龍の文明圏

 龍/ドラゴンは想像上の動物であって、巨大爬虫類、だいたいは大きな蛇で、脚があり、翼はあることもないこともあるが、空を駆けるというところが特徴である。水との関りが深い。キメラ(ライオンの頭、ヤギの胴、ヘビの尾から成る)のごとき合成怪物で、中国の龍は九似が言われる。『爾雅翼』によると、「龍の角は鹿に似たり、頭は駝に似たり、眼は鬼に似たり、項は蛇に似たり、腹は蜃に似たり、鱗は鯉に似たり、爪は鷹に似たり、掌は虎に似たり、耳は牛に似たり」という(諸橋徹次『十二支物語』、大修館書店、一九六八、九七頁)。また、「玉を愛し燕の肉を嗜んで食べるということで、嫌いなものは、鉄と蜈蚣と、楝の葉と五色の糸」だそうだ(同前、一〇一頁)。大蛇に最もよく似るが、『王書』で「お前はたかが鰐ではないか」と罵られるように鰐にも似ていて、インドネシアのコモド島のオオトカゲがコモドドラゴンと呼ばれるように蜥蜴にも似る。

 南方熊楠が「竜は今日も多少実在する鱷等の虚張談に、蛇崇拝の余波や竜巻、地陥り等、諸天象、地妖に対する恐怖や、過去世動物の化石の誤察等を堆み重ねて発達した想像動物なりと言うを正しと惟う」(『十二支考』一、平凡社、一九七二、一九八頁)と言っているのが当たっているだろうけれど、それはいわば経験則的(「自然科学的」)な推定で、「社会科学的」には、「龍とは政治化された蛇である」(荒川紘『龍の起源』、紀伊国屋書店、一九九六、一一一頁)と言える。「階級発生以前の民族のいずれにもドラゴンは存在しない。存在するのは巨大な蛇であり(たとえばオーストラリア)、幻想的な色合いをもつ大蛇にまつわる観念であって、ドラゴンのような雑種的な存在は見られない。(…)複数の動物が組み合わさってできた動物の萌芽はもっと早くにたとえばメキシコやエスキモーに見られるとはいえ、ドラゴンというこの空想上の動物は、人間が動物との親密で有機的な結びつきを失いはじめた後世の文化的産物であり、都市文化の産物とさえいえる。このような存在はエジプト、バビロニア、古代インド、ギリシア、中国といった古代国家において全盛期を迎え、そこでは大蛇が国家を象徴するものとして紋章にまで姿を見せている。反対に、ほんとうに原始的な民族にはそれは存在しない」(プロップ『魔法昔話の起源』、せりか書房、一九八八、二四九頁以下)。

 東の龍に対して、西にはドラゴンがいる。このふたつはよく似ていて、西洋語の「ドラゴン」を漢語に訳せば「龍」となり、漢語の「龍」を西洋語に訳せば「ドラゴン」になるという関係だ。角や髭があるのは東方の特徴で、西方では毒を吐いたり火を吐いたりする。ドラゴンは人に害をなす悪の存在で、聖ゲオルギウスの竜退治に代表されるように英雄に退治されるべきものであるのに対し、東方の龍は、荒れ狂うこともあるが、むしろ善で、神聖なものであり帝王の象徴であって、怖れられても決して否定されるべきものではない。インドのナーガは神的なコブラであり、これも仏典で龍王と訳される。龍にはこのような翻訳による混乱がかなりある。

 それぞれの文明国が他国他文化の大蛇怪蛇を「竜」と書くのは困りものだ。大蛇怪蛇と龍は違うのであって、日本人は八岐大蛇を龍としないのに、他文明の七岐コブラであるナーガは龍王となる。ヴェーダの神話中、「七河を解放して流れしめ」るため、インドラが金剛杵で退治したヴリトラは、「足なく手なき」「蛇族の初生児」であるから明らかに蛇形の怪物だが、しばしば「悪竜」とされる。そのように比喩的に拡大することなく、たとえば新大陸のケツァルコアトルなどを無造作に「竜」とすることなく、名称を単位に追っていくのがよい。「竜」は現実には存在しなくても、それを伝承する人々にとっては具体的な「実在」なのであるから。他国の水妖について、河童に似ているところがあるからといって「どこそこの河童」などと言うのは、比喩にすぎないとすぐわかる。しかし、竜については他種多種の同一視が許容されているのだ。「竜」と等置できるかどうかわからぬものは、怪物なり怪獣なり怪蛇なり、抽象的な名称で呼ぶのがよくて、せいぜい竜蛇ぐらいにとどめておくべきだ。ナーガのようにすでに「龍王」という訳語が確固としている場合はやむをえないが。

 東と西、中華文明圏と西欧文明圏の龍/ドラゴンについてはよく知られているので、ここではその中間地帯の竜を見ていくことにする。それはいわゆるシルクロード地帯と重なる。

 

 中国の龍は新石器時代からある。少なくとも前五千年紀の仰韶文化ではその形跡が確認できる。「甲骨文字の「龍」が象るのは、頭上に茸形の角を戴き、口を開いた頭をもち、S字形にくねった身体をもつもの」(林巳奈夫『龍の話』、中公新書、一九九三、七五頁)であり、そのような特徴のあるものとして認識される。

 東方はすべて中国の龍の影響下にある。日本がそうだし、チベットブータンの龍もまったく中国式だ。ブータンの国旗には龍が描かれている。「住民たちは、自分らのことをチベット文語体でドルック・パと書く。発音はドッパまたはルッパである。ドルックは竜とかいなづま(電光)の意味なので、ブータンを竜国とも書く」(中尾佐助『秘境ブータン』、社会思想社、一九七一、二五九頁)。

 ベトナムには、「涇陽王は洞庭君の女神竜を娶って貉竜君を生む。此君が帝来の女嫗姫というものを娶り、百男を生む、これが百越の祖先となった(百男は俗に百卵と伝えている)。一日貉竜君が姫に対し、我はこれ竜種、お前はこれ僊種、水と火はたがいに相いれない道理であるといって別れることとなった。すなわち五十子を分ち母に従い、山に帰せしめ、他の五十子は父に従い、南に居らしめ、その長を封じて雄王となし君王をつがしめた」(「大越史記全書外記、巻一。松本信弘『ベトナム民族小史』、岩波新書、一九六九、一一頁)という開祖神話がある。

 宮崎市定はこれらを「龍祖伝説」として、内陸乾燥地帯の「鳥獣祖伝説」や「棄子伝説」「感生伝説」「降神伝説」と対置している(『アジア史概説』、中公文庫、一九八七、三十九頁以下)。それによれば、ビルマのメン・マオ国、タイ、チャムパ、ラオス、哀牢夷などにそれがあり、新羅でも、「東海中に龍城国があり、その王妃が大卵を生んだので、不祥としてこれを櫃に入れて海に流したところ、それが新羅海岸に漂着して老母に拾われ卵より生まれた子が成長し」脱解王となったという話がある。「龍祖伝説はインド付近を中心として発し、南洋海岸に沿い朝鮮半島にまで達していることがわかる」(同前、四一頁)。日本神話で、火折尊の子鸕鶿草葺不合尊を産むとき、海神の娘豊玉姫は八尋鰐の姿になったというが、別伝では龍の姿だったともいう。豊玉姫が龍ならば、日本もそこに含まれるだろう。

 富士山より高いボルネオのキナバル山にも竜の伝説がある。「竜の持っている玉を奪ろうと思い、中国人がいく人もいく人も山にのぼっては帰って来なかった。そのために中国人の寡婦がひじょうに増えたというのである。中国のことをこのあたりではチナといい、それが訛ってキナとなり、ナバルというのは新しいという意味で、転じて寡婦を意味するというのであった」(堺誠一郎『キナバルの民』、中公文庫、一九七七、六四頁)。誤伝があるようで、バルが寡婦という意味である。竜でなく山霊とすることもある。中国の王子が竜の玉を取りに登り、首尾よく奪って船で逃げる。竜が追ってきて尾を振って海が荒れるが、逃げおおせたという話もある。この竜の姿形はわからないが、中国と関りがあるのだし、長い尾があるところからも、中国風の竜であろう。この竜は玉をもてあそんでいたのだから、手もある。

 

 アラブでは、一三世紀の学者カズヴィーニーの『想像の驚異』にこうある。

「ティンニーンはペルシア語でazhdarhā(アジュダルハー)と呼ばれ、恐ろしい外観をした海の動物である。長さは大きいものは三〇メートル、小さいものは五メートルほどで豹のように黒い斑点があり、魚のように二つの鰭があり、耳は長く、首からはヘビの頭の形をした六つの首がさらに出ている。目は大きく稲妻のように光り、その口は牛を呑み込んでしまうほど大きく、目にした動物はすべて吞み込んでしまい、呑み込んだ動物の骨を砕きつぶすために木に巻きついた。満腹すると海から陸に上がり、太陽で体を熱した。陸上でのティンニーンはその熱で行く先々のものを焼き払ってしまった。ティンニーンの悪業・悪事が極まった時、神は雲を送り、彼を持ち上げて遠ざけた。またイル汗国時代に出現したといわれる龍は大きな蛇体であり、目にした駄獣はなんでも食べてしまった。悪業が重なると神は天使を遣わし、彼を海に投げ込ませた。しかしティンニーンは海でも悪事を働いたので神は再び天使を遣わし、ティンニーンをマゴグとゴグのところに連れてゆかせ、彼等の餌食とさせた」(ヤマンラール「イスラーム美術における龍」、『アジアの龍蛇』、雄山閣、一九九二、二〇〇頁)。

 イラン圏では、竜は「エジュダハー」と言われる。トルコ(テュルク)族もそれに倣っている。この語はさかのぼればアヴェスタ神話に至る。

「ザッハークは『アヴェスタ』では「アジ・ダハーカ」(竜ダハーカ)の名で現われ、三頭、三口、六眼、千術の怪物で、悪神アハリマンが人類と地上を滅亡させるために創った最も強力で邪悪な魔物として登場する。この竜はバウリ(バビロン)の地にあるクリンタ城に住み、暴虐の限りをつくし、ジャムシード王の黄金時代とは反対に、恐怖の時代を築く。(…)神の光輪を得るために、アフラ・マズダの子・火神アータルとこの竜との闘いも名高い。魔王は悪逆非道の末、遂にファリードゥーンに捕えられデマヴァンド山に縛りつけられる」(『総説 世界の神話伝説』、自由国民社、一九九二、九二頁)。「彼はこの山に世界の週末まで幽閉されるが、そのとき、彼は再び世界を攻撃し、創造物の三分の一をむさぼり食い、火と水と植物に襲いかかる。しかし、最後には、復活したクルサースパに殺される」(ヒネルズ『ペルシア神話』、青土社、一九九三、一一二頁)。『シャー・ナーメ(王書)』では、ザッハークはアラブの王で、料理人に化けた悪魔(イブリース)に肩に口づけされ、両肩から黒い蛇が生えたと語られる。

 また、『アヴェスタ』の「ヤシュト第十九章、「ザミヤード・ヤシュト」には、「勇ましき心のケレシャースパは、馬を喰い、人を食し、黄色く毒ある蛇、黄色の毒が親指ほどの厚さに流れるスルワラの蛇を殺せり」とある。スルワラとは「有角」の意である」(前田耕作『巨像の風景』、中公新書、一九八六、一九三頁)。角ある怪蛇なら「竜」の萌芽と言える。

「竜は大蛇で、称号をザッハークという。編者曰く、ザッハークはエジュダハーと呼ばれてきた。次のようにも述べられている。バビロンで育ち、魔術を習っていた。顔つきが竜のようになったと思えたので、父親が魔術の勉強を禁じた。師匠である鬼が言った。「魔術を教えてほしいのなら、親父を殺せ。」彼は自分の父親を殺し、理不尽な血が夥しく流れた。そして、エジュダハーと呼ばれるようになった。後に、アラブ人がアズダハークと呼び、アラビア語化してザッハークとなった」(『社会辞典』。ヘダーヤト『不思議の国』より。『ペルシア民俗誌』、平凡社、一九九九、三〇九頁以下)。

 のちの竜(エジュダハー)の伝説では、次のようなことが言われる。

「カールーンの財宝はホスローの七宝物で、地下に沈んだ。そして、それを見張るために竜がその上で眠っている」。「竜は大きな図体の動物で、恐ろしい形をしており、大きく開いた口に多くの歯、目は光り、身の丈が長い。最初はヘビだったが、時の経過によって竜になった。形が変わったのである。これについては次のように言われている。「ヘビは時代を経て竜となる。」『万物の驚異』によると、ヘビが身の丈三十ガズ、齢百歳に達すると、竜と呼ばれ、徐々に大きくなり、陸上の動物が恐がる事態となった。全能の神は竜を海へ投げ落とした。竜の体格は海でますます大きくなり、身の丈二千ガズに達した。そして、魚のように二枚の羽が生えた。竜が動けば、海に波が起きた。竜の害が海でも広がったので、全能の神はヤージュージュとマージュージュの国へ送って、彼らの食べ物にしようとした。このことから彼らが性格の良い民族であると類推できる。すなわち、彼らの身体の各部がそのような健全な動物の肉から成っているのであるから、当然、同じように良い性格であるはずである。竜の心臓を食べたら勇気が増大する。そして、魅入られた動物はその餌食となる。その皮を恋人に結べば、その愛は消える。その頭をどこに埋めても、その場所が吉となる」(『魂の散策』。同前、三〇八頁以下)。

 こんなとぼけたような遭遇譚もある。「昔、砂漠を歩いていると、何か赤いものがやってきた。我々の方にやって来た。そして、よく見ると、それが龍であることがわかった。体は赤く、口からは火を吐き出していた。怖くて逃げたけれども、龍がどんなで、どこへ行くかを見ていると、ターレバーバードのカナートの方へ行った。その後、どこへ行ったかはわからない」(竹原新『イランの口承文芸』、溪水社、二〇〇一、六九四頁)。現地調査で伝承を聞き集めたこの本には、龍が「公正の鎖」を揺らして悩みを訴えに来たというもっととぼけた話もある。雌の龍が山羊の角が喉にひっかかって飲み込めずに難儀していたのである。それを切り取ってやると、お礼にメロンの種をもらったという(同前、五五八頁以下)。

 英雄叙事詩における竜の形姿について、ハーレギー・モトラクはこう記しているそうだ。

 「通常一つの頭と口を持ち、その恐ろしい口からは煙や炎が吐き出され、一頭の馬とその騎士、あるいは水に住むワニや、空を飛ぶ鷲を吸い込むほどの力を持っていた。その身体は巨大で山のようであった。髪の繁みが頭を被い、剛毛は下に垂れ下がっていた。木の枝のような二本の角があり、その目は車輪のように大きく、星やダイヤモンドのように輝いていた。二本の牙は英雄達の腕、あるいは雄鹿の角ほどもあった。外皮は鱗があって魚のようであり、一つの鱗は盾ほどの大きさであった。八本の脚をもち、それが動くと地面が振動した。龍の色はさまざまで、濃い黄色、灰色、黒、青などであった。水や火、あるいはいかなる武器にも耐えることができた。時には人の言葉を解することもできた。その巣は山の上、通常は龍の誕生の場である海の近くにあった」(ヤマンラール「イスラーム美術における龍」、二〇一頁)。

 また、「太陽や月が食になるのは、竜がそれを歯で噛むからである。竜を恐がらせてそれを吐かせるためには、花火をするか、楽器を奏でるか、矢を射るか、金盥を叩かなければならない。そうすれば、竜は恐がってそれを放す」(『ペルシア民俗誌』、二九八頁)。

 日蝕月蝕を怪物が日月を呑むからとする説明は各地にあり、インドでは、「神々が甘露(アムリタ)を飲んでいる間に、ラーフという悪魔が神に変装して甘露を飲み始めたのであった。しかし、その甘露がラーフの喉まで達した時、太陽と月がそれと気づいて神々に告げた。ヴィシュヌ神はこの悪魔の巨大な頭を円盤で切り落とした。このことがあって以来、不死となったラーフの頭は太陽と月を恨み、今日にいたるまで、日蝕と月蝕をひき起こすのである」(上村勝彦『インド神話』、ちくま学芸文庫、二〇〇三、八四頁)。ただし、ラーフは頭だけしかないので、太陽も月も吞み込まれてもしばらくすれば切り口から出てくる。

 イランの周辺を見てみると、バーミヤンの竜の谷(ダレ・イ・アジダハ)の話がある。「この竜は火を噴きながら谷から谷へとはいまわり、いたるところを焦土と化せしめた。竜の去ったあとには胸のむかつく悪臭が残り、収穫はことごとくだめになった」(前田耕作『巨像の風景』、一八四頁以下)。その害を逃れるためには、日ごとに一人の若い娘、二頭の駱駝、五三〇キロの肉を供さなければならなかった。この悪竜はアリーに退治された。

 『宋雲行紀』に、

「漢盤陀国の境界に入り、西行すること六日で葱嶺山に登り、また西行三日で鉢孟城に至った。(さらに)三日進むと不可依山に至った。そこは非常に寒く、冬も夏も雪が積もっている。(この)山中に池があり、そこに毒竜が住んでいる。

 むかし三百人の商人がやってきて、池のほとりに泊ったが、たまたま竜の忿怒にあい、全ての商人が殺されてしまった。漢盤陀国王はこれを聞き、王位を捨てて子に与え、(自らは)ウジャーナ(烏場)国に行き、バラモンの呪術を学び、四年間でことごとくその術を学ぶことができた。(そこで王は)帰国して王位に復し、池に行って竜に呪をかけた。竜は変化して人となり、王に過ちを悔いた。そこで王はさっそく竜を葱嶺山に徙した。この池から二千余里の地であった」(『法顕伝・宋雲行紀』、平凡社、一九七一、一六九頁)。

 漢盤陀国はタシュクルガンのあたりだという。葱嶺はパミールである。『法顕伝』には、「葱嶺山は冬夏積雪あり。また毒竜あり。もしその意を失えば、則ち毒風を吐き、雨雪沙を飛ばし、この難に遇えば、万位に一も全きものなし」(同前、一七八頁)とあるが、この竜はインド的(ナーガ)なものか、イラン的か、それとも中国式か、はたまた独自か。三者の中間だけにどうともわからない。

 トルコでは竜はejderhaとかevrenという。東アナトリアのニシャタシュ村には「まるで蛇のようにとぐろを巻きながら村の上手までのびる積石がある。蛇の骸骨とも言えるその形は驚くほど蛇によく似ている。村の内部までのびている先端部はまるで蛇の頭を想い起させる。全長は一〇〇メートルほどもある」。「土地の人が竜と言っている大きな蛇が村にやって来るのを見た者たちは家を捨てて逃げだした。年老いていたためにあまり遠くまで逃げられなかった一人の女は、途方に暮れてとある場所にしゃがみ込んだ。老婆はその場に竜がやって来て食べられるのを待つことにした。その一方で神に祈りを捧げ、こんな風に懇願した。「神よ。このわしを石にし給え。さもなくば竜のやつを」。老婆の祈りはかなえられた。竜がやって来てあわやという瞬間、竜は石化してしまった」(勝田茂訳「トルコの伝説」、『世界口承文芸』五、一九八三、一八九頁)。

