ドイツ歳時記

思えばもう三十年以上の昔になる。南独やスイス、オーストリアの田舎を年中行事を調べにせっせと歩きまわっていた頃、茂吉の紀行や19世紀ドイツ作家の文章を道しるべにしていた。彼らやその他の日本人留学生の日記随筆から歳時習俗に関する部分を取りまとめてみると、ああ、たしかにこうだった、となつかしく思う。彼らの見たのは十九世紀後半から二十世紀前半のありさまで、私の歩いていた頃とは半世紀も一世紀もへだたっているのに、なおそんな感じを抱く。おそらく、写真と眼の違いなのだろう。写真はそこにあるものをすべて写し取るが、めは見たいもの、見る価値のあるものだけを見る。心に感じ筆に記されるのは眼が見たもので、そこには万古不易がそしらぬ顔でしっかと坐している。四季は温帯の恵みで、年中行事は四季のめぐりのたしかな里程標だ。中世の先祖も古代の先祖も、そのまた古代のご先祖たちも、年の移りに節目をつけていたのだ。そしてそんな祭日には、人々はみんな子供になる。でなければ老人になる。子供と老人は、本質をいとおしみ、無用のものを捨象する。変わりつつ変わらないのも、そう考えれば納得できる。今のようすは知らない。知らなくてもいい。それはこの老朽の人の務めではない。筆者はただ、親のそのまた親たちのしてきたこと見てきたことを、年のめぐりに沿って、子供のように、または老人のように、しるすだけで満足する。
一年の歳時習俗を順を追って見ていく前に、ドイツの四季についておおよその印象を得ておくことにしよう。それには鴎外の小説で五条秀麿が母親に答えて要領よく語っているところを聞けばよい。


ニ三月の一番寒い頃も過ぎた。お母あ様が「向うはこんな事ではあるまいね」と尋ねて見た。「それはグラツトアイスと云つて、寒い盛りに一寸温かい晩があつて、積つた雪が上融をして、それが朝氷つてゐることがあります。木の枝は硝子で包んだやうになつてゐます。ベルリンのウンテル・デン・リンデンと云ふ大通りの人道が、少し凸凹のある鏡のやうになつてゐて、滑つて歩くことが出来ないので、人足が沙を入れた籠を腋に抱へて、蒔いて歩いてゐます。さう云ふ時が一番寒いのですが、それでもロシアのやうに、町を歩いてゐて鼻が腐るやうな事はありません。暖炉のない家もないし、毛皮を著ない人もない位ですから、寒さが体には徹へません。こちらでは夏座敷に住んで、夏の支度をして、寒がつてゐるやうなものですね。」秀麿はこんな話をした。
桜の咲く春も過ぎた。お母あ様に桜の事を問はれて、秀麿は云つた。「ドイツのやうな寒い国では春が一どきに来て、何の花も一しょに咲きます。美しい五月と云ふ詞があります。桜の花もないことはありませんが、あつちの人は桜と云ふ木は桜ん坊のなる木だとばかり思つてゐますから、花見はいたしません。ベルリンから半道ばかりの、ストララウと云ふ村に、スプレエ川の岸で、桜の沢山植ゑてある所があります。そこへ日本から行つてゐる学生が揃つて、花見に行つたことがありましたよ。絨毯を織る工場の女工なんぞが通り掛かつて、あの人達は木の下で何をしてゐるのだらうと云つて、驚いて見てゐました。」
暑い夏も過ぎた。秀麿はお母あ様に、「ベルリンではこんな日にどうしてゐるの」と問はれて、暫く頭を傾けてゐたがとう〱笑ひながら、かう云つた。「一番詰まらない季節ですね。誰も彼も旅行してしまひます。若い娘なんぞがスヰツツルに行つて、高い山に登ります。跡に残つてゐる人は為方がないので、公園内の飲食店で催す演奏会へでも往つて、夜なかまで涼みます。大ぶ北極が近くなつてゐる国ですから、そんなにして遊んで帰つて、夜なかを過ぎて寝ようとすると、もう窓が明るくなり掛かつてゐます。」
彼此するうちに秋になつた。「ヨオロツパでは寒さが早く来ますから、こんな秋日和の味は味ふことが出来ませんね」と、秀麿は云つて、お母あ様に対して、ちよつと愉快げな顔をして見せる。
森鴎外「かのやうに」


これはベルリンの話である。ドイツといってもいささか広くはあるけれど、まずこれくらいに考えておけばいいだろう。寒いついでに冬から始めようか。


僕は水際に近く下りて立つた。ドナウは一面に雪を浮べて流れてゐる。そして絹の布を擦るごとき音を立ててゐる。それは断続する音ではなくて、平等にきこえる不断の音である。寂しさに似た、きびしさに似た一種不可思議の音である。
その時僕は、河面のあの一めんの雪は、河面に降つた雪を載せてドナウの水が流れてゐると、かう思つたのである。そのうち月日は経つて、僕は墺太利を去つた。巴里に来て、僕は南極探検の活動写真を見た。そして其時僕は忽然として悟るところがあつた。彼のドナウの河面の雪は、天から降つて流れてゐるのではない。あれは、ドナウが氷りながら流れてゐるのである。あの寂しい音は、氷るながれの音であつた。
斎藤茂吉「ドナウ」(『滞欧随筆』)


