敗者たち、たとえばマニ教(2)

ヨーロッパ人の偏見につきあってはいられない。消えた敗者ではマニ教墨子教団などが好例だが、マニ教といえば「邪教」と烙印が押されている。一方で、兼愛非戦の墨子の教えは「古代の知恵」と見なす。マニ教にまとわりつく危険な邪教のイメージは、正統派キリスト教の対抗者として信者を奪い合う強力な「異端」「異教」であり「敵」であったからだ。そのあたりの事情を探ると、非寛容で戦闘的なキリスト教の実像がよくわかる(それは対イスラムについても同じだ。マニ教と違い、勃興ののち圧倒的な地位を築き、18世紀以降衰微の相を示してはいても、今なお一大勢力でありつづけているので、そうあからさまに荒唐無稽な攻撃はしないが、隠微な悪罵は西洋の骨髄にある。英語の受け売りを業とする者のイスラム論は、すべて悪性菌に感染しているものとして疑ってかからねばならない)。
墨子の場合は、西欧とまったく関係のないところで興亡し、ヨーロッパ人には19世紀ごろようやく知られただけであるから、彼らからの害毒には無縁である。死に絶えて書物中の存在となり、危険はないのだから、むしろ賞賛された。欧米人と同じかそれ以上に偏向の激しい中国人にとっても、紀元前に存在しなくなった教団にはさまで悪評を浴びせる必要はなかった。


墨家について、「漢書」芸文志の墨家の項には6つの書目が挙げられているが、そのうち今に伝わるのは「墨子」だけで、あとは散逸した。その「墨子」も、「漢書」には71篇があったとされているが、現存するのは53篇で、18篇が失われている。それは儒家道家の書にもあることだから問わぬとしても、戦国末まで「世の顕学は儒墨なり」(韓非子)と言われ、「墨翟の言、天下に満つ」(孟子)「二氏(孔墨)みな死すること久しきに、その従属するものいよいよ多く、弟子いよいよ豊かに、天下に充満す」(呂氏春秋)と記されたごとく、儒家と並んで世に盛んだったのに、秦漢統一帝国成立ののちはまったく衰え、というか絶え、「史記」にはわずかに「墨翟は宋の大夫であり、城を守り防禦する術にたけており、費用を節約する説をとなえた。あるいは孔子と同時代の人だといい、あるいはその後代の人だという」と書かれるのみであるのはどうしたわけか。
墨子」の内容は、一見互いの連関がよくわからない三つの部分に分けられる。政治思想を説く部分と、論理、守城術を扱う部分である。
彼の思想の大きな特徴をなすのは、兼愛と非攻である。現代のことばで言えば博愛不戦となる。非攻といっても、不義の軍に攻められた場合に防御するのは是としていて、それどころか守城の防御術の技術者として活躍していた(「墨守」という成語に見えるように)。第三部分はすなわちこれによる。
墨家のありかたは儒家に似ている。諸子百家中、弟子を集め集団を形成していたのは儒家墨家のみであり、墨子は旅行中の馬車にも多くの書を積み込んでいた読書人で、堯舜の道を唱え、「尚書」「詩経」など儒家が尊ぶ書を同様に尊ぶ。しかし、この二者が大いに異なる点が多くあり、兼愛がまずそれに当たる。儒家は近きより遠きに及ぼす愛を説くのであって(修身斉家治国平天下の順)、わが父は他人の父より愛すべきであり、つまり別愛だ。兼愛というのは禽獣の愛だと考える。奢侈を戒める節用も墨家の特徴だが、とりわけ節葬・非楽はまさしく儒墨の厳しく対立する点である。儒家は冠婚葬祭業者であり、音楽を重んじていた。また天志・明鬼も儒家と大いに異なる点で、墨子は天命を言わず、天志を語る。天命を言うのは運命論であるとして斥け、天を神のごとき意志のあるものと考えた。「怪力乱神を語らない」無神論的傾向の儒家とはまったく異なる有神論で、兼愛と合わせ、諸子百家中もっとも(あるいは唯一)宗教性が強い。宗教儀礼などのことが伝わらないのでしかとは言えないが、一種の宗教集団だったのではあるまいかとも思える。そして非儒篇では激しく儒家を攻撃している。
