「留学のいろいろ」刊行

 最近留学についての本を出したが、これは、好きな人たちの事績を眺め渡すと、近代史の必然であろうか、その多くに留学体験があったので、それを並べてみたらこうなった、というような自然発生的な成り立ちをしている。

 島根県出身者が中心となったのも必然で、留学した人など著名人だけとっても文字通り無数だから、何らかのフィルターが必要だ。島根県立図書館から始まったとも言える。コンクリート造りながら美しく巧みに構成された形の明快な建物で、城の堀端にあり、窓からの眺めもいい。松江に住んでいたときよく通ったその図書館に、遺族が寄贈した北尾次郎の独文大長編小説の自筆原稿が所蔵されていた。それを見て、この人について調べ始めたのがそもそものきっかけであった。またここには、本人の寄贈によるものか、松江出身の今岡十一郎の著書も所蔵されている。ハンガリーとの縁からこの人の存在を知ることになった。ハンガリーにいたときに、ベルリンに二度行く機会があった。初回はまだ東ドイツのあったころ、つまり壁が厳然と存在してたきであり、北尾次郎の下宿していた建物を探し当てたら、ちょうど裏側が「壁」となっている場所で、その中には許可証のある者しか入ることができず、表を眺めるだけで終わった。二度目は高校時代の先生を案内して行った。島村抱月の伝記を研究している人なので、抱月のベルリン留学の跡を訪ねることとなった。そのとき鴎外の昔の下宿にあった記念室も訪れた。初回からさほど時をおいていないのに、このときには「壁」が消え失せていた。

 このいわゆる東欧革命を目の当たりにしたことで、東欧にはまりこんだ。そののち、ルーマニアにいたときから始まった日本語を教える仕事で、東欧より東のユーラシアの各地へ行くことになった。それが、この本の半分を非欧米のユーラシア地域への「留学」かどうか定かならぬ留学に充てさせることになったと思う。むかし天井桟敷がヨーロッパで盛んに公演していたのに対して、状況劇場が韓国やバングラデシュパレスチナで公演を打っていたのに共鳴した過去の心情も影響していたかもしれない。ま、天井桟敷も好きだったけども。

 自分に留学経験があること、外国で日本語を教える仕事をしていること(つまり日本へ留学する学生を育てていること)も、この自然的成立に関わっているだろう。取り上げているのは、ほとんどすべて私の住んだこと行ったことのある場所である。そうでないのはパリとアメリカぐらいだ。ラサにも歩をしるしていない。悲運の能海と同じく。

 さまざまに読み散らかしてきたものを拾い集めてみたら一冊編めるほどになった、というだけの本であるけれど、まとまればやはりうれしい。理系留学生について薄いのは、筆者の素養の偏りによるところのほかに、書くのが商売でいろいろ書き残している文系の人たちに対し、理系はやはり書いたもの少なく話柄に乏しいという事情もある。

 出版に当たっては、引用が多すぎるのが問題視されて苦労した。引用過多については、前に中公新書で吸血鬼の本を出したときもあれこれ言われたが、これはもう私のスタイルなので、どうしようもない。NHKの「ドキュメント72時間」のような番組が好きである。編集というのは、しなければ作品にならないけれど、しかし編集が出しゃばらず、できるだけ生の記録を盛り込んだものが好きでもあり、自分もそのようなものを作りたいと願っている。著者の主張にそって素材をパラフレーズするのは、要するに「小説」である。そして私は小説が嫌いだ。「ドキュメント72時間」のような番組が人気があるならば、私のような書き方も支持されるだろうと思うが、どうだろう。

 コロナに強いられた蟄居によってできた本とも言える。「鎖国」が解けたこの時期に出るのも何かの縁かもしれない。

 最後にAmazonの内容紹介と目次を引き写しておこう。

 

 西周から能海寛まで、向学心をもち海外へ勉学に赴いた人たち、ジョン万次郎から長谷川四郎まで、望まない結果ながら異国で学びのあった人たち。幕末から敗戦まで、パリからボルネオまでのそんなさまざまな留学のありようを拾いあげ、島根県出身者を中心につづる。

 

目次

漂流者たち(ジョン万次郎・アメリカ彦蔵)

文久二年(幕府オランダ留学生)

難破

珍談(大学東校留学生・南条文雄)

南方熊楠の「履歴書」(南方熊楠

北京籠城(柴五郎・服部宇之吉・狩野直喜・楢原陳政・石光真清

私的に学ぶ(西周夏目漱石南方熊楠

客死(笠原研寿)

入蔵志願者(能海寛・寺本婉雅・河口慧海・釈興然)

幸福な留学(北尾次郎・森鴎外島村抱月・今岡十一郎・八原博通)

ヴァガボンドとして、スパイとして(金子光晴・梅田良忠)

留学しなかった人たち(坪内逍遥

制度の堕落

留学先としての日本(魯迅・増田渉)

奇妙な「留学」辞令(伊東忠太

留学のような、留学でないような(柴五郎・木村肥佐生・西川一三・李香蘭長谷川四郎

引用・参考文献

 後記

「勝達漢詩集」

(昨年暮れに出した漢詩集の後記)

 

 著者が自選できればよかったのだが、それができかねるため、代わって漢俳を含む125首を選んだ。短歌や俳句なら多少はよしあしもわかるけれど、漢詩の巧拙はてんでわからないので、題材で選んだ。京都や箱根のような誰もが詠む観光地での作や、テレビで見たことの感想などは除いて、自己実体験の詩を優先した。それらを並べると、はからずも漢詩による履歴書、自伝のようになり、また近在の名所案内風のものにもなっていて、それとしてなかなかおもしろいものであろうと思う。鑑賞の対象として見れば月並詩なのかもしれず、たしかに県出身の元首相を蛟龍云々などいかにも紋切型である。だが、それで全くかまわないのだ。詩をもって立つなら月並は謗られてよかろうが、忙中の清雅を楽しみ詩作するアマチュア趣味詩人の評価基準はよく生きたかどうかであり、その点では疑いなく合格なのだから。自恃はあろうけれど、傲りとは無縁だ。山本健吉は俳句はあいさつだと言ったが、漢詩にもそういうところがあり、特に波風のない生活の折々に詠んだり詠むよう乞われたりした詩のどこが悪かろう。

 土地(居住地近辺)と家業(酒造り)が二本の柱となっている。愛郷心と愛業心のある田舎の篤実な人の人生記録である。土地の生活に根ざした人だというのは、温泉津の詩が少なく小浜が多い(厳島神社、小学校、才市つぁんなど)ことからもわかる。対外的には温泉津のほうがはるかに知られているのに、誰も知らぬ小浜が多く題材となっているところに真面目が見える。

 

 著者も属しているところの学士会の漢詩部会である裁錦会の会員の51パーセントが理工系卒業生であるという。俳句部会の草樹会では理工系は28パーセントであるから(「裁錦会詩集Ⅱ」跋、昭和五九年)、理工系と漢詩には親和性がある。

 漢詩には面倒な平仄や押韻、対句などの決まり事がある。それが難しいのだが、逆にそこに引かれる人も出る。「一つの知的遊戯としての側面」があるので、ルールを守って創作するのは楽しみでもあるのだ。「初学の者にとっても、ただ平仄を組み合わせるだけでもパズルのような面白さがあり」(齋藤希史「漢文脈と近代日本」)、その点が理工系の訓練を受けた人たちには魅力となるのだろう。

 

 日本酒離れの進む中、地方の小さな造り酒屋が次々と廃業する中で、家業を守り、息子(二人のうち責任感の強いほうの一人)が継ぎ、孫二人ももどってきて、よい杜氏とともに酒造りを続けてきた。過去から未来へ続く流れの中で、自分のパートの務めを誠実に果たしていく際に、生涯の好伴侶を得たことはこの上ない幸運であったに違いない。その人の句作もいくつか収めた。

 

カタールW杯雑感

 今回の日本代表には期待していなかった。選手には期待する一方、監督に期待が持てなかったからだ。

 あの監督は、決まった時間に決まった選手を同じポジションで交代させるだけで、負けていたり滞ったりしている状況を打開できず、それが大いに不満だった。無能だとすら思った。アギーレやハリルホジッチはそれができた(トルシエはできなかった)。ロシア大会のあとは有能な外国人監督を据えて、生き物である試合を選手交代やポジション変更によってコントロールする術を学ぶべきだと思っていたので、あの人の就任にはがっかりした。

 それがどうだ。ドイツ戦の前半はやられっぱなしで、0-3となることも覚悟したが、後半、まさに配置変更と適切な交代選手投入で逆転して勝ってしまった。何だ、できるんじゃないか。お見それしました、である。

 しかし次のコスタリカ戦は、守りを固めた相手を攻めあぐね、相手に一度しかなかったチャンスで1点取られて負けてしまった。むかしなじみのいつもの日本だった。ああいう試合を何度見せられてきたことか(東京五輪ニュージーランド戦!)。やはり日本は日本で、大して変わっていなかった。

 そして、次のスペイン戦ではまたしても逆転勝ち。いったいこのチームの強さはいかほどかはかりかねるうちに、クロアチア戦。やっぱりしっかり守る相手には勝ちきれないことを再確認した上でのPK戦、そして敗退。攻めるスペースを与えてくれれば勝ち、くれなければ負ける。もはや弱い日本ではないが、強くない日本のままだった。しかし前進は前進だ。今回、スペースを与えてくれる相手なら、どんなに強くてもかなりやれることがわかった。次の監督は、スペースを与えてくれない相手にも勝てるようチームを整えてくれる人にお願いしたいものだ。