何とも寒い話だが、こんな寒い冬にも冬だからこその楽しみがある。その第一は、言うまでもなく降誕祭、クリスマスだ。


独逸でのクリスマスを思い出します。
雪が絶間もなく、チラチラチラチラと降って居るのが、ベルリンで見て居た冬景色です。街路樹の菩提樹の葉が、黄色の吹雪を絶えずサラサラサラ撒きちらして居た。それが終ると立樹の真黒な枝を突張った林立となる。雪がもう直ぐに来るのです ― そしてクリスマス。
バルチック海から吹き渡って来る酷風が、街の粉雪の裾を斜に煽る。そして行き交う厚い外套と雪靴の街、子供達の雪合戦の街、橇の其処にも此処にも散ばる街 ― その街はクリスマスの仕度の賑わう街なのです。処々どっしりした旧独逸の高級品屋が在り、柵を引しめる棒柱のように見えるので、下品には決して墜さないで、あとは軒並みの戦後独逸の安物屋、街のかみさんや、あんちゃん、ねえちゃんといった処へ、時々素晴らしい毛皮の令嬢奥様も交った調和が、かえって淋しく品の好い高級品屋の店頭より綺麗なのです。電燈までが安値に心易い光をそれらの人達にきらきら浴びせる美しさ、そして暖かさ、みなクリスマスの買物の人達を見せる光景です。それが殆ど軒並みなのです。
菓子屋の店を覗く。豚のびっくりするような大きいチョコレート菓子可愛ゆい麦粉菓子のヒヨコ、馬鈴薯が本物かと思ったらやっぱり何かを練ってつくったお菓子なのです。それらの間をつづってオリーブのつくり葉が、金銀のモール線を綾なして居るのは、どこでも同じしつらえではあるが、独逸はやっぱり独逸らしい。靴屋の安売 ― 運動靴に、平常靴に、雪靴に、金と赤のイヴニングシューズまで寄せて一円五十銭也と括りの紐の結び目に正札で下って居ます。
― 嘘ではないの、こんなに安く売っては儲からないでしょう。
と言うと、靴屋の主人気むずかしい顔で愛嬌よく笑って、
― ほんとうですとも、いくらだってクリスマス前に売っちまわなけりゃあ、これが今の独逸の「クリスマス値段」ですから。
そうしてみると、日本の大晦前のような財政情況なのかな、と私は覚りました。花屋の店の氾濫、カード屋のカード字も独逸風のややっこしい装飾文字が太く賑やかに刷られて居るのも、他の国のとは自然違う感じです。
道端、街角、寸隙の空地、あらゆる所に樅の小林が樹ちます。ベルリン郊外の森林から伐り出して来るのです。世界で一番ベルリンがクリスマスツリーを、氾濫させるのだそうです。多く質朴な農夫の夫妻らしいのが、番をして売って居ます。絶えず降り積もる雪が地面にたまって根の無い樅を挿し並べて幹を直立に保たせて居るのです。
さて、いよいよ私がベルリンで経験したクリスマスの当日になりました。朝、一番早く私の扉をたたいたのは、家主の娘さんでした。娘さんは、国から国へ渡って歩くレヴュー・ガールでした。娘さんは、その時スイッツルの雪娘に扮する時の着物を着て来ました。純白に襞の多い着物と、頭の白い花の冠が非常によく似合い、私に持って来たクリスマス・プレゼントのチョコレートの箱の飾リボンの縁が、清楚にうつり合った色彩は、私に思わずつかつかと傍へ寄らしてしまったような、好もしい感じを与えました。だが娘さんは、私に箱を与えると、いつもの懐しげな様子に似ずどんどん早足に帰ろうとします。私はお返しが上げ度くも気がせいて、手近に有合せの日本から持って行ったものを、一つかみにしてあとを追いました ― 猫の毛でつくった日本の細筆三本、五色のつまみ細工の小箱一つ、桜の縫いのしてあるハンカチ一枚 ― あとで考えても、おかしな贈物でした。直ぐあとから、こつこつ可愛らしい靴の足音がして、パン屋の七つになる女の児が、パンとお砂糖でつくった猫を持って来て呉れた。猫の首まきへ私がいつか教えてやった日の丸を真似てこしらえた小さな日章旗と独逸の旗を二本挿して来た。そして ― おねえちゃま(外国人には東洋人の年齢がなかなか解らない)はい、クリスマス ― と言ってさし出しました。私はあんまり可愛ゆくなって、日本から持って行った藤の花を描いた日傘を挿しかけて返して上げた。これもあとから思えばおかしな贈物。…
諸嬢と市中へ行く。世界的百貨店、ウェルトハイムの大飾窓に煌めく満天の星、神木の木の下の女神を取巻く小鳥、獣類、人間の小児、それらを囲る幽邃な背景が、エンジンの回転仕掛けで、めぐる、めぐる。次はヘルマン・チェッツ百貨店の二三町もあり相な延大な飾窓は、殆ど実物大の小屋の数層を数多見せ、サンタクロースが壮厳にある屋根から降りつつ見る下の此処彼処の家に、小児が贈物を待ちつつ眠るところ、何れも豪華に独逸の精力的な重大性を見せたものです。
岡本かの子「伯林の降誕祭」


新村出もベルリンに留学しており、広場に出ているクリスマスツリーを売る店を詠んだ句がある。


売れ残る樅に雪積む師走かな
聖誕祭のまぢかき頃、わが住えるあたりの場末の即景なり。
新村出「伯林冬籠抄」


一冬、茂吉は山間の村へ降誕祭の休暇を過ごしに出かけている。ドイツの居酒屋旅館兼業の食堂というものは、素朴かつ実質的、まことにドイツ的な感じがする。ちょっと寄り道だが、彼が山中のそういう食堂に立ちよった部分を書き抜いてみよう。