「その従属するものいよいよ多く、弟子いよいよ豊かに、天下に充満」していた墨家が、なぜ急速な消滅に至ったのか。彼らは一種の防衛戦請負業者となっていたので、戦国の世が終わり大統一帝国が生まれたあとでは用がなくなったということがひとつにはあろう。逆に、冠婚葬祭業者の儒家は、戦国のあとに活躍の場はむしろ広がった。戦乱から成り上がった漢の高祖劉邦に皇帝の地位の偉大さを教えた儒家の礼楽である。贅沢を禁じる墨家の教えも、戦国時代には人に響いただろうが、戦乱がおさまり天下をわがものとする皇帝が奢侈を追求する世となれば、時代に合わぬたわ言ともなったかもしれない。儒家が勝者となれば、墨家は敗者として消えるまで、という関係であっただろう。弾圧もおそらくは受けたであろう。ともかく、墨家は敗亡の道をたどり、「墨子」一冊を残してこの世から消えた。
かくて墨家の学統は絶え、「墨子」の書こそ存していたけれど、清まで2000年間考究する者はほとんどなく、注釈はなかった。「墨子」のテクストは難解である。そもそも古い文献には誤写や脱簡錯簡などがあるのが当たり前で、学統を継ぐ者が語釈解釈を加え、講述をして、伝承していくのである。その作業が2000年も絶えていれば、難しいのは当然だ。
それでも、この書が残っていたために、最終的に諸子百家のひとつとして、必読ではないにせよ古典の中に位置を占めることができた。完全に無害となり、書棚の中で埃をかぶりつつ、ときどきそこから取り出されるというありかたであるが、絶学の集団としてはまず望みうる最大限であろう(以上、「墨子」、森三樹三郎訳・解説、ちくま学芸文庫、2012および「墨子」、薮内清訳・解説、中国古典文学大系5、平凡社、1968)。


マニ教は典型的な敗者である。かつてヨーロッパから中央アジア、中国まで広がり、「第四の世界宗教」になりえた宗教だったが、遺跡遺構や文献残闕を残すのみで、跡形もなく消えうせた(中国福建省にもとマニ教寺院だったものがいくつか残ってはいるが)。
教祖マニ(216−277)はイラン人で、パルティア王族の家系だった。父が属したユダヤキリスト教グノーシス主義の洗礼教団エルカサイ派で育つ。その教義は、キリスト教(正統が確立する前、つまり正典と外典・偽典が峻別される前の、今の正典・外典・偽典が混然と信奉されていた時代のキリスト教)、特にそのグノーシス派を基礎に、ゾロアスター教・仏教などの教義が混淆した宗教で、ゾロアスター教に由来する二元論が大きな特徴になっている。もともとイラン人であるからゾロアスター教はよく知っていたし、西北インドへ旅したこともあって、インドの宗教を知る機会もあったようだ。
多くの宗教において、教祖はただ語る人行なう人であって、その言行を弟子が記録するところから教団が始まる、というのが宗教史上のよくある形だが、マニ教はそれとまったく異なり、「書物の宗教」として始まっている。マニ自身がみずから教義の根幹を著述しているのである。そのために文字(マニ文字)を考案してまで。彼の手になるのは、中世ペルシャ語による「シャープーラカーン」とアラム語による「生ける福音書」「生者の宝庫」「プラグマテイア(伝説)」「奥義の書」「巨人の書」「書簡集」「讃歌と祈祷」で、ほかに絵をよくした彼には絵画集「宇宙図(アルダハング)とその注釈」もあった。教祖がみずからの手ですべてを用意した独特な「人工的」宗教である。それらの書物は「シャープーラカーン」を除いて失われ、ただ題名と断片のみが知られる。
マニは自身を、数々の世に現われた預言者の最後の者と考え、「ゾロアスター仏陀、イエスの三人を継ぐ預言者の封印」といった。のちにイスラムムハンマドをそう呼ぶことになる。イスラムに先んじているわけだ。宣教は成功を収めつつあったが、ゾロアスター教を奉じるササン朝宮廷から迫害を受けて獄死した。架刑でこそなけれ、みずからの出自母体からの迫害によって死ぬところはイエスに似ている。


マニ教の教義を見る前に、まずそれを生む母胎となったグノーシス派とゾロアスター教の教義に触れよう。
