CL雑感

今年のチャンピオンズリーグ決勝は、バイエルン・ミュンヘンチェルシーだと思っていたら、レアル・マドリード対アポエルだった。
あのように守りを固めてカウンターを狙うのも、延長引き分けでPK戦に持ち込むのも戦術であり、それがはまるのを見るのもサッカーのおもしろさではある。アポエルがそれをするなら、もちろん誰も難じない。だが、チェルシーだろ? あそこの選手の年俸総額はいくらなんだ? あれだけ選手をそろえてあんなサッカーなのか。金満チームがクラブレベルの世界一の大会の決勝戦でやる試合ではないだろう。決勝戦はほかの試合とはまったく違う。ほかのすべての試合は勝ち抜けチームを決めるためのものだが、決勝戦には先がない。ヨーロッパの選手たちは、目標として「優勝」よりも「ファイナル進出」を口にすることが多い。最高の舞台であり、憧れなのだ。すべてのヨーロッパでプレイする選手たちの夢の頂上があれでいいのか。
相手がバルセロナなら、異次元のチームだからしかたがないが(バルセロナに対しては何をやってもいい)、バイエルンは同格だろう。アウェイといっても、かなりチェルシーのファンもいたぞ。PK戦バイエルンサイドで行なわれたが、チェルシーへの声援が大きく聞こえたのに驚いた。あの程度のアウェイならゆるいものだ。
しかしながら、あんなサッカーでは敗戦の場合のダメージははかりしれない。その意味で賭けではある。そして、敗戦は95パーセント以上ありえた。ドログバが同点のヘディングをたたきこんだあのコーナーキックの軌道が5センチずれていたら、そこで終わりだった。恐るべきディフェンスの強固さとキーパーのチェフの集中力には感動した。彼らは賭けに勝った。負けた場合の失うものの多さを考えれば、その点は称賛されていい。
あのままミュラーのゴールが決勝点で1−0だったら、勝つべきチームがショボい勝ちかたをした、負けたチームは最悪、という、来年にはバイエルンファンとチェルシーファン以外にはもう忘れ去られていそうな試合だった。
延長で2−1だったら、勝つべきチームが苦労して勝った、負けたチームも一点に定めた狙いを実現しかけた、まあまあおもしろかった、というところ。
PK戦バイエルン勝利なら、勝つべきチームが最後の最後に報酬を得た、負けたチームも相手を追い詰めることに成功したが、最終的に罰せられた、という試合。
勝つべきチームが負けたことで(負けたわけじゃないんだが、PK戦は引き分けだから)、この決勝はドラマになった。


ドラマはドラマとして、その決着のつけかたには考える余地がある。PK戦はハラハラドキドキで独特の魅力があることは否定しないが、本質的にトーナメントで上に進むチームを決めるための便宜に過ぎない。それ以上上のない決勝戦でやるべきものではない。
「優勢勝ち」を導入してもいいのではないかと思う。サッカーはゴールにボールをたたきこむべく走り回る競技だから、延長を終えて同点の場合、それを多く試みたほうに軍配が上げられていい。守りを固めてカウンター一閃を狙うチームは、それがまんまと成功したときは喝采を浴びればいいが、勝敗を決するに至らなければ、作戦の失敗を告げられる、ということだ。
たとえば、枠を叩いたシュートの数で決める、というのはどうか。それが多いほうが優勢勝ちとなる。フィールドにはねかえった数だけカウントし、バーやポストに当たっても外へ飛んでいったものは数に含めない。それも同数なら、PK戦ということにすればよい。
要するに、最終節で優勝の決まる試合で優勝を争う2チームが直接対決をする、という状況を作るわけだ。得失点差がついているので、引き分けなら一方が優勝、もう一方は準優勝となる。すると試合の後半15分ぐらいからゲームは動揺しはじめるし(このままでは劣勢負けとわかっている側は、勝負に出なければならなくなる)、延長戦は攻守ががらりと変わったまったく別のゲームになるだろう。だから、いく通りもの戦い方のできるチームでないと勝ち抜けないし、優勝できない。望むところではないか?
コーナーキックの数で決める、という方法もある。しかしコーナーか否かは審判によって決められるので、誤審問題がからんできそうなのが大きな難点だ。これは絶対コーナーだというのがゴールキックにされたり、またその逆もある。そのことで勝敗が左右されてはまずい。いくらビデオで見直しても主観的な裁量の部分の残るファウルの判定PKの判定と違い、こちらはスローで見直せば誤審は一目瞭然だから。また、コーナーはもらいにいくこともできる。すると妙なタクティクが試合に混じりこんできて、よろしくない。
バーやポストを叩くシュートというのはサッカーの醍醐味のひとつで、ああいう1−0や0−0がふつうにあるロースコアのゲームを2時間も見ていられるのは、これがあることにもよっている。歓声が悲鳴に変わるあの瞬間ジェットコースター、非常に惜しい、思わず帽子を食いちぎりそうになるくらい惜しいが、結果としてゼロ・プラスマイナスゼロ、完全なゼロであるという、ヒリヒリするような人生の苛酷さを見せつけるものがなくなるのは残念だ。あれがカウントされれば、ゼロ・プラスαになってしまうわけだから。