 同様の話で、願いがかなえられれば七頭の犠牲獣を捧げると誓って神に祈り、襲いかかってきた竜を石に化してもらった牧童は、助かったあと七匹のシラミを殺して犠牲獣の代わりにしようとして、家畜とともに石に化せられたというものがある。石になった竜と牧童と家畜の姿を今も見ることができる(同前、一九〇頁以下)。

 トルコ美術における竜にはセルジューク系とモンゴル系があり、セルジューク系の竜の形態は、「口は長く、開いているが、頭部そのものはオオカミや馬に似ており、大きなアーモンド型の切れ長の目や、馬のようにピンと立った耳を持っている。そしてライオンや虎のような剛健な前足が付けられ、その前足の付け根から頑丈そうな、古代のグリフィンの翼を思わせる翼が上方にのびている。しばしばその尾は再び龍の頭となっている」そうだ(ヤマンラール「イスラーム美術における龍」、二〇四頁)。モンゴル系はは中国式の龍であり、それがユーラシアのここまで勢力を広げている。

 中国の龍、ヨーロッパのドラゴンに対して、ペルシャおよびそこと深く関わってきたテュルク諸族の地域は、アジュダハー竜の圏域である(オスマン・トルコを通じてブルガリアにもアジュデルの語がある)。害意のある悪竜である点、ドラゴンと同じく西アジア古代文明から出た同根の存在で、形姿の点で中国の龍の影響を受けている、ということだ。それにはシルクロードを通じて運ばれた文物、龍の描かれた陶器や絵の影響があるだろうことは容易に推測できる。

 

 バルカンの「竜」はおもしろい。昔話で語られるものと伝説とでは「竜」の様態が異なり、ふたつは峻別されなければならない。ハンガリーの昔話に登場する「竜」はいくつもの頭(七つとか十二とか、ひどいのになると三百六十六の頭とか)を持っている。「竜」であることもあれば、馬に乗ったりして人間の形であることもある。ルーマニアの昔話に出る敵役「ズメウ zmeu」も、怪物であって、まま人の形をしている。「えたいの知れない姿をした、文字どおりの化け物のこともあるが、背格好が普通の人と変わらないような場合も多い」。「龍人の国は地下にあった。彼らはどこまで巨大なのか見当もつかないようでいて、普通人のようでもあり、語り手はそのあたりをいささかも気にかけない」(住谷春也「ルーマニア民話の世界」、『ルーマニアの民話』、恒文社、一九八〇、三六七頁)。ズメウという名前はスラヴ語の「蛇」(例えばロシア語 zmiya)に由来し(ラテン語 draco 起源の語 drac は、ルーマニア語では「悪魔」の意味になった。なお「竜」を意味するルーマニア語は一般に balaur)、明らかに「竜」の外観特性を有している場合もある。だがそうでないことのほうが多く、伝説にも両様に登場する。蛇と竜とズメウの関係は、蛇が七年の間人に見つからずにいると、尾がなくなり足が生え、牛を呑む。さらに七年人に見られないでいるとバラウル竜になり、さらに七年たつとズメウになる、というふうに説明される。他のバルカン地方の昔話にもこの龍人(ズメウ)が出る。「ドラコスdrakosは民話に現われる正体不明の怪物で、古典ギリシア語のdrakōnは「龍」または「蛇」の意味であるから、語源的に「龍人」と訳してもいいが、実際には人喰い鬼と考えられる」(森安達也「解説 ギリシアの民話」、『バルカンの民話』、恒文社、一九八〇、一一三頁)。セルビアブルガリアも同じだ。ロシアの昔話に出るズメイも、複数の頭を持っているが、馬に乗るところを見ると人の形であるらしい。一方で、明らかに「竜」であることもある。

 ハンガリーの伝説で語られる「竜」は、たしかに竜だ。ハンガリー語で「竜」を意味するsárkányは、ブルガール・テュルク語で「シューシューいうもの、毒のある唾をはくもの」という意味の語から出たものであり、だから蛇のようなものであったと思われる。「シャールカーニュ」でなく「ゾモク」という名前の竜は、その名はスラブ語の「ズメウ」に由来し、短くて太い体の蛇のようなもので、沼に棲み、放牧の豚や羊を食べる。

 おもしろいのは、嵐を起こす放浪の男(天候師とでも呼ぼうか)が乗る竜である。天候師は放浪の道で立ち寄った家で施しを得られないと、すさまじい荒天を引き起こし、その家を破壊する。施しをした家は被害をまぬがれる。彼は竜の背に乗り、黒雲の上を飛ぶ。七年あるいは百年人に見られることのなかった蛇が竜になる。脚があり翼がある。天候師は銜をかませることでそれを飼い馴らす。天候師は別の天候師と雄牛の姿になって闘うともいう。シャーマンを思わせる行動だ。同様の天候師やその戦いはブルガリアを始めバルカンの各地で知られている。ルーマニア人は、山々の奥深くにショロマンツェという悪魔の学校があると語る。十人の学生がそこで魔術を学ぶが、十番目の弟子は悪魔の片腕として留めおかれ、イスメユ竜Ismejuに乗って荒天を呼ぶ手伝いをする。

 ドイツでドラックDrackというのもドラゴンから出た名前だが、竜ではなく、炎の尾を長く引いて火のように空を飛び、煙突から入ってくる。それを飼う人に奉仕し、財物や物を主人のもとに運んでくる精霊である。主人はそれに食事を供さなければならない。それを怠ったり、熱いミルクを与えたりすると、怒って家を焼いてしまうという(Peuckert: "Deutscher Volksglaube im Spätmittelalter". Hildesheim/New York, 1978, p.151ff.)。飼われている家に財宝を運んでくるクダ狐やゲドウを思わせる。トランシルバニアにもこの同類がいて、火を吐きながら空を飛ぶ「竜」が、あるルーマニア人の女中に「取り憑いた」。その母は娘を棺台に死人のように載せ、葬式を執り行うことで治したという。ミナルケン(モナリウ)のザクセン人はスモーというものについて、人の頭に蛇の体をした長い火のような竜ないし夜の悪霊だと語る。それが音を立て火花を撒き散らしながら夜空を飛んで、すぐそばに降り立つのに出くわしたら、馬車の部品を小さな釘に至るまでひとつ残らず数え上げれば、何もできずに退散する。それを呼び寄せることのできる者もいる。スモーは村に恋人の女をもっていたりもする。この名は明らかにルーマニア人のズメウに由来する。トランシルバニアルーマニア人が言うイスメンないしヒスモーは、空を飛ぶ炎であり、悪魔である。好きな女のところへ通い、煙突から入ってくる。通われる女は、痩せて顔色悪く、頭が変になるらしい。

ハンガリー:Erdész: 'Drachentypen in der ungarischen Volksüberlieferung', "Acta Ethnographica ASH" 20, 1971、ブルガリア:Dukova: 'Das Bild des Drachen im bulgarischen Märchen', "Fabula" 11, 1970、トランシルバニア:Müller/Orend: "Siebenbürgische Sagen", Göttingen, 1972 参照)。

 竜でもある一方、「竜人」という奇妙なありかたをする点で、バルカン・スラブのズメイ圏というのは西欧のドラゴン圏とは別に考えていいだろう。

 多くの頭を持つ妖怪ということでは、モンゴルのマングスが思い出される。「マングスは、多頭の妖怪である。早く「(元朝)秘史」にもこの語は現われる。(…)「靫背負うものを丸ごと呑みこんでも、のどにもつかえず、大の男を一呑みにしても、気にもとめない」という「並みの男とはさも異なる、グレルグゥの山にいる蟒蛇(マングス)に生まれついた、ジョト・ハサル」という文である。(…)「秘史」の傍訳には、「マングス」の箇所に「蟒」という漢語があてられていることから、またこの行文自体からも想像できるが、どうやら龍蛇イメージの怪物のようだ。(…)モンゴルの英雄物語においては、マングスは、英雄の財産を略奪し、妃や家来、支配下の牧民たちの拉致をもくろんで襲撃してくる。物語のなかで、なるべく変化をこらした闘いが用意され、最後にはマングスは負けてしまうという筋書き自体は同じである。ともあれ、この怪物は多頭で、その頭の数も、十、十二、十五、十七、二十五、二十七、五十三、七十七、はなはだしきに至っては九十五あるいは百九など、まさに変幻自在という感じで次々に変わるのである」(原山煌『モンゴルの神話・伝説』、東方書店、一九九五、一五〇頁以下)。

 前に触れた龍祖神話でも、竜女は人の姿で男と結ばれている。ビルマのシャン族の話では、竜たちは年に一度、水祭りのときだけはどうしても本来の姿にならなければならず、見るなの戒めを破って男はそれを見た、ということになっている(『世界神話事典』、二八五頁)。

 

 「竜」と訳されはするものの竜とは言いがたいインドのナーガ圏を別にして、竜には東方の龍圏、西欧のドラゴン圏のほかに、西アジアのアジュダハー圏があり、さらにバルカン・スラブにズメイ圏もあるらしい、というわけだ。

 こう見渡してみると、竜が文明圏ごとに異なる名を持ち、異なるあり方をしているのがわかる。文明圏それぞれが重なりつつもいささか異なる独自の竜を発生させているわけだ。その中で、図像学的にはイラン文明圏(テュルク諸族も)の竜は東方の影響を受けている。

見たい、見たい、もどかしい

 このところの日本代表は男女ともすごい試合をしているようで、うれしくはあるのだけれど、外国にいるため見られないのがもどかしくてしかたがない。

 女子W杯の日本戦は試合翌日にFIFAの配信で見ただけ。見られないよりは数倍いいけれど、結果がわかったあとで見るのは気の抜けたビールのようなものだ。

 日本がやった5試合しか見ていないので、決勝トーナメントにぎりぎり出て来てすぐ負けた今回のアメリカチームがどんなものだったのか知らないのだが、男子におけるドイツみたいなものじゃなかったかという疑いを持っている。存在が巨大になりすぎ、みずからのその存在の大きさに溺れてしまって、サッカーをするより「政治をしていた」のではないか。試合前の写真撮影で口をふさぐパフォーマンスをしたドイツ男子チームのように。そして、「サッカーをしに来た」チームに敗れ去った。

 優勝したスペイン女子代表チームは、大会前にも一部選手が結束してもめていたらしい。いきさつはよく知らないが、人間関係によるごたごたは女子の集団にありがちなことで、演劇部などでよくある光景だったなあと思い出す。それでも(そして日本に完敗しながらも)優勝したのはすごいけれども、その表彰式で会長が主将の頭を掴んで唇にキスをしたとかで、えらい騒動になっていた。せっかくの優勝があれでかすんだのは気の毒だ。非難囂々でも辞任しないとがんばっていたあの会長、万やむを得ず辞めたけれども、悪かったなんて1ミリも思っておらず、死ぬまでそう言い続けるだろう。それは、彼個人の資質というより、そういう民族であるからだ。息子のためにハンストをしたという母親もそうで、あんなことはごくふつうで、目くじら立てるようなことではないと、あの世代の女性自身が思っていることがわかったのは収穫だ。

 唇だから問題なので、頬なら完璧に日常であるわけであってみれば、コロナがまたたく間に蔓延したのもうなずけるし、マスクを蛇蝎のように嫌うのもよくわかる一件だった。感染症拡大に役立つことなら何でもやる人たち、ということだ。

 この騒動の余波で優勝監督も解任された。それは大会前の決起女子選手たちの要望であったのだが、会長監督ともに消えたあとでもスペイン女子選手はまた同盟罷業を宣言している。面倒なことだ。次の大会では「サッカーをしに来た」チームに敗れてほしいものだ。

 

 ドイツはW杯の雪辱を期して日本を招待して試合をしたわけだが、結局のところはやはりどこかで「なめていた」のであろう。その直後の、おそらく現在世界最強のフランスとの試合に勝ったところを見ると。あるいは、「言語」(身体言語)の違いにとまどった、とも考えられる。身体的特徴の大きな違い、試合以前の、こうすればこうなる的なサッカー「話法」、暗黙理解の分野での微妙な違いに合わせることができなかった、とも。フランスとは同じ「言語」を共有しているので、勝つこともあれば負けることもあるけれど、意外なことは起こらない、ということではないか。実力がかけ離れていたらそんな違いは力でねじ伏せられるが、拮抗していたらその点に足をすくわれることはあるだろう。だから地球大のスポーツであるサッカーはおもしろい。

 日本戦の感想を求められたポドルスキは、まず日本をほめなければならないね、彼らの近年の成長を見るのは楽しいことだ、と言ったそうだ。リトバルスキーしかり、ブッフバルトしかり。日本でプレーした選手は、日本人の欠点も知るが、長所もよく知っていて、正当に、かつ高く評価する。彼らにはこの結果に対する驚きはなかっただろう(残念な気持ちはあるだろうが)。知は力なり、である。ポドルスキはまた、ドイツチームに何が起こっているのかと問われて、チーム内の人間でない自分が言うのはフェアでないと、答えることを避けた。それも正しい態度である。フェアであるのは美しいことだ。

 選手の言説では、久保選手が「コンディションは僕史上過去最高」などと言って、実際そのとおりに大活躍したようだ。日本選手でいやなのは、定型稿しか言えない者ばかりであることだ。メディアもそうで、あらかじめ組み立てたストーリーどおりに進めたがる。「式次第」にのっとって「セレモニー」をするのが仕事だと思っている。そんな中で、自分のことばで自分の気持ちを的確に語る久保選手は、一頭地を抜いている。彼のコメントを聞く(読む)のは楽しい。

 

 女子のスペイン戦。ボールは支配され回されながら、カウンターで4点も取って、1点も与えない。男子のブラジル戦でそんなのを見た覚えがあるぞ。

 今のドイツは、中盤は非常にいいが、絶対的なフォワードがいない、ディフェンスが弱い昔の日本みたいに思える。

 さてもさても、世は逆さまと成りにけり、である。

 今の日本は、フォワードに絶対的な選手がいないのはあいかわらずだけれど、最終の得点スコアには驚かされる。そして、ディフェンスの強固さには目を見張るばかりだ。格下チーム相手とはいえ、シュートをほとんど打たせない試合もいくつも見てきた。それだけでも驚きだったが、ドイツ相手に堅固なディフェンスを見せつけていたとは。かつては鉄壁の守備を誇っていたドイツの今のもろいディフェンスとは対照的だ。桑海の変、か?

 三笘・伊東の両翼は、ロッベンリベリーバイエルンじゃないか? これでレヴァンドフスキが出てきたら、本当にワールドチャンピオンになってしまうんじゃないか?

 妄想は果てしない。見ていないから、それがさらにふくらむ。

 しかし。「強い日本」をよろこぶ一方で、こんなことがあっていいはずがない、いつかしっぺ返しが来る、と恐れる気持ちもどこかにある。困った貧乏性である。

上から下、左から右!

 着任したときはもうコースが始まって3か月近くたっていたのに、まだひらがな・カタカナが怪しい。それからひと月たってもさまで改善しないので、業を煮やして、ひらがな・カタカナテストをすると宣言した。「半分できないようならサヨナラだよ!」と脅したが、それはもちろん冗談のつもりのハッパだったのだけども、結果は半分以下がぞろぞろいて、零点そのものもいればそれに近いのも何人もいるありさま。自分の名前すらカタカナで書けないのもいる。困ってしまった。

 仕事もしていれば家庭もあって、子どもの世話もしなければならない。勉強の時間がないというのは理解するけれど、こちらの理解とは関係なく、最終的に絶対に合格しなければならない公的試験がある。しかし4か月もたってこれでは、とても合格の見込みはない。読み書きは求めない、話して聞くことさえできればいいというニーズの人も世間にはいるけども、ここの場合は日本へ行って働くこと、留学することが目標なのだから、これではとうてい無理である。ネジをきびしく巻かなければならない。むずかしいタスクを背負ってしまった。

 

 外国語を習得するのはそれでなくてもむずかしい。まったく異なる異様な文字体系を習得するのはもっとむずかしいかもしれない。だから、初めに適切な指導がされないと、「無法地帯」が現出することとなる。字には書き方がある。書き方の指導がなおざりだと、学習者は形をなぞるだけになってしまう。いうなれば、彼らは字を書かず、「絵」を描いているのだ。

 何ごとにもルールがあるし、そのルールには訳がある。

 上から下、左から右へと書く。これが大原則で、例外はあるがごく少ない。ひらがな・カタカナ・漢字を通じてこの原則である。それにはもちろん理由がある。

大多数が右利きのこの世界で、右手で書くなら左から右に線を引くのは自然だ。

 日本語は(その手本である漢文も)本来縦書きするものである。だから上から下へ書く。もともと縦書きだった日本語だが、今では縦にも横にも書く。横にしか書けないアルファベットと違い、それは日本語の長所であるけれども、外国人学習者のための日本語教材はすべて横書きだから、外国人は縦書き日本語を知らずに学ぶ。ここにひとつの落とし穴がある。

 漢字からまずカタカナが、それからひらがなができた。しかし外国人はひらがな・カタカナ・漢字と逆に習う。系統発生に逆行するわけだ。「無法」のよってくる下地はここにもある(その点中国人は、多少の癖字はあるけれども、文字の根幹をゆるがす「無法」はないし、書の国だけあって達筆の人も多い)。

 うまいに越したことはないが、(かく言う筆者自身を始め)日本人にも字の下手な人はごまんといるから(特に医者には悪筆が多い印象がある)、字の巧拙は問題ではないけれども、上手下手以前に、ほかの字と間違えられないように書かねばならない。これが最低ラインなのだが、それ以下が多いのだ。

 もっとも典型的なのはカタカナの「シ」と「ツ」、「ソ」と「ン」である。「パソコン」を「パンコン」「パソコソ」、「シャツ」を「シャシ」「ツャツ」、ごていねいに「ツャシ」と書かれては困る。カタカナ「シ」「ツ」もひらがな「し」「つ」と同じ、つまり最終的に上へはね上げる・下へ書き下ろすのだし、二つの点は「シ」では左に上下に、「ツ」では上に左右に並ぶのは、ひらがなの入りの線がそれぞれ上から下・左から右に引かれるのとパラレルなのだが。

 「そ」はひと筆で書くのでなく、ふた筆で、つまり最初の点を打ち下ろしてからあとの部分を書くように指導するのがいいと思う。こうすれば、ひらがなの上の部分がカタカナ「ソ」だと教えられる。共通の親字である漢字「曽」から、くずして早く書いてひらがな「そ」、上の部分だけ取り出してカタカナ「ソ」ができた経路も示せる。