 PK戦は、リーグ戦を行なうときは不必要で、実際行なわれない。トーナメント戦で勝ち上がりチームを決めるために、延長戦でも決着しなかったときに行なわれる。そして、このPK戦は運である、とよく言われる。だが、どうやら運ではない。運なら五分五分のはずだが、勝率の異常に高いクロアチアやドイツ、異常に低いイングランドのようなチームがあることから見ても。一方、練習を積んできたと豪語したスペインやオランダがもろくも負けたりもする。日本はこれまでW杯で2回PK戦をやったが(そして2戦2敗)、高校サッカー出身者はみな成功し、Jリーグのユースチーム出身者はみな失敗しているという。高校サッカーは負けたら終わりのトーナメント戦をやってきていて、PK戦の経験豊か。リーグ戦ばかりのユースチームはその経験が乏しいことが裏にあるに違いない。トーナメントでは1回しか試合せず大会から去るチームが出てくる、高校生にもリーグ戦をさせるべきだと外国人識者は言うし、それはまことにもっともだが、反面このようなメリットもあるようだ。

 レギュレーションとしてPK戦による勝ち上がり決めをなくせ、という意見もある。つまり、グループリーグ1位と2位のチームが戦う場合、延長同点なら1位チームが勝ち上がるというアドバンテージをあらかじめ与えておくというやり方だ。準決勝以上なら、これまでの試合の勝ち点の多いチームを優位とする。こうすると、劣位チームは同点では敗退してしまうので懸命に得点を目指し、試合としてもおもしろくなる。ちょうど上位チームにアドバンテージのあるJ1リーグ参入決定戦のように。賛成である。ただし、決勝戦ばかりはやはりPK戦で決定しなければならないだろう。

 だが、当面今の方式が変わらないとするなら、PK戦の練習は必要になる。かつてJリーグは同点のときにPK戦をやっていた。これを再導入したらどうだろうかと思う。試合そのものは引き分けで、両者勝ち点1なのは変わらないが、PKポイントというのを設けて、今は勝ち点同数の場合は得失点差で、それも同じなら総得点で上下を決めることになっているが、その順位決定最優先事項として得失点差より上にPK戦ポイントを置く、というやり方だ。経験を積めば、きっと改善するだろう。プレッシャーのない中でのPK戦であっても。

 

 このカタールワールドカップは欧米によるさまざまな非難にさらされた。その非難にはうなずけるものもあるが、言いがかりレベルのものもある。

 6500人の外国人労働者が死んだと言われるような労働者の劣悪な労働環境や待遇の問題、女性の権利の問題。これらについての批判には同調する。

 しかし一方、奴隷貿易アメリカ大陸にせっせと黒人奴隷を運び、植民地搾取と奴隷労働によって欧米は富を築いた。奴隷解放ののちも人種差別が合法であった。そこを痛切に反省せず批判をするなら、FIFA会長の言うとおり偽善である。

 ウクライナ戦争以来カタール天然ガスの価値が高まっていて、欧米諸国はその買い付けに走っているそうだが、その天然ガス採掘にも外国人労働者が投入されている。あれを批判してこれを批判しないのなら典型的なダブルスタンダードだ。

 また、一部で過酷な労働を強いられている労働者がいるけれど、大半の移民はカタールでの生活に満足し、自国にもどろうとは思っていない。人口の90パーセントが移民労働者であるような国は、移民たちに一定程度以上の満足が与えられないなら国として存立できないことを考えても、当然である。日本の技能実習生制度も非常に問題多く、改善が必要だが、しかしあれによってよい生活を得ている者が多数派なのもまた事実である。プロパガンダに踊らされてばかりではいけない。

 女性の権利は重要な問題である。だがこれも、欧米基準を目標に進められてはいけない。非欧米世界は非欧米世界なりの目標に向かってそれぞれ努めるべきである。公衆の面前で娼婦ファッションができなければいけないなんてことは全くない。

 そして、同性愛者の問題。これ、問題か? 最近異様なほどキャンペーンに力の入っているふたつのうち、SDGs推進運動についてはわかるが、こちらのほうは、どうして突然にゴリ押しに主張されるようになったのかよくわからない。同性愛は許容されるべきだというのには同意。だがあくまで許容である。それが異常であることはたしかで、自分の子供や身内はそうなってほしくないとは大多数が思っているだろう。そこへなぜこんなに急に大量にプロパガンダ資源が投入されているのか、理解の外である。

 「性の多様性」が叫ばれるが、多様性を言うなら世界の多様性をこそまず尊重すべきだろう。彼らがこれが正しい多様性だとしたものだけ他の世界に押しつけるのは、むしろ多様性の破壊である。自分たちがスタンダードで、自分たちがルールを作るという欧米の傲慢が示された事例である。

 いくつかのヨーロッパチームのキャプテンがその運動のシンボルである虹の腕章をつけようとしたが、FIFAに禁止され、それに抗議するためドイツ代表選手は試合前の写真撮影のとき口を覆うというパフォーマンスをした。発言を奪われたと示したいわけだ。誰かが言っていたが、ドイツ代表はカタールへ政治をしに行った。日本代表はサッカーをしに行った。そしてサッカーをしに行ったチームが勝った。めでたしめでたし、である。

 カネについて、カタールがばらまきすぎ、遣いすぎなのは事実で、よろしくないことだと思う。こういう傾向は何とかしてほしいと思う。しかし、それをカタール批判の材料とするのはちょっと違う。巨大スポーツ大会開催にワイロが横行するのは欧米諸国が進めてきたことではないか。ドイツW杯では英雄ベッケンバウアーが疑惑をかけられ、東京五輪では元皇族が辞任に追い込まれた。それと桁が違うだけの話で、道をそれたわけではない。先人たちが踏み固めてきた道を。

 だいたいが、100億だの200億だのというサッカー選手の移籍金はまったく常軌を逸している。傍若無人なインフレだ。それにともなって、テレビ放映権も尋常でない高騰だ。一方でそんなエスカレーションがあるなら、W杯招致で大金がばらまかれるのは理の当然だと思う。批判するなら、まずおのれを正すほうが先だ。根本を何とかしてほしい。

気候についてもひどく非難された。それは11月開催となってヨーロッパチーム主体のカレンダーが狂ったためだが、春秋制の国や南半球の国々にはなんら問題ない、むしろ好適な日程である。なるほどサッカーはヨーロッパが発祥だし、強さからもスケールからも中心だけども、そういう態度は単に傲慢なだけだ。熱帯や砂漠地帯ではワールドカップを開催してはいけないということか? ブラジルのマナウスで試合ができるなら、アラビア半島でだってできるだろう。うちらカタールで何度も大きな大会やってるよ。

 前のFIFA会長は金まみれで失脚したが、彼の進めたサッカーを全世界で普及発展させる方針は正しい。ユースのワールドカップはさまざまな途上国、先進国でない国々で行われている。フル代表だけそうであってはならないわけはどこにある? サッカーがナンバーワンスポーツでない日本やアメリカでもやったのだ。ナンバーワンスポーツである国ならどこでもやっていい。今の会長は北朝鮮でもやれると言明したそうだが、まことにけっこうなことで、ぜひ実現させてほしい。現実問題として北朝鮮でやれるのは女子W杯だろうし、W杯開催となると国を開かねばならないので、あの国は拒否するだろうけども。

 会場でビールが飲めないことにもあれこれ文句がつけられた。ビールを飲みながら観戦するのは欧米の文化で、欧米で試合が行なわれるならそのようにされることに異存はない。ところの文化は一も二もなく尊重する。しかし、飲酒がタブーである国、そういう文化である国でも飲ませろというのは単に横暴だろう。外国人が飲みたければホテルやファンゾーンで飲める(非常に高価なようだが)。2時間や3時間飲まなくても死なんよ。

 日本もその一員である欧米から中国にかけての飲んだくれたちの世界のほかに、飲酒を忌避する世界がある。インドやイスラム圏がそれで、こちらの(健全な、と言いたい)世界でも、欧米のカネと権力のために外国人が行くホテルやレストランでは酒が供される。そんな地域にも、地元の酒飲みたちの通う店がある。薄汚く、どこかしら問題ありそうな男たちの吹きだまりといった感じのところで、要するに阿片がやめられない者の通う店のライトヴァージョンである。あれを見ると、酒なんか飲むやつはダメな人間だと悟らされる。

 酒に対して、タバコのほうは近年排斥の動きが強まっている。だが、タバコより酒のほうが断然危険である。自分に対しても、周囲に対しても。なぜこれは攻撃して、あれは奨励するのか。タバコなんて、まま失火原因になるほかは、自分の健康を害するだけだ。アル中は体の健康だけでなく頭のほうも冒してしまう(ガスコイン!)。ニコチン中毒者が包丁持って暴れるというのは聞いたことがないが、アルコール中毒者はしばしば包丁を振り回して暴れる。飲酒運転による事故のみならず、酒を飲んで暴力沙汰におよぶなんて、聞き飽きるぐらいよく聞く事案だ。

 私個人としては酒を飲む文化を大切にしたいと思うけれど、飲酒非飲酒を比べれば、功罪半ばするというより、残念ながら害のほうが多いことは認めなければならない。酒とはよいつきあい方をすべきで、それを飲まない文化は大いに尊重されなければならず、まして非難するなどもってのほかである。

 

 ドイツのある新聞は「W杯で見ることのできない7つのもの」を挙げていたそうだ。いわく、(1)薄着のファン、(2)泥酔したファン、(3)メキシコのプロレス覆面、(4)公の場での口づけ、(5)フーリガン、(6)スタジアムでのソーセージ、(7)イタリア人。だが、これらはみな見られなくて幸いなものばかりではないか。2と5などヨーロッパでもいなくていいし、3など見る必要自体ないだろう。1は、スタジアムに冷房がききすぎて薄着になれないという意味かとも思うが、おそらく肌を露出した挑発的な女性の服装のことを言っているのだろう。それならば、4とも合わせ、それらを公然猥褻と見なす国のほうが健全だと思うよ。欧米人たちはどうも羞恥の感覚が麻痺している。それに、日差しの強烈な砂漠地帯で肌を露出するのは狂気の沙汰だ。土地の人たちの伝統衣装のように、直射日光をさえぎりつつ風は通す服装でなければならない。ああいう服装をしているのにはわけがあるのだ。そして、男もかぶるあの頭の布の裾を結べば、髪と口元を隠す女のベールになる。あそこでは男だって髪を隠している。6はつまり豚肉が食べられないということだが、そのくらい期間がまんしなさい、羊を食べてなさい、ということで問題ない。7は自国が出場できないイタリア人に対するからかいで、ドイツ人にとっては小気味よいことなのだろうし、そういうイヤミはおもしろい。

