フェルガナだより(2)

<伝説の人びと>
 10月に1週間ほど、病気帰国以来2年ぶりにリシタンを訪問された大崎重勝氏に、初めてお会いしました。のりこ学級の創設者として、何度となく話を聞いていた方に。学級の建物建設当時の苦労話をいろいろ聞いているとき、たいへんでしたねえというこちらの感想に、「いや、いちばんたいへんだったのはサリマさん(ガニシェル氏夫人)ですよ。建てている間、大勢の男たちに食事を作らなければならなかったんだから」。さすがに、のりこ学級設立者の言だと思いました。退職後の第二の人生をリシタンのようなところで、子供たちの教育に当てようとするような、そしてその学校に奥さんの名をつけるような。
 10月にはもう1人、40回もウズベキスタンを訪れている民間草の根交流の範宍戸利夫氏も、福島県ウズベキスタン文化経済交流協会の代表団とともにフェルガナを訪ねて来られました。ウズベキスタン日本語教育とその周辺には、生ける伝説のような人が何人もいます。東洋学大の菅野さん、サマルカンドの山本氏等々、ウォーキング・レジェンドたちが跋扈している。ウズベキスタンは今も神話時代なのか? だが、われらが「英雄」たちは等身大です。それが何ともいいですね。


<到来物の数々>
 フェルガナ大学には、私の赴任前からすでに「日本文化センター」(ソファー、テーブル、机、棚[但し鍵が開かない]つき)なる小部屋がありました。ハード面ではだから恵まれていたと言えましょう。そのうえ、日本語専用の教室も用意してくれました(黒板が非常に見づらいという日本語学習にとってはかなり大きな欠陥がありますが)。けれどソフトについては、私が個人的に持参した最低限の教材しかない状態でした。しかしありがたいことに、アークアカデミーや大使館、経済大日本語講師岩撫さん、10月20日に本学を訪問された福島県ウズベキスタン文化経済交流協会一行など、次々といろいろな方が寄贈して下さいます。
 初年度は何かと苦労が多いけれども、ひとつ何にもかえがたい喜びがあります。成長し、あれこれ整ってくるのを見る楽しみです。花も木も動物も、最初の頃がいちばん成長が速いもの。多少の苦労はそれを見ることで埋め合わせがつきます。
 おかげさまで、われらの教室・講座室もだんだんそれらしくなってきました。ご恵贈いただいた皆様方、どうもありがとうございました。


<引越し>
 前回はアパートさがしを報告しました。ガニシェル氏のたゆまぬ目の高さのコミュニケーション努力の結果、二部屋のアパートに引っ越すことになりました。大学の近くです。持ち主の退職教師のお婆さんは、これを売って娘の住むセヴァストーポリに移住するのだそうです。引越し顛末、私事のようではありますが、フェルガナ住居事情の切れば血の出る報告として、ご笑覧に供しましょう。
 わが転宅は、太初の洪水伝説の如く始まりました。引越しの前々日、ガニシェル氏が掃除を頼んだ人が水道の栓を開けっ放しにして帰ったのです。翌日見たら、流しから水が溢れ、台所は海になっていました。幸い古い家で敷居が高かったので、ほかの部屋には流れ出していませんでしたが、下のアパートはもちろんひどい水漏りでした。原因は、流しの排水管がつまっていたこと、そして上で掃除していたとき、下の住人が工事か何かで建物全体の水の元栓を閉めていたことです。掃除した人は、水が流れていないので閉めてあると思ったのでしょう。洪水を汲み出し、乾いた土地を得ることで、新生活は始まりました。毎晩押し掛けてくる階下の住人に悩まされつつ。
 背丈ほどの大きな棚が2つ、ベッド、中古品市場で買ったテーブルと椅子がしめて6脚。これがジグリというソ連製(ロシア製ではありませんので、念の為)の乗用車(バン)に載るということをあなたはご存知でしたか? 日本なら軽トラックは少なくとも必要なのですが。ガニシェル氏は初めトラックを頼むつもりでしたが(しごくまっとうな考えです)、テーブルを買った中古品市場でこの運び屋に会い、できると請合うのでこちらに頼みました。結果として実際にできたのですけども、大きな荷物を天井に載せてゆるゆる走るおんぼろジグリの後を、落としゃしないかと恐る恐る注意しながら行くティコというのは、どう見ても喜劇映画のワンシーンでした。映画ならここで案の定荷物が落ちて、そこでまた話が一展開、となるのですが、われらのジグリのほうは、懸念など素知らぬ顔で無事新居に運び終え、運転手は報酬を得、われわれはトラックの半額以下で済んだのを喜ぶという、両者両得、めでたしめでたしでした。引越しの手伝いにはほかに、水の汲み出しも一緒にやってくれたハタム、ドンヨル君と菊田さんが来てくれました。
