明治日本?

 カトマンドゥの町を歩いていて目につくのは、私設の小さな学校の多さだ。オーストラリアやイギリスなどの英語圏や日本(最近は韓国も)への留学手続き代行をするコンサルタンシーなるもので、わずかひとつふたつの教室を構え、そこで入学許可を得るための外国語を教える。学校というより塾といったほうがよさそうなもので、働きながら通う者も多いため、朝仕事の始まる前や夕方に開かれる。夜学・朝学(?)というわけだ。それはちょうど明治初期の日本で漢学塾や英学塾が盛行していたのを思わせる。

 明治期の日本も盛んに欧米へ留学する者を送り出していたが、それも髣髴とさせるのではないか。日本の留学生は帰国して立身出世し、国を発展させるのに貢献した。ネパールの場合は要するに出稼ぎの一形態で、帰国して国を発展させているのかというとどうも心許ないが、現象的にはよく似ている。

 そして、田舎から首都に出て来る若者が多いためであろう、ホステルというのがたくさんある。寮であり下宿屋である。これもあちこちで目に入る。

 本屋も多い。間口狭く小さい本屋、カウンターで仕切られ店主に探している本を告げて出してもらう形のものが多いが、大きくはないながら中に入って手に取れるのもたくさんあり、なかなかおもしろい本の並んでいる店もある。とにかく数が多い。これだけの本屋がまがりなりにもやっていけるなら、そこそこ売れてもいるはずで、これも向学心があるらしいことをうかがわせる。今まで行った国には本屋などどこにあるのかとんと見当たらぬ町もよくあったし、第一今の日本がそうである。町の中小書店が姿を消してしまった現代日本の人々は、決してこれを嗤うことはできない。

 ネパールではまだ字体や正書法の統一が完遂されていないようだ。それも明治33年の字体統一以前のいわゆる変体仮名が当たり前に使われていた時代を思わせる。

 家も道も狭く小さいのも日本に似ている(ただしカトマンドゥの場合、狭いために上に伸びているのはだいぶ違う)。寺も小さい。日本のような本堂はなく、二重三重の塔の一階部分に本尊が安置されているような感じだ。その塔はだいたいがあまり高くないが、中には五重塔もある。露伴を思い出してもよかろうじゃないか。

 食べ物や雑貨を売る店も非常に小さいのが多くて、そんな陋巷の小さな店を見れば、樋口一葉がやっていたという店を思わずにはいられない。

 ネパール名物は野良犬で、これが非常に多い。昼間はだいたい寝転がっている。道の真ん中で堂々と寝ていて、通行人のほうがよけて通る。あんなに多くの犬がゴミをあさるだけで生きていけるとは思えない(ゴミは山ほどあるが)。中には丸々と太ったのもいる。見ているとやはりエサをやっている人がいるし、肉屋の前にたむろしていることが多い。屑肉を与えているのだろう。それでは、これは放し飼いのもっとも緩い形態ではないかと思えてくるのだが、どうだろう。ティハールの祭日には野良犬にも額に赤い印(ティカ)をつけ、花の首輪をかけてやるのだし。昔は日本も犬は放し飼いが普通だった。人と犬が共生しているさまは悪くない。排除でなく、包摂だ。

 信仰心でも似ている。基本的にヒンドゥー教の国だが、仏教徒もいる。というか、ヒンドゥー教を信奉しつつ仏教でもあり、仏教徒であってもヒンドゥー教崇敬の念もある、というような二重信仰である。ヒンドゥー教の寺に仏像が何こだわりなく安置してある。仏教はインドの宗教であるからヒンドゥー教の神々もその信仰の中に混じっているのだが(帝釈天のインドラ、弁才天のサラスヴァティ―のように)、ヒンドゥー教のほうでも仏教をしりぞけない。もともとともにインド発祥の宗教だから、このふたつが混在していても不思議はないという考えもできるかもしれないが、宗教的潔癖さを疑わせるものだ。そういう潔癖さに無頓着で、神仏習合して平気だった日本人にはむしろ好ましくさえ思える。習合でないまでも(それは明治維新で禁止された)、神仏共存は日本人がなに疑わず信仰するもので、ヒン仏共存のネパールのあり方は神社へもお寺へも詣でて祈って当然な顔をしている日本と同じだ。