 そしてイタリア人たちは、日本戦でのドイツの敗北とグループリーグ敗退に大喜びする。「ありがとう、日本!」「イタリアにとってこのW杯で興奮できる瞬間はあまりないが、ドイツの負けを見るのはその瞬間だ」と書く。こういうやりあいは楽しい。もっとやれ、もっとやれ。戦争にさえならなければ、大いにやるがいい。

 

 W杯にはたしかに地の利というものがある。日韓ワールドカップでのトルコの躍進(韓国については言うまい。疑惑のある「勝利」だから)、このカタールでのイスラム圏・アラブ圏代表モロッコの大活躍(サウジアラビアのアルゼンチン戦、チュニジアのフランス戦金星もしかり)。今大会でもっともすぐれていたのは、優勝チームでも準優勝チームでもなく、モロッコ代表だと断言してさしつかえない。おかげでアラビアンナイトめいたメロディーの国歌を何度も聞くことができた。ラテン系の国歌は明るく楽しげ、ゲルマンからスラブは荘重、ときに悲愴にまで至る。W杯ではだいたいそのふたつの系統の国歌を聞かされる中で、実に耳に快かった(日本のは祝詞風か?)。

 カタールはアジアにもアラブ圏にも属しているので、日本を始めとするアジア代表チームも活躍することができた。アジアの大会や予選で何度も経験している土地だったから。いや、カタールで開かれてよかったと思うよ。サッカーはもはやヨーロッパと南米だけのスポーツではないのだ。たとえ決勝戦のカードがやはりそのふたつの代表であったとしても。

 その決勝はすばらしい試合だった。メッシ優勝で終わったのもうれしい。アルゼンチンが策を講じ、後半途中までフランスに1本もシュートを打たせなかったり、フランスが前半のうちに主力選手を代え大胆に作戦変更したり、こういうのを日本代表監督にも期待しているのだ。フランスは主力にかなり「フランス原住民」がいたけども、次々に交代し、終わりごろはほとんど移民アフリカ植民地選手ばかりになっていた。イングランドにも黒人選手は多くいるけれど、彼らはイギリス名を名乗っていることが多い(ベリンガムとかラッシュフォードとか)。しかしフランスはアフリカ名が多くて、どこの代表だかわからないのもなかなかおもしろい。黒いフランスに対してアルゼンチンはまったく白くて、この時世それはそれで不気味な感じだし、色は白くても夜道で会いたくない面構えが多い。

 サッカーはサッカーだけがおもしろいのではない。それにはいろいろおもしろがるポイントがある。世界を映すスポーツだから。

ヴァガボンドとして、スパイとして

 日本野鳥の会の主宰者として知られる中西悟堂(1895-1984)は、松江に住んでいたことがある。普門院の住職として1922年から2年たらずの間であるが。その前には安来の長楽寺にもいた。

 悟堂は金沢生まれであるが、生後すぐ東京に移り、そこで成長した。本名は富嗣、悟堂は法名である。天台宗曹洞宗の学林で学んだ。義妹の自殺と祖母の死の後、放浪の旅に出て、三朝で天台宗学林のときの友人で安来清水寺の住職をしていた山村光敏と会い、清水寺に滞在。その翌年(1920)乞われて長楽寺の住職となり、檀家総代の会計不正を正す改革を断行した。

 もともと歌人・詩人として出発した人で、普門院時代に第一詩集『東京市』を刊行、長編小説「犠牲者」を脱稿した(未発表に終わったが)。

 彼はインド留学を希望したが、かなわなかった。詩聖とうたわれるタゴールの三回目の来日時、直接単独会見をして話すことができた。そのとき英語による詩を献呈し、タゴールから彼の学園「シャンティニケータンにお招きしたい」と言われた。そこで、天台宗の留学生として行こうと考え、「天台宗の学林にその希望を告げてみると、案ずるより何とやらで、それも宜しかろうということなので、雀躍した私は渡印の第一目標をガンジーの許として外務省へ旅券を要求した」。しかし、それは交付されなかった。「おりからインドの不服従同盟は火の手をあげて独立運動化し、ガンジー捕縛の声さえあったおりで、日英同盟の手前、そんな危険人物の許へ行こうとする私に、外務省が旅券を下付する情勢ではなかった。だから私の申請の仕方ははなはだ不覚であったわけで、これで私の夢は断ち切られ、膨らんだシャボン玉の七彩の虹はあえなく空中分解してしまった」(中西a:303f.)。「留学せざるの記」である。

 9歳のとき、秩父の山寺で百五十日の行をした。坐禅を組んでいると、鳥が来て肩や膝にとまった。のちの野鳥の会へと続く最初の鳥との親しみであった。ただ動かずにいたため木や石と思って寄ってきたのではない。和尚さんが「お前はおもしろい奴じゃの。わしには鳥どもはたかったことはないが、お前にはようたかる」と言っているのだから。鳥に限らず、蜂や蛇もよく馴れたという。尾崎喜八は「君のからだには、何か動物をひきつけるラジエーションとかエマネーションとかの特別なものが備わっているのではなかろうか」言っていたそうだ(中西b:31)。その荒行では透視力のような霊能力を身につけたということだ。野鳥保護、霞網猟禁止の活動をしたり、はだか暮らしだったり、この人は南方熊楠にちょっと似ている。熊楠も鎮守の森を守るための神社合祀反対運動を精力的に行なっていた。官の粟を食まぬ野人である点も同じだ。

 

 悟堂が長楽寺の住職をしていたとき、「金子(光晴)は国木田独歩の遺児虎雄を伴って来て滞留した」(旅する:217)。「滞在中、金子は国木田の詩のノートをしきりに添削してやっていた。金子自身はペン画をいろいろ描いていた。ところが安来の町から二台の人力車をつらねて寺へくる途中、金子は人力車の上で蛸踊りばかりしていたそうで、一方の国木田のほうは長髪の青年で、五十年前の田舎には凡そなかったことだから村びとたちの目を引いた。やがて檀家惣代の老人から「あげな村じゅうをバカにするもんどもを寺に泊めておかっしゃっては寺の名に障るけん、早う帰してつかあさい」という抗議が出たが、格別悪事を働く手合いではない、二人ともワシの友達だ、遥々東京から訪ねて来たのだから暫く我慢しろ、長くは居らんよ。と言っておいた」(同前:219)。

「前に処女詩集『赤土の家』を出した時の本名「保和」は気に入らぬ、光晴としたいという。その頃は僧籍に入れば本山から法名をくれる。それに添えて役場に届ければそれが戸籍上の本名となったもので、私の「悟堂」も法名である。そこで金子に一応俺の弟子になれとすすめ、師僧としての私から延暦寺へ届け、法名は光晴(こうせい)としたい旨の副書を添えて出したところ、間もなく本山から「法名光晴」という鳥の子の用紙の度牒(得度入籍の牒)と数珠一環が届いた。以来彼は大っぴらに光晴を名乗ったが、坊主になどなる筈もなく、光晴だけを物にした」(同前:220)。

詩人金子光晴(1895-1975)は大鹿安和として生まれ、金子に養子に行った。そしてこのように光晴になった。

 金子は二度洋行をしている。最初のフランス・ベルギー滞在(1919-20)は「留学」と言ってもいい。学校に入ったわけではないが、そもそも詩など学校で習うものではない。根付収集家で技師・実業家のルパージュという人と友人になり、庇護を得て、ヨーロッパの風光や生活、フランドル絵画に親しみ、さまざまな詩集を熟読した。

「ルパージュ氏の人柄と、村の環境がすっかり僕の気に入ったので、この滞在の一年半は、僕の生涯にとってもっとも生甲斐ある、もっとも記念すべき期間となった。古ブラバント侯国領の豊かな田園ですごした月日は、僕のその後の人生を決定したといってもいい。このあいだにまなびえたもの以外に、その後何程のものもつけ足しはしなかったろう。朝は読書し、昼は散歩しながら詩を書いたりして、夜は、毎晩のようにルパージュ氏のもとにでかけて行って話をして、夜を更かした」(金子a:92)。「それよりも重要なのは、氏が、ヨーロッパに対してほとんど無知に等しかった僕の、眼をひらいてくれたことだった。鉄と石の文化の基礎のふかさと、永遠の疲労と、痛風の足と、皮肉に食い込む鉄の足枷、首枷と、諸々の悲劇のうえに築かれた歴史の類ない魅力を、由緒ある街なかのモニュマンや、美術館の古美術によって、ねんごろに僕に説ききかせてくれたのは彼だった」(同前:93)。

「ルパージュは、土曜日毎に僕を、彼の友人の王室数学顧問という役人のタッセル老人の許につれていった。タッセルは、版画の蒐集家で、書斎の机の両脇の棚に、天井に届く程の版画をもっていた。その解説をしてやることに話がきまって、その代償にモネー王室激情に、氏のためにとってある桟敷で毎週歌劇を見物できることになった。サンカントゥニェールの東洋美術館長のボンメールとも親しくなり、美術館で買いこんだ日本の書画を鑑定する仕事もやった。ルパージュ家の親戚たちとも知合うようになり、方々の家庭の舞踏会や、晩餐に招かれたり、ピクニックの一行に加わったりした。

 一すじな向学心に燃えた、規律的な、清浄なこんな生活が、なによりも僕にぴったりしたものと、ためらいなく考えるようになったじぶんを、過去の懶惰な、シニックなじぶんと比べてみて、信じられない位だったが、それはみな、ルパージュの友情のたまものであった。まなぶことのたのしさは、この時期をすごして、永久に僕のもとへかえってこなかった」(同前:95f.)。

