日本語のこれも最前線

 日本語の最前線といえば、まず第一に、次々と新語(5年10年先の死語)を作り出しては消費していくマスコミ業界や若者世代であろう。だが、外国人日本語学習者も、日本語に新しい命を吹き込んでいる人々である。
 彼らは基本的に、一生懸命正しい日本語を習得しようとして、諸々の理由から結果的に独自の表現を編み出すのだから、あらかじめ効果を計算している前者と違い、結果としてのたくらまぬ創造と言えるだろう。幼児の新鮮な発想と物言いに通じるものがある。日本人にはない独特な視角や論理、われわれの生活や常識からは出てこない発想がそこにある。それは奇態で斬新な語彙の意表をつく組み合わせから、逸脱のある奇妙な文法、破格な文体にまで至る。明治以後の日本語を広げてきたいわゆる翻訳文体と外面的には似ているが、より深い部分で異なっている。彼らが自分のしでかしたことに無頓着で、泰然としているという点で。
 教師の武器、赤ペン。たとえば、英語なら “life” 一語ですむところで、日本語は「いのち」「生命」「暮らし」「生活」「人生」「一生」「寿命」「活気」等々と書き分けなければならない。学生の作文を読んでいて、「人生」と書くべきところに「いのち」と書いてあったら、その微妙なずれのもたらす効果と詩的なイメージの働きにしばしうっとりするが、すぐに教師の日常にもどり、赤ペンを取って、単なる初学者の誤用に過ぎないものを正す。誤解のほうに可能性があるかもしれないと考えるのは詩人の特権的偏向で、平々凡々人たる教師にはそれは許されない。赤ペンの鞭の下、学習者の学力は上がっていく(上がらない者ももちろんいる)。
 しかしそのような常識人の添削の網をかいくぐり、非の打ちどころのない正しい日本語ながら、日本人のふつう書かない語句文章がときどき現われ出てくる。そういうものを読むとき、私は幸福を感じる。それは伝統芸能の「型」と同じだ。型にはめて個性を殺して殺して、それでも出てくるのが個性だ、という考え方と。
 「周りで見聞きした驚異に感動せずにはいられなくて、もう少しでキリギリスのように跳び上がるところでした」「人間にとって友好より大切なものは、ただ友好だけですから」「ウズベク人は親切で、心に悪いものがありません」。驚くような表現ではないが、とても新鮮だと思う。また、次のような文章、「太陽は空にひとつです。人の心にもひとつ、愛する仕事がなければなりません。この愛は才能です」。日本人には無謀としか感じられない論理展開ではないか。あるいは唐突に天使について語り出すのも、われわれにはかなわぬことだ。
 だが、もっと「ひどい」ものを私は待っている。日本語は日本人だけのものじゃない。私は驚かされたいと願っている。哀れな一介の教師として、この異国で。赤ペンを投げ出して、しばらく遠くを眺める時間を。

  足りぬなりに意はあまりある片言の森に葉ずれのよき音たづねむ

(2003)