2世紀に大きな勢力であったグノーシス派は、キリスト教の異端として知られるが、宗教性のうちのひとつの精神的潮流と見たほうがよく、それが当時興隆しつつあったキリスト教と結びついたものである。その神話は、たとえばヴァレンティノスによるとこうだ。「父、すなわち絶対的で超越的な第一原理は不可視であり、理解できないものである。父は仲間である思考(エンノイア)と結合し、ともにプレーローマ[充満]を構成することになる一五対のアイオーン[生ける神的原理]を生む。最後のアイオーンである知(ソフィア)は、父を知りたいという欲望のために目を曇らされて危機を招き、その結果、悪と情欲があらわれた。プレーローマから突き落とされて、ソフィアとそれがひき起こした常軌を逸した被造物は、劣った知恵(サジェス)を生んだ。そのうえに、キリストと伴侶の女性としての聖霊という新しいカップルが創造された。最後に、プレーローマは最初の完全性を回復して、イエスともよばれる救世主を生む。救世主は低次の領域に下って、より低次の知恵から生じた質料的な要素で「目に見えない物質」を形成し、心的な要素で造物主、すなわち「創世記」の神を造る。「創世記」の神は高次の世界の存在を何も知らず、自分自身を唯一の神であると考えているのである。彼は物質世界を創造し、息でそれに生気を与え、「質料的な人間」と「心魂的な人間」という二種類の人間を形成する。しかし、霊的な要素はより高次の知から生まれて、造物主に知られずにその息のなかに入りこみ、「霊的存在」の階級を生むのである。物質に捕らわれたこれらの霊的な分子を救うために、キリストはこの世に降下し、厳密な意味では受肉することなく解放をもたらす知識を示す。このように、霊的存在だけが霊知(グノーシス)によって覚醒され、父のもとへ昇っていくのである」(エリアーデ世界宗教史」4、柴田史子訳、ちくま学芸文庫、2000、p.239)。
ゾロアスター教は、世界を善神アフラ・マズダーと悪神アングラ・マインユの争闘の場と見る。「まことに、はじめに二つの霊があり、彼らは対をなすもので、戦っていると知られている。思考や言葉や行動において彼らは二つ、つまり善と悪である…… この二つの霊が初めて邂逅した時、彼らはそれぞれ生と非生を創造した。そして最後には、虚偽(ドゥルグ)に従う者たちは最低の存在になり、最上の住居は正義(アシャ)を保持する者たちへ与えられる。この二つの霊のうち虚偽に従う方は最悪の行動を選び、最も堅い石(天空)に覆われている最も聖なる霊は、正義を撰んだ。アフラ・マズダーを、正しい行為でいつも満足させる人は、(すべて正義を撰ぶであろう)。[ヤスナ・30・3−5]」(ボイス「ゾロアスター教」、p.58f.)。
ゾロアスターの根本的な教義の多くは、次第にエジプトから黒海までの全地域に伝播するようになった。/すなわち、創造主である至高神がいること・彼と対立し彼の支配下にはない悪の力が存在すること・この悪の力との戦いを助けるために、多くの下位の神々が創られたこと・この世界は目的があって創造されたこと・現状ではこの世界は終末をむかえること・この終末は宇宙の救世主が予告し、彼がその完遂を助けること・その間には天国と地獄が存在し、個々の魂は死んだ時に運命を決める個別の裁判があること・時の終わりには、死者のよみがえりと最後の審判があり、邪悪なものは消滅すること・その後神の王国が地上に来たって、正しい者は庭園(「楽土」のペルシア語)に入るようにこの王国に入り、そこで神の前で永遠に魂と同様肉体も不死となって幸せになること、などである」(同、p.157f.)。これらの多くはユダヤ教キリスト教イスラム教に採り入れられたので、われわれにもなじみがある。日に5回祈ることもゾロアスター教からイスラム教に入った。だが、善悪二元論だけは独自である。拝火教とも言われるような火の崇拝や、死体を裸で遺棄し鳥獣に食わせる風葬のやりかたも目につく特徴だ。「個人の救済は、その人の考えや言葉や行動の総量によるもので、いかなる神も、同情や悪意によってこれを変えることはできない。… 各人は自分の魂の運命について責任をとるだけでなく、世界の運命についての責任も分かたなければならないとされた。ゾロアスターの福音は、このように高尚で努力を要するものであり、受け入れようとする人々に、勇気と覚悟を要求するものであった」(同、p.74)。そのことの卑小な例が、ペルシャ人は「犬と人間以外はどんなものでも殺し、蟻や蛇、這うものも飛ぶものもすべて無差別に殺し、そのことをたいへん誇りにしている」と書くヘロドトスの驚きである(同、p.156)。それら悪の創造物を殺すことは善霊を助けることになるわけだ。


