昭和製鋼技術研究所

これはいいものだと思った。1930年代ぽいと思った。戦前の昭和製鋼所で働いていた家族の回想記にある簡単な昔の鞍山の地図を手に、かつての建物が今も残っているのか探し歩いていたとき、当時の技術研究所、新しいビルの並ぶ今の鞍鋼集団鋼鉄研究院の敷地の中に、古そうな建物がひとつあるのを見つけた。今は理化検験楼という名のその建物を見てそう思ったのだが、しかし、建築の専門家でもない者がそんなことを言っても、個人の感想にとどまる。
そこで、まず鞍鋼展覧館で建築年を聞いてみたところ、1948年という答えだった。そんなはずはない。それは激しい内戦の末共産党が国民党軍を破って製鋼所を手に入れた年だ。ソ連軍が工場の設備の3分の2をロシアに運び去り、内戦でも被害を受けて操業停止の状態、ようやく復興への第一歩を踏み出そうという時期だから、その年にこんな立派な建物が建てられるはずはない。おそらく建物でなく組織の話なのだろう。
製鋼所で重要なのは、一に生産、二に経営で、研究所など眼中になく、調べるのに苦労した。中国の本、「鞍山冶鉄文化」(瀋陽、2015)とか「鞍山城市史」(北京、1994)を見ても、日本時代の記述はきわめて少なく、だいたいこの時代は「瘋狂掠奪」で片づけられていて、研究所のことなど言及されない。研究については、梅根常三郎らによる貧鉱処理の還元焙焼法という会社を救う発明が有名で(ただし研究所がまだ独立した組織になっていない臨時研究部時代の発明、1921年)、それには中国の本でも記述があるけれど、研究所の建物となると付けたりのそのまた付けたりである。なので、宿題として日本へ持ち帰った。
康徳7年(昭和15年・1940年)刊行の「昭和製鋼所廿年誌」を見ると、「新装なれる研究所」として写真がある。これで日本人によって建てられたことがわかった。
1930年代という見立ても当たった。研究施設はさまざまな組織の改変を経ている。もともとは鉄道西側の製鋼所構内にあった。昭和8年(1933)に研究所として独立した。それ以降、康徳7年までの間の建築ということになるが、「新装なれる」と書いてあるところから踏んで、1940年の1、2年ぐらい前ではないかと考えられる。
ところで、越沢明「満州国の首都計画」(日本経済評論社、1997)に前川国男設計の昭和製鋼所事務所本館のコンペ当選案(1937)の写真が載っている。これが技術研究所によく似ている。「建築家前川国男の仕事」(美術出版社、2006)によると、同コンペで前川案は1等と3等に入選していて、平面図も掲載されている(なお、これには誤って大連としてある)。その後の戦争の拡大によるのであろう、結局建設されないで終わった。
満鉄は、木戸孝允の子息木戸忠太郎の地質調査によって鉄鉱が発見されたあと、鞍の形をした山の麓にある昔の鞍山(今の鞍山駅堡)の北5キロの広野、南北に走る南満洲鉄道の西側に工場を作った。鉄路の東側(鉄東区)には市街地と社宅を建設した。鉄東区はほとんどが日本人の居住区だったのだが、その一画に八卦溝という中国人街があった。ここはもともと中国人の集落があったところで、首山の戦いに赴く途中、のちの軍神橘中佐がここの農家の庭で露営したそうだ。そのころは数軒の家があるだけだったようだが、その由来から中国人がこの地区にまとまって住むことになったらしい。「鉄都鞍山の回顧」(満洲製鉄鉄友会、1957)によると、満州国建国と同時に八卦溝中国人集落の鉄西区移転が決定され強行されたという。1935年前後に中国人街の建設が始まり、終結時までにはほぼ移転は完了した。その跡地に新本社を建てる計画だったというから、そのための設計コンペが行なわれ、前川案が1等になったわけだ。たしかに平面図の敷地は三角形で、八卦溝の跡地とぴったり合う。そのころに研究所の新築も成ったのであろう。本館のデザインと類似しているのは、前川案を模倣したのか、あるいはこの設計も前川事務所に依頼したのか。後者なら中国に残る唯一の前川建築になるし、前者でも前川国男の影響として意義はある。
いずれにせよ、これはいいものだ。戦前の鞍山を代表する建築だと言ってもいいのではないか。鞍山の満鉄時代満州国時代の建築で残っているものは、市政府や製鋼所事務所「大白楼」は1階増築、満鉄医院(今の市中心医院)もファサードをかなり改変されている。この建物は、写真を見るかぎりでは、屋上に突き出す塔のような部分が短くなっているほかは、原形のままのようだ。また、建てられた当時の最新の建築理念(モダニズム建築)の反映ということでも、代表的建築とするにふさわしいと思う。ともあれ、素人の感想もけっこう当たっていたんじゃないか。