 帰国後その勉強の成果である詩集『こがね蟲』を発表し、詩壇に名を成すのだが、金子光晴が真に金子光晴である本領を示すのは、汚辱まみれの二度目(1928-32)の渡欧である。それは「留学」ではとうていなく、「洋行」という晴れがましげな語で言うのも不適当な、端的に放浪であった。そもそもそのきっかけが若く美しい妻森三千代を不倫相手から引き離すためであり、当座の金しかなく、絵を売って旅費をつくりながら、上海、シンガポール、マレー・蘭印をさまよい歩き、パリの底辺に暮らしたあげく、ブリュッセルを経て帰国の途につくものの、またマレー放浪をする。

 東京美術学校日本画科に入学したこともあるので(一学期で退学したけれど)、絵心はあったが、「このシンガポールでもたくさん欧洲へゆきかえりの絵かきさんが展覧会をひらいたが、金子さん、あんたぐらい下手な絵を画く人もない。わしは、大いにそれが気に入った」(同前:162)などと言われる始末だった。

 一人分の船賃ができると、妻を一人先にフランスへ行かせた。そのあと、「僕は白服に中折帽子でスーツケース一つを提げて、ジョホール水道をわたり、邦人ゴムと石原鉄鉱の集散地、河口のバトパハまで、車を走らせた。熱雲のした、白枯れた椰子林家、はてしないゴムの栽培林をつきぬけてバトパハに着くと、川蒸気でセンブロン川を遡った。センブロン三五公司第二園に滞在し、さらに、スリメダンの石原鉱山を訪れ、大小数ヵ所の、川すじのゴム園事務所を泊りあるいた。僕はそこで泊って、もとめに応じて、肖像や、風景を描いて稼ぎながらあるく「旅絵師」というものになっていた。ジャングルと隣接する辺地の宿舎で、虎のうそぶくのをきいた。夜道を、コブラとぶつかったこともあった。さらに、東海岸の三五公司第一園は、瘴癘の地で、白昼も、蚊いぶしの煙幕のなかでなければすごせなかった。野象の群が裏山の樹林をおし斃して通ったあとも見にいった」(同前:163)。

「その当時、日本の『毎日新聞』の学芸欄では、日本を去ってから、誰のもとにも一通のハガキすら出さず、消息を断っている僕について、「印度の鄙地で、金子がジャズバンドにはいって太鼓を叩いているのをみたものがある」というゴシップが出た」(同前:166)そうである。

 ようやくパリに着く。

「多くの日本人は、パリへ文学の修行に来ているのに、僕は、パリに着くなり、それまで一片の情熱として胸の底に燃えていた、書かない詩まですてはててしまった。

僕は、無一物ということで、パリの街のなかで、真空にいるような苦しみ、内臓の涸渇してゆくいたさをおぼえ、じりじりと迫ってくる飢餓におののいた」(同前:166)。

「パリは、悪天候だ。一年のうち半分は冬で、暖房設備のない部屋では、ベッドにもぐり込んでからだをちぢめているよりしかたがない。寒気と栄養不良で、貧しい外国人はよく、胸をいためる。胸疾者は、施療病院に送られるが、病院へ行ったもので、棺にはいらずにふたたび門を出たものはないと言われている。そんな土地では、猶更、僕らは、身をいとわねばならない」(同前:167)。身寄りなく死ねば、「フランス政府の手で浮浪人として処分され、どこかの投込み墓地にほうり込まれ、犬の死骸や、猫の捨子といっしょに、支那まんじゅうの黒あんのように混沌とならされてしまうのが落だ。あの頃のパリは、東京よりも空気がわるかった。日本の留学生のなかでも、胸が悪くなる人が多く、二人、三人、僕の眼の前でもばたばたと死んでいった」(金子b:97)。「東洋ではともかく、西洋での身の詰まりかたは、さすがに個人主義国だけに凄まじいものがあった。破産者は遠慮なく自殺した。敗者が生残れる公算がないからである」(同前:132)。

「パリの食いつめもの達が、類は友をよんで、僕のまわりにあつまってきた。だが、その二年間に、僕は、めっきり痩せた。無一物の日本人がパリでできるかぎりのことは、なんでもやってみた。しないことは、男娼ぐらいなものだ。博士論文の下書から、額ぶち造り、旅客の荷箱つくり、トーシャ版刷りの秘密出版、借金のことわりのうけ負い、日本人名簿録の手つだい、画家の提灯持ち記事、行商、計画だけで遂に実現にいたらなかったのは、日本式の一膳めし、丼屋、入選画家のアルバム等々だった」(金子a:167f.)。

 パリにはそのころ300人ほどの日本人画学生がいた。「パリは、針小棒大で、小心な人間達が神経衰弱気味で、万事大仰にことを言いふらすところで、うっかりするとひどい宣伝をされて、迷惑をこうむることが多い」。「パリでは、栄養をとらなければ斃れるという前車の轍を目撃しているので、少々な不義理な借金をしても充分、食べる費用だけは、なんとしても確保しようとした。そのため、えげつない人間に見られて、それがまた不評判の種になるというわけだった」(同前:169)。「パリでは僕の名を、物騒な人間の代名詞にしてしまった」(同前:168)。

「モンパルナスあたりの安ホテルを、あちらこちらとうつり廻った。労働者の住みついている裏町のホテルは、どの部屋も小便臭く、部屋の漆喰壁には、南京虫を指でつぶした血のあとが縦横についていた。住んでいる人間も、へんなにおいを発散し、野菜物を小わきに挟んで、がらがら木靴をひきずりながら階段をあがったり、おりたりしていた。素裸のうえに雨合羽をひっかけた女工などもいた。イタリー人の労働者や、なかには、黒人、気のぬけたような安南の学生、えたいのしれない混血児もいた」(同前:169f.)。そんなところが彼の生活環境だった。

 藤田嗣治は「フランス気質がたっぷりと滲みこんだ日本人」であるが、彼によると「パリでがっちり生きてゆくには、あくまで日本人であることであり、フランスかぶれの日本人などフランス人には何の興味もない」(金子b:107)とのことである。日本人が日本かぶれの外国人を好むのと比べ、非常にためになる見解だ。

 『ねむれ巴里』(1973)は40年もあとになって晩年に書かれた滞在記であるから、記憶違いもあればその後ふつふつと発酵した想念も交じり、実情そのままではなく「作品」化されている。パリで金子と交友があった永瀬義郎が、「金子夫妻は尾羽打ち枯らして、人前にも出られない様に言っているが、どうしてどうして、金子夫妻は、貧乏貴族と言うことばの通りで、(…)金こそ無いが堂々と胸を張って歩いたのである」(旅する:192)と書いているように。この人はまた、金子が「あぶな絵」の名人でそれを売っていたことも伝える。

 それでもなお、この「作品」はおもしろい。たとえば、

「僕の少年のころは、洋行といえば、同盟国の英京ロンドン、学術の都ベルリン、それからアメリカ諸方の都市で、フランスのパリを志すものは少かったものだ。その頃は、まだ日露戦争のほとぼりがほかほかしている時分で敵国ロシアの同盟国というので、子供ごころにも、フランスをばかにしていたほどで、人気のないフランスへ洋行するものは、腰ぬけか助平ときめこまれていた。フランスなどを志望するのは、軟文学者の、特に破廉恥な、口にすべきでないようなことを恬然として筆にして、したり顔の所謂自然主義小説家などには、なるほどふさわしいことだと思われたものである」(金子b:p.7)。

「あのP音の多い、人を茶にしたとぼけたフランス語を使いながら、あけくれ女の尻から眼をはなさない男たちや、男の眼でくすぐられている自覚なしではいられない女たちが、ふわりふわりとただよっているこのフランスの都は、立止って考えるといらいらする町だ。頭を冷やしてながめれば、この土地は、どっちをむいても、むごい計算ずくめなのだ。リベルテも、エガリテも、みんなくわせもので、日々に、月々に、世界のおのぼりさんをあつめる新しい手品に捺す古スタンプのようなものだ。騙されているのは、フランス人じしんもおなしことで、騙している張本は、トゥル・エッフェルや、シャンゼリゼや、サクレ・キュールや、セーヌ河で、そんな二束三文な玩具を、観光客は、目から心にしまって、じぶんもいっしょの世界に生きている一人だったと安心するのである」(同前:70)。「花のパリは、腐臭芬々とした性器の累積を肥料として咲いている、紅霞のなかの徒花にすぎない」(同前:79)。

 一方で、フォンテンブローの森を歩いた時のように、美点も的確に捉えている。

「森のなかに、木を切倒す斧の音が丁々ときこえ、その音があっちこっちに反響した。冬の森が語る冷厳な相貌が、フランス人のなかに一本通って、それがフランス人の知性となってゆるがないのではないかという実感を、手から手に渡されたような気がして僕は、この森でいくばくかの日を過したことが、無駄ではなかったとおもった」(同前:67)。

 

 妻の森三千代(1901-77)は、金子にひっかかって東京女子高等師範を中退するまでは首席の才媛で、この滞在を「留学」たらしめんとする意欲はあったようだ。アリアンス・フランセーズでフランス語を勉強したり、社交ダンスを習ったりしていた。メイエルホリドの劇のパリ公演を見にも行った。イタリア貴族の彫刻家のモデルをしたり、詩をフランス語にして詩集を出したりと、女性のほうが積極的でもあり、仕事の可能性もあったらしい。パリでは金子は金策のため人にいろいろ迷惑をかけていて評判が悪く、せっかく職探しをして見つけても、亭主が金子だと知れると断られることがたびたびで、籍を抜くことにした。最後はアントワープの商会で事務員をし、金子が一足先に出発したあとで帰国の途に就いた。金子はシンガポールまでの切符しか買っていなかったので、そこでまた会うが、彼女はそのまま帰り、彼はマレー放浪をなおしばらく続けたのち、やっと帰国した。おもしろい夫婦である。