午後の一時近くになつてゐたであらうか。僕等は峡間の一軒屋に辿りついた。そこにはもうさつきの橇を引いた樵夫等が到著して、屋外の雪の上に乾草を存分に置いて馬と牛に食はせてゐた。なかに前脚で雪を掻いてゐる馬がゐたが、深雪で土があらはれない。牛馬等は香の高い乾草を食ひ快く糞をし小便をして白雪をよごしてゐた。そこに大きな犬が居つて、別して僕等に吠えようとはしない。二人はその一軒家に入つて行つた。屋内はうすぐらく、さきほどの連中はもう麦酒の大杯を傾け、声高にあらあらしく嬉しさうに話込んでゐた。二人は窓際の明るい卓に行つて午饌を注文した。屋内を見ると、鹿の角だの、羚羊の角だのが壁一ぱい飾つてある窓の硝子は二重になつてゐて、隙間のところには苔蘚を一ぱいつめてあつた。家は丈夫な板と丸太で固めてあり、陰鬱のやうでゐて、何だか閑趣と安定とがあつた。汁も肉も非常に塩辛く、僕は驚きながらそれを啜つた。が、気が妙に落著いて来て、麦酒の大きいのを飲干したのであつた。耶蘇と聖母とを飾つた小さな龕も古び煤けてゐるが、耶蘇の降誕を祭つた樅の枝と、蔦などが未だ乾からびずに残つてゐた。連中は一杯機嫌で牛馬を励ましながら出発した。維也納生れの娘は、ここの汁をも旨さうに啜つた。柱時計は鳥の啼くやうな声を立てて一時半を報じた。
斎藤茂吉「ゲゾイゼ谿谷」(『滞欧随筆』)


女性連れだったのである。
クリスマスから一週間もすれば大晦日になる。正月元日はただ業務休みの日というだけでなんら祭日らしいところはなく、新年を迎える大晦日の夜十二時にかけて大騒ぎをするのが歳時記のトピックをなしている。


この大晦日の晩十二時に日本へ送る年賀状を出しに出ました。町の辻で子供が二三人雪を往来の人に投げつけていました。市役所のへんまで行くと暗やみの広場に人がおおぜいよっていて、町の家の二階三階からは寒いのに窓をあけて下をのぞいている人々の顔が見える。市役所の時計が十二時を打つと同時に隣のヨハン会堂の鐘が鳴り出す。群集が一度にプロージット・ノイヤール、プロージット・ノイヤールと叫ぶ。爆竹に火をつけて群集の中へ投げ出す。赤や青の火の玉を投げ上げる。遅れて来る人々もあちこちの横町からプロージット・ノイヤールと口々に叫ぶ。町の雪は半分泥のようになった上を爪立って走る女もあれば、五六人隊を組んで歌って通る若者もある。巡査もにこにこして、時々プロージットの返事をしている。学生が郵便配達をつかまえて、ビールの息とシガーの煙を吹きかけながら、ことしもまたうんと書留を持って来てくれよなどと言って困らせている。プラッツのすみのほうに銅壺をすえてプンシュを売っている男もありました。寺の鐘は十五分ほど鳴っていました。帰って寝ようと思ったら窓の下でだれかプロージット・ノイヤールと大きな声がして、向こうの家からプロージットとそれに答えているのが聞こえました。
寺田寅彦「先生への通信」


一月六日は公顕節。東方の三博士(三王ともいう)が星に導かれて生まれたばかりのイエスを礼拝に来たとされる日である。子供が三王に扮し、家々を訪ねる習俗が今もある。


「星の歌い手(シュテルンジンガー)だ!」と私は妻に告げました。妻も、急いで、その方を見たのですが、
「何も見えませんよ」と不思議そうな顔をしています。
「いや、きっとそうだ」と言って、私は急いで食事を終えました。
部屋へ帰って、身支度をしてから、私達は外へ出ました。寒い夜です。通りには、今宵限りの樅の葉の飾りと、豆電球の星形が、なんとなく淋しい感じで、軒を照らしています。「星の歌い手」の少年達に逢えるとは思っていませんでした。その露地に入ってしまったのか、どこにも姿が見当たりません。
「もう、駄目だね。寒いから、例の家へ行こうよ」と妻を促して、モーツァルトの生家の前から川岸に出る道を、なんとなく歩いてゆきました。
月があるとは思えないのですが、しんとした静かな夜でした。青い杯が葡萄の葉の環の中に下がっている酒場、「ブラウエス・クリュークレ」のすぐ傍で、暗いアーチ型の潜り抜け口から、突然、三人の小さな人影が、こちらへ向かって来るではありませんか。私は思わず息をのんで立ち止まりました。
白い長い布を纏った少年が、二人は金色の紙で作った王冠を被り、その一人は金色の星の形を付けた長い杖を持っています。よく見ると、白いガウンのようなものの下に、色のある裾の長い衣服を着ています。この二人を両脇にして、真中に顔を黒く塗った少年が、頭に白いターバンを巻いています。十歳から十二、三歳ぐらいの少年です。
「君達、星の歌い手だね。私達のために何か歌ってくれる?」
三人の少年、いや、三人の東の国からの小さな王様達は、うなずいて身体を寄せ合うようにして立ちました。一人が脱げかかっていた紙の王冠を直すと、かさかさと微かな音がしました。そして、三人は歌いだしました。
遠い国から三人の王が
山や海を越えてやって来た…
東山魁夷『六本の色鉛筆』


公顕節が過ぎるとクリスマスツリーは片づけられ、待降節(降誕祭前四週間)から続いた一連の行事暦が終わる。その一月はいちばん寒い時期である。グラットアイス、氷るドナウ、いずれもこのころだ。厳冬のようやく峠を越した頃に、謝肉祭の大騒ぎがある。ベルリン、ライプツィヒドレスデンと、この祭りを廃した新教地域に長く住んだ鴎外も、一度ミュンヘンで謝肉祭を経験している。