 寺や路傍の祠が多いのがいかにも目につく。祠には毎朝お供えがしてある。子供や、そういうものからもっとも遠そうな若い男も、通りすがりに拝礼する(手で触れてその手を額と胸に当てる)。あれを見ると、タクシーに乗っていても神社仏閣の前を通るときは帽子を取っていた明治生まれの祖父を思い出す。家には必ず神棚ないし神を祀る小部屋があり(知人が新設した学校では、ゴミ箱を買うより早く神棚を買っていた)、毎朝それを拝み線香をくゆらす。それは毎朝お仏飯を供える日本の習慣に呼応する。今でもものがたい田舎の家ではやっていると思うが、江戸はもちろん明治の頃には都会地でもそうだった。お百度を踏んだりして、寺や神社は庶民に親しいものであったし、お地蔵さま観音さまなどの祠に香華は絶えなかった。「幼なじみの観音さまは/屋根の月さえなつかしや」と歌う東京音頭の一節のとおりだ。「日本人は宗教的でない」などという愚かしい言説が広まる以前の敬虔な日本人のあり方である。

 寺には小さな鐘があり、参詣人はそれを鳴らして神に知らせること、神社の鈴や寺の鰐口と同じである。お寺には履物を脱ぎ、裸足で入る。高床の日本では板張りの上で履物を脱ぐのに不思議はないが、インドやネパールでは地べたに裸足である。しかし裸足であることが崇敬と結びついているのはむしろ自然だと思う。

 家族親戚が死んだときの物忌み精進もよく似ている。そういうときは肉断ちをする。毎年命日にお勤めをするのは、一周忌三回忌などと特定の年の年忌をする日本より頻繁だ。日本でも、「まわりのまわりの小仏、なぜ背が低いな、親の日(親の命日)に赤の飯食って魚食って、それで背が低いな」のような子供の遊びの歌に見えるとおり、命日には精進しなければならなかった。

 祭りには山車や神輿の練り歩きがつきもので、と言うと日本の祭りの紹介のようであるが、その文章はそっくりネパールに当てはまる。京都の祇園祭や江戸の三社祭のルーツはネパールだ、などと説く人が現われてもおかしくない。

 そんな山車の出るカトマンドゥ一の大祭に、そこに乗っているのはクマリという生ける少女神だ。クマリには初潮前の少女が選ばれてなる。特別な館に住んで崇拝を受け、祭りにお勤めをする。初潮を迎えると任を退き、新しいクマリが選ばれる。かつてクマリだった女性(1984年から91年まで)が「回想 神から人間へ」という回想記(ラスミラ・サキャ/スコッ ト・ベリー、江崎秀隆訳、カトマンドゥ、2011)を出しており、その中で彼女は、「外国からの訪問者の中で特に私が好きな人達がいました。それは日本という国から来たと教えてもらった人達で、私が窓辺に現れると必ず拍手をしてくれました。彼らが私を見る様子から私は日本の人達に理解されているように思います」(p.28)とか、「私は日本人と私達ネパール人との間にはある種の「絆」がある様にも感じました。それというのもこの日本の人達が私個人と云うことでは無く、いつも私達の文化そのものを理解し敬意を払っていてくれている様に思えたからです。その文化の密接さという観点から云うと、ネパールは西洋に比べて日本により近いのではないかと思います」(p.162)などと言っている。いかにも、と思う。日本にもかつて天皇出雲国造、諏訪の大祝など、生き神とあがめられる人がいた。祭りの稚児などはまさにクマリにそっくりだ。心性に共通するものは大いにあるだろう。

 ネパール人はもちろん時間を守らない守れないが(もちろん!)、それはネパールに限らず実際のところ「世界標準」であるのだけれども、それを守ることにかけては自他ともに許して譲らない日本人もお里はどうだったか。幕末から明治時代初期に来日した欧米人は、日本人は時間にルーズだとことあるごとに指摘している。実は今も「出雲時間」などということばがある。時間通りに催しが始まらないことを揶揄ないし自嘲してそう言うのだが、なに、出雲地方だけでなく日本の田舎は今でも大なり小なりそうである。時を金と錯視するのは世界のごく一部に生じた腫瘍のようなもので、それは拡大しつつあるようだ。日本はいつごろからかそれにどっぷり冒され、今やその点で本家の西欧北米もしのいでいるありさまだが、少々さかのぼればネパールだ。

 明治日本を見たければ、ネパールを見よ。そう言ってもいいのではないかと思えるネパール生活である。人力車こそ走ってないが、リクシャと呼ばれる輪タクは今もなお現役だし。一葉女史が歩いているかもしれないよ。