 とにかく、この金子光晴の二度目のヨーロッパ滞在は、制度化し鋳型にはまった官費留学の徹底的なアンチテーゼである。

 

 悟堂が普門院にいたときには、梅田良忠(1900-61)がやってきた。

「梅田は曹洞宗学林時代の親友で、三軒茶屋の同居生活の仲間ではなかったが、ひとり別個の宇宙を持っていた心底からのコスモポリタンであって、ヨーロッパへ音楽の修行に行くということで、私の許へ別れの挨拶に来たのは、私が松江市の普門院の住職をしていたときで、彼はすでにヴァイオリンでバッハなどをかなりこなしていた。一流の場所で音楽を身につけるまでは十年でも二十年でもヨーロッパにとどまるというので、私は彼の壮途を横浜埠頭まで送った。その後二十三年間もあちらにいる間、ドイツの侵入やソ連の攻略でワルシャワを逃れ、ブルガリアのソフィーヤ、ルーマニアイスタンブールなどを転々としているうちに、音楽への共感を通じてブルガリア外務大臣と親友になり、その人からじかに聞く第二次欧州大戦の情報を朝日新聞社へ送るのが、他の大新聞の特派員より一週間も早いところから、朝日新聞社に乞われてその特派員ともなった」(中西b:131f.)。

 彼は1922年6月、曹洞宗宗務庁よりドイツ留学の資を得て渡欧するが、その船中でポーランド人の親友ができた。スタニスワフ・ミホフスキといい、建国された再生ポーランドへ渡るために上海から乗ってきた。招かれて、夏休みにポーランドへ行き、そのままそこにいつづけることになったという。はじめドイツを目指し、すぐに留学先を東欧に変えるところは今岡十一郎と同じだ。ポーランド愛とハンガリー愛の好一対かもしれない。

 ポーランド入国の際の光景はよほど印象的だったらしい。

第一次大戦が終った頃ポーランド人は、かれらが中世的クリスト教的信仰の象徴として敬愛した祖国を再建するために、最もすぐれた学術の成果や最新の技術を身につけて世界各地より帰ってきたものであった。筆者はあたかもその時代にベルリンよりかれらを乗せた列車に同乗し、国境駅ズボンシンを越えて復興ポーランドに足を入れたのであった。この駅で列車を換えるのであるが、帰国の群のうちには、ポーランドの地にひざまずいて―あたかもサン=ペテロ大聖堂の内で今日もみうけるように―大地をいだき、これに接吻する者すらいたのである」(梅田c:3f.)。

 その年10月にワルシャワ大学哲学科に入学し、「ジェリンスキイ博士の下で希臘ラテン哲学を学び居り候」と日本に書き送っている(梅原:41)。しかし1923年9月、関東大震災のため留学資金が途絶する。「長い間彼は全くみすぼらしい「下宿」に住み、「パンと水で」のはなはだしく貧しい生活を送られた」とヤジジェフスキ教授が追悼文に書いているのはこの時期のことであろう。だが、「かなり後になって、この窮乏生活から脱出され、ポーランド語を完全に自分のものとされ、終にヴァルシャヴァ大学における日本語の講師の地位を得られた。これと同時に、ヴァルシャヴァにある日本大使館においても、何らかの仕事をなされたようである」。「彼はごく容易く学生徒の間へ、またヴァルシャヴァにいたボヘミアの文学者達の間へ(K・J・ガウチニスキ、J・リベルト、その他多くのポーランド・ロシアの文学者達)出掛けて行った。梅田教授はミラヌベク行き(文学シンポジウムの開催された時)を始めとして、シヴィェントクル山脈への登山や、ポーランド領内のあらゆる地方へ、休暇を利用して、あるいはヴァルシャヴァの同僚の家族と共に旅行された」(関西学院史学:36)。「既に彼がポーランドへその第一歩を踏み入れた一九二二/四年には、多くの作詩をしていられる」(同前:38)。

 大学卒業(1925)後は、ワルシャワ大学、またワルシャワ東洋学院で日本語日本文学を教えるかたわら、日本大使館の嘱託となる。「クアドリガ」(四頭立て馬車)という詩人や画家、音楽家のグループとも親交があった。こうした人々と下宿をともにしていたこともあった。「ある女流文学者は早朝、バイオリンを手にした梅田が和服姿で森に出かけ、曲を奏でているところに通りかかり、思わずハミングで追唱した」(梅原:48f.)。ある女性画家は袈裟を着た梅田の肖像画を描いている。

 中西悟堂は「ユピテル」と題する三部二十七幕の詩劇を書いていた。「私は後年、添削に添削を重ねて、ポーランドワルシャワヴィスワ川のほとり、ショパンなどの芸術家の代々のパトロンであった伯爵家ワルワーラ・ヴォージンスカヤ夫人の許に厄介になっている親友、梅田良忠の許へ右のうちの第一部と、第二部の第四幕までの草稿を送ったところ、それが梅田とヴォージンスカヤ夫人との共訳によって、されに構想を加えられ、原作者日本人中西悟堂の名でワルシャワショパン座において公演された。その舞台を見た北極海捕鯨船団の人が自分の肖像写真を封入した書簡をよこしたのには、当の私が驚いた」(中西b:131)。

 1930年以来いくつもポーランド語でポーランド古代・中世史の論文を書いている。「彼は多くのビザンツ学者とも親交を結ばれた。例えばハンガリアのモラフチック教授、ユーゴスラヴィアのオストロゴルスキ教授、ブルガリアのフィロフ教授、そして数人のルーマニアの学者達」(関西学院史学:37。このうちブルガリアのフィロフ教授は戦争中の1940年から43年まで首相となり、外相を兼ねた)。

 ワルシャワで学問に芸術に充実した生活を送っていたことがわかる。恋人もいて、ドイツ系ポーランド女性との間に娘が生まれていた。梅田はそれを知らなかったが、後年その娘が死病で闘病中の梅田を訪ねてきたそうだ(梅原:234)。そのようなことも「充実」の一例ではあろう。元恋人がやってきた鴎外の件を思い出してもいい。

 だが、その生活は第二次世界大戦の勃発によって一転する。1939年、ドイツのポーランド侵攻によりブルガリアに移り、そこでも公使館嘱託として働き、1942年には朝日新聞の在ソフィア嘱託となる。

 戦時のことをこう書いている。「ポーランドの首都ワルシャワナチスの軍隊によって砲撃され、空襲されたとき、多くの友の家々を危険を冒してたずねまわったものであったが、友の母たちは地下室にあってロザリオを手に心を神にゆだねていた。さらに四年の間、ブルガリアのソフィアに暮したのだが、この都が英米軍に空襲され、一トン爆弾が高層建築を破壊するとき、筆者は同じ建造物の地下に避難していた。命中する爆弾は地下までは貫かなかったが、その地下室で、ブルガリア人たちはゆらぐ床にひざまずき、ギリシア正教の神に祈りをささげていたのであった。筆者はそのとき、東欧文化の地金ともいえる強い中世的な輝きに触れることができたのである。そしてその輝きこそ、東欧中世が一〇○○年にわたって鍛えてきたものであったと感じたのである」(梅田b:84)。

 1944年11月にクーデターによって親ソ政権のできたブルガリアを去って公使館の一行とともにイスタンブールへ脱出し、1945年3月、モスクワ、シベリア経由で帰国した。

 この戦火に追いまわされた流浪の間に失われた資料について、いかにも学者らしい嘆きを漏らしている。「ドイツ軍がポーランドに進駐したとき、多年苦心して蒐集した西スラヴ史に関する史料や図書が、ドイツ軍の砲火によって瞬時にして失われた」(梅田a:はしがき)。「いまもなお痛惜にたえないのは、ソフィアの数年間に集めた必要な文献すら、引揚げの際、満州里で鉄道便に托したまゝ、ソ連軍の南下と戦禍のため、内地には遂に届かなかったことであった。難を免れたのは、小型のトランクに入れて携えた数冊の書籍とノート位であった」(同前)。芸術が一方の柱であっても、学問研究が彼のよる大きな柱であったことは間違いない。

 悟堂は戦争末期福生に住んでいた。「そこへ、ひょっくりやってきたのが、ぼくの漂泊心などに数十倍した事実でのコスモポリタンの梅田良忠であった。滞欧二十余年、ドイツがポーランドに攻めこんでワルソーを陥れた際、砲弾をくぐり、身を以てベルリンへ脱出、以後ブルガリアのソフィヤで音楽修行をやっていたのだが(引用者註:前の引用文もそうだが、これも誤り。彼は梅田を音楽家だと思い込んでいたようだ)、欧洲の情勢が極度に危険となったので、辛うじてトルコ、ソ聯を経由、つい一週前、帰朝したのだという。久方ぶりで逢った彼は、身長低く、ずんぐりと円く、じゃんぎり頭に、間歇性跛行症とかで片足をわるくして、モゾモゾと動いている恰好が、まるで小熊みたいだが、眼鏡の奥の眼が、日本人には珍しく限りなく優しいのである。その彼も、ぼくについてどこへでも行くという。彼は一足遅れて山形へ来たが、外国がえりの風来坊で移動証明の出どころがなく、やむなく新たに国籍登録をしてもらったという、まるで天の一方から落下したあんばいなのも彼らしかった」(中西c:189f.)。このようにして、ともに山形の田舎に疎開した。

「梅田がヨーロッパから帰国の途上、モスコーで友人に勧められ、メトロポールのそばの映画館で「ウィッスラ川よりオーデル川へ」というニュース映画を見、戦禍に壊えたワルソーの、大統領の官舎だった古城や、カテドラルや、マリヤ寺や、ショパンの心臓を祭ってある聖十字寺の廃墟を見せられて男泣きしたという放浪者らしい話がひどく僕を打つ一方では、六十輌連結の貨車が十五分置きに極東へ武器を輸送している話は僕を慄然とさせた」(同前:200)。「僕は何気なく就眠後の梅田の寝顔にじっと見入って、何という寂しい顔をしている男だろうと思った」(同前:207)。このころが失意の極だったのだろう。