… 此日街上を見るに、仮面を戴き、奇恠なる装を為したる男女、絡繹織るが如し。蓋し一月七日より今月九日Aschermittwochに至る間は所謂謝肉祭Carnevalなり。「カルネ、ワレ」carne valeは伊太利の語、肉よさらばといふ義なり。我旧時の盆踊に伯仲す。夜ワアルベルヒとゲルトネルプラツツのGaertnerplatz劇場に入る。後中央会堂Centralsaalに至る。仮面舞盛を極む。余も亦大鼻の仮面を購ひ、被りて場に臨む。一少女の白地に緑紋ある衣裳を着、黒き仮面を蒙りたるありて余に舞踏を勧む。余の曰く。余は外国人なり。舞踏すること能はず。女の曰く。然らば請ふ来りて倶に一杯を傾けんことをと。余女を拉いて一卓に就き、酒を呼びて興を尽す。
森鴎外『独逸日記』明治十九年三月八日(ミュンヘン


簡潔にして要を得ているが、得すぎているかもしれない。それでも、真面目な表情ばかりが伝わっている鴎外の肖像に大鼻の仮面を被せてみれば、その陽気な音楽と歓声、羽目をはずした思い思いの仮装と踊りが人々をのみこんで会堂いっぱいにあふれかえるさまが想像できると思う。パレードも行なわれる。ふだんは謹直なドイツ人が、もう一つの顔を見せる三日間だ。その楽しみ方はドイツ的、つまり少々くどくはあるけれど。
この馬鹿騒ぎが灰の水曜日に終わると、四旬節の慎みの期間が始まる。この間は肉を断ち、騒々しくしない。あとにつづく主の受難と復活の大祭にそなえての、いわば物忌みである。そうするうちにも、春が少しずつ近づいてくる。
復活祭は春分後の最初の満月の後の日曜日に祝われる。だから年によって日の異なる移動祭日である。謝肉祭はその七週前の日曜から翌月曜・火曜の三日間。復活祭前週の日曜日は枝の主日で、イエスエルサレム入城をシュロを持って迎えたという故事により、この日子供たちは「シュロ」を教会へもってゆき、司祭の聖別をうける。といっても北国ドイツにはシュロはないので、モミなどの常緑樹やハシバミ、ツゲなどの枝を束ねたもので代用する。そして受難週が始まる。木曜にイエスは捕らえられ、金曜に架刑、そして日曜によみがえるというわけだ。
復活祭の朝に銃を放つ習俗のあることを、バートガシュタインに旅した茂吉が書いている。


朝目ざめてみると、あたりは一面の山であつて、その谿底のあたりは僕が今ゐるところである。けふは耶蘇復活の日で、男女群つて古風な加特力の寺院の前に集まつてゐるが、男も女も尽く古い服装で、現代の欧羅巴いづれの都市でも見られないものである。女は媼も、娵婦も、娘も、皿のやうな帽子をかぶり黒いリボンが二房ながく後の方に垂れてゐた。黒く長い服は体を膨ませて、幾たりも幾たりも群がつて来る。このあたり一体の斯の如き服装は伝来のSalzburger Trachtである。
さういふ群衆はかたまつて皆寺のなかに入つて行つたころ、僕はひとり谿間の滝の落つる近くの巌の上に坐して、水のとどろきしぶくのを見てゐた。それを別に不思議とも思はず、変に孤独な気分などは微塵もないのである。その時寺院から鳴り出した鐘は殷々として谿谷に満ちた。愉悦にあふれて耶蘇復活をうたふ老若男女が歓喜踊躍のこゑを遠くに聞いてゐると、山上より銃声がした。この音は谿にひびき、繞る山々に反響して雷のやうな音をさせた。鋭く粉砕するやうなその反響の消えかかつた頃に第二の銃声がした。銃声はもう一遍反響して、ゴゴゴゴウといふやうな音をさせながら奥谿の方へ消えて行つた。
銃声は殺戮畏怖の気遣さへなければすなはち壮快の音である。この山間の猟師どもが、嘗て耶蘇復活の歓喜踊躍の日に当つて、山上に鉄砲を打つたといふことは、そこにちつとも無理がない。銃声は十ぐらゐ続けばいいと思つて期待したが、つひに聞こえずにしまつた。
斎藤茂吉「復活祭」(『滞欧随筆』)


しかしながら復活祭は、降誕祭とは違い日本人にはなじみにくく、見すごされがちである。シュティフターの回想を引こう。


この週の名が人びとの口に称えられる時節になると、わたしの胸は、不思議に哀愁を帯びた和やかな思い出が湧いてくる。故郷と幼年時代の思い出の一齣、いとしく汚れない厳粛な思い出が、その名とともに蘇ってくるのだ。この祝祭の印象を高めるのにあずかって力があるのは、行事がおこなわれる季節そのものである。わたしの生まれた村をとりまく田畑の上では、すでに雪は消えていたが、なおもたっぷりと水気を含んだ土が、太陽の光を浴びて黒々と光っていた。空はもう穏やかに青味をおびていたけれども、木々はまだ葉を落としたまま黒い格子のような枝を見せて立ち並んでいた。牧草地にはやわらかな緑の芽が萌えだし、小川や牧場の溝を奔る糸のように白い流れのほとりには、われわれの故郷で「復活祭のお花」という美しい名で呼ぶ黄色い花がつぼみや、あるいはほころびはじめた花をつけ、かなり濃い緑のへり飾りとなって走っていた。― あらゆる生き物のうちに、とりわけ子供たちの心のなかには、春の憧れが萌し、すでに明るい炎となって燃え立っていた。そこへ聖週間がやって来たのだ。宗教上の祝賀行事がつづき、宗教感情にあふれるこの不思議な一週間、それは、幼い心に魔法のような力で働きかける神秘と秘密に満ちた日々であった。…
「復活祭の日曜日には、お日様はいつものように昇るんではないよ。嬉しそうに三度までも跳びはねるのさ」。復活祭の日曜日が近づくたびに、わたしはこの奇蹟を自分の目で確めようと思った。しかし、いつもそのたびに寝すごしてしまったのである。― そして、寝すごさないぐらいの年齢になったころには、もうそんなことは信じなくなっていた。
シュティフター「ウィーンの聖週間」(『昔日のウィーンより』佐藤康彦訳)