 「ホ」が「木」となるのも普通によくある。もともと「木」からできた文字(「保」の右下部分を取り出して)であるのだけど、混同しないようにしなければならない。

 そのほかよく間違えるものには、「あ」と「お」。ひらがなであるべき「か」が「カ」に、カタカナであるべき「カ」が「か」になる。「ほ」の右縦線が上に突き出る。そうすると「しま」になってしまう。「い」が倒れて「こ」、右側が長すぎて「り」。「て」の下部が長く伸びて「こ」に、「や」の右上の線が右に外れて「か」に見える。「わ」がどう見ても「B」だというのもある、等々。

 これらは最終的な形の問題だが、それ以前の深いところで、書き順と筆画をめぐる問題がある。書き順は日本の小学校が指導するほど熱心になる必要はないのだが(この「必」の書き順や「右」「左」に拘泥するのは行き過ぎというものだ)、ただし、急いで書いた手書き文字はくずし字続け字になるのだけども、その際書き順にそってくずしたり続けたりするわけで、間違った書き順だとそれが読めなくなる。「け」を縦縦横と書いていては、縦横縦と続け字で書いたものは読めない。正しい書き順にそわないくずし字をする日本人もいるけれども、手書きのくずし字続け字を読みこなすためにも、ここは注意しなければならない。

 そして画数の問題。「ク」と「ワ」は形の問題として間違えやすいということのほかに、ともに一画で書くことがよくあり(つまり左部分を下から上に書いている。「ウ」でもそう)、逆に「ク」を三画にして「ケ」と見まがうこともある。「上から下・左から右」の原則を破ると、「コ」「ヨ」を一画・二画で書くということも起こる。つまり右から左へ線を引いているのだ。「山」を二画(右縦線を下から上へ)もよくある。もっとも頻出するのが、三画の「口」を一筆書きで一画、上向き下向きのかぎ二つで二画、縦縦横横と四画とするものだ(四画の場合は、クロスした部分がはみ出ていれば「井」である)。

 画数を正しく認識していないと、漢字字典をひくとき困る。もともと漢字は困った存在で、辞書を調べるときには画数を知っていないと戸惑うことになるだろう。彼らが漢字字典をひかねばならない事態に陥ることはまずないだろうが、それでも、どんなにその可能性が低くとも、そんじょそこらの日本人教師などひれふさねばならないようなすばらしい日本語の使い手、達人がその中から現われることを前提に、彼らに対するべきである。

 要するに、絵を描くようにではなく、正しく(ある程度正しく)字を書く必要があるのは、そうすると1.きれいな字が書ける、2.手書きのくずし字続け字が読める、3.漢字字典が引ける、の三つのメリットがあるからで、逆にそれを欠くとこの三つを失う。結局、形が合っていればそれでいいということはないので、書き方のルールの最低限は教えられなければならない。

 今は筆順アプリなどもたくさんあって、家で書き方の練習はできるはずなのだが、よほど熱心な学習者以外はなかなかするものでなく、授業によるところがなお大きい。

 

 結局、系統発生の原点に立ち返ることが必要なのだろう。日本語は本来こう書くのだと縦書き小説本などを見せる。後ろから前へページをめくるのかと驚嘆する者もいよう。もちろん日本語としては前から後ろへなのだが。教師が口述した文を書き取り練習させ、それを板書させる。おかしな字はその際に正す。そしてときどきは縦書きに板書させる。

 筆を使って教える時間も作るべきだ。水書道セットという水で字が書け、水が乾くと消えるというすぐれた教具があり、これだと墨で手や服を汚すことがないから、日本語教育施設には標準装備するようにしたい。

 縦書き原稿用紙も活用したいもののひとつで、縦書き練習のほかにも、日本語は分かち書きせずベタ書きをすることを示せる。だからカタカナの名前の場合、名前と苗字の間に中点を打つ必要があるわけだ。音の長さ、拍を理解させるさせる一助にもなる。拗音(「きゃ」「しょ」など)以外は一拍一マスであるから、つまり発音のむずかしくない日本語の中で例外的にむずかしい特殊拍、長音(長い音「ー」など)・促音(「っ」)・撥音「ん」)も、それ自体一拍の長さであることが視覚的に見て取れ、指導の側面補助になるだろう。

 

 同じような間違え方をするということは、その誤りにもわけがある、そのような誤りに導く日本語の側からの「罠」があるのだろうと考えられ、その点は考慮しなければならないが、しかし誤りは誤りだ。最初にしっかり教えなければならない。特に文字についてはそうである。定着してしまったものをあとから直すのはたいへんだから。

 

石見神譚

 神話を考えるときには、かなりの注意が必要だ。伝承がおそろしく錯綜しているからである。見取り図を書けば、以下のようになろう。

 まず、「正史正伝」というものがある。中央政府が認めたもので、要するに記紀(『古事記』『日本書紀』)である。これはテキスト化により固定されたものである。

 次に、「副史副伝」。地方国庁がまとめたもので、諸風土記がそれに当たる。これもまたテキスト化され固定している。

 エリートの手になるきわめて限られたこの両者の伝承の外に、「野史野伝」の大海がある。神社の縁起由緒や民衆口碑である。それはおよそ無秩序に見える。

 それらすべてのおおもとに、「原史原伝」がある。ここから取り上げられ、選別・編集して正史正伝・副史副伝ができた。それに漏れたものは野史野伝となった。

 そのほかに、「異史異伝」というものがあると考えられる。いわゆる中世神話がそれである。仏教の伝来、その刺激により(一応の)体系化が行なわれ、神道が生成された(中国における道教がそうであるように、仏教は伝わる先々で土着信仰の体系化・宗教化を促す)。そして神仏混淆が起こり、神道を仏教で、仏教を神道で説く試みとして本地垂迹説が現われた。陰陽道も混じり、修験道のようなものもできて、民衆の間に浸透していった。このような混淆の中から形作られてきたのがいわゆる中世神話で、正史正伝・副史副伝とは異なり、こちらは体系化や正典化は行なわれず、固定されずに流動的であり続けた。

 「原史原伝」もしかりだが、「野史野伝」「異史異伝」に統一はなく、相互整合性はない。その土地氏族ごとに神名から何から大きくも小さくも異なる(神話は本来そういうものである)。

 そのような中、江戸時代に国学が起こり発展し、正史正伝の絶対化が進み、明治の国家神道によってそれが貫徹された。その結果、異史異伝は排斥され野史野伝に沈下していった。それより前からも、異史異伝は底辺エリート(村のエリート)に歓迎される性質のものであるから、異史異伝と野史野伝はアマルガムをなすのに何の支障もない。異史異伝は(野史野伝の典拠である)神社の社伝にも非常にしばしば見られるし、民俗芸能・神楽の詞章にも姿を留める。

 野史野伝はつねに変容を続ける。そこには原史原伝の残存もあるだろうが、正史正伝・副史副伝への自己適合化が行なわれ、太古のままではありえない。異史異伝も受け入れた。何層にも重層しているのが野史野伝である。

 神社の祭神はたびたび変わることにも留意しなければならない。オオクニヌシを祀るこの上なく明らかであるはずの出雲大社の祭神が、中世にはスサノオとされていたように。

 整合するものはすべて誤りである。それはさかしらごとであり、半端な物知り(筆者のような)が整合性を求めるのだ。合理は虚妄の友であり、罠である。資料が少ないから推論をするだけなのだが、推論が精緻になればなるほど虚構に近づく。大ざっぱなものには信頼性がある。もとよりそうでしかありえないのだから。

 

 石見の神話はもちろん野史野伝にしかないので、神社縁起に主に拠りながら見ていくことにする。その際、神話を扱うのだけれども、「古代」を求めてはいない。まして虚構に決まっている「真の古代」など。「心の古代」なら求めている(折口右派である)。

 

 異名同神は疑わしく、もちろん人にもあるように成長につれ名前が変わるということもあるけれども、名が異なれば別の人(神)だと考えるべきだというのはもっともである。「大国主神」は「大穴牟遲神」「葦原色許男神」「八千矛神」「宇都志国玉神」とも呼ばれると『古事記』が説いていても、名が違えば何らかの違いがあるものと疑っていい。一方、それと同じくらいの正当性をもって、固有名詞にこだわらず惑わされないのもまた正しい。名前ではなく役割性格に注目すべきで、固有名詞を普通名詞と置き換えて考えることが必要だ。

 たとえば『播磨国風土記』には「伊和大神」「大汝命」「葦原志許乎命」が出てきて、伊和の大神は「国作り堅め了へましし」とされることからオオクニヌシと、だから大汝命・葦原志許乎命とも同一だと考えられているけれども、これはやはり伊和の地の神ととるのがいいだろう。国造りをしたのはオオクニヌシに限らない。

 伊和大神や葦原志許乎命が天日槍(アメノヒボコ)と土地を争ったという話がいくつもある(大汝命はしばしば少比古尼命と連れ立って出る)。たとえば、揖保郡粒丘の条:「天日槍命、韓国より度り来て、宇頭の川底に至りて、宿処を葦原志挙乎命に乞はししく、「汝は国主たり。吾が宿らむ処を得まく欲ふ」とのりたまひき。志挙、即ち海中を許しましき。その時、客の神、剣を以ちて海水を攪きて宿りましき。主の神、即ち客の神の盛なる行を畏みて、先に国を占めむと欲して、巡り上りて、粒丘に至りて、いひをしたまひき。ここに、口より粒落ちき。故、粒丘と号く」、神前郡粳岡:「伊和の大神と天日鉾命と二はしらの神、各、軍を発して相戦ひましき。その時、大神の軍、集ひて稲舂きき。其の粳聚りて丘と為る」等々。しかしながら、このアメノヒボコは『日本書紀』で垂仁天皇の代に渡来した新羅の王子とされており、それと神代の葦原志許乎命の遭遇はアナクロニズムである。土地の神と外来の神の争いと「普通名詞化」しなければならない。

 同じように垂仁天皇代に半島から来訪したという都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)という者もいて、出雲国から笥飯浦に来着した(敦賀の名の起こり)という。こちらは石見の伝説に姿が見える。

 延喜式内社のひとつ大飯彦命神社について、今は失われ所在地不明になっているが、「唐の王荒人は、長門の国に来たが、そこの井筒彦に妨げられて都農郷に来た。荒人は牛をつれていて里人に牛耕を教えた。荒人は飯田に大飯彦神社として祀られた」(山本熊太郎『江津市の歴史』、江津市文化研究会、一九七〇)という話が伝わり、飯田八幡宮の旧社地は字「アラヒト」といわれ、明治初年の『皇国地誌』には「字荒人鎮座 式内大飯彦神祠 大背飯三能大人」とあり、今も荒人祠があるという。藤井宗雄『石見国神社記』には「大飯彦命神社 祭神、大脊飯三熊大人」があって、「荒人のつまみ石、高四尺五寸、囲九尺四寸」「稲村と云家の処の畑に在り、或ハ荒人の乗石ともいふ、何頃か子供の障りしに離ること能はす、故に今地に移と云ふ」と書かれている。

 

 風土記は地名起源を説く話で溢れている。「山川原野の名号の所由」を言上せよとの風土記編纂命令にあるのだから当然ではあるが。その地名縁起は神または天皇の言や行為による。今に残る五風土記(『常陸国風土記』『播磨国風土記』『出雲国風土記』『豊後国風土記』『肥前国風土記』)のうち、他の風土記と異なり、『出雲国風土記』はほとんど神によって名づけられている(この点は石見の地名縁起もしかり)。

 また、『出雲国風土記』には土蜘蛛が現われない点も、他の風土記と異なる。要するに、天皇のないところに土蜘蛛はない、ということだ(『播磨国風土記』の場合は天皇はあるが土蜘蛛はない)。言い換えれば、天皇の行くところに土蜘蛛が現われる、という関係性が認められる。示唆的である。

 

 正史正伝と副史副伝、そして野史野伝での扱いが異なる例として、『出雲国風土記』の巻頭を飾る雄渾な国引き神話の主人公八束水臣津野命(ヤツカミヅオミヅヌノミコト)がある。古代の名詩であるその詞章を引けば、

 

国引き坐しし 八束水臣津野命、詔(の)りたまひしく、「八雲立つ出雲国は、狭布(さぬの)の稚国なるかも。初国小く作らせり。故、作り縫はな」と詔りたまひて、栲衾(たくぶすま)志羅紀(しらき)の三埼(みさき)を、国の餘ありやと見れば、国の餘あり」と詔りたまひて、童女(をとめ)の胸鉏(むねすき)取らして、大魚(おふを)の支太(きだ/鰓)衝き別けて、波多須々支(はたすすき)穂振り別けて、三身(みつより)の網打ち挂(か)けて、霜黒葛(しもつづら)聞耶聞耶(繰るや繰るや)に、河船の毛曾呂毛曾呂(もそろもそろ)に、「國來、國來」(くにこ、くにこ)と引き來縫へる国は、去豆(こづ:小津)の折絶(をりたえ)よりして、八穂米(やほしね)支豆支(きづき:杵築)の御埼なり。かくて 堅め立てし加志(かし/杭)は、石見国出雲国との堺なる、名は佐比賣(さひめ)山、是なり。亦、持ち引ける綱は、薗の長濱、是なり。

亦、「北門(きたど)の佐伎(さき)の国を、国の餘ありやと見れば、国の餘あり」と詔りたまひて、童女の胸鉏取らして、大魚の支太衝き別けて、波多須々支穂振り別けて、三身の網打ち挂けて、霜黒葛聞耶聞耶に、河船の毛曾呂毛曾呂に、「國來、國來」と引き來縫へる国は、多久(たく)の折絶よりして狭田(さだ)の国、是なり。

亦、「北門の良波(えなみ)の国に、国の餘ありやと見れば、国の餘あり」と詔りたまひて、童女の胸鉏取らして、大魚の支太衝き別けて、波多須々支穂振り別けて、三身の網打ち挂けて、霜黒葛聞耶聞耶に、河船の毛曾呂毛曾呂に、「國來、國來」と引來縫へる国は、宇波(うなみ)の折絶よりして、闇見(くらみ)の国、是なり。

亦、「高志(こし)の都都(つつ)の三埼(能登半島珠洲岬)を、国の餘ありやと見れば、国の餘あり」と詔りたまひて、童女の胸鉏取らして、大魚の支太衝き別けて、波多須々支穂振り別けて、三身の網打ち挂けて、霜黒葛聞耶聞耶に、河船の毛曾呂毛曾呂に、「國來、國來」と引來縫い給いし国は、三穂(みほ)の埼なり。持ち引ける綱は、夜見島(よみのしま/弓ヶ浜半島)、是なり。 固堅め立てし加志は、伯耆国(ははきのくに)なる火神岳(ひのかみのたけ)、是なり。

「今は国引きを訖(を)へつ」と詔りたまひて、意宇社(おうのもり)に御杖を衝き立てて「意惠(おゑ)」と詔りたまひき。故、意宇(おう)と云ふ。

 

 風土記では国土形成という重大事の主人公として巻頭に現われ、またこの神が「八雲立つ」と詔りたまいしにより「出雲」の名が、また同じくこの神の言により「島根」郡の名が起こったとされているように、地域の主要神と見なされるにもかかわらず、『古事記』には、スサノオノミコトの曽孫「深淵之水夜礼花神が天之都度閇知泥神を娶して生める子」として「淤美豆奴(オミズヌ)神」があり、その孫に大国主神があることになっていて、そこに名が出るのみ。無視に等しい。だが風土記でも、実はほとんど出ない。上記三か所のほかには伊努郷に意美豆努命の御子、赤衾伊努意保須美比古佐委気命の社があると記されているところに名が見えるだけだ。祭神としても出雲に四社、石見に一社あるばかりで、配祀されているところも出雲・石見にそれぞれ二社だけだ。

 しかし、この神は石見の野史野伝ではかなり活躍している。邇摩郡大国に峨峨と聳える龍巌山の地にやってきたヤツカミオズミズヌノミコトが「角障(つのさは)ふ石見」と詔りたもうたことから「石見」の名が起こったとの話があるし、そこの小祠龍巌社はこの神を祀る。神が駒をつないだという駒繋岩も残る。同郡馬路にはヤツカミズオミズヌノミコトが馬に乗り鞭を持って「馬路はこの方なるか」と問うたことにより名がついたとの話、そして何よりも、八色石(邑智郡布施村・現邑南町)の龍岩神社に伝わる「八束水臣津野命御通過の節、龍岩山の麓に於て美姫に逢ひ給ふ。則ち美姫の願によりて龍神を退治し給ふ」(森脇太一編『邑智郡誌』、柏村印刷、一九三七)という話である。この神社の祭神は当然のようにヤツカミズオミズヌであるが、藤井宗雄の『石見国神社記』には「祭神素盞烏尊大己貴命少彦名命」としてある。『石見八重葎』には「抑八色石村と号以所ハ、昔神素盞男尊、八岐の大蛇を切給ふ。其頭飛来り八色の石となりたりと村老の説なり」と書かれ、『石見六郡社寺誌』は「境内に大岩石があり、往古は八色があり、八色石の地名の起源となるという。八束水臣津神が御通過のとき、龍岩山の麓において美姫に遇ひたもうた。則ち美姫の願により龍神を退治し、これを三つに切った。頭は飛んで山頂に止まって化して石となった。これが八色石である。また胴は那賀郡に、尾は美濃郡に飛び、同じく石となった」と書く。大島幾太郎『浜田町史』(石見史談会、一九三五)には「神代に八束水臣津野命天降たまひける。姫神あらはれて告て曰此国に八色石あり、山を枯山とし乾川となして常に来て蒼生を悩ますと。命国民の為に之を退治ばやとおもほして、姫神の教に随ひ其所に至りたまひ、其石を切て両段になしたまひければ、其首は飛て邑智郡の龍石と化り、其尾は裂て美濃郡の角石と化る。是より国に禍なければ姫神実に喜悦ありて、吾許にいさない種々の饗応ある。限なければ、命其所にやとりたまひ、夜明て見たまへば、其姫神忽然と化りて一つの石となりき。命是を見たまひ、此国は奇異しき石見かなとのりたまひけるより、石見と号けるよし」とあって、退治譚に続いて石見の名の起こりも説く。この神社は俗に石神とも称し、社の裏、籬の内にその石がある。

 浜田にはまた式内社天石門彦神社もあって、祭神は天石門別命・建御名方命・天照皇大神とされ、「社伝に天石門別命(田力男命)の発祥地なりと謂ふ。神域の一隅に烏帽子岩あり祭神の烏帽子を掛けられたるにより起れりと云ふ。石西、美濃、鹿足は当神社神事贄狩祭の際鹿の足を献り御狩の際猟用の蓑を奉りしより郡名となれりと伝ふ」と『島根県神社概説』(大日本神祇会島根県支部、一九四二)にある。