 その後1946年千葉県長生郡大泉寺の住職となり、48年樋口久代と結婚、翌年長男芳穂が誕生。1951年角田文衛に招かれ大阪市立大学の講師となり、55年に関西学院大学教授となる。角田とともに学術誌『古代学』を創刊。『ヴォルガ・ブルガール史の研究』で学位を得た。持ち帰ったバイオリンはいつの間にか本代に化けた。1961年、腫瘍のため没するが、死の床でカトリックの洗礼を受けた。洗礼名は親友の名と同じスタニスワフ。

 

 彼の考える「東欧」にはギリシャも含まれ、中世ローマ帝国(いわゆるビザンツ帝国)の文化の影響を受けた地域、ということである。たしかに、ポーランドはやや外れるが、モラヴィアまでの東欧地域はギリシャ正教圏であった。その後バルカン以北はカトリックに奪われるのだが。ユーラシア騎馬民族の侵攻占領地でもあった。西欧と東欧を分かつものはそのふたつだ。

 スラブ語を表記するのに適しているのがビザンツ帝国からの布教僧の作ったキリル文字である(わずらわしいポーランド語のラテン文字表記を見よ)ことからも、ビザンツ文化圏という切り取り方が適当であることがわかる。しかしその基準では、ロシアも「東欧」になってしまうのが難点だ。「東欧」とされる地域は「バルカン」と「東中欧」に分けるのがよいのであるが、それは今となって得られた視点であり、梅田の見解はそれとしてすぐれたものである。

 学位論文『ヴォルガ・ブルガール史の研究』で彼はこう披瀝する。

 「東欧民族史」は、「主流文化圏の文化に光被されつゝ、その文化圏の方向にむかって移動を試みたり、定住したり、侵略したり、相剋したりする東欧の遊牧諸民族や農耕諸民族の興亡の跡をたずねることにある。こゝでいう主流文化圏とは、始原時代の文化圏はいうに及ばず、その後の古拙時代のみならず、古典中世のオリエント、ギリシアローマ帝国、ことに筆者が東欧文化圏内に入れて極めて重視しようとするコーンスタンティヌポリスを帝都としたローマ帝国、ペルシア、アラビアの文化圏を総称しようとしているのである。こうした悠久の昔から西紀14、15世紀頃まで、幾度か東欧文化圏の東北限に君臨したこのヴォルガ・カマ地帯の諸族とか、その南方に大王国を建設しては、ローマ帝国の北辺を西漸して安住の地を求めたハザール、アヴァール等の諸民族の文化とか、バルカンを南下して直接、中世ローマ帝国の文化に浴しながら幾度か大王国を築いたブルガリア族とか、あるいは、東欧文化圏の殆ど全体に浸透したかのラウジツ文化のような火葬墳を大きな特徴とする重農文化の永い伝承や、その生地の上に、東欧の主流文化やラテン文化の吸収につとめたスラヴ諸族の文化なども、一応これを把握しないかぎり、東欧史の全貌はもとより、西洋史の全容を理解したり、体系ずけたりすることは不可能に思われるのである。なして況んや、これなくしては世界史を口にすることすら困難なことであらねばならない。

 もっとも筆者の年来の関心は、西スラヴ諸民族の歴史にやゝ偏していたかのようであった。しかし第二次世界大戦の戦火を避けて、1939年の末にブルガリアのソフィアに居を移してからは、こうした偏向は改め、南スラヴの人たちや東スラヴの人たちの文化にも眼を向けるべきであるとさとったのである。筆者にこうした考えを起さした動機は、ブルガリアに居を移したその冬、ソフィア近傍のボヤーナにあるギリシア正教の小教会堂の壁画を見て、そのはつらつとした生気と発想の奥に秘む深い伝統の泉に思いをいたし、その泉源が光輝ある中世ローマ帝国の文化と直結していることを知るにいたってからのことであった」(梅田a:はしがき)。

 意図してそこに赴いたわけではないが、戦争によるブルガリアでの生活は彼の研究の転換点となり、大いに貢献したわけだ。ブルガリアは彼の研究に深みを与えた。ポーランドは彼の人生そのものに深みを与えた。

 

 梅田良忠は「スパイ」と見なされていた。

 1944年夏、ソフィアに日本陸軍駐在武官秘書として着任した吉川光は、その回想記の中でこう書いている。

「そのころ、ソフィアに「梅田」と名乗るただ一人の日本人がいた。日本の龍谷(実際は駒沢)大学卒業の僧侶で、自費留学中戦争で送金が不能となり、朝日新聞の通信員であると自称していた正体不明の怪物で、日本公使館筋は反間諜者の疑いありと敬遠し、日本軍部からも要注意人物として接触せぬようにと注意があった。しかし私にはいか物食いの性癖も手伝い、また放浪の日本人として興味と同情もあって彼と内密に交際し、若干の物質的援助もおしまなかった。

 十月のある夕方、彼からの電話呼び出しで講演の一隅で密接した時のことである。彼は突然私の耳許に口を寄せてささやいた。「ドイツ降伏後三ヶ月以内にソ連は対日参戦する」と。その情報入手経路は休暇で帰省した駐米フィンランド公使館二等書記官ラムステットから聞いたとのことである。(…)/この情報は実は、そのころ日本参謀本部が目の色を変えて捜し求めていたテヘラン会議の内容であった。(…)/これは天下の一大事だとばかり急いで武官を叩き起こして報告したところ、大変なお冠で、なぜ梅田とあったのか、酒飲み女たらしのラムステットの話は疑情法だと頑張って取りつくてだてもなかったが、翌朝ようやく了解を取りつけて確度丙で日本へ打電した。しかし日本からは何の反応もなかった」(梅原:15f.)。

 梅原季哉氏の調査によると、梅田はアメリカCIAの前身OSS(戦略事務局)やブルガリア公安当局からスパイと見なされていて、公安当局は彼を監視下に置いていた。彼についての報告ファイルが両所に残っている。一方で彼は日本公使館からも疑われていて、1943年5月、公使館の勤務を離れることがブルガリア政府あてに通知されている(梅原:88)。

 調査や情報収集をする者は「スパイ」と目されやすく、それを公辺に提供していたらまずスパイとされる。河口慧海もスパイと見られていたように。スパイの目には怪しげな者はみなスパイに見えるのだろう。彼がどの程度まで真に「スパイ」であったかはわからない。テヘラン会議の件のように情報を収集していたのは確かだけれど、それをどこに提供していたのか。日本政府ではなく、軍部でもない。公使館からは怪しまれ放逐されているし、軍部とも関係がないからこそ、あのような個人的な方法で重要情報を伝えようとしたのだから。朝日新聞へは送っていただろうが、それをしもスパイと言うなら、新聞社の通信員はみな「スパイ」だ。しかも、朝日は1944年4月以来彼に送金しておらず、9月6日に「朝日梅田特派員生活資金送金斡旋ノ件」として、「生活ニモ支障ヲ生ズル程ニテ、誠ニ気ノ毒ト感ゼラルルニ付」、朝日本社に措置を講ずるよう伝達してほしいと公使が公電を打っている(梅原:219)。報酬のないところに「スパイ」はない。情報を集めるだけなら研究者や新聞記者はみなやっている。だが、彼らはふつう「スパイ」とは呼ばれない。情報提供によって特別な報酬を得てこそスパイである。

 テヘラン会議についてささやいた一件は、たしかに彼の「スパイ」らしい行動を示している。その情報源はどこか。のちに家族には「『プロメテウス同盟』の関係者から聞いた」と言っていたそうだ(梅原:177)。「プロメテウス同盟」はポーランドの反共・反ロシア組織である。彼は亡命ポーランド人と親しく交わっていた。ヤドビガ・クルロバという「ブロンドで、すれ違った人が振り返るほどの美人」(梅原:136)がウメダの秘書としていっしょに暮らしていたという。

 ブルガリア公安当局の資料には、「ウメダはドイツ嫌いの傾向がある」(梅原:120)。また、「同盟国の通信員として、ウメダは情報局からさまざまな断片情報などを提供されることが多いが、その情報がウメダからフランス、トルコ、クロアチア、スペインやその他諸国の公使館にもしばしばもたらされていることは注目に値する。我々が集めた情報によれば、彼はザグレブのVMRO(内部マケドニア革命組織)とも関係を維持しているものと判断できる。我々の情報によれば、ドイツ情報機関はクルロバが英国の工作員ではないかと疑っている」(梅原:124f.)と報告しているが、これが正鵠を得ているように思う。反ドイツ・親ポーランドの活動として一貫しているようで、同盟国ドイツに対して反対的であれば、日本の当局からも当然疑われる。

 ブルガリアの公安は、梅田は「読書と研究のしすぎのせいで、少し変人になった教授」(梅原:107)と見られているけれども、それは見せかけだ、としているが、実際そうだったのではないか。縁切りした公使館にさえ憐れまれるほど手元不如意な様子から見て、情報提供に対し金銭的報酬はあったのかどうか、あってもどの程度だったのか、疑わしい。それが「スパイ」だろうか。「愛国者」であっただけではないか。その愛の対象には、ポーランドもあった。

 遺骨はワルシャワに運ばれ、そこに墓がある。妻久代は梅田の死後ポーランド文学者の工藤幸雄と再婚した。息子芳穂は中学生のときからポーランドに留学し、自主管理労組「連帯」の幹部となった(ちなみに芳穂は梅田が親からもらった名で、良忠は法名である。自分の名を息子につけたわけだ)。

 ポーランドを愛しすぎた男だったのだろう。ヤジジェフスキ教授への書簡に、「私は日本人でありながら、ポーランド人であると感じます」(一九五五年一月二十五日。関西学院史学:39)。「世界中の民族のうちで、その父祖の地を熱愛した民族としてポーランド人以上のものはないと信じます。(…) 真実をもって我々の心をあなた方にさし上げます。あなた方の民族に捧げます。何故ならあなた方やポーランドを誰よりも強く愛するからです」(一九五七年四月二十日。同)とあるのを見るならば。