復活祭を過ぎると、いよいよ春となる。バイエルンなどで五月一日に五月樹を立てることはよく知られている。五月の声を聞くと、いきなり緑が萌え出し、花が咲く。そんなわけはないので、徐々に若葉も花も現われでてきたにちがいないのだけれど、うかつな観察者の目には突然美しい五月がとびこんできたような印象をうけるのだ。茂吉氏も陽光にさそわれ、そぞろ歩きをする。


寒い冬に閉ぢられ、慌しく日を送つてゐるうちいつか春になつた。雪が解け、草が萌え、そして日光の美しい五月が来た。五月十一日の日曜に久しぶりに川べりに来ると、対岸の町に市が立つてゐる。いろいろ価の廉い日用品、食料品を商ふ市で、主に労働者階級の者を相手にしてゐるやうである。川魚を天麩羅にして売つてゐたり、著類の競売などは幾組もある。鉛筆のきずもの、刃物類を山のやうに積んで売つてゐたが、この中で私は大根卸を一つ買つた。瀬戸物のところに行つたとき、瀬戸でこしらへた日本娘が三とほりばかりある。それを私は買つた。安芝居があり、人形芝居がある。人形芝居は見料は客の自由で、児童は無料だから、幕のなかは児童で充満してゐる。大蛇などが出て来て頭の禿げた猟人を呑むところをやると、児童らは大ごゑをあげて、アア!などといふのでひどく愉快である。労働者達もけふは日曜なので帽も服も他所行のを著、なかには男の子を肩車にして、妻を連れて歩いてゐるのなどもある。路傍に立つて心霊療法の本を売つてゐるのにも労働者等がたかつてゐる。心霊者は髪を長くして、時々医学上の術語を使つたりしてこれも甚だ愉快である。私はこの市で婦人のかぶる頭巾地を三四枚買つた。これは山村の女のかぶるものだが、日本の風呂敷になるのである。そのなかには太陽の光を模様にしたやうな図案などもあつた。五月十八日の日曜も同じやうに市が立つた。盛な人出で驢馬に児童を乗せるところなどは一ぱいになつてゐた。安息日の日曜に商売の市が立つのも私には面白かつた。維也納ならばMesseのやうな大きな市を除き、それから、Praterのやうな遊び場所を除けば、日曜に働くのは猶太族の仕業だぐらゐにおもふのであつた。
斎藤茂吉「イーサル川」(『滞欧随筆』)


ミュンヘン郊外の、ドゥルトと呼ばれる市の風景であろう。
柳田国男という人の眼は、いつもしっかりと物事をとらえる。とりわけ野草や野鳥など小さいものを見るときには、やさしく、かつ適確だ。


ある年の五月、アルプという川の岸の岡に、用も無い読書の日を送っていたことがあった。氷河の氷の下を出てきてからまだ二時間とかにしかならぬという急流で、赤く濁った冷たい水であったが、両岸は川楊の古木の林になっていて、ちょうどその梢が旅館の庭の、緑の芝生と平らであった。なごやかな風の吹く日には、その楊の花が川の方から、際限もなく飛んで来て、雪のように空にただようている。以前も一度上海郊外の工場を見に行ったおりに、いわゆる柳絮の漂漂たる行くえを見送ったことがあったが、総体に旅客でない者は、土地のこういう毎年の風物には、深く心を留めようとはせぬらしい。
しかしそれはただ人間だけの話で、小鳥はこういう風の吹く日になると、妙にその挙動が常のようでなかった。たて横にこの楊の花の飛び散る中にはいって行って、口を開けてその綿をついばもうとする。それをどうするのかと思ってなお気を付けていると、いずれも庭の樹木の茂った陰にはいって、今ちょうど落成しかかっている彼らの新家庭の、新しい敷物にするらしいのであった。ホテルの庭の南に向いた岡の端は、石を欄干にした見晴らし台になっていて、そこにはささやかな泉があった。それとは直角に七葉樹の並木が三列に植えられ、すでに盛り上がるようにたくさんの花の芽を持っている。それもこれも六、七十年のたくましい喬木であった。鳥どもは多くの巣をその梢に托していると見えて、そちこちにうれしそうな家普請の歌の声が聞こえるが、物にまぎれてそのありかがよくわからなかった。
柳田国男「絵になる鳥」(『野草雑記・野鳥雑記』)


寺田寅彦の入独したのも五月であった。


バーゼルからいよいよドイツへはいるのである。やっと目ざす国の国境をはいった心持ちには、長い旅から故郷に帰った時のそれに似たものがあった。フォスゲンやシュワルツワルドを遠くに見て、ライン地方の低地を過ぎて行くのである。至るところの緑野にポプラや楊の並み木がある。日が暮れかかって、平野の果てに入りかかった夕陽は遠い村の寺塔を空に浮き出させた。さびしい野道を牛車に牧草を積んだ農夫がただ一人ゆるゆる家路へ帰って行くのを見たときはちょっと軽い郷愁を誘われた。…
目がさめると、もう夜が明けはなたれていた。自分ら二人の疲れた眠り足らない目の前に、最初のドイツの朝が目ざめていた。ゆるやかに波を打つ地面には麦畑らしい斑点や縞が見え、低い松林が見え、ポプラの並み木が見え、そして小高い丘の頂上には風車小屋があって、その大きな羽根がゆるやかに回転しながら朝日にキラキラしていた。それは自分の頭の中でさまざまな美しい夢と結びつけられているあの風車であった。自分の心は子供のようにおどった。そしてこの風車が何かしらいい事の前兆ででもあるような気がするのであった。
寺田寅彦「旅日記から」