(ここでついでに石見の延喜式内社を挙げておく。

安濃郡物部神社石見国一宮)・苅田神社・刺鹿神社・朝倉彦命神社・新具蘇姫命神社・ 邇弊姫神社・佐比売山神社・野井神社・静間神社・神辺神社

邇摩郡:城上神社・山辺八代姫命神社・霹靂神社・水上神社・国分寺霹靂神社

那賀郡:多鳩神社(石見国二宮)・津門神社・伊甘神社・大麻山神社・石見天豊足柄姫命神社・大祭天石門彦神社(石見国三宮)・大飯彦命神社・櫛色天蘿箇彦命神社・大歳神社・山辺神社・夜須神社

邑智郡:天津神社・田立建埋根命神社・大原神社

美濃郡:菅野天財若子命神社・佐毘売山神社・染羽天石勝命神社・櫛代賀姫命神社・小野天大神之多初阿豆委居命神社)

 

 伝承には、巡り歩く神の一群がある。このヤツカミズオミズヌのほかに、オオクニヌシも石見の地にいろいろ跡を残しており、スサノオもそうだし、タケミナカタもそういう神として名を挙げられている。

 オオクニヌシスクナヒコナについては、温泉津龍御前神社の伝えに、国造りに諸国をめぐっていた大己貴命少彦名命が、八雲畑で足を痛めたウサギに湯につかるよう教えた、というのもある。ウサギは七日で治った。「八雲畑は温泉の上方の丘陵をさし、ここに昔、老杉がそびえていて、大己貴命少彦名命の二神が祭られていたという」(石村禎久『温泉津物語』、一九八六:一三)というものがあるほか、安濃郡多根の佐比売山神社の由緒として、「大國主命諸神ヲ率キテ諸國ヲ巡り出雲由來郷(飯石郡ニ在リ)ヨリ佐比賣山ニ來リタマフ。 山麓ニ沼澤アリ溝渠ヲ穿チテ乾田トナシテ稲種を播キ田人ヲシテ八郷ノ田ニ植エシム其稲八束穂稔穣ス故ニ多根ノ大田ト名ク。大神ノ功徳ヲ尊崇シ本村字中津森ニ神榊ヲ樹テ、之ヲ祭ル及チ此神社ノアル所ナリ」(『島根県安濃郡誌』、安濃郡役所、一九一五)と伝わる。

 『万葉集』に「大汝少彦名のいましけむ志都の岩室は幾代経ぬらむ」と詠まれている静の窟は静間の海岸にあるとされているが、一方で邑智郡出羽にも志津岩屋神社がある。「石州邑智郡の山中に岩屋山といふありて其の山を志津の岩屋といひ甚大なる窟あり。高さ三十五六間許内甚広し。里人の言伝に大汝少彦名の隠れ給へる所といゝ志津権現と申也」(『大日本地名辞書』)。「出羽とは志津の岩屋に有名なる巨岩五つあり依て「五石(イツツイワ)」といったのが転じて「イヅハ」となったといふ」(『邑智郡誌』)。

 後述スサノオの半島往還を写したごとき部分も混じっているのが邇摩郡大国の八千矛山大国神社(氏宮さん)の社伝で、「八千矛山に御鎮座大国主神とて、出雲の国より高麗に渡り給い、帰途当村のつづき邇摩の海、唐島に着き給い、此里に来り給い、大樹の松に雨露を凌ぎの由にて、其地を今に笠松と申伝え、蒼生尊崇奉りて、仮りに殿を奉遷し候処となす。それより八千矛山に宮居を定め給うによって大国と申す由、大国主神御鎮座の所を氏宮と申して、往古より此の神を氏神と尊仰奉り候、其後足利家より八幡宮氏神に祭る可しと御布令これ有候云々」。そして「本殿の真上の岩山の中腹にある「みこもりいわ」と呼ぶ神跡がある」。「この神跡に感動した幕末の国学者野々口隆正が七十二歳にして姓を大国と改めた」(『仁摩町誌』、昭和四七年)。

 隣村馬路の乙見神社でも、「古老の伝えにいう。大物主神、御船に乗りて国巡りします時に、御船の艫をつなぎたまいし島を艫ケ岩という。御子神等をひきいて海路に遊びたまう所を神子路と呼び、宮ノ名を城上社といい、その里を可美村と名づく。後に馬路村と改める」(『石見六郡社寺誌』)。鬼村の大年神社(祭神:大年幸魂大神・大年奇魂大神・天照大神・田岐津姫命)では、「古老は言う。太古中国いまだ平定せざりし時、大国主大神、隣村なる大国村に降りまして、国土を経営せられしも、なおまだ禍神は荒びてありける。ここにおいて、大国主神深く考えられて、大年幸魂大神を招き荒振神等の荒ぶる心を鎮めさせ給い、農業の道をもってせしめられた。オニムラは鬼群にして荒ぶる禍神の巣窟なりとして、これを鎮め給わんとして各諸神たちをおぎたてまつりしなりと言う」(同)。

 また、邑智郡矢上の諏訪神社の祭神は建御名方神八坂刀売神で、「太古此の地に邑智須々美神と申し上ぐる神がましましたと古老曰伝へられ、又石見風土記にこの神は大国主神の御子御母は沼河姫命にしてその御名に依っ邑智の郡名も茲に起りしものと誌され、そしてこれを物語るものに当村の地名郡山に郡石と称へる霊石があって、邑智須々美神と崇め奉り之を御祀りした邑智郡石神社が在り合祀の後もその遺れる霊石は大神の遺跡として村人は畏敬し大切に取り扱っている。そしてこの神は当社の御祭神建御名方神の又の御名であるとある」(『邑智郡誌』)。「合祭神邑智須々美神は邑智郡石神社とも称し矢上村郡山に鎮座。古老伝曰、大古此地に女神あり、邑智姫といふ。建御名方尊国巡りましゝ時彼女神を娶りて此郷に住み給ふ。今郡石あり之を祭りて神とす。其の形亀の如し、色紫黒、高さ二尺三寸余、長さ六尺余、横四尺」(同)。

 ただし『石見六郡社寺誌』では、「古老の伝にいう。太古この地に女神があった。邑智姫といった。素盞嗚尊が国巡りをなさったとき。かの女神を娶って此の郷に住みたまうたという。今郡石があって、これを祀る。この郡石は、其形は亀の如くで、色は紫黒、高さ二尺三寸余、長さ六尺余、横四尺、地中にある所は量ることができない。この郡石を祭って神としている。この祭神は美穂須々美神ともいう。地方開拓の祖神としてあがめている」と、巡り歩いていたのはスサノオだとする。どちらでもいいのだ。普通名詞の部分に固有名詞は入れ替え可能なのである。

 

 神話には飛び来る神もいろいろある。わけてもおもしろいのはサヒメ伝説だ。

 美濃郡乙子の佐比𧶠山神社所伝によると、

高天原にて乱暴を働いた須佐之男命は、天照大神の怒りに触れられ、髪を切り、髯を抜かれ、 手足の爪も抜かれて高天原を追放の身になった。放浪の途中、ソシモリ(朝鮮)に立ち寄られた須佐之男命は、大宜都姫命(オオツゲヒメノミコト)に出会い 食べ物を求められたが、姫は道中の事とて恐れながら口中の飴ならばと差し出すと、須佐之男命は「無礼である」と大いに怒り、その場で姫を斬ってしまわれた。

 大宜都姫命は、息も絶え絶えの時に我が娘狭姫を呼び、全身の力を振り絞り、顔・胸・腹・手・足など五体を撫でさすりながら、 稲・麦・豆・粟・ヒエなど五穀の種を生み出された。そして、佐姫に向かい五穀の種を授ける。

 「母無き後は豊葦原に降り、五穀を広めて瑞穂の安国とせよ」と言い残して、母神の息は途絶えた。佐姫は母の亡骸にすがって泣き悲しんでいたが、 その時、どこからとも知れず飛んできた一羽の赤い雁に促され、涙をぬぐって五穀の種をたずさえ、雁の背中に乗って東方へ飛び立ったのである。

 やがて雲間より、ひとつの島(見島)が見えた。佐姫はその島に降りて種を広めんとしたが、荒くれ男達がいて、「島では魚や鳥、けものを獲って食うので、種はいらぬ」と 言った。

 佐姫は、次の島へ行った。高島である。ところがそこでも、「魚を獲って食うから、種はいらぬ」と言われた。

 そこで、次は本土に渡り、天道山(テンドウヤマ)を経てひと際高い比礼振山(ヒレフリヤマ)(権現山)へ降りたのである。佐姫は、この山を中心として五穀の耕作を 広めながら種村、弥栄、瑞穂。佐比売村など東へ東へと進み、遂に小三瓶まで行くのである。

 最初に耕作を始めた村が、大宜都姫命末娘(=乙子)ということにちなんで今の『乙子町』となり、種を伝えられた事から『種』の名前がつき、『赤雁』の地名も赤い雁が降りた事から付けられたという」。

 この神話が大島幾太郎(『那賀郡史』)・石村禎久(『石見銀山三瓶山秘抄』)の書くところではさらに広がっていて、サヒメはチビ姫とも言われ、一つめの島では姫は鷹に追い払われて、それが高島、二つめでは大鷲に追い払われ、そこは大島だとするほか、乙子、赤雁、種からさらに行くと、巨人の足跡を見て驚く。その巨人のひった糞が大糞山(那賀郡井野の野山嶽)となった。また岩穴でオカミという頭が人で体が蛇というものにも遭った。岡見の名がそれから出た。足長土という足の長い大男、手長土という手の長い大女にも遭い、夫婦にしてやった。足長土・手長土は三瓶山で暮らし、彼らのために多根で穀物の種を播き、小豆原で小豆、大水原で水を用意してやった、というふうになっている。たしかに三瓶周辺には多根村があり、赤雁山がある。多根には佐比賣山神社も鎮座する。

 巨人の糞が山となった話に関しては、安濃郡吉永の式内社の名がおもしろい。「新具蘇姫命神社」である。糞はよい肥料であるから、地味を豊かにするものとして昔の人はそれを称えもしたのであろう。糞は埴土となる。『石見国神社記』には、「社伝に新山は新具蘇姫命の御廟地なり赤土青土多シ元和年中まて新具須山と唱ふ元禄年中代官後藤覚右衛門御林となす麓に埴安田と云ふ地二所あり今は訛て上の安田(アンダ)下の安田と云ふ埴内田波迩夜田と云あり埴屋と号ふ家あり」とある。姫神の名として不適切とは思われない。

 

 国引き神話で名高い「佐比売(さひめ)山」の名が今の「三瓶(さんべ)山」になったのには、自然な発音の変化もあろうし、次の話によるところもあろう。

 物部神社の社伝に、祭神がこの地方を平定された時に三つの瓶を三ヶ所に据えた。一番目の瓶は物部神社の一瓶社(いっぺいしゃ)に納め、二番目の瓶は浮布池の邇幣姫神社に、三番目の瓶は三瓶山の麓の三瓶大明神に祀られている。一瓶社には室町時代古備前の二石入り大甕が現存し、それを使って神饌用の御神酒を造っている。このことから三瓶山の名が起こったと。

 このうち、二つめの邇幣姫神社は式内社であって、二か所に同名の社がある。ひとつは三瓶川・静間川下流の土江に、もうひとつはここに言われているように上流三瓶山麓浮布池に鎮座する。「ニ」は「埴」と解することもでき、そうすると土の女神ということになって土江がその社ということになるが、瓶のほうの話を採るならば浮布池のほうになる。こちらのほうは、「棟札に厳島神とあり此外元禄の頃まて厳嶋神とあるを宝永四丁亥年に至て初て迩幣姫命と申出たり」(『石見国神社記』)ということで、中世は厳島の神、つまりは弁財天社であったらしく、池畔の島というロケーションを考えればそれは自然であるけれど、古代―中世―近代の祭神変遷の一例でもあろう。

 今に残る佐比売山神社は、安濃郡多根・鳥井・邇摩郡大森・美濃郡乙子と四つある。しかし昔は三瓶山麓の八か所にもあった。安永四年(一七七五)の記録に「八面大明神三瓶山又形見山トモ云フ 麓八ヶ所祭所如左/池田村三瓶谷一座、久部村氏社一座、志学村氏社一座、多根村氏社一座、山口村氏社一座、角井村湯比社一座、同村土木社一座、上山村氏社一座/右何レモ佐比売山神社也」(白石昭臣『畑作の民俗』、雄山閣、一九八八:一五二)。ヤツモトという山麓の湧水のある八か所がこの八面大明神を祀る地である。池田村字亀岳の佐比売山神社は高田八幡宮に合祀されたが、その祭神は大物主命・須勢利姫命・八束水臣津野命・佐比売山神とある(『石見六郡社寺誌』)。小屋原の三瓶山神社(『石見国神社記』には若一王子社とある)の摂社に杵那都岐神社(祭神:八束水臣津野命大己貴命)があると書かれている。出雲大社境内の杵那築森との関係があるだろうか。

 延喜式には安濃郡と美濃郡に佐比売山神社の名があり、美濃郡のほうは乙子のもの、安濃郡のは当然三瓶山麓の神社であるはずだ。現存四つの佐比売(佐毘売)山神社のうち、大森の神社は永享六年(一四三四)に大内氏が乙子の神社から勧請したものだから、新しい。それは乙子の神社が金山彦命・金山姫命を祀っていたからで(ほかに埴山姫・木花咲耶姫大山祇命)、大森銀山採掘に当たって鉱山の神を招来したのはいかにもである(乙子は都茂鉱山に、近いと言うほどではないが、遠くはない)。鳥井の佐比売神社は同じく金山彦・金山姫を祭神とし、ここには百済という地があり、そこにタタラがあった。多根の佐比売山神社の祭神は大己貴命少彦名命須勢理毘売命である。三つの神社において考えさせられる鉱山との関係はともかく、いずれもサヒメを祀ってはいない。前に挙げたように、多根の神社の由緒として、オオクニヌシが諸国を巡って佐比賣山に来り稲種を播いたと言われているのは、サヒメの如く穀物を広めたという語りとして同一であるが、主人公が違う。乙子の神社はもと比礼振山の山頂にあり、五社大権現といった。それよりこの山を権現山という。どちらにしてもサヒメ山ではない。

 サヒメをめぐる筋道は非常に錯綜していて、三瓶山がサヒメ山だったことは風土記により間違いなく、サヒメ山神社もあったわけだが、美濃郡にサヒメ山神社があったことも延喜式で明らかだ。サヒメ神話は主に美濃郡について語られ、三瓶に関して言われるところは弱い(後人の付会の匂いがする)。しかしながら三瓶山周辺にも多根村があり、そこの佐比売山神社に農作伝播の伝承があり、赤雁山の名もある。偶然では片づけられまい。

 

 石見一宮物部神社の祭神は、鶴に乗って飛来した。この神社の祭神は宇摩志麻遅(ウマシマジ)命で、物部氏の祖饒速日ニギハヤヒ)命の子である。

「中国平定の後命は天の物部を率ゐて王化に浴せざる匪徒討伐の為め濃尾、播但を経由し石見に入り給い都留夫、忍原、於爾、曽保母里の各所に屯聚せる兇族を平げ国中を鎮めさせられた。

 都留夫は川合村の南端の高阜で、忍原は其西五丁にある。其附近には鬼の城戸、鬼の茶臼など称する岩窟がある。物部明神が鬼を退治せられた所を伝へて居る。又命が大和国から降臨し給ふ時に鶴に乗りて降らせられたとて此山を鶴降山と云って居る。そして其の時に厳甕を据えて天神を祭り給うたと伝へ其瓶今に境内に斎き祀って一瓶社と云って居る。上古交戦の時甕を据えて軍神を祭ったのはこれが起源である。

 命は鶴降山に降られて四方の景色を眺め、「不思議にも此山は天の香具山に似て居る降り居らん」と仰せになった。依って此処を折居と名づけた。(御腰岩と称する巨岩がある)そして大和朝廷へ一度復命され、「石見の国は常世の浪の寄せ来る国なれば彼国の八百山に在って国家を守備せん」と希望を述べられ、勅許を得て再び降り来て宮を造営されたのである。そして命は活目邑五丁呉桃の女、師長姫を娶って二子を生み、第一の御子味饒田命は此地に留まられ、父の遺業を継き鎮衛に任じ、民業を興し、弟彦湯支命は内物部を率ゐて天皇に仕へたまうたのである。命十六世の孫物部尾琴連の長子を物部竹子連と云ふが金子家の祖である。景行天皇の時国造となり、部族を率ゐて石見の鎮衛に任じ、初め国府に居たが、後川合に移り一国の祭政を掌った」(『島根県口碑伝説集』)。

 この神の墓とされるものが神社の裏手にある。

 

 石見でも盛んであったタタラ製鉄の神である金屋子神も、白鷺に乗って出雲の西比田に飛来した。『鉄山必用記事』によれば、播磨国宍粟郡の岩鍋という所に高天原からひとりの神が天降りなされた。人民が驚いて如何なる神やと問うと、「われは作金者(かなだくみ)金屋子の神なり」と言って、盤石を砕き鍋を作りたもうた。それゆえこの地を岩鍋という。しかしこの四方には住めるような山がなかったので、神は「われは西方を司る神なれば、西によき住所あらん」とて白鷺に乗って西国に赴き、出雲国能義郡なる黒田の奥非田(西比田)の山林に着いて、桂の木の枝に羽を休めていた。そのとき安部正重なる者が狩りのため犬を引き連れ山に来ると、犬たちが木に光を見つけて吠えかかった。正重が「いかなる神ぞ」と問うと、「われは金屋子神なり。この地に住み、タタラを建立し、鉄を吹く術を始めるべし」と宣った。正重慎んで承って、所の長田兵部朝日長者にわけを話して社を建てさせ、神主となって神楽御供を捧げた。すると神は「まずここに火の高殿を建てよ」と宣った。神の教えに従い高殿を造ると、七十五柱の童子神が天降った。神は自ら村下(むらげ)となって、七十五品の道具を作り、木を手折って杉磨の鞴を作りたもうた。長田兵部が長床を整え、炭と粉鉄を集めると、神は天を仰いで吹きたまえば、神通力の印、鉄の涌くこと限りなし。

 

 また、海の彼方から寄り来る神もある。

 スサノオ朝鮮半島のソシモリから出雲に来たことは記紀も言うが、石見でもその渡来についての伝説が多くある。

「五十猛(いそたけ)神社は大字湊に在る。五十猛命と爪津姫命、大屋津姫を祭る、五十猛命は此村には頗る由緒の多い神様である。命は須佐鳴命の御子と御父神と共に韓国を征せられ、帰航御上陸になり、韓国より八十種の樹の種子を持ち帰り給ひ、此地を初め日本国内に播殖せしめ玉ふたのである。そこで此村には命に関する伝説が多い、序にこゝに記すと、五十猛駅より西方五丁切割の一端に神別阪と云ふのがある、命が大屋津姫命、爪津姫命と御上陸後分袂せられた所で、命は此地にとゞまり、両姫命は大屋村へ遷られたのであると。又同駅より北方海岸の巌山は薬師山で素命が韓国より帰航の際薬艸を採集せられた所と伝へ、五十猛沖合の神島は命等御父子御帰航の途第一に御上陸の地と称せらる。それから五十猛駅の東方逢浜と云ふ処は前記両姫命と五十猛命との行逢はせられた所であると」。