これらを踏まえた上で、マニ教の神話をエリアーデの要約によって見てみよう。
「はじまり、すなわち「前時代」においては、光と闇、善と悪、神と物質という二つの「資質」ないし「実体」が、境界線によって隔てられる形で共存していた。北は偉大な父によって支配され、南は闇の王子に支配されていた。しかし、物質の「秩序を乱す働き」が、闇の王子を王国の北の境界へと追いやった。光の輝きを見て、王子はそれを征服したいという欲望をかきたてられた。北の父が敵を撃退しようと決意したのは、そのときである。王は、自分自身のうちから生命の母を「よびだした」、つまり投影したのである。そして、次に彼女が、新しい実体である原初的人間(イラン的な変換においてはオフルマズド)を投影した。実際、五つの光から作られた「霊魂」と「甲冑」である彼の五人の息子とともに、原初的人間は境界に降りたった。彼は闇に挑戦したが、征服された。そして、息子たちは悪魔(アルコーン)によって奪われた。この敗北は宇宙の「混合」のはじまりを記すものとなったが、同時に、神の最終的な勝利をたしかなものにする。というのも、闇(物質)はいまや光の一部 ― すなわち聖なる霊魂の一部 ― を所有し、父は救済の用意をしながら、同時に闇に対する決定的な勝利を準備しているからである。
第二の創造において、父は生きた霊魂を「よびだした」。その生きた霊魂は闇の世界に降り、原初的人間の手をとって、彼を「光の王国」である天界の故郷にひき上げた。悪魔的なアルコーンたちを圧倒した生きた霊魂は、その皮膚から天国を、骨から山を、肉と排出物から大地を作った。さらに彼は、闇との接触によってそれほど損なわれなかった部分から、太陽と月と星を創造することによって最初の光の救済を行なったのである。
最後に、父は最後のよびだしにとりかかり、発散によって「第三の使者」を投影した。第三の使者は、まだ捕われていた光の分子を集める。つまりは救うために、宇宙を一種の器械の形に組織する。月のはじめの二週間のあいだ、分子は月に上がり、満月になる。月の後半は、光は月から太陽に移動して、ついには天界の故郷にいたる。しかし、悪魔に呑みこまれた分子がまだ残っている。それから、使者は目もさめるような全裸の乙女の姿をとって、男性の悪魔の前に現われた。一方、女性の悪魔には、この使者の姿はハンサムな全裸の青年に見えたのである。欲情にかきたてられて男性の悪魔たちは精子を放ち、それとともに、呑みこんでいた光を放つ。精子は地に落ちて、あらゆる植物が生じた。すでに身ごもっていた女性の悪魔は、ハンサムな若者を見て奇形児を生んだ。その子は地に捨てられ、木々の芽を食べて、自分のなかに含んでいた光と同化するのである。
「情欲」として人格化した物質は第三の使者の戦術を警戒し、いまだに捕らわれている光の分子の周りに、いっそう強固な牢獄を作る決心をした。男女二人の悪魔は、光全体を吸収するためにすべての奇形児をむさぼり食い、それから交わった。このようにしてアダムとイヴが生まれたのである。(…)
しかし、光の大部分はアダムに集められたので、彼はその子孫ともども救済の主たる対象となるのである。終末論的なシナリオが繰り返される。原初的人間が生きた霊魂に救われたのとちょうど同じように、堕落し、無知であるアダムは、オフルマズドないしは「イエス、光」と同一視される救世主、すなわち「神の子」によって覚醒される。救済をもたらす知性の化身(「ヌースの神」、「ヌース」)は、闇のなかで迷って鎖につながれてアダムの内に閉じこめられた、自分自身の霊魂を救いにやってくる。グノーシス派の他の思想体系におけると同様に、救済は三つの段階を含む。覚醒、救いをもたらす知識の啓示、記憶回復である。「アダムは内省し、自分が何者であるかを知る」。そして、「祝福されたものの魂は再び知性に溢れ、生き返った」のである。