季節の美もさることながら、はじめて留学地に入る者の心のつややかさがうかがえる。
これからはもう夏である。復活祭の四十日後にキリスト昇天祭、五十日後に聖霊降臨祭が祝われる。聖霊降臨祭翌週の木曜が聖体祭である。これらの教会祝日には日本人留学生は概して無関心だ。聖霊降臨祭の休暇に勉強家の学者留学生箕作元八はベルリンの雑沓を離れ、ポンメルン地方の田舎へ休養に行っている。


六月三日 … このへんすべて田舎にして人民質朴に深切にて、ベルリンのごとき酷薄ならず。車の動き方もきわめてのろく、停車場に切符受け取る所もなく、野原のごときところに、一寸した屋根付きの腰掛けあるのみ。また途中すべて農家の風日本のごとく、鶴が山川健次郎さんの様な歩調にて散歩しおるなど、すこぶる閑かなる心地す。…
六月四日 この家は実にこの上もなき静かな家なり。耳に入るものは松風と波の音、カックー、ナイチンゲールその他の小鳥の声のみ。…
六月七日 今日ウェントハーゲンにてバタを作る順序を見たり。ウェントハーゲン及びラッペンハーゲンの牛より得るミルク、一度に三千二百リートル位のよし。しかしてバタ一ポンド(独逸ポンド)に十五リートルのミルクを要するよし。バタ一ポンドを売り出すに一マルク二十文なりと。ベルリンにていくらするか帰りてのち聞きて見るべし。かのしぼり取りたるミルクは鍋のごときものに入れ、暫く置く時はどろどろとなる。これを大釜にいれ、馬に引かしめ動かしかき廻すなり。かくてその固形体を取り出し、これを四回まで水にて洗いたる後に、これに塩をまぜ、これを第二図の如きもの(略)に入れて水を全くしぼり出せばこれにて終りなり。すべてミルク及びバタ製造に関することは女の仕事にて、その長をMeierinという。なかなか骨の折れる労働なり。都会にある者はバタを製するの困難を知らぬ者多しとは、フロイライン・クラーマーの話なり。…
― 箕作元八『滞欧「箙梅日記」』明治33年


鶴とあるのはコウノトリのことかもしれない。人家の屋根に巣をかけたりして、ドイツ人には親しい鳥だ。
聖体祭はドイツ南部やオーストリアカトリック地域で祝われる。駐在武官としてウィーンに滞在していた松岡静雄(柳田国男の弟)はそれを見ることがった。


けふは「フロンライヒナム」といふ加特利教の祭にて皇族、文武大官、高僧列をなして市内の由緒ある寺院を巡拝すなり、維也納年中行事の一なれば是非見物したまへと出入の洋服屋ベルナルドの勧むるにまかせ、山内兄弟をともなひて早朝七時といふに仝人の宅におもむく。こゝは「ノイマルクト」とて昔の市場の跡にて例の噴水を中央にせる広場なり、西側に「カプチナキルヘ」とて皇帝の菩提寺にして「マリア、テレサ」女王をはじめ皇后エリザベス、皇太子ルドルフ等を葬る寺あり、こゝにも祈祷ある筈なれば墺洪の軍隊約一歩の感覚にて堵列し、その後には見物人十重二十重にむらがりたり。待つこと約一時間にして行列は近きたり、孤児院の生徒を先頭として楽僧、怜人、舎人等先駆し、市内各寺の住職威儀をたゞして之につぎ、市の役員、文武高官は各々香華紙燭を手にして之につぎ、大僧正は差かけ傘に袈裟やうの式服をまとひ数人の従層に供奉せられて徐々と歩を運び、最後に皇儲殿下をはじめ在京の皇族ことごとく徒歩してしたがひたまへり。その荘厳なることいふまでもなく、十数百の孤児がうたふ賛美歌の清く澄みたる声を聞ゝては何とはしらず涙こぼれてとゞまらず、典礼の人の心を動かす力、大なるをしりぬ。かくおもふうちにも今日はことに天気うらゝかなるに、大礼服きて脱帽せる両「サルバトール」親王、ベルヒトールド伯をはじめ貴顕の多くは禿頭なれば、暑さゝこそとおもひやられ可笑。九時、式はてたれば「ベルナルド」にあつく礼をのべてかへる。
―『松岡静雄滞欧日記』明治四十五年六月六日


このころともなると、日中の暑さは炎天の語を使ってもよさそうだ。蒸しはせず、木陰に入ればさわやかなのは、多湿の国とずいぶん違うのだが。日も長くなる。ドイツほど緯度が高くなると、夏冬は温度差(これもたいへん違うのだけれど)よりもむしろ日の長さによってはっきりと画される。寒さはセントラルヒーティングをもってすればしのげる。しかし四時にもう暗くなってしまうのはどうにもできない。夏というのはまず日の高く長い季節であって、暑さはその結果だ。夏の極みがすなわち天文暦の夏至であり、民間暦の六月二十四日、聖ヨハネ祭である。