延長前半にバイエルンが得たPKをロッベンが蹴るとき、シュヴァインシュタイガーは後ろを向いてしゃがみこんでいた。ロッベンはそれを失敗するのだが、これを見ていたので、PK戦の5番目のキッカーとしてシュヴァインシュタイガーが出てきたとき、きっと外すだろうという予感がして、案の定はずし、バイエルンは敗れた。最近の若いドイツ選手はなかなか(ドイツ人らしからぬ)テクニックがあるのに驚くが、かつてのドイツ選手に特有の精神力の強さが失われている。シュヴァインシュタイガーバラックのような選手だと思っていたが、まったく違うのだとわかった。
1週間後に行なわれたオランダ代表とバイエルンの試合で、後半途中からオランダ代表で出てきたロッベンに対して、バイエルンのファンはブーイングを浴びせたそうだ。ロッベンは自軍の選手で、彼のおかげで勝った試合は数え切れないほどあるのに。よくないことだが、しかし次のことも考えなければならない。
自軍の選手だった者が敵軍で出てきたら、激しいブーイングを浴びせられるのは当然である(レアルに移ったフィーゴバルサのファンが浴びせるブーイングのように)。この場合彼は移籍したわけではないのだが、それに準ずると言っていい状況ではある。たぶん自動的にスイッチが入るのだろう。パブロフの犬のように。
彼の場合、リーグ戦のドルトムント戦でもPKを失敗し、それによってバイエルンは結局2つタイトルを失っているというのが背景だが、おそらく、ロッベンが試合後のPK戦で蹴らなかったことに対する怒りがいちばん大きいだろう。彼が蹴らず、ゴールキーパーノイアーが蹴る。違うだろ。PKキッカーがなぜPK戦で蹴らないのだ。敵前逃亡同然だ。戦う前から敗北を決定づけた。欧米人はそういう行為に厳しい。
現代のサッカー選手は、わが町わが国を代表する「戦士」である。「勇敢な戦士」であることを選手は求められている。彼らの莫大な年俸には当然そのことも含まれる。それに反する行為を罰する権利はファンにある。傷心であるに違いない彼をいたわるべき、というのは、彼がPK戦で蹴っていた場合にのみ当てはまるだろう。
試合後、オランダの選手と監督が激しい非難をしていたようだ。だが、それは「キャンペーン」の一種である。ためにするものだと言わざるを得ない。まず、蹴れ。