 その他にも、上の住人が電話線をちょん切ってしまったことなどいろいろありましたが、省きましょう。それでなくても長すぎます。
 アパートは古い建物で、天井も3メートル以上あるし、部屋と廊下の間の壁も40センチ以上の厚さです。私は個人的に、こういう無駄が大好きです。高い天井は暖房効率を悪くするし、外壁はともかく、内壁はあの半分でいい、その分スペースが大きく取れる、云々。お説ごもっともだが、そのように考える人は、決して大きく取ろうとはしない。その余剰スペースを削って詰め込もうと考えるのです。いや、このままでいいともさ。鷹揚というのは美しい日本語で、現代日本人はこれを死語にしようと躍起になっているんじゃないかと案じている人間は、そう思います。
 暖房では少し困るかもしれません。セントラルヒーテングはあるのだが、動いていないのです。浴室の筒型ボイラーを焚いて湯を沸かし、その熱でアパート全体の暖を取るという仕組みです。原理としてはドイツで言うカッヘルオーフェン(陶板暖炉。火を焚いて熱した陶板が熱を保持し、その放射熱で部屋を暖めるもの)と同じです。ルーマニアで経験がありますが、これの欠点は、結局余熱で暖めるのだから、いちばん寒い明け方に冷えてしまう、起きて点けても、暖まるまで時間がかかる。最も寒い時間帯に最も寒いという、自然の摂理そのままなのです。うちの場合は浴室にあるだけだから、そこがいちばん暖かく、次に廊下、二つの部屋がいちばん寒いわけで、暖気の同心円構造になっています。これから本格的に冬に向かうのに、これで大丈夫だろうか。だから冗談でなく、廊下を居間にしようかと本気で考えています。
 引越し当初は、外はまださほど寒くなく、引きかえ中のほうは貧寒とした眺めでした。天井の高い、まずまずの広さの古びた部屋のむきだしの木の床の上に、あのジグリで運ばれてきただけの家具が置かれているのを想像して下さい。タンスもないので、何もない壁に釘で衣服を吊るし、それが壁飾り。しかしモスクワから帰ってみると、ガニシェル氏の姪の婚家が持ってきてくれたという絨毯が敷かれていて、これで雰囲気がずいぶん変わりました。部屋にぐんと暖かみが出て、人の住まいらしくなりました。魔法の絨毯です。絨毯があると、視線がそこに惹きつけられて、床のハゲチョロに目が行かないこともあるし、そこに座ることもできる。木の床にじかに座っていたら囚人だが、絨毯の上なら、まさに中央アジアでいいじゃないか。数日後、今度は手製のカーテンがつけられました。また一段とそれらしくなった。布の力です。布は人の、特に女性の日々の営みの、したがって文化の表象なのですね。まだまだ、日本人の円生活者を中に招じ入れられるような快適な住居までの道のりは遠い。テレビはさておいても、冷蔵庫もありませんしね。結局まだあのジグリで運べる程度の家財なんだ。まあ水の中から現われ出た新天地だから、しかたがありませんか。きっと私が帰国する頃には、すべて整っていることでしょう。
 講座の成長物語と同じく、ビルドゥングスロマンみたいになってきました。少女ファルゴナ・カジミーロヴナの明日はいかに。


<モスクワ弁論大会>
 前任校タシケント経済大学の学生がモスクワで開かれるCIS学生日本語弁論大会に出場できることになったので、付き添いがてらロシアの首都へ出かけてきました。大会は11月1日、例年より1週間くらい遅い時期だったこともありましょうが、モスクワはさすがに寒かった。最低気温はもう氷点下、東京の真冬です。しかし肌に沁む冷気が、身が引き締まるようで心地よかった。以前暮らしたハバロフスクやカザンの感覚が思い出されて。