二十四日。所謂「ヨハンニス」日Johannistagにて古来の祭日なり。此祭は未だ基督教の行はれざる前より有り。昔は永昼短夜の極度に至れる日に此祭を行ひ、所謂「ヨハンニス」火Johannnisfeuerを点したり。火を点する者は猶昼日の永からんを祈る意にして、平相国が没日を招きしと同日の談なり。点火の習は猶ミユンヘンMuenchenに残れりと。現今此地にては「ヨハンニス」日を祖先を祭る日とす。猶盂蘭盆の如し。闔府の士女其瑩域に集り、花もて編める環を墓上に懸く。亦美観なり。
森鴎外『独逸日記』明治十八年六月二十四日(ライプツィヒ


バイエルン山間のオーバーアマーガウ村の受難劇というのが名物になっている。十年に一度上演されるもので、受難劇というからには復活祭の頃演ずべきだが、野外劇であるため、気候のいい夏の間に舞台にかけられる。茂吉という人はたいへん好奇心の強い人だったようで、この村芝居を見物に出かけている。


それから、Oberammergauといふ山間の村に基督の受難劇を見に行った。これは吹田教授の好意によつた。この古風な民間劇は投じ猛威を逞うした疫癘などと結付いて、すでに十七世紀の初ごろから行はれてゐた。それが段々改良され大規模になつて、現今では世界的のものになつた。十年に一度の興行であるから、世界からの旅人がこの山間になだれこむのである。ミユンヘンの旅舎の満員だつたのはさういふ理由にも本づいてゐた。
第十幕目で、Guido Mayrといふ人の扮したユダが、基督が磔刑に処せられたのち、痛恨の面持で舞台にあらはれ、『基督はつひに死したり。噫、吾は彼を殺しぬ。わが母の吾を生みし刹那よりこそわが悪運はじまりけれ』の如き台詞をいふ。”Soll ich noch länger dieses Marterleben hinschleppen?”などといふ。遂に、衣を脱ぎ、帯を解き、帯を樹の枝に巻きつけ、”Erwürge den Verräter!”といふとき、幕がしづかにくだつたが、その時、劇しい雷鳴があつて、沛然として雨が降つたので、ユダはづぶ濡れになつて首を縊らうとしたのであつた。舞台は天井が無く、向うの山野が一部背景になつてゐるぐらゐの、野外劇の特色をも加味してあつた。
斎藤茂吉「蕨」(『滞欧随筆』)


射撃祭もまた夏の娯楽だ。


夏といっても、台風の吹き去ったあとの東京の九月ぐらいで、日ざしはかなり強いが、風はいつもさらさらしていて、手足に触れる草がつめたいほどのさわやかな触感である。朝食もとらずに、ぶらりと散歩に出かけても、ものの十分も歩くと、もう郊外に出てしまう。郊外というよりは、町をはずれるとすぐ田舎で、道路こそ幅も広く、自動車のためにきれいに舗装されてはいるが、その幹道を横にはいると、すぐに森か林に入り込むのである。森を抜けると、百姓家の庭先に出てしまったりする。庭先には、たいがい小さな花壇に面してベンチがあり、テーブルも備えていて、一杯のミルクを所望すると、おかみさんが搾りたての温いのを大きなコップにもってきて、テーブルを拭きながら、すすめてくれる。代価は二十サンチーム、日本の戦前の二十銭にはあたらない。
日曜日の朝、こうして森のなかを歩いていると、遠くから … バーン … バーン、バン、バーン … 銃声がひっきりなしに聞えてくる。射撃場から山にこだまし、静かな森を通ってくる響きである。やがて、突如として、銃声がぴったりとまる。それと同時に、教会の鐘がかすかに流れてくる。もう九時だということがわかる。射撃は、教会の祈りがはじまる時刻までつづき、鐘が鳴りだすと、一斉に中止される。そして正午からまたバーン、バーン、バンが、森や林にこだまして夕刻までつづく。
これは兵隊の射撃の練習ではない。日曜日の農民たちの楽しみである。ベルンのような人口十万ぐらいの町の郊外には、いくつもの射撃場があって、朝早くから近くの百姓さんたちが銃を背負って、自転車で走って行くのに出会う。りっぱに設備された射撃場には、若い青年から老人にいたるまでが集っている。チーズ学校の校長さんも、息子といっしょに、谷を越えた向うの標的を狙って、銃口を並べている。このお百姓の銃士たちは、むろんそれぞれたいへんな自慢でひと射撃すんだあとでビールを飲みながら、お互いの成績を語り合って打興じている様子は、平和そのものである。
田舎のレストランにはいると、よく壁の一隅に古びた優勝旗と、これも時代ものの幾枚かの写真が飾りつけてある。毎年の射撃祭を記念するもので、それは同時に農民たちの社交の歴史を語るものでもある。頑固そうな、しかし実直そのもののようなお爺さんが、その前で赤い酒を楽しんでいる様子などを見かけると、私はよくケラーの「射撃祭」に出てくる七人のデモクラシー擁護の老人たちを思い出し、眼の前の老人を七人のうちのだれかに仕立ててみたものである。
スイスでは、家に一ちょうの銃を備えていない百姓はほとんどあるまい。そして、日曜日の射撃が、スイスの農民の文化と生活の水準をよく語っているといってよい。
笠信太郎「村のロメオ」


村のヴィルヘルム・テル、というわけだ。
そして季節は秋を迎える。秋祭りは歳の市、ひと仕事終わってのちの愉快な気晴らし、娯楽機関である。有名なミュンヘンのオクトーバー・フェスト(十月祭)がその大がかりな例だ。鴎外も出向いている。


