フェルガナだより(1)

 フェルガナ地方の日本語教育を応援して下さっている皆様に、フェルガナ、リシタンとその周辺の話題を不定期にお届けします。外務省の危険情報が先日ようやく「渡航の是非を検討してください」から「十分注意してください」に下げられたばかり、JICAからは、協力隊が派遣できないどころか、許可がなければ足を踏み入れるのも許されないような「危険地帯」扱いがまだ続いています。でも人々は平和に暮らしているんですよ。そんなフェルガナがもっと身近になるように、視界の片隅のどこかにあって、何かの折には話題にもなってくれるように、というのが辺境住人のささやかな願いです。


<ガニティコ・クイズ!>
 のりこ学級の世話役でリシタン・ジャパンセンター所長のナジロフ・ガニシェル氏の愛車ティコは、6月、他の車にぶつけられ、大修理を余儀なくされました。フロントガラスも一新した新生ティコは、学級にやってくるボランティアの教師たち客人たちの出迎えに見送りに、先に変わらずリシタンとタシケントの間をけなげに往復しています。夏休みの彼の活躍ぶりを見てみましょう。

 7月 4日 往(リシタン→タシケント)(出迎え)
    5日 復(タシケント→リシタン)
   11日 往/ 12日 復(見送り)
   20日 往/ 21日 復(出迎え)
   29日 往/ 31日 復(出迎え)
 8月 5日 往/  6日 復(見送り)
    8日 一日で往復(出迎え)
   12日 往/ 16日 復(見送り)
   19日 往/ 20日 復(出迎え)
   21日 往/ 27日 復(見送り)
   29日 往/ 30日 復(見送り)
 9月 2日 往/  4日 復(出迎え)
    5日 往/  6日 復(見送り)
   22日 往/ 28日 復(見送り)

 おお、何という奮闘! リシタン−タシケントは300キロ弱、標高2287mのカムチック峠道つき。東京から豊橋ぐらいの距離の峠越え一般道を軽でですよ。タシケント−東京がおよそ6500キロ、地球一周が約4万キロ。ガニティコはすでに東京を過ぎ、銚子沖海上オアフ島へ向けて疾走中。そこでクイズ。新生ガニティコはいつ地球一周を達成するでしょう? 正解者にはリシタン陶器が当たる、かもしれない。


<綿摘み休暇>
 だいたい、首都はその国ではありません。タシケントウズベキスタンじゃない。東京が日本でないように。首都暮らしを1年したあと、フェルガナ盆地にやってきて、その感を強くします。ウズベキスタンは農業国なのに、タシケントの1年で何回畑を見ただろう?ビルや車、地下鉄、やたらだだっぴろく渡るのに苦労する道路、ソ連文化政策の勝利ナヴォイ劇場、駅から出るとその一角だけ西側先進国エリアな眺めの日本センター、あの町で見ていたのはこんなものばかり。親切で行き当たりばったりで、おしゃべりが娯楽の第一のウズベク人たちは、首都地方を問わず豊富にいますが。
 この国の主要産物綿花の畑、麗々しく「グレート・シルクロード」と宣伝するその絹の眺め桑の並木、連なる山々。これらがフェルガナ盆地の風景です。
 9月8日にフェルガナ大学に赴き、契約などの手続きが整ったのが16日、23日から授業を始める計画を立てた途端にぶつかったのがこの問題。タシケントの大学でも何年か前まで学生の綿摘み徴用があったそうですが、私の赴任時にはもうなくなっていました(首都は優遇されている)。加えて、別の問題もありました。すなわち大学が日本語開講の広報をきちんとやっておらず、学生にまだ周知されていなかったのです。案内の貼り紙が少ない上にウズベク語で、だから初日には、相当数いるはずのロシア人・朝鮮人学生の姿がない。それで、24日に授業をしたあと、ひと月もすれば綿も終わるだろう、またその間に学生にも日本語開講のニュースが行き渡るだろうという見込みのもとに、11月まで中断することにしました。
 来週から綿摘み奉仕が始まると学生の話に聞いていたのでそうしたが、しかし一向に始まる様子はない。綿摘み徴用の困ったところは、天候次第その年の状況次第で、いつ始まるか、いつ終わるかが一定しない(この「一定しない」というのがこの国の最大の特徴のひとつです)。開始も終了も、直前になってやっとわかる。しかも学部ごとにそれが違う。わが日本語クラスのように、全学部の学生(ただし1・2年生に限る)を対象にしていると、この点でも大いに困ります。学部によって早く始まったり遅く終わったりするわけですから。今年の場合開講初年で、開始が9月末と遅くなってしまったこともあってだが、来年度からは、9月初めから淡々と授業を進め、カレンダーに関しては、受講生の大半が所属する外国語学部のものに従う、ということにするべきだなと考えています。外国語学部が綿摘みに入れば休み、終わって学生が戻ってきたらまた始め、綿摘みが長期にわたった学部の学生には補講で対応する、というような。
 綿の取り入れは国家的事業であるらしく、毎年この時期になるとガソリンの供給が減るそうです。優先的に綿に回されて。それはすなわちヤミ値がつくということ。ふだんリッター300スムほどのガソリンが、一時は1000スムになったそうです(10スムが約1円)。すると路線タクシーの値段もあがる。また、綿摘みに行きたくない学生のための診断書(真贋は問いますまい)の値段も高騰すると聞きました。
 綿摘みに行くのは、学生にとって必ずしも義務ではないそうです。嫌だと突っぱねれば突っぱねられるらしい。しかし大学から圧力がかかるので、病気でもないかぎり、4年間行かずには通せないようです。村の学校に住み込んでの共同生活の共同作業は、きっとわれわれが思う以上に楽しくもあるのでしょう。1日20キロのノルマがあるそうですが、女の子のほうがやすやすと達成してしまうらしい。さもありなんと思います。
 しかしやはり教師の観点からは、気候のいい、勉強のはかどる時期に1ヶ月も2ヶ月も休まれてはたまらない。タシケントの学生に比べて、大きく遅れを取ることにもなります。ソ連の頃、教育が無料だった時代には、こんな労働奉仕も学生の社会貢献で、秋の風物詩だったかもしれませんが、学生の大半が少なからぬ授業料を納めている今も続けているのは、無反省な話です。まあ日本だって、長く戦時期の食管制度が続いていたのですが。