「邇摩郡五十猛村字大浦泊り山に新羅神社がある須佐鳴命を祭神としている。(…)近傍には高麗、百済と云ふ旧跡があり湾中よりは海艸を産し、産婦の守りとされて居る」。

 また、宅野の韓島について、「神代の昔須佐男尊が諸樹種を播植の為め数次韓国へ渡航され往反の節屡此の島に船を繋かせられた遺跡で、島内には韓島神社を祭ってある」。

 温泉津町小浜の厳島神社境内社の衣替神社の伝えは、「素尊韓国より石見に帰られ、更に韓国へ向はんとせられんとする途次、小浜の海岸笹島に生ひ茂った篠竹を箭にせんとて採取せられし時、磯越す波は御衣の裾を濡らした。尊は浜田川で衣を濯がせ給ひ側なる石に衣を掛けて乾かせられた。川中の辛螺蛭などが寄り集まって御裾に纏った。尊は之を御覧じて「目穢きものよ」とて辛螺の尻を穿って放ち、蛭の口を撚りて棄て、甚だしく懲らさせられた。これによって今に至るまで、此地方の辛螺は尻切れとなり、蛭は血を吸はぬやうになった。里人等は御稜威を尊んで衣替神社を建てたと」(以上『島根県口碑伝説集』)。

 半島とのつながり繁きが感じ取れる。

 

 スサノオの子とされる五十猛命については、なかなかむずかしい。『日本書紀』神代上に「一書に曰はく」として、「素戔嗚尊、其子五十猛神を帥ゐて、新羅国に降到りまして、曽尸茂梨(ソシモリ)の処に居します。乃ち興言して曰はく、「此の地は吾居らまく欲せじ」とのたまひて、遂に埴土を以て舟に作りて」、出雲の鳥上の峯に到りオロチ退治をするのだが、その続きに、「初め五十猛神、天降ります時に、多に樹種を将ちて下る。然れども韓地に殖ゑずして、尽に筑紫より始めて、凡て大八洲国の内に、播殖して青山に成さずといふこと莫し。所以に、五十猛神を称けて、有功の神とす。即ち紀伊国に所坐す大神是なり」。また、素戔嗚尊が鬚を抜いたら杉、胸毛を抜いたら桧、尻毛を抜いたら柀、眉毛を抜いたら樟になった。「時に、素戔嗚尊の子を、号けて五十猛命と曰す。妹大屋津姫命。次に抓津姫命。凡て此の三の神、亦能く木種を分布す。即ち紀伊国に渡し奉る」と書かれている神で、『古事記』では、八十神から逃れた大穴牟遅神が赴く「木国(紀伊国)の大屋毘古神」が五十猛神であるとされる。たしかに、妹に大屋津姫命がいるならその名がふさわしくはある。

 そもそもその名の読みが「イソタケル」「イタケル」「イソタケ」「イタケ」と一定しない。紀伊国には一宮として伊太祁曽神社和歌山市)があり、その祭神であるのだが、そこでは「イタキソ」と読む。射盾兵主神社姫路市総社)の祭神は射盾大神と兵主大神で、射盾大神は五十猛神、兵主大神は大己貴神とされる。射盾神は神功皇后三韓へ船出するときに祀られたという。ここでは「イタテ」。それは出雲の式内社にある韓国伊太氐神社と同音である。延喜式には意宇郡玉作湯神社・揖夜神社・佐久多神社、出雲郡阿須伎神社・出雲神社・曽枳能夜神社にそれぞれ「同社坐(同社神・同社)韓国伊太氐(奉)神社」があるという(岡谷公二『神社の起源と古代朝鮮』、平凡社新書、二〇一三:一一六以下)。

 さらに、奥出雲仁多郡横田に伊賀多気神社があり、その祭神が五十猛命である。ここでは「イガタケ」だ。加えて、「竹崎と中帳の間に五十猛命を葬り、鬼神大明神と曰ひしを、此の処より去って西北四十町許りの角村に徙して、いま伊我多気大明神と曰ふ是なり」と岸崎時照の『出雲風土記鈔』に記されているという(岡谷公二『伊勢と出雲』、平凡社新書、二〇一六:一六二)。その鬼神神社の前には巨石があり、スサノオノ命と五十猛命新羅から乗ってきた埴土の船が化したものだといい、裏山には「五十猛命御陵地」なるものがある。

 大島幾太郎の『那賀郡史』(旧那賀郡教育会、一九四〇)は須佐之男命親子ソシモリからの渡来の話を語って、スサノオとその子イタコソ命、抓之(ツマツ)姫、大屋姫が「先づ長門の幸山を目当に、こちらに御着きになり、それから東、石見の海なる高島、津摩の浦など経て、出雲へ行かれる途中、石見の海路をよぎり、海ばたのあそこ、ここに立寄りなされた。その時頃、神主神村の海は神主の口屋宮倉より東南、今いうイタコソ清水が尻辺まで、入海であった。そこへ丸い丸い椀の様な舟に乗って来られた」と、まるで見てきたような書きぶりながら、五十猛命を「イタコソ」とする。それを姫とする話もあって、「素戔嗚命は韓国から現在の須佐の神山(高山)目当てに渡り出雲への途次、円い船に三人の娘と共にタマト(多鳩)の入海によられた。うちイタコソ姫をここへ上陸させられた。姫は春の神で木の種子をタマトの地にまかれた。他の爪津姫は宅野へ、大屋姫は磯竹(五十猛)へ寄られた。イタコソ姫の上陸当時は今の口屋一帯が入り江で、「清水が尻」の地名も残っている」(山本熊太郎『江津市の歴史』)。何にもせよ、「イタコソ」ならば紀伊国一宮の「イタキソ」に通う。

 邇摩郡大屋村の大屋姫神社は祭神が大屋津姫命で、「古老の伝にいう。神代須佐男命、御子五十猛神、大屋姫神の二柱を率いて唐国より帰り、宅野村の韓島に御船をつなぎ大浦に御鎮座、五十猛神は磯竹の地に、大屋姫はここより別れ、南北一里半余を進み此処に鎮座ましました。これ本社の創建なりと」(『石見六郡社寺誌』)。

 それぞれわが土地に話を引っ張ってきたと思われるのはさておき、ともかく石見・出雲と新羅の関係が深かったことはわかる。

 

 タゴリヒメ(田心姫)は本来アマテラスとスサノオの誓約(うけひ)の際に生まれた三女神の一人で、イチキシマヒメタギツヒメとともに宗像神社に祀られる。しかし中世にはそれが、法華経を守護する鬼神であるところの十羅刹女、十人の羅刹女藍婆毘藍婆曲歯華歯黒歯多髪・無厭足・持瓔珞皐諦奪一切衆生精気)であったはずが一人とされたこの十羅刹女と習合された。

 『石見八重葎』波志村の条に見える「須佐能男命御子田心比賣御心荒々敷により、父神御心にかなハせす櫓櫂なき舟乗奉り海中へ御流し有しに、今の此浦の神江と申す所に流寄玉ふ(…)其後出雲国へ十羅より異賊此国を討取らんため来るに付夢中の御告に田心比賣を召返し此度大将となさは必す勝利有へしと詔り(…)此御神御帰りの上十羅の賊を討亡シ玉ふ故、十羅殺女と御神号奉申此古跡故此所に右御神御鎮座。隠石村にも御神奉祭り」云々という話はおもしろい(ただしここでは、十羅が異賊住む異国の名と見て、それを殺したから「十羅殺女」の名となったと説明している)。

 山本熊太郎『江津市の歴史』は、「須佐能男命の末といわれる六-七才の田心姫は「はこぶね」に乗って神江(みごう、今の波子美郷浦)に漂着された。老夫婦は篠の心を箸として毎食毎に取り替え大切に養育した。十二・三才の頃姫は東の出雲の狼火を見て抜け出された。爺と媼は驚いて後を追うたが椎の木の森隠石で見失い、大川(江川)を渡って浅利まで追跡したが遂に倒れ、追いついた媼もすがりついてなくなった。姫は出雲の急を長浜で防がれたという。後年早速神として津門神社に合祀されるに至った」と記す。「嘉久志村は昔波子の老父母から逃れて出雲の急に走る田心姫(羅刹女)が、ここの鳥居前の岩(長さ三尺横四尺)に隠れたので隠れ石といわれ、この因縁から聖武天皇神亀五年(七二八)に嘉久志村となった」(同)。波子のほうでは、津門神社について、「波子海城山に鎮座。祭神は天足彦国押入命の裔米餅搗大使主命で、寛平三年(八九一)宇多天皇の御代筑紫宗像郡から勧請した。その上陸地点「神様島」は神聖視され神幸式はこの浜で行われ、青灯篭と海蛇一匹を上る旧慣がある。ここに十羅刹女田心比売命が合祀されている」(同)。

 タゴリヒメ/十羅刹女が駆けつけた先の日御碕神社の社伝には、「孝霊天皇六十一年十一月十五日、月支国王玻瓊(はに)が、兵船数百艘を率いて、我が出雲の日御碕に攻めてきた。それはその昔、日の本の神、八束水臣津野命が、出雲が細長く狭いというので、新羅の御崎から、国の余れるところを見付けて国引きをした。彦玻瓊(ひこはに)はそれを取りかえすために押し寄せて来たのである。

 これはただ事ならじと、時の日御碕の小野検校の祖先、天葺根命十一世の孫の明速祗命が勇敢に防戦に当たった。それを見ていた遠祖の須佐之男命も、天上から大風を起こしてこれを助けられた。さすがの玻瓊の軍勢もこれにはかなわず、大軍はことごとく藻屑となった。この時、玻瓊の軍船が、その艫綱を結び付けていたのが、今も日御碕の沖合に浮かぶ艫島であると伝える」(『大社町史』下、一九九五)という話がある。

 この神話については史料がいくつもある。『石見国神社記』は津門神社の祭神を胸鉏比賣命とし、「当社と嘉久志村の十羅刹社と共に日御﨑社に由緒ある社なり」と記している。波子は大永三年(一五二三)、尼子氏によって日御碕神社の社領に寄進されているのだ(『大社町史』上、大社町、一九九一:七二七)。日御碕神社の祭神は、今は上の宮(神の宮)がスサノオ、下の宮(日沉宮)がアマテラスであるけれども、中世から近世にかけては十羅刹女とされていて、かつ彼女はスサノオの娘とされていた。タゴリヒメがスサノオの娘であるから、タゴリヒメ=十羅刹女ならそうもなろうが。謡曲「大社」後ツレとして出る天女は「われはこれ、出雲の御崎に跡を垂れ、仏法王法を護りの神、本地十羅刹女の化現なり」と謡う。この曲は観世彌次郎(一四八八―一五四一)の作である。

 耕雲明魏の「日御崎社造営勧進記」(応永二七年/一四二〇)に、「昔「月支国」の悪神が巨船に乗って来寇し、「荒地山の旧土」を征服しようとしたとき、日御崎社の霊神が霊剣を飛ばして賊兵をことごとく漂没させ、以来、異国防禦の神効は今に至るも絶えることがない」と書かれているという(『大社町史』上:七〇九)。

 今は演じられぬ謡曲「御崎」がこの神話を完結した形で示している(『謡曲全集』下、国民文庫刊行会、一九一一)。まず「そさのをの尊」が出て、「天竺月支国、うしとらのすみかけ落、海上にうかみ風波にしたがひ、豊葦原出雲の国に流れしより、不老山となる」と語る。それを取り返し、この国を攻め取りに「朦胡」「北天竺月支国、ひこはねの天皇」が八万艘の船をもって押し寄せるのを迎え撃たんとするところへ、十一歳の姫がやってくる。「岩見潟はしの浦波立出て、江津(えづ)の渡りうち過て、宅(たみ)のゝ島やたるみがた、鳥井の山に鳥をはや、出雲路は是とかは、田儀の港の浦つたひ、〱、久村(くむら)清松いたづらに、行くも帰るもあら磯の、吹上の浜風や浪にうき身のなり渡り、小舟も法に神上(かみあげ)の、松も千年のよはいぞと、月をぞになふたわむ身と、あふこの浦による波の、そがの里にぞ着にける」との道行きあって、尊の前に「我はこれそさのをのみこと第三の姫にて候」と名乗る。怪しむ尊に、「抑母君と申奉るは、はらげつら龍王の姫宮」、尊により懐妊し、十三月ののちに生まれたが、「思はぬ中の子なりけりとて、柏の葉につゝみ、是は汝が父、守護の為におかれし、とづかの劔を取そへ海底にしづめ給へば、あたりなる小島の磯により給ふ、見るもかなしやとて、また海に入給ふ。それより彼島を柏島と申也。六十一日と申には、石見なるはしの浦波よるとかや。然ればあけつかた、磯ものゝ為にとて、漁人夫婦出けるが、もくづの中をあやしめば、柏の葉につゝめるもののありけるが、あたりのかゞやくばかりなる、玉姫にておはします。我等今まで、子のなき事をなげきしに、是は天のあたへぞと、よろこびの袖にいだきとり、我家に帰りいつき、かしづきける程に、九の秋半夜なるに語申なり」。駆けつけた姫は「ひこはね」と戦い、白鳥と変じて大石を敵船に投げ込み、「朦胡」の首を切り落とした。そして「則女体は、十羅刹女と現じ給ひ、国土豊にうごかぬ御代と成にける」と納める。

 これが作られた年代はわからないけれども、石見出雲の地名を詠みこんだ道行きがあること、またその地名が必ずしも正確でないことから見て、先行する詞章があり、それをふまえたように思える。そう考えると、波子に流れ寄り老夫婦に育てられ、急を聞いて日御碕に駆けつけるという「波子姫神話」の部分、波子の日御碕との関係について、尼子氏による波子の日御碕社領への寄進(一五二三)によってできたのか、または因果逆にそのような話があるから波子が日御碕神社に寄進されたのかという問題は、おそらく後者だということになろう。

 北山は異国から流れ着いたものであるとの語りは、「鰐淵寺勧進帳案」(建長六年/一二五四)に「右、当山者異国霊地・他洲神山也、蓋摩竭国中央霊鷲山巽角、久浮風波、遂就日域、故時寺号、日浮浪山云云」に見える(中上明「神楽能「十羅」・「日御碕」について」、『山陰民俗研究』九、二〇〇四:五三)。ただこの場合は、天竺マガダ国の霊鷲山の一角が流れ着いたことになっている。『懐橘談』(一六六三)は「当山より美保の関までを北山といふ。天竺霊鷲山の乾の角自然に崩缺けて、蒼海万里を流れ豊葦原に漂ひしを素盞雄尊杵にて築き留め給ふ故に杵築といひ、此山を浮浪山とも流浪山ともいひ伝へたり」と記す(池上洵一『修験の道』、以文社、一九九九:一四〇)。これは霊山が天竺や唐土から飛来したという中世神話(『渓嵐拾葉集』に「霊鷲山の艮の角闕けて飛び来たりて唐土天台山と成り、天台山の艮の角闕けて我が国の比叡山と成れり」のように。池上前掲書:一二一)の一ヴァージョンで、飛来峰説話の国引き神話に寄った変奏となっている(寄せ固めたのはヤツカミズオミツヌでなくスサノオとなっているが、オオクニヌシを加えたこの三神が入れ替え可能であることは前に見たとおりである)。

 出雲神楽・石見神楽には「日御碕」(出雲)・「十羅」(石見)という曲がある(中上前掲論文)。迎え撃つ神は出雲神楽で日御崎大明神、石見で十羅刹女となっており、攻め寄せる鬼は彦春(ほかに彦晴・彦張などとも)、石見では彦羽根である。石見神楽の場合、なぜか高津や柳など美濃郡・鹿足郡にばかり伝わっているが、しかし宝暦十一年(一七六一)の「和木十二ヶ村神楽役指帳」にある(『邑智郡大元神楽』、桜江教育委員会、一九八二。和木は嘉久志の隣村)ことから、石見中央部にもかつてはあったようだ。十羅刹女であっても、「雲州日の御碕鰐淵山に住居する十羅刹女と申すなり」と名乗るように(高津神楽。矢富巌夫『石見神楽』、石見神楽高津社中、二〇〇〇)、波子からやってくるわけではなく、出雲・石見両神楽とも「波子姫神話」「流れ寄る島(浮浪山)神話」は言及されない。謡曲「御崎」と出雲神楽の「日御碕」や石見神楽の「十羅」の関係はどうかと考えるに、このように「御崎」との異同が少なからぬところを見れば直接それに由来したかどうかは疑われるが、大いに関係があるとは思われる(石見神楽が鬼の名を「彦羽根」とするのは「御崎」と同じで、出雲神楽は少々異なる)。

 ここでおもしろいのは備後比婆郡東城町の「ノウノ本」(寛文四年/一六六四)にある「十ラセツキナツキ」である(岩田勝『神楽源流考』、名著出版、一九八三:五一四以下)。「須弥山ヨリ北ニ当ツテフロウ山トテ金ノ山有、彼山ノ戌亥ノスミカケテヲチ海中ニ入、日本出雲国大社ノ北ノ方ニナガレヨリ、フロウ山トナリアラワレタリ」。「天竺ワレカツノ尊、此山ヲヲシミ給テ、取カヱサントテ、千ゾウノ船ヲウケ、十万八千人ノ鬼ヲ指向ケ給」と続け、神は「雲州神戸ノ郡スツサイノ里枕ベノウラニ住舞仕ミサキ大明神トハ自事ニテ候」と名乗り、鬼は「鬼界高来ケイタン国キツサ白サ、ヲウエゾガシマ、一万五千人ノ鬼ノ王ニムクリコクリトハ我ガ事」と名乗る。ミサキ大明神は十人の十羅刹女三十番神を引き具して、「鬼マン国ヨリムクリコクリトユイシ鬼、此山ヲウバイトラントタクム」のを撃退する。その際、天から大鳥現われて大石を投げ落とすこともあった。「浮浪山神話」あり、神はミサキ大明神、鬼はムクリコクリ、経典通り十羅刹女は十人の羅刹女、「波子姫神話」なし、というふうに、謡曲「御崎」と現行出雲・石見神楽曲とさまざまに異同がありながら、両者をつなぐ位置にあると認められる。「十ラセツキナツキ」の題も興味深い。「キナツキ」(杵那築であろう)と付されている点もそうだし、曲中単に引き具されているだけの「十羅刹」が表題になるのは妙だ。それを表題とすべき由縁がほかにあったはずだ。

