フェルガナ日録(2)

9月3日、列車でタシケントへ。

9月4・5日、UJCで12月3日実施のJLPT試験の申し込みを代行。計26人。タシケントまで出向いて紙の申請書に記入して申し込みをしなければならないのだが、その前にオンライン登録をしていなければならない。それをしていなかった者がいたので、二度足を運ばねばならなかった。サインも代筆(つまり偽サイン)。受験料は現金払い。なつかしい20世紀のありさまが生きている。合格証明書の受け取りもタシケントで行なうので、つまり地方の人は、申し込み・受験・証明書受け取りと3回タシケントへ行かなければならないわけである。たいへんな負担だ。ホラズムの学習者など実質受験からの締め出しではないか。日本国内のIT化の遅れに外国をならわせているような光景だ。来年からオンライン申請ができるようになるそうだが、ぜひともそうしてもらいたいし、そうしなければならない。

9月10日、介護授業に備え、車椅子・ポータブルトイレなどを車でタシケントからフェルガナに運ぶ。

 帰りの車はたびたび休憩する。礼拝のためである。道筋にあるモスクに入って。建設中のモスクがいくつもあるし、みななかなか規模が大きい。カムチック峠にもモスクがある。これはそれほど大きくないが、村人のためとしては大きい。旅人のためであろう。礼拝が終わると、一時的に道が込む。

 アングレン郊外の道端で玉ネギの袋を積み上げて売っている。20-25キロ入り、バラ売りしない。腐るものでないので、袋買いする人が多いらしい。売り手は売り切るまでそこで車に寝泊まりするのだという。大陸風景である。

9月18-20日国際福祉専門学校の講師による介護授業。実際に介護を教えている教師の試験問題を使った授業は非常に有益だった。一方で、体調不良とかでタシケントでの器材実習は4回の予定のうち3回がキャンセルになってしまい、その時間が自由時間にあてられていた。次回はもっと若い教師を期待したい。

9月22・23日、コーカンドで国際クラフトフェスティバル。日本のブースでグラウンドゴルフの賞品を調達。九谷・有田の陶芸家も来ていた。

9月26・27日、タシケント特定技能介護試験を27人受験。

 介護日本語についてはだいたい予想どおりの合格者数(5人のみ)だったが、介護技能は期待していたほどでなかった(13人)。しかし、合格に1問足りなかった者が技能で4人、日本語で3人いて、彼らは次の試験では間違いなく合格するはずだ。また、コンピューターでの試験が初めてで、必要な操作ができずにひどい結果だった者も数名いたが、彼らも次はそんな間違いはしないから、そう悪い結果でなかったとも言える。

9月27日、国際交流基金から「特定技能制度による来日希望者のための日本語教授法研修」への招聘状が本校教師に届く。

9月末、旧Cグループから留学生1名が日本へ出発。

 

10月3・4日、タシケントアルフラガヌス大学で国際会議 «Bir Makon – Bir Yol» 開催。医療創生大学から副学長来訪し、発表。事務局長も同行し、両大学提携校となる。

 「国際」会議であるとはいえ、トルコ中の教授が集まったのかと思われるほどトルコ人に偏っていた。フランス人が1人、ほかにロシア人もいたけれど、そのほかは隣国カザフやキルギスの教師で、パンテュルキズム大会、日本人2人を考慮すればツラニズム大会の様相。

 夕方にはレストランを借り切り、民族楽器生演奏と歌や踊りつきのレセプションパーティーのごちそう。しかしビールはなかった。参加者はほとんどムスリムばかりだし、そもそもレストランのメニューにアルコール飲料はないのだ。トルコ人には酒を飲む人も少なからずいるが、公式には飲まない。試しにとビールを注文してみたら、外から買ってきて供された。20年前はいろいろなところでビールが飲めたはずだが、イスラム色が強まっている。酒飲みロシア人が少なくなったこともあろう。

10月3日、ウズベキスタン日本語教師に入会。年会費10万スム。

 10月からフェルガナ工科大学で日本語講座始まる。日本の会社がスポンサーとなった講座。N3以上が目標。それが達成できれば、卒業後建設やITの技術者として日本で働くのだそうだ。

10月21日、ウズベキスタン日本語教師会総会が開かれたと終わったあとに知らされる。この国ではありがちなことがまた起こった。一歩進めば鷹揚さに、一歩下がればいいかげんさになる境界地帯を漫歩するウズベク人の人生への向き合い方は決してきらいではないけれども。

10月25日、フェルガナ大学国際会議 «Current problems of modern linguistics and an innovative approach in teaching foreign languages» で計画中の漢字辞典について発表。

 本校の教師兼庶務係が車を売ったと聞く。いとこが韓国に働きに行くのに必要な金を立て替えるため。彼らは働いて返すそうだ。この国では一族の絆が強く、互いに助け合うのだということも知識として知っている。だが、その範囲がいとこまで、車の売却までとは驚きだった。兄弟や甥姪のためぐらいならわかるが。よい行ないだと思う一方、車がなくなってわれわれとしてはちょっと困るのだけども。

10月27日、受講生とグラウンドゴルフ

10月29日、女子サッカー五輪予選ウズベキスタン対日本の試合をタシケントへ見に行く。ウズベキスタンの監督は日本人。

 スタジアムの売店で「アンニョンハセヨ」とあいさつされる。日本の試合なのに、そのあいさつ。この国における韓国のプレゼンスの高さが知れる。語学学校でも、いちばん多いのは英語とロシア語の講座だが、韓国語講座も非常に多い。アラビア語も同じくらいあり、日本語は少ない。ただし、中国語講座が日本語よりさらに少ないのはおもしろい。アラビア語人気は、出稼ぎのためということもあろうが、コーランを読むため親が子供に習わせることも多い。イスラム復興現象のひとつだろう。

 語学学校の看板を見てもうひとつ考えさせられるのは、ロシア語講座の多さだ。20年前もロシア語が下手だったりできなかったりする人はいたけれど、当時はロシア語ができることは何ら特別なことではなかった。今はできない人が増え、あの頃占めていた「母語でも外国語でもない特別な地位」を失いつつあるようだ。ロシア語が「外国語のひとつ」になりつつある、ということだろう。

 そのあと、この日来着の農業会社の部長たち、農林業総合試験場副場長およびR氏と会食。キウィ花粉の事業。

10月31日・11月1日、農業会社一行がフェルガナへ。

 介護で日本へ行く予定だった者が、韓国の会社から招待状が届いたと言って、そちらに切り換える。給料が倍だからしかたがない。人材獲得競争に日本が負けつつある実態を実際に目の当たりにしたわけだ。日本人は昭和の自己認識から脱却しなければいけない。もうあのころの国力ではない。どうも、日本が輝いていた時代は、ソ連が存在した時代と重なるような気がする。一方の消滅が他方の不振を招いた、という関係性があるのだろうか?