 

引用文献:

中西a:中西悟堂『愛鳥自伝』下、平凡社ライブラリー、1993

中西b:中西悟堂『かみなりさま』、日本図書センター、1997

中西c:中西悟堂『野鳥と生きて』、ダヴィッド社、1956

梅原:梅原季哉『ポーランドに殉じた禅僧 梅田良忠』、平凡社、2014

金子a:金子光晴『詩人』、講談社文芸文庫、1994

金子b:金子光晴『ねむれ巴里』、中公文庫、2005

旅する:『金子光晴を旅する』、中公文庫、2021

梅田a:梅田良忠『ヴォルガ・ブルガール史の研究』、弘文堂、1959

梅田b:梅田良忠・岩間徹編『図説 世界文化史大系12 東欧・ロシア』、角川書店、1959

梅田c:梅田良忠編『東欧史』、山川出版社、1958

関西学院史学:『関西学院史学』7、1964(故梅田良忠教授追悼号。コンラッド・ヤジジェフスキ「追悼文 故梅田良忠スタニスワフ教授」、「故梅田良忠教授略歴」を載せる)

 

かるた、かるた、かるた

「あきのたの かりほのいほの…」

 いや、困った。声が裏返る。息が続かない。年を取ったか。中国にいたときはちゃんと詠めたのに、と思う。ブランクがいささか長かったと痛感するネパールの教室である。

 

 日本語教師にとってかるたは重要な教材だ。動詞絵カードを使ってのかるた遊びから始まって、いろはかるたも役に立つ。だが、百人一首は難度が高くて、中国に来るまではやったことがなかった。中国はしかしながらまさにこれをやるための国だとさえ言える。

 日本語学科では、現代語・口語だけでなく文語・古文も習う。ロシアですでに経験していたことだが、日本語学校などで日本語を教えるための「日本語文法」と、日本の学校で生徒に教えている「国語文法」では用語が違う。ロシアや中国では五段活用・一段活用(第1グループ・第2グループでなく)、形容詞・形容動詞(イ形容詞・ナ形容詞でなく)などの国語文法の用語を使っている。それはよく考えてみれば当然で、「国語文法」は文語を読解分析するために生まれたものであって、それを口語にも適用する。用語は文語文法・口語文法で共通していなければならない。専門性の高い大学ではもちろん文語・古文を教える。そのとき必要なのは「国語文法」なのである。「日本語文法」は要するに現代語だけやっていればいい学校で教えるためのものだ。ドイツ語ドイツ文学学科で今は話されない古高ドイツ語・中高ドイツ語が教えられるのと同じで、大学とはそもそもそういうところだろう。

 中高ドイツ語のような死に絶えたことばと異なり、日本語の文語は今も生きている。漢字圏であるため、中国の大学の日本語学科生は、N2はほぼ全員が、N1も半数が合格するようなところである。だからN1が目標になるのだが、1級のいわゆる機能語には「もがな」「まじき」など文語由来の表現がいくつもある。現代でも俳句や短歌には文語が用いられる。「古典詩人」が市井にわんさかいるというわけだ。能や歌舞伎のような「古典劇」が今も一定の人気で、そこで語られるのも文語だ。

日本語学科には日本文学史の授業もあるが、百人一首歌人文学史のビッグネーム(鎌倉初期までの)を網羅している。文学史の教材ともなりうる。

 全文ひらがなの取り札は、「こひにくちなむ」「こゑきくときそ」などと歴史的かなづかいで書かれていて、「ゐ」「ゑ」も用いる。濁点はない。最初はとまどうが、これもまたいい勉強だ。生きた教材と言ってもいいのではなかろうか。

 百人一首かるたになじませるため、人気のかるたアニメ「ちはやふる」を見せた。だいたいが中国の日本語学習者にはアニメファンが多いから、おあつらえ向きでもあった。私自身、このアニメで詠み方や節回し、競技かるたのルールを学んだ。一部音を消してアフレコさせることもした。アフレコというのも中国に来て初めてやったが、これもまた非常に有効だ。セリフが速いし、長ゼリフもある。それをうまくやってのければヒーローである。

 小学生のころ、クラスでよく百人一首をした。それに熱中して、すべての歌を覚えてしまった。覚えるのはズルでも何でもないけれど、そうするといつも私が勝つことになるので、遊んでくれなくなってしまった。みんなが競って全部覚えるというふうに進めばよかったのだが、キャアキャア言いながら楽しく遊んでいるのを台無しにしたみたいなかっこうだ。勝ったり負けたりするからおもしろい。誰が勝つか初めからわかっていたらおもしろくない。遊びとしてやっている級友には、下の句が詠まれないうちに取ってしまうのはズルだったわけだ。これは中国での経験においても示唆的だった。

 最初の1音、「いぬもあるけば」の「い」だけ聞いてすぐ取るいろはかるたと違い、歌かるたは前置きが長い。初心者は、上の句はすべて聞いて、下の句もかなり聞いたあとで、あるいは何回も聞いたあとで、ようやく手が出る。まだるっこしくもあるかもしれないが、逆に、いろはかるたではせっかく詠まれることわざをろくに聞かない。歌かるたではじっくり聞く。その点は教育的によろしかろう。

 取り札では、たとえば「みをつくして」は2枚ある。「みをつくしてや」「みをつくしても」の「や」「も」がいわば決まり字ならぬ決め字となるわけだ。そこに競技かるたでない素人かるたのおもしろさがある。「こひ」なんて山ほどあるし。「み」と聞いて「みたれそめにし」や「みそきそなつの」を取るお手つきが多い。上の句の初めのあたりで取る学生がいると、「オー」と讃嘆する。それが楽しい。といっても、「ちはやふる」などはほとんどすべての学生が覚えているので、「ちはや」と詠まれただけで激しい取り合いになり、それもまた楽しい。

 競技かるたは耳と手の連動を競うスポーツのようなものだ。それにもおもしろさはあるけれど、いうなれば「ホモ・ルーデンス」で言う「十九世紀における真面目の支配」の一例であって、浜辺の遊びでしかないビーチバレーや冬のお楽しみだったカーリングがオリンピック種目になるような合点のいかなさは残る。教室では、「金色夜叉」の正月かるた会のように、「楽しい遊び」の領分を越えない範囲でやるのがよろしい。歌は覚えてもらいたいが、決まり字まで覚えるほどのめりこむのはむしろよくない。

 その点でありがたいのが坊主めくりである。座を温めるために、まず最初にこれをする。そしてかるた取りが終わったあと、最後にまた。頭は使わず、ただ運だけのゲームで、逆転につぐ逆転があり、歌を覚えるところまでやるつもりのない学生にとっても楽しい。

 かならず町のどこかに(焦作ではキャンパスの中に)桜があり、花見がてら野外でかるたをするのも優雅なものだった。花見であっても、学生たちだからさすがに酒は飲ませられない。代わりにかるた遊びで酔ってもらえれば、なおのこと優雅であろう。

 北京かるた大会や上海かるた大会にも学生を連れて参加して、けっこういい成績を収めた。北京行きの夜行列車の中で、熱心にかるたを覚える学生の姿をうれしく眺めた。上海の大会のあとでは、魯迅博物館の外の芝生でやった。日本なら警備員に制止されそうだし、学生のほうも人目のあるところではやりたがらないだろうに、大らかな大陸気質を感じた。昔の「支那通」と言われた人たちもこんなところに引かれたのだろうと思った。

 四声かるたというのを学生といっしょに作ったりもした。彼らに読み札の句を一声・二声・三声・四声それぞれ選んでもらい、絵を描いてもらった(描いてくれた彼女は卒業後アニメ会社に勤めている)。それでなくても、有声音・無声音・反舌音など外国人に難しい発音がある上に、四声である。外国人の中国語学習者には役立つに違いない。鞍山には畳敷きの教室があり、そこでやった。チチハルはロシア人語学留学生が多く、彼らに披露した。

 すっかりそんな癖がつき、ネパールではデーヴァナーガリー文字のかるたをやはり学生を動員して作り、外国人クラスでやってみて、非常に好評だった。

 中国での教師生活は、かるた(動詞かるた)に始まり、かるた(百人一首・四声かるた)に終わったと言えるかもしれない。参加した学生たちに楽しい思い出を残せたとも信じている。そして中国を離れたあとも、かるたとの縁は続いている。

 

祭りをせんとや生まれけむ

 ネパールの首都カトマンドゥの川をへだてた南に、古都パタンがある。そのさらに南4キロほどのところに、人口1万人ばかりのスナコチという村がある。今年初めそこで2つの臨時祭があった。

 

 1月23日、この村のバルクマリ寺院の本尊の像がなくなっているのがわかった。村人たちは怒り心頭で、警察は厳しく捜査を進め、その手が迫っているのを感じたものか、泥棒は近くの村の寺にその像を置き去り、それが2月11日早朝に発見された。すぐパタンの警察署に運ばれ、検分のあと午後スナコチの寺に戻されることになった。男たちに担がれて寺まで運ばれたのだが、ぜひかつぎたいという者が多くいた。楽隊も出て、ほとんど村中の人が集まり、歌い踊り、時ならぬ祭日の様相を呈した。

 この件で感じ入ることはふたつある。ひとつは祭りの作法というか文法というものがしっかりあり、神像が盗まれ、それが発見されるというこれまでにない事態に際しても、即座に「祭り」をオーガナイズできるということだ。その日の朝発見されたのに、午後にはもう「祭り」が催されている。警察署から村まで男たちが担いで運ぶ。担ぎ手には希望者大勢で、にぎやかに太鼓やシンバルが鳴り響き、村中総出で寺院への帰還を祝う。