 大会そのものの盛大さで言えば、去年のウズベキスタン弁論大会や中央アジア弁論大会のほうがずっと立派です。大きな劇場を借り切ってやっていたし、聴衆も一杯だったし。モスクワ大会なんか、会場はレーニン図書館講堂で、なかなかに気品のあるいい場所ですが、聴衆はごくまばらです。これを言い表すのにふさわしい日本語は、「ショボい」。では何がいいのか。CIS諸国から、また広大なロシア連邦の各地から、日本語を学んでいるという共通点で結ばれた学生たちが、それぞれの経験や土地土地の事情や国ぶりや困難や喜びや、そしてこれまた全員に共通する若さと前向きさを持ち寄って、それをわれわれの、愛さざるをえないから愛しているけれど、至らぬ点を思うたびに血肉ゆえのもどかしさをおぼえ、他の言葉ではこうは言えまいと思うときにはひそかな誇らしさを感じる、私たちのあの日本語で、私たちに語りかけてくれる。それがいいのです。ナショナルな、リージョナルな大会では味わえない広闊さがある。それはソ連という国のよさでもあったはずですが。それゆえ、CIS諸国にいるときはいつもこの時期にモスクワへ出かけて行きます。公費出張だったのは一度だけ、あとはいつも自腹ですから、けっこう痛いのですけども。
 1位になったのはウラジオの極東大の学生で、などという報告は置きましょう。弁論大会の効用は何かを少し考えてみたい。弁論大会のスピーチ練習は、私が好んで赴任したがるような日本語の授業が週に2、3コマしかない大学では、授業ではあまりできない事柄、つまり長い作文を書かせたり、発音の指導をするよい機会になります。また質疑応答、これはもともと作文暗唱でない、その学生の日本語力の地を見るために行なうものだから、想定質問に対する応答の練習というのは本来本末転倒なのですが、しかし質問をぶつけてその返答の練習をさせると、本人のそのスピーチに対する理解が深くなります。自分で書いたものだから、初めからよくわかっていなければならないはずですか、実際にはこのように質問で洗うことによって、本人自身が自分の論点をよく認識する。そしてそれを踏まえてスピーチするようになる。彫りが深くなります。それに、授業の枠内で、他の学生に質問させれば、ディスカッションの練習にもなる。作文指導、発音指導、ディスカッション指導、どれをとっても必要で、しかし教室ではなかなか手が回らないことばかり。そして晴れて代表に選ばれて大会の舞台に立ち、自分なりに満足のいくスピーチができた学生には、自信がつきモチベーションが上がるという効果もある(しかし逆に、選ばれなかったり失敗した学生のモチベーションを下げるという留意すべき危険もありますが)。
 レーニン図書館の演壇を眺めながら、いつの日かフェルガナ大学の学生をここに連れて来たいものだと思いました。それは、始まったばかりのわが大学の現状を考えれば、まだまだ遠い将来の話に過ぎませんが。しかし、ウズベキスタン大会で入賞し、中央アジア大会に行くというのは、早ければ2、3年で実現可能な目標です。ぜひ努力したいと思います。だが3年後ではいけませんね。3年後はウズベキスタン中央アジア大会の持ち回り当番国になってしまうから、外国へ行けない、2年以内に入賞しよう、と早くも皮算用をしています。まあ、モスクワ酔いだとお聞き流し下さい。
 「フェルガナ地方弁論大会」というのは、現実に計画しています。タシケントからずらりと審査員を招いて、4月あたりに。この地方で日本語を教えているのはのりこ学級と本学だけですから、両者の合同でということになりますが、よちよち歩きのフェルガナ大学生などは、のりこ学級の強者の子供らにさんざんに蹴散らされてしまうでしょうね。それもまたよし。
 光り輝くモスクワでは、会場も宿もクレムリンのそばだったので、ほとんどあの赤い壁が視界から離れない範囲をうろうろしていました。夜もライトアップされて美しい堂々たる建築群やお菓子の城のような奇抜な建物が瞼から離れもしないうちに、ホップ、ステップでタシケントを経て戻ってきたわがフェルガナは、6時なのにもうとっぷりと暗かった。町いちばんの目抜きの公園通りはろくに街灯もなく、昼間大風でも吹いたのか、落ち葉落ち枝が散乱しているのを足でさぐりながら家路につきました。みごとに6位に入賞したチタの学生、村上春樹について語っていたが、彼女はもう家に帰ったろうか、いずれ彼女もこんな暗い中を、その上にはもう冬の凍てつく中を歩いていよう。いや、めったに行かれぬ無慈悲に遠い首都だから、もっとゆっくり見物してから帰るだろうか。話をすることのなかった、これもまた辺隅の一教師に勝手な共感を持たれていることなど、夢にも知るまいが。それもひとつの、モスクワ大会のよさです。ロシアは広い。モスクワ以外のロシアは。


