中国覚え帳/満州三異人

終戦時の満州には150万人の日本人がいたというから、満州生まれ満州育ちの戦後日本人も大勢いるわけだ。小沢征爾など有名人も多い。しかし、たとえば加藤登紀子ハルビン生まれと聞くとなるほどと大いに感じ入るが、1943年生まれだから、そこに生まれただけで満州の記憶はほとんどあるまい。親はきっと満州生活の影響を浴びていて、その話を聞いて育つことで事後の記憶は形成されたかもしれないが。
そうではなくて、ものごころがついてのち、少年期、あるいは青年期まであの地に暮らし、はっきりと「満州育ち」と言える人の中で、いかにも「満州」だと思われる代表的人物は誰だろうか、と考えてみる。そうすると、文芸の分野では、安部公房別役実赤塚不二夫の三人が「三傑」ではないか、と思った。
この三人には共通する匂いがある。その作品は論理的だが、その論理がねじれている。あるいは、始まる前から論理が脱臼している。
乾いているのも大きな特徴だ。日本の風土の特性である湿気が感じられない。抽象性が高い。いわば無国籍、あるいは根無し草の感覚がある。
そして、演劇性が強い。劇作家の別役はいわずもがな、マンガは絵による演劇ないし映画表現と言える。安部公房は、日本の小説家の中で演劇に関わりが深かった点で三島由紀夫と双璧である。単に劇作が多いというにとどまらず、安部公房スタジオという演劇集団を作って活動してもいた。
さらに、この三人は満州時代についてほとんど書いていない。満州を売り物にする「満州屋さん」になっていない。安部公房は、いくつか文章はあるし、「けものたちは故郷をめざす」という敗戦後の満州が舞台の怪作を書いているが、彼の文業全体の中ではほんの一小部分だ。
満州国の日本人、特に俸給生活者たちは、周囲の「現実」、土や油や草の匂いの中で地に足をつけて彼らの確かな手ざわりの生活を生きていた人々から遊離して、囲われた小世界の中に暮らしていた。そしてその子供たちは、引き揚げを経て、祖国という名の異郷で故郷喪失者になった。そのような経歴がのちの人生に影響を及ぼさぬはずがない。
赤塚不二夫には自伝「これでいいのだ」があって、その中にはもちろん満州時代の思い出も書かれている。彼の父は特務警察官だったし、敗戦に遭遇したので、人が殺された場面も何度も見ている。感傷もなく淡々と、敗戦後それまで威張って中国人をいじめていた日本人が一家惨殺に遭ったという話がぽんと出てくる。逆に、中国人に親切だったり公正だったりした者は、戦後引き揚げまでの間に中国人に助けられたという話もよく聞く。敗戦の混乱は一種の人民裁判だったのだなと思う。剥き出しの「民主主義」でもあろうか。
敗戦前も敗戦後も、赤塚少年は中国人の子供といっしょに遊んでいた。ただ敗戦前は、彼は中国人の子供に「遊んでやるから、頭を殴らせろ!」と言った。敗戦後は、中国人の子供に「遊んでやるから、最敬礼しろ!」と言われた。そしていっしょに楽しく遊ぶ。民族の垣根はあるという原則と民族の垣根はないという、矛盾しているようで矛盾していないらしい原則が並存している。それに、どうも日本人のほうが粗暴であるようだ。
赤塚漫画のルーツが満州にあることは明らかだ。そして、同じことは安部公房別役実にも言える。失われてなお、満州は日本文化に貢献している。正確に言えば、失われたからこそ、だが。