三日。日曜日なるが上に所謂十月祭Oktoberfestなるを以て、余が芻街の僑居の辺は、雑沓甚し。祭場はテレジア牧なり。競馬自転車の競走等あり。其他雑伎を奏し、奇獣を すなど、往時神田の防火地の景況と殆ど相同じ。甚しきは人魚と名け、裸婦人を見するに至る。水虎の見せもの、復た何ぞ択ばん。競馬のときは王族皆来り観る。車駕の祭場に至るとき、街側の甃道Trottirsに待ち受けたる人は云ふも更なり、両側の家は皆窓を開き、車を望みて万歳と呼ぶ。王族左右を顧みて答礼す。慇懃甚し。此日祭場にては全牛を煮たり。是も祭式に属する由なり。
森鴎外『独逸日記』明治十九年十月三日(ミュンヘン


葡萄のできる地方ではもちろん葡萄酒祭りがある。


十月十六日の日曜には独りリオンに止り、河野君の案内にて郊外の秋光を賞し候、自動車にて往復四十里ほど走り、ある山の峠の上まで参り候。此辺葡萄酒の出来る所にて、ボージューという山間の町にては恰も祭礼あり、バッカスという酒の神になりたる男、手車の上にて一人へべれけになりて飲み且つ踊りおり候き。
柳田国男「フランスより」(『世界紀行文学全集』1)


アルプス地方では、羊や牛は夏の間牧夫たちと山の上の牧草地で過ごし、十一月ごろ里に下りてくる。原勝郎の見た羊らもあるいは山から下りてきたばかりかもしれない。


同じ秋瑞西に入り、十一月初旬ルツェルンに在りし時、独立の歴史に有名なるゼムパッハの古戦場を訪ひしことあり。同じ名の停車場にて下車せし頃は、名物の朝霧なほ深く立ちこめ、咫尺をも弁じがたし。疎らなる林を貫く里道を進めば、霧につゝまれたる木立の中より裂帛に似たる音のみす。訝りてすかし見れば、牧童の羊を威す革紐の響きなりけり。それに駆られて行く羊の小鈴の声もいと長閑に聞えき。林を過ぎ丘を踰えむとて顧れば、遥か後ろなるゼムパッハの湖の方霧漸くはれそめて湖岸の紅葉のけしき、さながら我国の秋に異らず。古戦場の一見を終へてもとの停車場に帰りつけば駅長の役宅にあてられたると覚しき停車場の橋上よりピアノの音の起こりて�瑶寂を破り発車待つ間の無聊を慰めぬ。
― 原勝郎「さまざまの秋」


そんなふうにしているうちにも、秋は駆け足で走り去る。暗鬱な晩秋がさらに暗鬱な冬の先触れとなる ― いや、先触れどころではない、もう冬なのだ。


かくして日は一日一日と短くなり、早や十月も末近くなる……と空は全く灰色に褪せきって細い雨が降り出す。明けても暮れても雨である。雲は折々動いて青空が見え、時には薄い日の光の漏れる事もあるが、半時一時間と経ぬ中にまた降って来る。真青なローンの水は濁りに濁って、今にも高い石堤を崩して溢れ出そうに漲渡り、その吠える水音は夜更なぞには物凄く街中に響く。この河下の南フランス一帯又はガロンの河筋に折々大洪水の出るのもこの時節である。
もう何時日が暮れるとも気が付かぬ。午前も午過もまるで夕暮同様に薄暗いからで。窓の少い室なぞでは三時四時頃から燈をつけねばならぬ。よし雨は小止みしていても家中は戸外と同じように湿けきって妙に肌寒い。いくら身支度をしていても思わぬ時に、くしゃみが出て鼻を啜るが否や、もう性の悪い風邪を思うさま引込んで了った様に身中がぞくぞくする。
家もなく友達もない旅人にはこんなつらい天気は恐くあるまい。散歩と云ってもこう云う天気では、公園や町はずれにも出られぬので、傘を手にしたまま、雨の晴れ間晴れ間に見馴れた市中、歩み馴れた往来を歩くより仕様がない。
雨に濡れた楓樹の落葉狼藉たる河岸通りや、石像もしくは紀念碑の周囲の花園に、草花の枯れ萎んだ広場の眺めはさながら、何か市中に大騒動でもあった後のような云われぬ深い荒寥の感を与える。で、一度、こう云う本通から曲りくねった横町や路地裏に這入ると淋しい四辺のさまは一層深く身に迫るのである。
永井荷風「秋のちまた」(『ふらんす物語』)


これはリヨンの描写だが、ドイツでも事情はまったく同じだ。
十一月一日は万聖節、二日は万霊節、死者の日である。この日には煉獄の死者たちがわが家へ帰ってくるという伝えがある。


思いやり深い主婦は、万霊節の前夜、小さな灯火を卓の上に置いておく。魂たちの灯りになるように、またひどい火傷の上にそのランプの油が塗れるように。あるいはストーブの火をがんがん焚いておく。というのも、哀れな魂の中には冷苦に苦しんでいて、しばらくの間でもストーブの前の腰掛けにすわって、情けなく歯をガチガチ鳴らさずにおりたい者もあるからだ。… また、新しく焼いた万霊節のお菓子をフライパンに盛って卓の上に置き、大きな牛乳壺をそえる。― あなたがたは笑っているが、翌朝見ればその菓子とミルクは飲み食いされているのだ。猫がもの言うことができたらねえ! あれは一晩中その部屋で鼠を捕っていたから、たぶん食卓についていた霊たちをその眼で見ただろうに。
― ロゼガー『シュタイアマルクの民衆生活』


心優しき父祖たちよ、あなたがたの親切はきっと報われたであろう。シュタイアマルクの十一月は、もう雪が降ってはいなかったか。人の思いも内奥へ向かう季節なのだ。年はぐるりと一めぐり。木々の雪化粧する頃には、子供たちはクリスマスの贈物を夢みていることだろう。