<フェルガナ大学散歩・学食>
 これから少しずつ、フェルガナ大学をご案内しましょう。
 フェルガナ大学のいいところは、きれいなキャンパスです。広々というほどではないが、ゆったりしています。着任してすぐお世話になるのは、人間としての必要に迫られる部分。しかし出すほうは後回しにして、まず入れるほう、つまり食堂について話しましょうか。
 私の知っているだけで、キャンパスには食堂が4つあります。加えて、薄い円形パン(ナン)を焼いて売っているところもある(おお、「総合」大学!)。あのベッドのような縁台を出している食堂もある。だいたい安くておいしいけれど、困るのは料理の種類の少なさで、ほとんど一日おきにプロフ(ピラフ)かハンバーグ(なぜか「ビーフシュテクス」と呼ばれる)を食べているような気がします。そのほかにはチュチワラ(水ギョーザ)とラグマン(肉うどん)があるくらい。これには少々辟易します。
 しかし、目下これらの食堂は閉まっています。綿摘みに駆り出されて学生がおらず、加えてラマザンなのです。
 ウズベキスタンは世俗的イスラム国で、政教分離を国是としていて、ふだんの生活でイスラムを感じることはあまりありません。お祈りしている人もほとんど見かけない。豚を食べないという習慣や、宗教大祭のときにわずかに目に触れるくらいです。ラマザンの日中断食を守る人の割合も、中近東よりずっと少ないに違いないけれど、ここフェルガナ地方ではけっこういます。少なくともタシケントよりずっと多い。訪問客にコーヒーをすすめて、「ルザですから」と断られると、はっとして、そしてとてもいい気分になります。何かいいものをわけてもらった感じです。身を律する何かをもっている人の態度は美しい。
 フェルガナ地方の人々は信仰心が篤い、と書いたところで、誤解されないだろうかと少し用心します。イスラムの信仰篤いと言うと、すぐ狂信、テロ、と短絡的に結びつけられるのではないかという恐れがあるので。
 全く、日本人の宗教に対する認識はどうしてこう偏向しているのか。かつ欧米人にすっかり洗脳されている。「敬虔な」という形容詞のあとには、「クリスチャン」と置かないと収まりが悪い。キリスト教の信仰に篤ければ、それは「敬虔」と極めてポジティブに評価され、イスラム教徒なら「狂信」、仏教徒神道家なら「蒙昧」扱いになってしまう。違うでしょう。われわれは幸いアジアの東端に生まれ、中国文明の精華をわがものにしているし、明治以降はヨーロッパの文明を死に物狂いで取り入れた。日本独自のものもある。いわゆる和漢洋です。仏教を通じてインド文明にもいささかなじみがある。大文明中の広大な空白域イスラム文明です。いや、空白ならまだいいが、ヨーロッパを通じてイスラムに対する偏見はしっかりしこんでいる。縁あってせっかくイスラム圏末端のウズベキスタンにいるのだから、この機会に少しは賢くならなければ、何のための下痢の苦労だかわからないじゃないか。と、入れるほうの話のはずが、だいぶ下がってしまいました。


<ガニティコその後>
 読者の中には、あるいは「ガニティコ」の疾走ぶりに興味をお持ちの方もおられるかもしれないので、二千メートル級峠越え首都往還のその後をメモしておきましょう。
 10月17日 大崎夫妻帰国の見送り
 10月24日 ボランティア教師佐藤・遠藤さん到着、出迎え、託け物受け取り
 11月 5日 両名をリシタンへ運ぶ
 「ガニティコ」は相変わらず元気一杯ですが、ガニシェル氏次兄で陶芸家のバフティヨル氏の車「バフティコ」は、義弟に貸したところ、まっすぐな道でスピードを出し過ぎ、路面の破損個所(山ほどあります)にタイヤを取られ、縦転(!)大破したそうです。乗っていた義弟とその幼い子供は幸い軽傷でしたが。この国の道路と人々の運転マナーを考えると、決して人ごとではありません。
(2003.11.10.)