 「神楽能の十羅刹女の説話は、おそらく浮老山鰐淵寺に拠る修験者たちが、御崎大明神を文字通り鰐淵寺のミサキと観想するなかで成立していったものと思われる」という岩田勝の指摘(『神楽源流考』:五一六)はおそらく正しいが、そこまでは踏み込まない。史料多ければ整合への意欲がそそられるけれども、結局「波子姫神話」の部分は、うつぼ舟で小さな御子神が寄り来りたまうと考える神話の想像・創造力がここにも働いていると確認するだけで終わる。

 

 そのほかにも拾い上げれば、

「邇摩郡湯里村大字西田の水上神社は上津綿津美命上筒男命の二神を祀る。神代の昔伊弉諾命日向の橘の小門に身滌し給ひし時産ませられた神々と共に温泉津殿島に上陸され、命は此地に鎮座せんと宣ひしより此の地を日祖と称することになった。外の神には別れを告げ、小浜に行かせられた。其告別の地を神別阪と云ふ。その夜小浜に仮宿して(仮屋谷)飯原に至り鎮座しては如何とありしも否と(イヤの名あり)宣ひ、それより湯里に出で、遂に西田の水上山に鎮座せられることになったのである」(『島根県口碑伝説集』)。

 式内社櫛代賀姫神社については、くしろひこ、くしろひめが美濃郡鎌手の大浜に上陸したとの伝えがある。「此の地でくしろひことくしろひめと云う、男女の神が会合した時、めをじ(虹の方言)が現れたと云う、男島彦島女島(姫島)の神話が、今日行われて居る」(矢冨熊一郎『益田町史』上、一九五二)。

 地名に久城(美濃郡)や久代(那賀郡)があり、式内社にも櫛代賀姫命神社(美濃郡)・櫛色天蘿箇彦命神社(那賀郡)があることから、クシロの女神男神を奉ずる人々がいたことはたしかであろう。

 

 十一月、陰暦十月の日本海が暗くなり荒れ始める頃に、「龍蛇」とされるセグロウミヘビが海岸に上がる。村人はこれを神の使いとして、採って出雲大社佐太神社に奉納することが知られているが、石見でもその慣習がある。

 大浦では、「古来十月中に、形蛇の如き一尺から二尺余の竜蛇一、二匹が大明神の境内唐浦へ上がり、浦人たちは新羅国からの使いとして、生不生にかかわらず、そのまま新羅大明神の御前に奉納している」と文政年間の代官所への報告にある(上田常一『竜蛇さんのすべて』、園山書店、一九七九:四〇)。新羅神社の末社龍蛇社について、「社伝に毎年十月の頃磯辺に来るを採て折敷に載て奉る蛇の如きものなり亦此海に長二寸はかりの頭は馬に似体は蛇に似たる虫あり是を俗に海馬と云ふ新羅明神此海馬に乗り来り給ふとも云ふ」(『石見国神社記』)。馬路の乙見神社でも、「出雲大社佐太神社のように、南方から季節風に乗って来る龍蛇が琴ケ浜に上り、これを奉納する信仰があって、今も本殿内に数多く保存されている」(『仁摩町誌』)。

 大元神楽「佐陀」は佐陀神社の由緒を説くものだが、その曲は「其時龍神五色の龍蛇をさゝげ上れば太神是を受け取り玉ひ宝の御蔵へ納め玉へば忽ち龍神立ち来る波を蹴立て蹴立て海中にこそ入り玉ふ」と舞い納める。

 これもまた渡り来る神(の使い)である。

 

 石見の神話なら、石見神楽のことも言わなければならない。今も眼前に神話を見せているのだから。この地方においてその人気たるやすさまじく、人口減少の止まらぬこの地方で神楽社中は130以上あり、今も増えている。

 「神楽」の名のごとく、もとは神職が行なうものであった。例祭の神楽は直面の七座舞、「太鼓口」「潮祓」「御座」「手草」「四方堅」「剣舞」「鈴合せ」などの儀式舞で、式年の神楽は五年とか七年・十三年ごとに行なわれ、大掛かりにさまざまな娯楽色の強い能舞が行われた。神憑りして神の託宣を聴くことも式年神楽の重要な行事であった(山路興造「石見神楽の誕生」、『民俗芸能研究』五六、二〇一四)。

 能舞の演目は記紀神話の「岩戸」や「大蛇」など、中世説話「天神」「黒塚」などである。現在神楽台本としてあまねく普及している『校訂石見神楽台本』(篠原實編、日下義明商店、一九七二)には、八調子神楽として「塩祓」「真榊」「帯舞」「神迎え」「八幡」「神祇太鼓」「かつ鼓」「切目」「道がへし」「四神」「四剣」「鹿島」「天蓋」「塵輪」「八十神」「天神」「黒塚」「鍾馗」「貴船」「日本武尊」「岩戸」「恵比寿」「大蛇」「五穀種元」「頼政」「八衢」「熊襲」「武の内」「五神」を収める。また古風な六調子神楽(大元神楽はこちらに属する)として「潮祓い」「磐戸」「八衢」「刹面」「鍾馗」「御座」「皇后」「貴船」「恵美寿」「八岐」「天神」「風宮」「佐陀」「関山」「弓八幡」「五龍王」「山の大王」を載せる。

 その人気曲は鬼退治もので、異国から襲来する悪鬼から国を守る「最前線」心情がみなぎっているようだ。鬼どもの名乗っていわく、「おお我はこれ、四海万国を押領なす、大悪鬼とはわが事なり。唐天竺は申すに及ばず、アフリカ(!)、韃靼、ヨーロツパ(!)、スマンダラ、三分才の塔の棟までも、わが足の當らざる處なし。我に敵たふものならば、足の爪先に引つかけて中天に蹴上げ、落ちる處を三十二枚の牙にかけ、けつしめつしとかみ砕かいでおくものか」(道がへし)、「おお我はこれ、今度日本征伐の大将軍、じんりんとは我が事なり」(塵輪)、「オゝ我は是蒙古の国の大王也然るに此度汝等が住む大日本の神国を一戦に攻崩し我国の奴とせん為甲冑兵船を催し只今是まで来たり」(風宮)、「おお我はこれ、中天竺他化自在天の主、第六天の悪魔王とは我が事なり」(八幡)、「おお我はこれ、春の疫癘夏瘧癘、秋の血腹に冬咳病、一切病の司、疫神とは我が事なり」(鍾馗)、等々。

 しかし一方、鬼面であっても大元神楽の「山の大王」は悪鬼でなく、奥三河の花祭に出る鬼のような、恐ろしげなれども恵みをもたらす山の主である。供応を受ける大王は山言葉を話し、それがわからぬノットジと滑稽なやりとりをする。

 

祝詞司(のっとじ)「山の大王さん、大変ご苦労さまでございました。わしゃ言葉が解りませんから、どうぞ大和言葉でおっしゃって下さい。」

大王「あいあい。祝詞司、さんげ、さんげ。」

祝詞司「大王さん、さんげさんげとおっしゃっても、今子供を産めというても産むものはいませんが、後家くらいではどうでしょうか。」

大王「いやいや、さんげとはお前のいう子供を産むことではない。神明から申して、かのみそぎのことじゃ。」

祝詞司「みそぎと言うのは。」

大王「神明から申して、かの祓いのことじゃ。」

祝詞司「高天の原に神づまります、神漏岐漏美(かむろぎかむろみ)の命以ちて、皇御祖(すめみおや)いざなぎ命、筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原(あはぎ)、禊ぎ祓いし時に成りませる祓戸の大神たち、もろもろの禍事、罪汚れあらむをば、祓い清め給へと申す事の由を天津神国津神八百万の神たち、共に聞こしめせとかしこみかしこみ申す。」

(中略)

大王「今度は、またあり、またあり。」

祝詞司「又あんなことを言われるが、またありまたあり言うて、人の股を借りてくる訳には行きませんが、私の股ではどうでしょうか。」

大王「人の股の事ではない。神明から申して肴の事じゃ。」

 祝詞司が肴を捧げるとき、長短二本の箸を用いる。

大王「これこれ、祝詞司、上箸が長く、下箸が短いのは一体どうした訳じゃ。」

祝詞司「上箸の長いのは悪魔災難をずっと押しのけるためです。下箸の短いのは、福徳円満をずらずらずらずらと引っ込むためです。」

大王「ふん、なるほど、もう一回やり直せ。」

 やり直し。次いで神饌を下げる。

大王「うん、なかなかよく出来た。大王は一足先に帰るから、祝詞司も早く帰って来い。」

 大王入り、祝詞司、舞い収めて入る。

 

 この「山の大王」のほか、「五穀種元(伎禰)」「切目」(熊野の切目王子伝承より)「五龍王(五神)」などはほかの能舞と趣を異にし、より深く民衆の思念にからまったものを感じさせる。

 「五穀種元」は次のようである。

 

天熊「自らは天照大御神に仕へ奉る天熊の大人といへる神なり。ここに天照大御神の御言以ちて、この豊葦原の瑞穂の国に保食の神といふ神ありと聞こし召したまひ、御弟須佐之男の命を遣はして見しめたまふ。故須佐之男の命、その御御言を畏こみまして、保食の神の御許に至りたまひ、食しものを乞ひたまへば、保食の神、種々のためつものを、百取りの机につくり供へて奉りたまふ。時に須佐之男の命、その御仕業を覗ひ、怒り面火照りして、汚きものをもて我に養ふぞと宣りたまひ、即ち保食の神を打ち殺して返り言申したまふ。時に天照大御神、重ねて自らに詔らして、保食の神の御許に至り、その御有様を伺はしめたまふに、保食の神まことに既に御まかりたまひ、その御体に生れる種々の種つもの、又蠶、桑の木、牛馬に至るまで、悉く取り持ちて、天照大御神に捧げまつりしかば、大御神いたく喜びまして、この物どもは顯しき靑人草の、朝夕に食いて生くべきものぞと宣り給ひ、即ち粟、稗、麥、豆を畑つ物と定め、稲を御田つものと定めたまひて、天の村君をして天の狭田長田に植え廣めさせとよとの詔を受け、只今村君が許にと罷りて、大御言を伝へばやと存じ候。」

天熊「急ぎ候ほどに天の村君が許に着きて候。いかに天の村君、御出で候へ。」

村君「自らを召され候は、いかなる詔にて候や。」

天熊「自らは天照大御神に仕へ奉る天熊の大人といへる神なり。ここに大御神の御言もちて、汝天の村君に、この種々の種つ物、又斎鋤斎鍬を授けて、田畑を開かしめ、この種つ物を植へ廣めさせとよの大御言なり。汝この斎鋤斎鍬を持ち候へ。」

村君「畏まつて候。」

天熊「其の斎鋤斎鍬を持ちて狭田長田を開き、この種々の種つ物を植へ廣め候へ。」

村君「こは有難き詔にて候。然らば人民を率いて牛馬を以て力を助けしめ、斎鋤斎鍬をもて、水ある處を田となして稲を植え、水なき處を畑となして麥、粟、稗、豆を播き植え、又天の香具山に桑を植えて蠶を飼はしめ、事終へて後、重ねて注進仕るべく候。」

天熊「然らばこの由奏聞に及ぶべく候。」

 (後略)

 

 この曲は「伎禰(杵)」ともいい、杵と臼は男根と女陰のシンボルだから、エロチックな類感呪術的意味も当然あるだろう。

 「五龍王」は五行説の劇化である。「凡天地万物ハ皆陰陽五行自然のなす所にして、四季の巡還万木万草の生枯、春夏秋冬四土用の功用迄皆是造化の義なれば、人として目下其形を見事能はす。然共形をさして見ざる物ハ其功の大ひ成りといへ共、其徳に感伝する事おのづから薄し。是によつて暫く造化に形を設け、人体に移して是を顕ハす所の舞也」と「御神楽之巻起源鈔」は説いている(『邑智郡大元神楽』)。

 父王の所領相続の争いの形で、春夏秋冬・東西南北・木火金水を司ることとなった四人の王子に対し、末子(父王の死後生まれたともいう)五郎の王子が自分の取り分を要求して戦いに至るも、老翁が裁定し五郎(ここでは埴安大王)は四人から春夏秋冬それぞれの土用を分けて取らせ、中央にあり土徳を表わすこととなる、という筋だ。陰陽道修験道の徒の手になり伝え広めたものである。大曲で、夜通し行われる神楽のしまいごろに演じられる。

 

第一王子春青大王「そもそも自らは国常立王第一の皇子、春青大王とは自らが事なり。さて我が父国常立王と申し奉るは、天地とともに神明現はれたまふが故に、造化神、偶生神と稱し奉る。これを神代七代とは申すなり。然るに開闢の初め、国土成就すと雖も、万民皆山野に住居し、君臣父子の道も疎かにして、士農工商の別けもなく、森羅万象生ひ茂り、草木時を定めず、国土穏かならざらば、国常立王には詔を下したまふ。さて第一の王子、春靑大王には、東方甲乙の群を所在として、春分正中を司どり、造化をなして生育を専らとし、時候寒暖なく、万物を生成し国家を利益せよとなり。即ち詠み歌に曰く、『久方の天の香久山神代より霞みこめつつ春は来にけり』さて夏赤大王の御所存はいかに。」

 続いて第二王子夏赤大王・第三王子秋白大王・第四王子冬黒大王が名乗り、次いで末子埴安大王が現われ自らの所領を要求するが、拒否され戦いとなる。そこへ所務分けのおじい(塩土の翁とも)が出て来て仲裁し、裁定をする。

所務分けのおぢい「各五神の大御神たち、何を争ひたまふぞや。静まりたまへ。」

五神「我々領地を争ふ合戦の場に、静まれなんどとは、天が下に覚えなし。」

おぢい「各五神たち、勝負あっては叶ふまじ。今一天四海万民の憂ひ、いかゞせん。各々五神たち、抜いたる太刀は鞘に納め、はいだる弓は袋に納め、暫く合戦をやめて、某が奏聞の趣を聞し召され候へ。」

おぢい「さて上天高天の原、日光殿月光殿に於て某を召され汝かしこ根の命、各々五神たちに命令を下したまへと宣りたまふ。それ未生已生の一太極を立て、太占を以て広大無辺の理を諭したまふなり。一徳の水、二義の火、三性の金、四節の木、五季の土と五方に分け、東西南北中央を立て、これを後天と名づく。これまでの水火木金は先天にして争扞不利の所在なり。今より所在を分鎮し、所領を分けて参らするなり。」

五神「畏まって候。」

おぢい「さて第一の王子春青大王には、東方甲乙の郡を所在として、海八万八千町、川八万八千丁、海山川三口合して二十六万四千町、春三月九十日を知行なされたく思し召され候処、この中を十八日残しおき、七十二日を所領となされ、青き御幣をば寅卯を境に立ておき、これを知行となさるべく候。」

春青「畏まって候。」

おぢい「残しおく十八日をば、三月大土用と除き、これを埴安大王に参らるなり。」

以下、「第二王子夏赤大王には、南方丙丁の郡を所在として、海山川三口合して二十六万四千町、夏三月九十日を知行なされたく思し召され候処、この中を十八日残しおき、七十二日を所領となされ、赤き御幣をば巳午を境に立ておき、これを知行」、「第三王子秋白大王には、西方庚辛の郡を所在として、海山川三口合して二十六万四千町、秋三月九十日を知行なされたく思し召され候処、この中を十八日残しおき、七十二日を所領となされ、白き御幣をば申酉を境に立ておき、これを知行」、「第四の王子冬黒大王には、北方壬癸の郡を所在として、海山川三口合して二十六万四千町、冬三月九十日を知行なされたく思し召され候処、この中を十八日残しおき、七十二日を所領となされ、黒き御幣をば、亥子を境に立ておき、これを知行」とし、それぞれから取り分けた十八日を土用として五郎の王子に与える。

おじい「さて中央五郎の王子埴安大王には、中央戊己の郡を所在として、海八万八千町。川八万八千丁、海山川三口合して二十六万四千町、春の土用十八日、夏の土用十八日、秋の土用十八日、冬の土用十八日、四土用集むれば、これも七十二日にて候へば、黄色なる御幣を丑辰未戌を境に立ておき、これを知行となさるべく候。」

五神「畏まって候。」

と納めて、舞となる。

 

 石見の神話に思想があるなら、それは「福は内、鬼は外」。争闘も決して辞さない一方、五穀豊かに鎮まり栄える世の希求が一貫していると言える。

 

 

 主な文献としては、

石田春律『角鄣経石見八重葎』(一八一七)、石見地方未刊行資料刊行会、一九九九

藤井宗雄『石見国神社記』(一八八七)、山崎亮翻刻、『山陰研究』二・三、二〇〇九・二〇一〇、および山崎亮・錦織稔之翻刻、『古代文化研究』二四、二〇一六より

島根県口碑伝説集』、歴史図書社、一九七九(原著:島根県教育会、一九二七)

『石見六郡社寺誌』、小林俊二修訂編纂、石見地方未刊行資料刊行会、二〇〇〇(原著:一九三三)

なつかしい村

  一

 上村に「松尾のおじさん」という人がいて、ときどきうちを訪ねて来ていた。親戚だとは聞いていたが、どういう続柄か知らなかった。最近ようやく祖母のいとこ(祖母の父の甥)だと知った。名前が久朗であることも。

 記憶の中の顔立ちはもはやはっきりしないが、チョビ髭を生やしていたように覚えている。そのためか、ちょっと怖い感じがした。上村の人は「孤高の人」だったと言っている。早くに離婚してからずっと独身だった。子はない。同様に独身の妹のゆうと暮らしていた。岡山医科大学卒。明治三二年に生まれ、昭和五九年二月二九日に世を去った。八九歳。晩年の昭和五一年、島根医大に昔の医療器具を寄贈、その後江戸・明治期の医学書三五二点もゆだねた。ゆうは明治四一年八月五日生まれで、現在の京都女子大卒、平成一一年九月一八日九一歳で亡くなった。

 早くに医業は廃していたようで、特に診てもらいたい人だけ診療していたという。もっぱら田畑を耕す生活をしていた。畑仕事のかたわら、通りかかる人を呼び止めては話をした。話し好きだった。何事にも一家言のある人で、改変は改悪として嫌い、反骨精神旺盛だった。

 松尾家(屋号神向)の七代目に当たる。曽祖父は洞軒、祖父は謙秀。父親は廣運で、昭和二年四月一一日五三歳で死去。母ワサは上河戸渡利家より来た。弟の克(明治一六年八月一四日生まれ、昭和一七年二月二三日没、六〇歳)は油谷家へ婿養子に行き、九人も子があったが義父と折り合い悪く、松尾の家に帰りそこで亡くなった。妹のヒデ(明治二八年三月二三日生まれ)は林崎へ嫁した。