<アパートさがし>
 私をフェルガナに迎えて、ガニシェル氏のかかえた大仕事は、アパートさがしでした。さがすといっても、日本のようなさがし方ではありません。不動産屋は、ないわけではないのだが、いたって未発達です。これはと思うアパートの前に行き、ベンチに腰掛けて話相手ほしそうなおばあさんに、この建物に売り物貸し物はないかと聞くのです。場合によってはそのおばあさんはもう誰かとおしゃべりの真っ最中ですが、割り込んで一向に構いません。するとたちどころに情報が手に入る。そして直接そのアパートに向かい、持ち主に会って、中を見せてもらい、値段を聞きます。何という口コミ社会。加工も媒介もない情報の直接伝達。世はIT時代なんじゃなかったっけ? ボドムゾールの建築群(日本センターなどの入っている高層ビジネスセンタービルや高級ホテル)がいかにウズベキスタンでないかを、この小さな例が如実に示します。
 しかしこのやり方ときたら、時間のかかることおびただしい。疲れるけれど、でも決して楽しくないわけじゃない。ウズベク人にはよく合った方法だと思います。だがこれでは、効率の計画のという言葉は辞書上にとどまりますな。ウズベキスタンでは時は決して金じゃない。この国にふさわしい格言は、「充実した時が真の時、金で切り売りするものじゃない」ということにでもなりましょうか。ほめすぎかな?
 アパートを売りたいと思っている人は、ロシア人の老人が多かった。アパートを売って、子供や親戚のいるロシアに移住しようというのです。でも、売れたら移住に取りかかるというのだから、その時期は非常に不確かです(タイムリミットの考え方を普及させるのは、旧ソ連では容易でないなと感じます。ま、結局それで用は足りて、誰も困らないんですがね。困るのはただ、カリキュラムを組んで教案を作って、計画的に授業を進めたがる日本人教師のみ)。老人たちのアパートは、家具も持ち主とともに年取って、くすんだ、生活が沁み込んだ匂いがします。ほとんど詐欺のような年金の額に、つい思いが行きます。
 ある一人暮らしの足の悪い老人のアパートには、絨毯もなく、家具も最低限しかなかった。売ってしまったらしい。台所にはガスレンジがなかった。これも売って、生活費に充てたようです。最後に、自分には大きすぎる二部屋のアパートを売って一部屋のを買い、その差額を年金の足しにするつもりなのです。「じゃが足がこうだから、一階のでなけりゃだめだ」。老人の、身勝手とも聞こえてしまいそうな断定的な言い方が耳に残った。哀れ、とは違う、もっと硬質な感じです。
 中年の、小さな子供のいる女性が、二部屋のアパートを売ろうとしていました。カザフスタンの出身だが、父と折り合い悪く、売って友人を頼ってクルスクへ移ろうというのです。故郷ではなく、肉親もいないのに。そのアパートは狭く、暖房も入らないそうですが、家具がすばらしかった。全自動洗濯機、ツードアの大型冷蔵庫、カラーテレビ(シャープだったか?)、応接セットも新しく立派です。これを捨て値で売って、ロシアの地方都市で若くもない女が一人、子連れで新しい生活を切り開こうというのか。と同情する一方で、買う身とすればいい物件だと思っていたら、そのアパートは本妻も子供もいる愛人が買い与えてくれたもので、名義も彼だと聞かされました。人の物を売るなよ。同情して損した。
 短編小説の種はそこここに転がっているようですね。
(2003.10.6.)