴れた空の下、朝日の赤みのさす初冬の裸木と煉瓦塀の風景を、単調で湿っぽい音で一幅の絵にします。こういう儀礼的哀泣を貧しい近代人たちは排斥するが、一回性にのみ拘泥する近代的知性というのは哀れなものだ。定期的にも儀礼的にも泣けるのはすばらしいことで、近代人が喪失した本源的なものに触れる回路を保証するのに。女たちはそして墓の上に米を撒きます。これは魂に近い鳥どもの供養になる。
 男たちはモスクへ行き、朝の式に連なります。この日ばかりは、チャパンどてらを着てドッピ帽をかぶった男どもの数多いこと。とても建物の中には入りきらず、外に布を敷きまわしてその上にかしこまります。この日の式を聞いた者には功徳が多いそうです。
 家に帰った男たちは、一休みしてから親戚訪問に出かけます。互いに客になり客をもてなし、絆を新たにするわけです。この一年の間に家族を亡くした家、日本式に言えば新盆のうちでは、家の戸口に椅子を並べます。縁者でもないただの通りがかりの者も、そこに坐って、家人がコーランの一節を読むのに祈りを和してあげます。よい習慣、美しい習慣だと思います。
 こういう祭日のいちばんの娯楽は散歩です。何かしら心豊かになって、こだわりも屈託もどこかに行ってしまっていれば、目新しいところ何もない鄙びた町をそぞろ歩くのは、失礼、ディズニーランドよりもゲームセンターよりも楽しい時間です。同じようにぶらぶら歩いている友人知人と立ち話をして、笑いさざめきながら。
 この日、子供たちは何がしかお金を両親親戚にもらいます。お年玉ですね。だからこの日は子供たちが露天の屋台のいいお客さんです。
 ラマザンは年ごとに日を移す行事ですから、真夏の最中にハイトが当たることもあるでしょう。こんな季節にこの祝日の様子が見られたのは単なる偶然ですが、寒気とともに、総じて日本の正月を思い出すことが多かった。初詣に墓参り、お年玉。何だか時ならず年が改まったような気分になりました。本当の年のほうももうじき改まります。皆様、よいお年をお迎え下さい、と申し上げて、賀状に替えさせていただきます。
(2003.12.12.)