このような救済のシナリオは、現在と未来の霊知をとおしてのすべての救済のモデルになった。この世の終わりまで、光すなわち聖なる霊魂の部分は、この世 ― 人間や動物の身体や植物 ― に閉じこめられたままの他の部分を「覚醒」、つまりは救済しようとするのである。(…)光の分子、つまり祝福された死者の霊魂は、月と太陽という「うつわ」によって絶えず天の楽園へ運ばれて行く。しかし一方で、最終的な救済は、マニによって示された道を進まないもの、つまり生殖をやめようとしない者のために遅らされている。光は精子に集中しているので、生まれた子供は各々、聖なる分子の捕囚を長引かせることにしかならないからである」(p.252ff.)。
「終末の大団円である第三の時」の「ドラマは一連の恐ろしい試練で始まり、それに正義の教会の勝利と最後の審判が続き、霊魂はキリストの法廷(ベーマ)の前で裁かれる。短期的な支配のあと、キリストと選ばれた民とすべての人格化された善は、天国に昇っていく。世界は一四六八年間続く擾乱によって覆われ、浄められて、消滅することになる。光の最後の分子は集まって「像」になり、天国に昇っていく。物質はそのすべての人格化、悪魔とその犠牲者、呪われた者とともに、一種の「球」(ボロ)の中に閉じこめられて大きな穴に捨てられ、岩で密閉される。このとき、闇は二度と光の王国に侵入することができなくなるので、二つの実体の分離が決定的なものになるのである」(p.256)。
つまり、「人間は物質でありながら、アダムとイヴの子孫として大量の光の本質ももっているという矛盾した存在である。マーニーは、人間は「真理の道」に従ってグノーシスをえ、現世の救済に貢献すべきであると説いた。つまり、人間には自分のなかの救われるべき本質を自ら救わねばならないという使命がある。(…)マニ教徒であることには、極めて道徳的で清浄な生活を送り、かつ、壮大な宇宙の戦いに参画しているという充実感をえられるという魅力があったといえるだろう」(山本由美子「マニ教ゾロアスター教」、山川出版社、1998、p.37ff.)。


マニ教は、仏教やジャイナ教の出家と在家のように二つの階層からなる。キリスト教の修道士と平信徒とも似ている。出家者(「撰ばれた者」)に課される五戒は、真実・非暴力・禁欲・口の清潔(菜食。肉・酒・乳製品禁制)・清貧である(タルデュー「マニ教」、白水社、2002)。したがって出家者は生産活動に携わることができず、平信徒(「聴聞者」)によって支えられねばならない。輪廻転生の教義も認められ、平信徒は来世によいものに生まれ変わり、いずれ「選ばれた者」になって、天国に行くことが期待される。仏教やジャイナ教の教理の輪廻とそれからの解脱との類似が感じられる。五戒も、ジャイナ教の五戒、不殺生、真実語、不盗、不淫、無所有(衣服にまでも及ぶ。いわゆる裸形外道である)とほぼ同じである。ジャイナ教の場合、虫を殺すのを避けるため口を白布で多い、手に払子を持つこともある。断食死を理想ともしている。物質と現世を否定するマニ教は、仏教からの影響が云々されるが、むしろジャイナ教と比較されるべきだろう。「撰ばれた者」がまとう白衣もジャイナ教と共通だ。


結果として滅び去ったのだから、その歴史が心楽しいものであるはずはない。
ローマのディオクレティアヌス帝の迫害はキリスト教徒とともに受けた。原始キリスト教がそう言われてきたように、秘密めいたセクトが受けがちな嫌疑をもたれ、「悪魔崇拝、人身御供、占いの際の人間の頭蓋骨の使用、性的狂乱を行っていると非難されてきた」(ストヤノフ「ヨーロッパ異端の源流」、平凡社、2001、p.167)。キリスト教が体制になれば、彼らからそう疑われるのである。要するに体制宗教と危険な反体制宗教の関係性であって、もしマニ教が覇権を得れば、キリスト教はじめ他宗教はどう扱われただろうか、ということは考えてみてもいい。
彼等自身の書いたものは偶然残ったわずかな例外を除いて、要するに「敵」の書いたものばかりだから、その像は当然歪んでいる。キリスト教では教父とあがめられる聖アウグスティヌスは若い頃マニ教徒で、キリスト教に改宗したあと、マニ教反駁の文を書いた。のちに起こる10世紀バルカンのボゴミール派、12・3世紀南仏のカタリ派のような二元論異端は、正統派キリスト教によって激しく弾圧根絶された。ヨーロッパ人に特徴的なのがイデオロギーによる弾圧である。残虐さは人類に普遍的と言えるが、寛容さの欠如はヨーロッパの特質だと断言してもいいのではないかと思われる。彼らの「イデオロギー的残虐さ」の最初期の発現がこのカタリ派弾圧であった。