 この寺院の定例祭はネパール暦(ビクラム暦)新年の2日後にあり、神像が神輿に載せられて巡幸し、ほかの3つの神輿とともに御旅所へ行き、またもどる。前日の新年の日には柱が立てられ、バルクマリの母マーの寺へ神輿が運ばれる。深夜1時に寺へもどり、その周りを回る。行きは軽いが、帰りは別れたくないのか神輿が重くなるという。12年に一度、バーラバルサメラという大祭が行なわれ、そのときには蛇や鳩を火に投げ入れるそうだ。昔は人身供犠もあったと言われる。寺には髑髏杯がある。

 そのような毎年の祭りのやり方を熟知し体にも心にも浸みこんでいるから、初めての事態にも堂々と迷いなく対処できるのだ(交通整理の警察も手慣れたもので、神像の行列が進むのは交通の妨げなのだが、優先して歩かせるし、また通行の車やバイクもこのような祭りの行列が行くのには出くわし慣れていて、特に不満な様子も見せない)。

 もうひとつは、発見されたのが金曜日で平日であるのに、総出と言っていいほど人々が集まったことだ。おばさんたちはいい。主婦は時間の都合がつけやすい。農家も自分の時間の裁量はできよう。しかしここは首都近郊で都市化が進み、勤めに出ている人が多い土地である。にもかかわらず、あれだけ人が蝟集する。それは優先順位が正しいことを示している。仕事より神ごとが優先されるのは当然だ。村の大事な神様が受難し、それが見つかっておもどりになるのだ。氏子たるもの馳せ参じなくてどうする。仕事が優先されるいわゆる先進国の優先順位がおかしいのだ。そしてそのおかしな国の筆頭はわが日本である(しかしさすがに子供の姿は見えない。子供は学校に行っていたのであろう)。

 

 もうひとつの臨時祭は、2月24日に行なわれたツァイティヤ・プージャー・ヤトラというもので、ツァイティヤというのは四面にブッダの小さな像がある道端の小さな仏塔である。この村の小さな貯水池を暗渠にして、その上に新しくツァイティヤを据えた。その完成を祝って、周囲8つの村をめぐり、仏教寺院やツァイティヤを回って礼拝しお供えをするというものである。25㎞の道を3000人もが歩いた。村と村の間では、途中トラックの荷台に乗ったり、バスがあればそれに乗ったりもするが、基本は歩く。行程にツァイティヤは100以上もあり、それをいちいち時計回りに回りお供えをするのだから、距離はさらに増える。お供え物は金、菓子、米、仏教旗、クツォというほうき草などで、ブッダの口に牛乳で炊いた粥をつけることもする。さすがに数が多いので金は小銭だが、この日のために5ルピー札の新札を銀行で両替して準備する。道々にはお接待の屋台が出る。主に飲み物だが、ほかに酒やお菓子、軽食を供するところもある。途中の山中の寺では地面に座って提供された昼食をとる。

 巡行の参加者は主に女性で、男は楽隊と世話係を務める。額にティカという赤い印、頬にも赤い色をつけ(アヴィールという)、新調したそろいの服を着ている。スポンサーがそういう服を提供するのだ。ツァイティヤ新設の際には催されるということで、3年前にもあったそうだから、臨時というより不定期祭というべきかもしれないが、なかなか準備はたいへんで、参加希望者(それが多いことにも驚く)のみならず、有能なオーガナイザーのほか、多くの寄進者、スポンサー、善意の賛同者(お接待の人たち)がいなければできない。それがしっかりいるわけだ。

 

 人間とはどんな生き物か。いわく考える葦である、道具を作る動物である、道具を作る道具を作る動物である、ことばを持つ動物である等々、さまざまに説かれる。ホモ・サピエンス、作る人ホモ・ファーベル、遊ぶ人ホモ・ルーデンスなど、いろいろな名称が提案される中に、祭りをする人ホモ・フェスティヴィタティスというのも唱えられてよいのではないかと思う。

 人は何のために生きるか。祭りのために生きる、という面はたしかにあるのではないか。祭りは信仰の発現であるが、また共同作業であり、群れに生きる人類には欠かせない集団の結束確認である。何かモノを生産することなく、逆に消費であり、時として蕩尽である。それは目くるめく喜びをもららす。生命の燃焼であり、生きることの喜びは得ることよりも多く与えること、捨てることによって高まる。

 生命の本質は踊りである。言語は踊りから発生したと説く哲学者がいたが、たしかに動きの分節化と音の分節化はパラレルであると見なしていい。文化というのもそういうもののひとつであろう。文化とは音楽である。踊りである。なかなかいい定義ではないか?

 家が焼け金が盗まれるのにも気づかず祭りに熱中するおじさんおばさんを歌う美空ひばりの「お祭りマンボ」や、人死にが出ることが珍しくない諏訪の御柱祭など、日本にも祭りのために生きる人たちはたくさんいたし、今もいる。そういう人たちがいなくならないでほしい。

 

 スナコチは共産党毛派(マオイスト)の強いところで、地方議員8人、ここ出身の国会議員2人すべてマオイストである。内戦のころ、彼らは爆弾テロを行ない、公共財産の不正取得をした悪名のある2人を殺した。今は国会議員になっている1人は指名手配となり、軍や警察が何度も村に捜索に来て、兵士の発砲の中逃げたこともあるそうだ。その議員は今回のツァイティヤ・プージャー・ヤトラのスポンサーとなっている。マオイスト支持は篤い信仰心と全然抵触しないようだ。それもおもしろく思う。

 

テロ? 暗殺?

 元首相が殺害された。影響力の大きい人物であったこと、選挙演説中であったこと、銃撃という今の日本ではきわめて珍しい方法であったことで、衝撃的であった。だが、これは「テロ」なのだろうか?「暗殺」なのだろうか? 政治的主張がないところにテロはない。政治的反対者の抹殺をはかるのが暗殺である。その要件を満たしているのだろうか?

 犯人は統一教会に(非常にもっともな理由のある)恨みがあり、そのトップを火炎瓶で狙っていたという報道もあった。それを実際にやったなら、テロであると言える。だがこの銃殺事件は、むしろ京アニ放火事件や秋葉原無差別殺傷事件と同列で見るべきものではないか。それらの事件に比べれば、いささか政治色はある。無差別殺傷でなく、特定のターゲットを狙ったという点で、たぶん京アニ放火事件に近い。これらの事件に共通するのは、政治的主張なく、失うもののないいわゆる「無敵の人」の私怨の暴発であるということだ。失うもののある人には、それを失うことの恐れが抑止力になりうるが、失うものがない人には短絡的な暴発への歯止めが効かない。そういう「無敵」の男たちによる現代日本に典型的な事件のひとつとして考えるのが適当であると思われる。

秋葉原事件の処刑がこのタイミングで行なわれたことも、これらの事件が同じカテゴリーであることを示唆する効果になったのではないか。)

 

 事件後、マスコミや政治家たちは反射的定型的に、やれ「言論封殺」だの「民主主義への挑戦」「民主主義を守れ」だのというパロールを用いたが、ちょっと違うだろう。あの人の政権は、言論抑圧でこそないが、言論軽視ないし敵視が目に余る政権であったことを忘れてもらっては困る。NHKを脅して批判的な報道を封じていたし、一味には新聞社を兵糧攻めにして絞り上げようとする意図もあった。内閣法制局にも手を入れた。あの政権を代表する官房長官の記者会見はひどいものだった。質疑応答する気も能力もない。そんな討論能力を著しく欠く不適任者が名官房長官と言われ、後任首相にまでなった。アメリカの「フェイクニュース」大統領と親密だったのも、親和力が働いていたのだ。敵を作り、それを攻撃して支持を高める手法もそうだし。それが言論の対極である直接行動によって斃されたのは皮肉である。それも、歴代政権の生んだ現代日本社会の鬼子である「無敵の人」暴発によって。

 故人はひどいウソつきだった。政治家はウソをつくと決まっていて、バラの木にバラの花咲くみたいなものだから、多少のことで驚くほど世慣れなくはないが、ちょっと彼は度外れだった。オリンピック招致時の福島「アンダーコントロール」宣言は意図的なウソと言えるけれども(「国益」を考えた上でのことと酌量はできる)、だいたいは「口から出まかせ」とでも言うべき類で、口にしまりのない男だった。首相なのに総理大臣席からヤジを飛ばすのには呆れた。彼の「出まかせ」発言のつじつまを合わせるために、公文書破棄は茶飯事、あまつさえ書類の改竄が行なわれ、それによって自殺者が出た。自殺させた張本人とも言うべき役人は昇進した。あれを見て義憤に駆られない人は道徳感覚に欠けている。そんなことをする政党が道徳教育を云々しては、さらに義憤をかきたてさせるだけだろう。それも「民主主義」である、それを守れと言われても、シラケる人は多かろう。

 

 それでも、当人の言論に対する姿勢はどうあれ、これが政治的反対者を物理的に取り除く真正の暗殺であったなら、非難されなければならない。だが、「とばっちり」であり、しかもなかなかもっともな理由のある「とばっちり」だと、話は簡単でない。

 昭和には暗殺があった。戦前はもちろん、戦後にもちらほらと。政治的主張があったからだ。平成以後の日本は「暗殺者のいない国」「テロのない国」となってしまっていた。それは偉大な達成なのだろうか? いわゆる「無敵の人」による無差別殺傷事件の頻発を思えば、それを単純に喜ぶことはできない。

 この事件は、無節操に新興宗教団体に頼る「民主主義」(=票の獲得競争)政治家に対する警鐘となったという点では、政治を正す効果はあったかもしれず、自分より強い者を狙った点でも凡百の無差別襲撃事件とは一線を画す。動機が私怨であることを除けば、これまでの「無敵の人」諸事件より結果的に「テロ」「暗殺」にかなり近いとは言えるだろう。いずれにせよ、新興宗教との安易な結託や社会から零れ落ちた人たちの暴発をなんとかしなければ、と政治家はメッセージを受け取ったに違いないし、そうであれば彼の死も無駄にはなるまい。