「キャンペーン」と言えば。スアレスとエブラの人種差別発言騒ぎというのがあった。スアレスがエブラに「ネグロ」とか何とか言ったそうなのだが、エブラは「南米人」に対する差別語でやり返していたらしい。どっちもどっちで、その言葉が「ネグロ」でさえなければ、どの試合でもフォワードとディフェンダーがやりあうおなじみのシーンだ。「ネグロ」は南米では差別語ではないという。よくわからないが、たとえば日本で「黒人」が差別語でない例を見れば、ありうることだ。同程度でなくても、6:4程度の非のように思えるが、キャンペーンによりスアレスが「レイシスト」として悪者になり、6試合(だったか、それとも8試合?)出場停止をくらった。
その処罰が明けたあと、またリヴァプールマンチェスター・ユナイテッドの試合となり、試合前の両チームの握手で、スアレスがエブラの手を握らず通り過ぎた。エブラはなぜ握手しないんだと騒ぐ。監督やマスコミがスキャンダルだと言い立てる。だが、ビデオを見れば、エブラは手をわずかに出して、少し引いている。あれは握手を望む手の出しかたではない。スアレスが握手を拒否したとき、彼のほうが正しかったと確信した。やはり一方的で片手落ちな処罰でしかなかったのだ。握手なんぞ、安物のパフォーマンスだ。またキャンペーンが行なわれる。くだらない、くだらない。
リヴァプールのチームとサポーターは自軍の選手スアレスの完全擁護を誓った。さもあるべきだ。私は「ものわかりのいい人たち」より「ものわかりの悪い人たち」の声を聞きたい。この類の問題では、聞くべき声はたぶんそっちのほうに多い。
テリーとファーディナンド弟の間でも、同じような人種差別発言騒ぎがあった。しかしこちらのほうはうやむやのまま葬られた。理由は明らかだ。ともにイギリス国民だから。ウルグアイ人とフランス黒人なら問題になる。あのへんにイギリスの、そしてヨーロッパのいやらしさが出ている。「人種差別」はこっちのほうだと思うけどね。


なぜサッカーが好きなのか。理由の第一は、その国際性である。その国際性を保証しているのは、このゲームのシンプルさだ。ボールと野っ原さえあればいい。野球は装備がたいへんだ。あんなものが普及しないのは当然だ。インド人は熱狂的にクリケットを愛しているけれど、野球より国際的で、野球よりは装備が少ないのはいいが、あれも用具がけっこう必要な競技である。サッカーにしくものはない。
ルールもいたって簡単で、しろうとでもすぐにジャッジできる。紛糾を呼びそうな笛に対し、ビデオ判定を導入してはどうかという声が根強いが、私は断固反対である。すべてのサッカーの試合がビデオに撮られているわけではなく、何台ものカメラで追われているわけではない。ビデオ判定が導入されると、それをふんだんに利用できる試合・限定的に使える試合・まったく使えない試合と、同じサッカーのゲームにヒエラルヒーができてしまう。サッカーの理念は、民主と平等だ。ワールドカップの決勝も、貧困国での中学校の対抗戦も、サッカーの試合としてなんら差のないものであること。この美しい誇りを売り渡してはいけない。審判の目だけでよろしい。たとえ誤審があろうとも。サッカーは永遠に貧乏人を含む万人の(あるいは、万人を含む貧乏人の)スポーツであってほしい。
勝利は2、引き分け1、敗北0という勝ち点の配分だったのを、勝利は3と手厚くするとか(貪欲に勝利を目指すチームに多く報酬が与えられ、引き分けでよしとせず、勝利へのモチベーションが高まる)、最終戦の同日同時刻キックオフ(他チームの結果を知って戦い方を変えることなく、全チームが同じ条件で最後の試合を戦う)、ホームとアウェイで2試合を戦う、アウェイでのゴールは2倍に算定、キーパーへのバックパスは手で扱えないことにする、悪質なプレーに対するイエローカード・レッドカードの提示等々、サッカーの決まりごとは進化していったが、そのいずれもが知恵を出して創意工夫をするというレベルの解決である。カネにも機械機器にもよらない。これもサッカーのすばらしいところだ。
それなら、その例にならっていけばいいではないか。PK戦ということごとしい「ショー」をしくまなくとも、知恵や工夫で何とかなるはずだ。


3−0ぐらいでバイエルンが圧倒して、残り5分で時間稼ぎの交代で宇佐美、というのを期待せんでもなかったが、今年の宇佐美は全然戦力ではなかったから、それはなくていい。またバイエルンに戻って、5年後ぐらいの決勝で先発してほしい。相手がどこにもせよ、そのときは延長同点でバイエルン優勢勝ち、か?