マニ教は唐代中国にも伝来し、ウイグル人マニ教に改宗した。9世紀に西域に成立したいわゆる天山ウイグル王国では国教の地位にあった。テュルク系遊牧民のこのようなマニ教受容は奇観であるが、同時代に他のテュルク系民族ハザール人がユダヤ教に、ブルガール人がイスラム教に改宗したこととあわせ考えるべきである。そのコンテクストの中にある。近隣民族と異なる宗教、遠く離れた宗教を受け入れて差別化をはかるねらいがあったのであろう。いずれにせよこの部分はマニ教史の数少ない、唯一かもしれない安息の時期で、やがてウイグル人の間での地位も仏教やイスラム教に押され、王国自体が滅んだあとは、砂漠の中に文書を遺すだけであった。
マニ教は中国で最後に姿を現わす。宋・元代の浙江・福建に現われた明尊教・明教がそれで、弥勒信仰と混淆し、白蓮教に流れ込んだらしい。白蓮教徒の起こした紅巾の乱から朱元璋が王朝を建てるが、それが明を名乗るのは明教に由来するとの説がある。
ヨーロッパのキリスト教ペルシャゾロアスター教(のちにはイスラム教)など、覇権を握ったどの宗教からも危険な異端と見なされ弾圧され、しっかり足場を築いた天山ウイグル王国が滅びたのちは消滅の道を行くだけであった。中国南東部にも信者を得たが、宗教のありかたがまったく西方とは異なる中国ではもとより大勢力にはなりえず、社会不満を吸収し、反乱の母体となる秘密結社を形成するというきわめて中国的なありかたをしていた。もとマニ教の寺院はこの地域にいくつか残っているが、一風変わった仏教(摩尼光仏)ないし道教老子化胡)の寺院として存続するだけだった。
なお、この世界の善事悪事を直日神禍津日神の働きと考えた本居宣長(「凡て此世中の事は、春秋のゆきかわり、雨ふり風ふくたぐひ、又國のうへ人のうへの、吉凶き萬事、みなことごとに�撥の御所爲なり。さて�撥には、善もあり惡きも有て、所行もそれにしたがふ」。「禍津日神の御心のあらびはしも、せむすべなく、いとも悲しきわざにぞありける。(…)かの善人も禍り、惡人も福ゆるたぐひ、尋常の理にさかへる事の多かるも、此神の所爲なる」―「直毘霊」)と、それを一歩進めた林桜園(神風連の思想的指導者)の思想は、かなりゾロアスター教に似ている。世に善悪があり、「善人も禍り、惡人も福ゆるたぐひ」をただ善神悪神の作用と説くだけの宣長から進んで、桜園は「顕界の人が人事を尽せば、その努力は幽界に反映し、直神禍神の闘争において直神の有利に作用する」(渡辺京二「神風連とその時代」、洋泉社、2011、p.126)とした。
この類似はどうしたものか。二元論というものはどこでもありうる、という一般論で片づけていいのか、あるいはマニ教の図像が大和文華館所蔵の絵などにある(青木健「マニ教」、講談社、2010)ことから見て、マニ教が中国から伝わっていて、その影響が及んでいたとするべきか。後者とすれば非常におもしろいが、それを証明する手立てはないだろう。なお、その教義は神風連とともに消えた。平田篤胤は師宣長の直日神禍日神を和魂荒魂と解釈しなおし、荒魂はけがれがあれは怒り荒ぶり、道理に合わぬ曲事をもするが、けがれがなければ恵みさえも与える、と説いた(篤胤にも二元論があるが、それは顕界幽界の二元論である。善悪、霊肉、顕幽、さまざまな二元論がありうる)。


このように、滅びた宗教であり断片的にしか資料が残っていないのに、それを集めて再構成し考究している学者たちの努力には敬服する(彼らはだいたいが滅ぼした側の後裔だけれども)。個人的には、まだ存続しているゾロアスター教や、失われたものではグノーシス派に魅力を感じるが、マニ教で心を奪われるのは、失われてしまったという事実そのものである。それを調べて何か物質的に得られるものがあるわけではない。せいぜい伝奇小説が書けるぐらいなものだ。ただありし日の壮麗さを感じ、すべて敗れ去ったものたち、敗れ去りつつあるものたちへの思いを沈潜させるだけである。私もそちらの側にいるのだから。
歴史はなるほど語っている。だが、その語りの背後には、厖大な語られない世界、敗者たちの「失われた世界」があるのだということを忘れてはならない。