 一度だけ、今は取り壊された松尾の古い家に行ったことがある。石垣の上に長屋門のような門を構え、古びた立派なものだった。すぐ近くに願楽寺が高い石垣の上に立っている。そこで撞く鐘の音が山里に響けば、さながら一幅の絵である。

 週に一度温泉津の元湯へ浸かりに行ったそうだ。帰りの山道、中学生に荷物を持たせ、駄賃にと駅で買ったアンパンを与えて、歴史や医学の話をしながら歩いて帰ったとの思い出話がある。子供をお供に、物知りな話を放談しながら、湯あみ帰りに谷間の道をぽくりぽくり歩くチョビ髭の老村医のさまを思い浮かべると、懐かしい気持ちになる。実際には見たことなくとも、いつか見たような気がする。

 長逝に際し、父の漢詩と句がある。

 

 大恩の医師逝き給ふ閏日

 

  奉輓松尾久朗先生

 仁愛刀圭洽此鄕 仁愛の刀圭 此の鄕に洽ねく

 徳聲奕世潤汪汪 徳聲 奕世 汪汪と潤う

 憂時警世傳家業 時を憂い 世を警め 家業を伝う

 閏日悲哉赴北邙 閏日 悲しい哉 北邙へ赴く

 

  哭醫學博士松尾久朗先生

 戰中戰後變遷時 戰中戰後 變遷の時

 雲臥高才仰我師 雲臥の高才 我師と仰ぐ

 通學患胸西國里 通學 胸を患う 西國の里

 動員瀕死尾州涯 動員 死に瀕す 尾州の涯

 無窮恩惠終年謝 無窮の恩惠 終年謝す

 絶代刀圭三世醫 絶代の刀圭 三世の醫

 閏日卒然乘鶴去 閏日 卒然として 鶴に乗りて去る

 斷腸揮淚賦辭詩 斷腸 淚を揮って 辞詩を賦す

 

  二

 松尾家のあった上村は、山を越えれば海辺まで一里程度であるが、けっこうな山里の印象だ。さして険しい山ではないが、川をはさんでこちらの山から向こうの山までの広からぬ谷合いの村である。春には鶯の声がのどかにこだまする。

 上村は石見国邇摩郡の村で、江戸時代は天領で大森代官所の支配地であった。もと福光本領に属し、福光川の上流にある。福光下村に対して上村というのが村名の由来である。最上流の飯原と合わせて上村・飯原と併称されることが多い。慶応二年から明治二年まで長州藩預かり地であった。明治二二年に小浜村・飯原村と合併して大浜村になりその大字、昭和一六年にさらに合併して温泉津町となった。

 『角川日本地名大辞典三二 島根県』(角川書店、一九七九)によると、元禄の『石見国高郷村帳』では村高一八七石余、『天保郷帳』では一九一石余とあまり変わっていない。「石見雑記」には「産業は農間石工をなす」とある。

 明治一〇年代の記録である『皇国地誌』資料では、田二二町余・畑一〇町余・切替畑一九町余・宅地二町余・山林未調査。戸数は六三・人口三一三人、牛四二匹。男は「農業売薪業五九戸のうち次の業を兼ぬ。酒売商二戸・醞匠一戸・工匠三戸・鋸匠一一戸・塗匠一戸・医一戸」、女は「総て農事を業とし織職を兼ぬ」。「男一五人・女六人が誓徳寺の人民共立小学校に通学」。産物は農産物のほかに、薪八○○〇束・炭四〇駄・葛粉一〇貫・ロウソク四〇貫などがあり、温泉津・小浜・福光へ輸送している」。明治二二年には六九戸・三六九人と増える。

 飯原は、『石見国高郷村帳』で村高一四七石余、『天保郷帳』一四七石余。『皇国地誌』では田一九町余・畑一六町余・切替畑一九町余・宅地二町余・山林不詳、戸数七五・人口三一五人、牛五〇頭。物産は農産物のほか、牛と薪炭。男の生業は「農六六戸・大工四戸・木挽五戸・僧一戸」、女は「専業縫織にして又農耕を兼ぬ」。明治二二年には七二戸・三八四人と、戸数はやや減りながら人口は増えている。大森から西田・福光への街道筋にあり、交通も頻繁な村里であったという。

 なお、明治八年に上村の田の六一・二%、畑五五・四%は小作地だった。飯原では田の五五・七%、畑の四七・九%。

 

 およそ人の住むところ、伝説なきはない。ことに山里となれば、天狗もやまんばもいる(『温泉津町の伝説』、温泉津町教育委員会、一九七〇)。

 上村の北の高瀬には上瀧の天狗松という大きな松の木があり、天狗が住んでいた。目を開けて天狗松に近づくとけがをするから目かくしをして近よらねばならないそうだ。

 やまんばは、飯原の北にあるお大師山の岩屋に住んでいた。頬骨とびだし顎が長くとがって、真っ白な髪を蔓で結びぼろぼろの着物を着たばあさんが、棕櫚か藤蔓で作った緒を売りに歩いていたという。機を織りかけて出かけてもどってみると布に織りあげられていたり、蒔きもしない種が生えて大根や牛蒡ができたりしたが、留守に赤子を傷つけたりもしたので追い払われた。

 やまんばあが顔を洗っていた水たまりで洗うと、ししね(いぼ)がなくなる。目ぼいと(ものもらい)も小豆を二粒持って参ると治るという。

 また、飯原の奥には忠左衛門という大蛇がいて、悪さをすると目がくらんで道がわからなくなる。

 山里の常で、狐に化かされることもよくあった。酒をふるまわれみやげの重箱をさげての帰り、山道で転んで、家に着いて見ると重箱が空だった、というような。

 飯原の道端の畑の中に塚がある。朝鮮征伐に上村の矢研田氏も出て、切った耳や鼻を持ちかえって埋めた耳塚鼻塚といわれるものだ。

 神について語られる話では、「血を吸わない蛭」というのもある。厳島神社の祭神市杵島姫命が川向うから今の宮にお渡りになるとき、川の中の蛭が足についた。蛭の口を絞って、これからは人の血を吸わないようにと言ったと。

 これは小浜の厳島神社境内社の衣替神社について伝えれる須佐之男命の話の異聞であろう。朝鮮からお帰りになった命が温泉津の笹島に船を着けられ矢竹を採られたとき、衣を濡らされたので、小浜の浜田川のほとりで衣をすすぎ岩に衣を掛けて干しておられたら、蜷貝や蛭が衣を汚したので、命は蜷の尻を切り蛭の口を絞り、以来いまも浜田川の蛭は人に食いつかず蜷には尻尾がないという。

 西田では四本の棒を立てかけて稲架を組み、それがミミズクに似ているのでヨズクハデといっている(ヨズクはこのあたりの方言でミミズクのこと)。今この形のハデは西田にだけ残っているが、以前は上村や飯原にもあった。西田の水上神社に伝わる伝説によれば、神代の昔、綿津見命上筒男命などが日本海に船を乗り入れられたが、海は大荒れとなり、温泉津の殿島あたりに漂着され、それ以来この地を日祖と呼ぶようになった。しばらく日祖から小浜の浜辺などで海水から塩をつくったり、上村、飯原、西田で稲作を教えたりし、そのときヨズクハデの組み方を教えられた。そして西田の水上山に鎮座せられることになった、云々。

 

  三

 この上村に、幽蘭こと松尾よねという人がいた。

 幽蘭は神向松尾家の四代目松尾洞軒の妻である。洞軒は医者で、幼名文禮。安政六年(一八五九)一二月二五日、赤痢の大流行にあい三五歳で死去したから、生年は文政八年(一八二五)ごろであろう。大坂瓦屋橋藤岡洞斎のもとで修業した。洞斎が華岡青洲の弟子だから、その孫弟子に当たる。一〇―一一歳で入門、一五年間勤め、二五歳で帰郷開業という伝えがある。たいへんな勉強家であったようで、塾生時代、天保九年から同一五年までの写本が残る。「于時天保九歳戊戌十二月吉日調之者也 松尾文礼歳十四才之時 写之也(『痘疹治療万全』)」「天保十四癸卯初秋十有二日崎陽立山医学館 藤岡洞斎大老先生於塾下写之 石陽 松尾文禮 十九才之時(『加賀和流産術秘傳』)」というふうに。天保一四年には一一冊の写本を作った。師から「洞」の字をもらったというが、それもうなずける。嘉永七年三〇歳のとき、自宅に熊谿書屋を造り、熊谿堂と号す。松尾家墓所の墓碑には「洞軒院釋達明居士」「松尾四代主人洞軒号熊谿堂安政六巳未十二月廿五日卒行年三十五歳」「挌知釣玄術入神已看枯木亦回春恝然何事齎竒器三十五年辭世人男謙謹誌」とある。もうひとつは最も奥まったところにある横倒しの墓石で、それには「松尾洞軒号熊谿堂行年三十五卒謙助父當家第四代目也」。

 世界で初めて全身麻酔を用いて乳癌手術を行なった華岡青洲(一七六〇―一八三五)の手術図が松尾家に秘蔵されていた。青洲の死後、洞軒がその家を訪ねて原本を借り、『奇患図』(一〇四頁)『縛帯図』(六六頁)を画家の柏友に模写してもらったという。弘化二年(一八四五)の写本である(『毎日新聞』昭和四六年五月二八日)。島大医学部図書館に寄贈された旧松尾家蔵書に青洲の『春林軒燈下醫談』『天刑秘録』がある。

 洞軒の父松尾尚春は天保四年(一八三三)三月四日死去、五七歳。母ツネは天保九年(一八三八)八月一八日没、四四歳。なお尚春には先妻歌があったが、文政二年(一八一九)四月一三日に二四歳で亡くなった。父が高齢になっての子であり、若くして父、そして母も亡くしている。

 松尾幽蘭は明治二六年(一八九三)一〇月三〇日死去、享年七五歳。それから逆算すると文政二年(一八一九)ごろの生まれとなる。

 直接知る人はもちろん、聞き伝えで間接に知る人もいなくなった今では、もはや探るにもよしない。二七歳で二五歳の洞軒に嫁ぐというが、享年から数えて年齢差は五、六歳の年長であり、この伝えは正しくない。後掲の碑文にある通りよねが二七歳で嫁いだとすれば、洞軒は二一、二二であった。ちょっと釣り合いが悪い。まあ、都から片田舎へ嫁をもらうなら、普通とは少し違って当然かもしれないが。

 また、「天保年間(一八三〇―一八四四)、蘭学者松尾洞軒氏が、医業のかたわら、自宅にて私塾を開き、児童に読み書きを教えていた。/弘化年間(一八四四―一八四八)洞軒氏が幽蘭女史と結婚後は、女史が代って教えられ、嘉永年間(一八四八―一八五四)、洞軒氏没せられて後も十数年に亘り、この地方の子弟がその薫陶を受けている。この間二十五年位である」と村人からの聞き書きをまとめた『上村・飯原学校と村の歴史』(一九七七、上村・飯原みんなの会)にあるそうだが、年代がおかしい。洞軒が没したのは安政六年(一八五九)である。弘化に結婚というのはいいけれど、天保年間には洞軒はまだ二〇歳にもなっていない。一〇―一一歳で藤岡洞斎の塾に入門して一五年間勤め、二五歳で帰郷という言い伝えとも反するし、蔵書の一冊に弘化三年(一八四六)浪花にて求むの書き込みがあるので、そのときはまだ大坂にいたはずだから、天保に私塾云々も誤りである。結局同時代の碑文に頼るしかない。

 享保の飢饉時、甘藷栽培を導入奨励して人民を救った仁慈の人、芋殿さまこと天領大森代官井戸平左衛門正朋(一六七二―一七三三)を称える泰雲院碑はこの地方に数多いが、上村にもそれがあり、その右に幽蘭の顕彰碑が立っている。

「幽蘭女史松尾米子之碑

女史諱米安達氏京都華族六條氏家士安達彌右衛門之第二女也有故為石州那賀郡畑田村農山下吉左衛門之養女年廿七配邇摩郡上村醫松尾洞軒居十年洞軒病没男謙秀尚幼女史教養有方先是村童就松尾氏學書數而洞軒業務無暇因使女史代教授女史性温良和気接人嗜和歌能書號幽蘭又能弄琴絃毎好誦徒然草其胸襟可知也故受業者不絶寡居幾十年経營妟如也明治二十六年十月三十日罹胃患而逝享年七十五葬于大濱村松尾氏先塋側嗚呼哀哉門生追慕不已相謀建石云

明治二十七年八月 島根縣中學校教諭 片山尚絅撰」

 読み下すと、

「女史諱米安達氏、京都華族六条氏家士安達彌右衛門の第二女也。故有りて石州那賀郡畑田村農、山下吉左衛門の養女と為る。年廿七邇摩郡上村醫松尾洞軒に配し、居ること十年、洞軒病没。男謙秀尚幼かりし。女史教養有り、是より先、村童松尾氏に就き書数を学ぶ。而して洞軒業務暇無し、因て女史をして代りて教授せしむ。女史性温良、和気人に接し、和歌を嗜み書を能し、幽蘭と號す。幽蘭又能く琴絃を弄び、毎に好みて徒然草を誦す。其胸襟知る可き也。故に業を受くる者絶えず。寡居幾十年経営妟如也。明治二十六年十月三十日胃患に患りて逝く。享年七十五。大浜村松尾氏先塋の側に葬る。嗚呼哀しい哉。門生追慕已まず。相謀りて石を建つと云う」

 台石には門生三七人の名前も刻まれていて、その中には松尾謙造という名もある。謙秀のことであろうか。

 幽蘭は安達彌右衛門の娘であり、自分の生まれた家への思い強かったのか、松尾家墓所には「京都安達井上両家先祖代々追善」の碑がある。

 六条家は村上源氏羽林家(参議から中納言、最高は大納言まで進むことができる家柄)で、家業は有職故実、維新後は子爵となる。しかし江戸時代の家禄は二六五石である。藩ならば中士の扶持だ。その家の経済はどのくらいのものであったか。天保十三年(一八四二)刊の『雲上明覧大全』(松尾家旧蔵)によると、寺町石薬師下ルに屋敷があった。たとえば二八六〇石の裕福な近衛家の項には諸太夫一〇人、侍八人の名が挙げられているのに、六条家では諸太夫も侍も書かれていない。下橋敬長『幕末の宮廷生活』によると、摂家親王・門跡以下の堂上家では雑掌・近習を置き、士分だが、一年の給金は三石だったというから、小身である。あるいは山城国乙訓郡にあったという所領の管理に当たっていたかとも思う。しかし娘に和歌琴絃などの教養を仕込んでいたし、嫁入りのときなぎなたや細工の細かい櫃入りの重箱を持たせている(今は瀧光寺蔵)。

 「故あって那賀郡畑田村農山下吉左衛門の養女となる」とあるが、それはどんな故だったのか。山下吉左衛門は洞軒の伯父だということだ。明治三年に六五歳で亡くなっている。山下家(屋号井戸小屋)は豪農で、山林田畑を経営していた。その屋敷は登録有形文化財となっている。畑田村は『皇国地誌』に「大概山にして其中間を東北隅より西南隅へ僅の耕地貫き、其他東西に田畠処々散在」とあるような山村だが、石高は『石見国高郷村帳』『天保郷帳』とも二二一石、明治初年戸数八五、人口四一六人だから上村より大きい。しかし、現在の住宅地図を見ると隣の上津井地区との境に八軒ほどがあるに過ぎず、「限界集落」を一歩越えて、ほとんど消え去りかけている。だが、高度成長期の後でこそそうなってしまっているとはいえ、その後の眼でその前を見てはいけない。村の富は耕地だけで計れない。山も富の源泉だった。その頃の燃料は一手に薪であり炭であり、建築材料は木であったのだから。とりわけ、この地域はタタラ製鉄が盛んであった。「現在江津地方にある旧家の祖先にして、鈩製鉄に手を染めなかったというものは殆どない」(森脇太一「石見江津地方における小鉄事業」、『たたら研究』一三)。それに必要なのは砂鉄と炭だから、木炭の需要は高かった。木は前代の「石油」であり、牛は前代の「トラック」「トラクター」だったのだ。林業衰退以前、山林地主はまぎれもなく資産家だった。

 結婚時洞軒の両親はすでに他界していたので、自身の意思で相手を決められたと思われるが、しかし身分も違えば住所も遠い二人(年齢からも女の方は婚期を外れている)がどのようにして結ばれるに至ったものか。その事情はまったくわからない。(1)京か大坂で知り合い、都合上一旦山下家の養女となり、形を整えて嫁入りしたか。それならどのように知り合ったかが不明である。電車が走る今と違い、京大坂もそう簡単に行き来はできまいし、その当時それなりの家の娘はみだりに外を出歩かなかったはずだ。(2)あるいは何かの事情で畑田村に養女になって行っていて、そこで洞軒と縁談でもあったか。これでもなぜ山下家の養女になったか理由が知れぬ。要するに伝記のまったき空白部分で、小説家なら勝手な想像で埋めるところだが、小説を嫌う者としては、わからぬことはわからぬとしておくにとどめる。

 なお、墓碑には「幽蘭院釈尼利貞」「松尾洞軒君内正通称ヨ子賢明能書常好徒然草晩年信佛教明治廿六年十月三十日(以下六字欠けて読めず)」とある。

 息子の謙秀(謙助)は嘉永六年(一八五三)一〇月九日に生まれ、大正二年(一九一三)一一月七日に六一歳で亡くなっている。明治を自分の時代とした人で、松尾家中興の祖とされる。『東京医事新誌』にも寄稿をしていた。木島から妻キチを娶る。才能ある息子を立派に育て上げたものだが、しかし洞軒が死んだとき謙助はまだ一〇歳。そのとき舅姑もすでに亡くなっていた。幽蘭は謙秀が一人前になるまで家を支えなければならなかった。

 はじめは自宅で教えていたという。明治初年ごろ誓徳寺で塾が開かれ、そこで住職円心が教えたというが、村人伊瀬寛造の履歴書に「文久二年十二月生れ、明治三年五月ヨリ、五年十二月、上村松尾米女ニ従ヒ普通学ヲ修ム」(『温泉津町誌』下、温泉津町、一九九五:七)とあるそうだから、よねの教授は続いていたのだろう。

 寺子屋では、「師匠に対する謝礼としては、雛節句端午節句、盆、正月の年四回、三分乃至一匁の浜田札を包んで進呈したものという」(同:八)。

 明治五年の学制発布に伴い、明治六年五月一日「上村飯原学黌所」として誓徳寺庫裡を借りて開校した。鷲峰寺住職鷲丘等阿が教師となったが、「鷲丘氏は僅かに三か月で職を辞され、後は曽て私塾を開き、学校創立の先覚者である松尾米子女史が無給で教師の任に当たられ、創立後の惨憺たる苦心の中に基礎を築かれたのであります。/のち、藤谷不染氏が教職に就かれ、学校世話係木島清之助、吉田橘太郎、松尾謙秀氏と協力して学校の設備、内容に大革新を断行されたのであります」と温泉津小学校上村分校廃校式(一九六五)の式辞で述べられている(同:一四)。藤谷不染は願楽寺自牽の弟である。

 なお、この誓徳寺の本尊は真言宗には珍しく阿弥陀如来なのだが、もと辻山の阿弥陀岳山頂にあったという。この如来さまは沖を通う船をたびたび止めたものだから、迷惑して慶長年間に今の地に移したものだそうだ(『大浜村誌』)。

 

 歴史には「大きな歴史」と「小さな歴史」がある。幽蘭の生きた時代、大きな歴史のエポックはもちろん明治維新であり、それに先立つ長州征伐であっただろう。

 西田から飯原、上村への道は山陰街道だったから、征伐軍は陣羽織に槍のいでたちで威風堂々と進軍したが、大敗し軍規を乱して敗走、それを追って長州軍が来た。頭には笠、腰には袴ももだちの軽装で、剣付鉄砲を担いでいた。上村で休憩したが、そのときは鉄砲を三組に立てていた。幕府軍の敗退後こんな歌がはやった(『大浜村誌』)。

 長州攻めるて わが攻められて

 猫のかんぶくろで あとすだり

 幽蘭にとってのエポックは、洞軒との結婚と遠い石見の山里への移住と、一〇年後のその死であっただろう。御一新の変革も影響を及ぼしたには違いなく、「大きな歴史」は「小さな歴史」にしきりに介入するが、その前とその後も基本的には連続しているわけで、「大きな歴史」を「小さな歴史」に振りかざしすぎないほうがいい。

 

  四

 「幽蘭」は奥深い谷に生えた蘭の意味で、山の谷間の村に嫁いだよねにふさわしい雅号である。芭蕉連句全集である『幽蘭集』という句集があるから、そこから採ったのかもしれない。和歌や俳句の素養があり、その墓碑には歌が刻まれている(『温泉津町誌』下:四二六)。

「おこたりに身を過まるゝ

  けさはまた御法の庭

  鶯のこゑ」

 俳句では、飯原の金剛寺に奉納された俳句額がある。

「有仙居士追悼発句集

 三竹園青池評

 魁

 何事もなくて夜明けぬくさの花  小ハマ素月

 雨はるゝかたより春のつき夜哉  ハツミ竹山

 雲かけの添へば戦くやおミなへし  米女

 うくひすの来る樹をもちぬ江の小家  川本静月

 人あけしふねの掃除や朝かすみ  松園

 売に来たむしにあき立つ都かな  如水

 いそがしい間にも沙汰して春を待  ハツミ竹翠

 かすまねは常の朝なり江の小いへ  米女

 祇園会やくもりを払ふ朝あらし  如水

 やはらかに風のはしるやをみなへし  フクミツ又佐

 ゆく雲をみるやつくもの中の水  矢上僕々

 からうすををりて菊見の案内かな  松園

 しら雲をはやはつ花のかまえかな  ハツミ芳谷

 こころ澄むかきりや月ににほう菊  如水

 植た夜をはやなれ〱し竹の月  同

 田一枚ふさくやうめのあさ日かけ  米女

 うめにしろく柳に青し春の水  大家石鼎

 着そむれは行さき多きあはせかな  同 一奥

 ひとすちのなかれにふける火垂哉  ハツミ呉江

 うつなみも静になして初日の出  竹翠

 ふり遂し景色なりけり竹の雪  米女

 秋にはや瀬ありて柳のみとりかな  素月

 朝かほのさきむかひけり朝のつき  同

 雁なくやさす潮寒く夜のあける  米女

 やまふきやその川上は八瀬の里  ユノツ桑孤

 ゆふくれに間ちかき萩の戦き哉  ハツミ雨竹

 名月に見そへくれけりはしり雲  松園

 さゝなきや障子のまゝの庵の留守  如水

 蓮さくや朝と暮には橋の上  松園

 馬乗て今日も行たし春の磯  竹翠

 剪のこす小まつの傍の桔梗哉  松園

 川上や瀬にそふて来て月と梅 大モリ叢波

 提出した人もすわるやすゝみ台  志玉

 あきのあはれ我より人にうつりけり  ハツミ里竹

 はれ切たそらの青ミやあきの色  素月

 また人の寝ぬ物をはやあまの川  川本素卜

 むかしから人の機嫌や花のやま  素月

 山こして来る人こゑや今日の月  日貫一竹

 青うめを小くさに置て川手水  大モリ里恭

 うくひすの不断になりし二月哉  ユノツ景波

 わか竹や三日月よりもたかく伸  松園

 定りた日に雲もなし散したに  フクミツ詞耕

 野に枯て音より細きなかれかな  如水

 夕くれてまつかせ戻るすすき哉  竹山

 かれくさや根にわなかれを持なから  川本梅朗

 見えぬ日に壁にとゝきぬ暮の秋  同 竹危

 尾

  下略

 かはりなき名も十八のささけ哉  評者青池

 世に居らは杖に剪へき藜かな  願主松園

 罌粟かた手はふつく手桶山手哉  同 米女

 厚朴の樹の花に香もなし蜀魂  補助詞耕

 蚊くすへの外のなミたやけふの暮  執筆如水」

 「嘉永七年歳次甲寅(一八五四)晩秋納」とある。この米女は幽蘭のことであろう(同:四三七以下)。評者島田青池は浅利の人で、タタラを業とした。

 青池や松園とは親交あったらしく、松尾家に所蔵の書物中、句集『ひの川集』(安政五年・一八五八)にはこの二人に並んでよね女の句が載っている(金剛寺奉納額の句と同じ:田一枚ふさくや梅乃朝日うけ)。松園は『石見人名録』に「森山圓作号松園温泉津之人」、「雪華集」にも「ユノツ」とあるけれど、『ひの川集』では上村の人となっているし、『石見人名録』のこの人の肖像には鍬がかたわらに置いてあることからも、町場の温泉津ではなく上村の農家ではなかっただろうか。

 その他、医学書漢籍以外の松尾家旧蔵書には、手稿本では、よね女の句を載せる二冊:『有仙居士五十回忌』句帳と表題のない諸家句帳(表紙が洋紙だから明治のものであろう)のほか、名歌の書抜き帳『衆歌拾穂集』があり、刊本では、『ひの川集』(橡實菴一枝編、蕉門御摺物所 京四条寺町東入御旅町 湖雲堂近江屋利助)、『雪華集』、ほかに『除元集』(安永八年・一七七九、江橋の編、上村・福光連中の句あり、その中に有仙・烏江も見える)『三十番歌合』『新百人一首』(文化十一年・東都書林)『今人名家類題夏之部』『同秋之部』。蜀山人の『千紅萬紫』『萬紫千紅』。『華岡草書千字文』上、頼山陽の遺墨集『新居帖』四冊(弘化四年)は習字の手本として使ったのだろう。波積の人の写した『智永四體千字文』。『新刻蒙求』上中下は謙助の教育のためであったろうか、子供の落書きがある。寺子屋でも用いたのかもしれない。公家に仕える家の出であるためか、公家の人名録『雲上明覧大全』上下(天保十三年刊)もあった(これらも今は瀧光寺蔵)。

 

  五

 右に幽蘭碑のある芋殿さまの碑の左には、林崎政子の顕彰碑が立つ(『温泉津町誌』下:八六以下)。

「故林﨑政子先生追慕之碑

島根県師範学校従五位勲六等本田嘉種書

嗚呼此是林﨑政子女史追慕之碑也。女史元岡山藩士富田氏。十七歳帰于林﨑朴也氏。池田侯之旧臣食禄百五十石。琴瑟相和挙一女名小郷明治十一年朴也氏長逝女史時年廿五生来以繊弱之身事老姑教育幼女、困苦惟耐欠乏惟忍以明治廿二年時石州上村之人木島氏請女史為私立石見女学校教師今之上村裁縫教場之前身也。女史常以身率生徒幽嫺貞淑動静有法澖濯縫紉養蚕紡糸二十五年如一日大正二年八月六日病没享年六十歳及門之児女如喪母追慕不已胥謀建碑請文於予、予感女史徳行入人心之深記其梗概係以銘銘曰

石州上村 風厚俗敦 貞名鎮魂

豊碑豊恩 子子孫孫 芳名永存

大正三年五月

島根県師範学校従五位勲六等本田嘉種撰併書」

 詠み下すと、

「嗚呼此は是、林﨑政子女史追慕之碑也。女史元岡山藩士富田氏。十七歳林﨑朴也氏に帰す。池田侯之旧臣食禄百五十石。琴瑟相和し一女を挙げ小郷と名づく。

 明治十一年朴也氏長逝す。女史時に年廿五 生来以繊弱之身をもって老姑に事え、幼女を教育し、困苦これ耐え、欠乏これ忍び、明治廿二年の時を以て石州上村之人木島氏、女史を請い、私立石見女学校教師と為す。今之上村裁縫教場之前身也。

 女史常に身を以て生徒を率い、幽嫺貞淑動静法有り。澖濯縫紉養蚕紡糸、二十五年一日の如し。

 大正二年八月六日病没。享年六十歳。及門之児女、母を喪う如く追慕して已まず。ともに謀りて碑を建つ。文を予に請う。予女史の徳行人心之深きに入るを感じ、其梗概を記し、以て銘に係す。銘に曰く、

 石州上村 風厚俗敦 貞名鎮魂

 豊碑豊恩 子子孫孫 芳名永存」

 この私立石見女学校は明治二二年(一八八九)に木島清之助、伊瀬寛造ら土地の有志によって設立された。裁縫教授を主とするが、習字・作文・算術なども教えていた。石見で最初の私立女学校の試みであった。明治二八年上村裁縫所と改称し、昭和一二年(一九三七)まで続いた。はじめは木島家二階を教室にしていたが、大正初期に新築移転した。生徒は、村内はもちろん、隣村、隣の隣村、さらに邑智郡の日和や粕淵、安濃郡川合村などからも来ていて、遠方からの生徒は、裁縫学校の二階に泊まったり、縁故を頼って下宿したりして通学していたという。

 湯里出身の作家難波利三氏の母堂チヱノ(旧姓光井)もこの裁縫場へ通っていた。その思い出によると、

「大正十四年一月、上村の林﨑裁縫場へ入れてもらいました。

先生は林﨑おこう様といいました。

 通学には、西田から坂根坂をのぼって飯原へ出るのです。山の中の淋しい道でした。入学当初は、ひとりでかよっておりました。(…)

 この裁縫場での勉強は、はじめは単衣物が、一、二、三月でした。四、五、六月が袷ぬい、八月が夏休みでお茶のけいこ、九、十、十一、十二月が綿いれ。次の年の一、二、三月に羽織を縫い、四、五、六、七月袴、九、十、十一、十二月が絹一期で絹物、三年目の一、二、三月が絹二期でした。絹二期は絹綿入れでした。

 私は、絹二期までやってもらいました。

 大部分の人は、羽織まででやめておりました。

 月謝は月々一円でしたが、コテを使うので、炭代が冬は二十銭、夏は十銭位。

ですから、月々総額、一円二十銭から一円三十銭です。(…)

 夏休みに習ったお茶は、「千家裏流でした。「ふくさの縫い方」、「お手前」、「おはこび」などで、十日位けいこしたと思います」(『温泉津町誌』下:八八以下)。

 村にはこの学校を設立した木島清之助の頌徳碑もある(同:九一以下)。

「勲七等木島清之助君頌徳碑

 木島清之助氏ハ当村木島家第十三世ノ当主ナリ。夙ニ心ヲ公務ニ致シ福光村外三ヶ村戸長、大浜、五十猛、静間ノ各村長、県議会議員等ニ歴任シ、教育、産業ニ衛生ニ公益ヲ増進スルコト洵ニ大ナルモノアリ

 教育ニ於テハ明治維新ニ際シ百般ノ制度更新セラレタリシモ、青少年ノ教育機関ナキヲ憂ヘ有志ト謀リ他村ニ率先シテ大ニ普通教育ノ普及ニ力ム。殊ニ女子教育ニ於テハ明治十七年頃福光村ニ於テ各集落ニ裁縫場ヲ設ケテ好結果ヲ得、時運ハ漸ク女子実業教育ノ急務ナルヲ痛感シ来リシモ、当時県下ニ其機関ナカリシタメ岡山市ヨリ林﨑政子及其長女小郷両女史ヲ聘シ私費ヲ投シテ明治二十二年私立石見女学校ヲ自宅内ニ創立セリ之レ実ニ地方ニ於ケル女子実業教育機関濫觴ナリ。

 現在ニ於ケル林﨑裁縫場ハ其後身ニシテ卒業生ノ数既ニ五百余名ニ達スト云フ。(後略)」

 大正十四年の建立で、発起者は「上村裁縫場主 林﨑小郷 外生徒五十六名」とある。

 村の教育貢献者であるこの二人の女性の顕彰碑を見て思うのは、文化の浸透にあずかって力があったのは交通と旅であるが、女性の流入も小さからぬ役割を果たしているだろうということだ。他地域(都市部など)・他階層(上の身分)から嫁入りなどの形で降りてくる女性は、しっとりと確実に土地の文化を潤していったに違いない。

 

  六

 「村里の文明開化」というものを考えてみたい。(民族学で言う「文化」でなく)「高文化」の意味での「文化」が庶民農民層まで行き届いたのが江戸時代である。村々に僧侶や医師といった知識階級があった。まず民衆のうちの知識層・中流層、寺家・医家・裕福な商人・庄屋・富農のような人たち、さらにそれから末端まで、「高文化」はしっかり浸透していった。教育の普及で見れば、寺子屋はこの地では文化文政ごろからあったのではないかとされている。

 生活にもゆとりがあった。邑智郡田所村の田中梅治(一八六八―一九四〇)はその著『粒々辛苦』の末尾に餘談として、「百姓程餘裕多イ仕事ガ外ニ何ガアルカ、一旦苗代ニ種ヲ播イタラ植付迄ノ約二ヶ月ハ温泉行、御本山参リサテハ親戚訪問出来得ルノハ百姓デハナイカ植付ヲ終ツテ朝草ヲ刈リ牛ヲ飼ツタラ昼寝ヲユツクリ出来得ルノハ百姓デハナイカ、秋収ヲ終ヘ籾ヲ櫃ニ納メ置キ炉辺ニ榾ヲ燃ヤシツゝ藁細工ニ草履ノ二三足モ作ツテ其日ヲ送リ、又仏寺ニ参詣シテ自慢ヲ戦ハシツゝ殆ド三ヶ月ノ呑気暮シノ出来ルノハ百姓デナケレバ真似ノ出来ナイコトデハナイカ」(『日本常民生活資料叢書』二〇、三一書房、一九七八:一〇二)と書く。これは昭和の初めの述懐で、そのころ村を離れ給料取りになりたがる青年がでてきたのを危惧して書いたものという強語の面はある。この人は村の信用組合産業組合に働き、助役も務め、自村を本人感じるところの「理想郷」に作り上げたとの自負をもっていたのだから、これをもってただちに江戸時代の百姓の生活と並べてはいけないのはもちろんだが、割引きしつつもやはり共感してよいものはあるだろう。25歳のころから俳句を作り、「ホトトギス」の会員となって正岡子規内藤鳴雪の指導を受け、村に「柚味噌句会」を作った人だとも付記しておこう。

 たとえば後述する有福の善太郎は、もとはあばら家に住んでいた。のちに中農程度になった人だが、金釘流ながら字が書けた。京都の本山へ九度も参っているし、浜田や西田などけっこう離れた町や村の寺の法座に出向いたり、芸州にほど近い出羽村に同行磯七を訪ねたりもしていた。ゆとりのある暮らしぶりである。なるほど飢饉には餓死者を出すけれども、今の高みから見下されるほど苛酷な暮らしではなかっただろう。

 山伏の大先達で、九州から東北までつぶさに旅した野田泉光院(一七五六―一八三五)の『日本九峰修行日記』を見れば、当時の田舎の知的水準、好奇心の高さがわかる。文化一一年(一八一四)四月二十日「益田と云ふ町へ着」き、龍照院という山伏宅に泊まると、「夜に入り隣家の者多く旅中日記聞きに集る」(「日本庶民生活史料集成」二、三一書房、一九六九:七四)。知りたがりが多いのだ。文政元年(一八一八)八月一一日に美作川原村で百姓家に泊まったときは、『孝経』『大学』の講釈を乞われ、翌日から始めている。一八日、「先日より誦みかけの大学講釈始める。近所の者共は勿論、医師、出家等迄数十人恰も大阪阿弥陀ヶ池の説法の席の如く集れり。講釈中場にても多葉粉を吸ふやら、足を延ばして坐り居るもあり、後には庭迄も男女老若押しまぜ集つたり〱さてさて面白かりき、乍然田舎もの物知らず不作法なることなり」。二一日は桑村というところに泊まり、「孟子」の講釈をしている(同:二四六)。中には暇つぶしの物見高い連中も交じってはいようが、田舎の村人の知的好奇心の旺盛なさまが現われている。村々まで文明程度が高いと言っていいのではないか。

 明治の「文明開化」はすでに用意されていたものの連続である、ということだ。様式と手本、規模と速度に違いがあるだけで。「革命」は「暗黒時代」を作る。「革命」の成功は前代を「暗黒」にすることが必須である。「革命」成功の受益者たちによって貶められた前代の「暗黒」を真に受けすぎないほうがいいだろう。民主主義だって村の寄合や一揆などにすでに見られたものだ。技術や経済に革命はあるが、政治の「革命」には真剣に疑いの眼を向けなければならない。すべては連続しているのだから。

 

 「文明開化」の例証は、俳句俳諧の普及隆盛である。

 俳諧はすぐれて平和の文芸である。平和のないところに俳諧はない。極短詩型で取りつきやすいこともあるが、座の文学であり、仲間が集まって前の句に後の句の付け合いをする。朋友集まれば、飲み食いもすれば談笑もする。それらすべてをひっくるめて俳諧であるから、平和でなければできないし、それ自身平和を体現してもいるわけだ。徳川の泰平は、俳諧を育んだことにその功績の第一があると言っても過言ではない。

 この地方の俳諧の歴史からいくつか拾ってみると、まず元禄一四年(一七〇一)大森で編纂された俳諧集『石見銀』には温泉津の俳人二名が採られている。この集の編者望雲軒巨海は石見銀山に勤める役人だった。

 上村の路傍には岸本江橋の句碑がある。

「澄む月の影に塵なき世界かな 不勝翁 江橋」

 福光の得月舎烏江が文化七年(一八一〇)に建てたものである(「温泉津町誌」下:四二四)。江橋は大国の人で、安永六年(一七七七)から八年(一七七九)にかけて『除元集』を編纂した(その安永八年の集が松尾家に所蔵されていた)。そのころの大国は邇摩郡でいちばんの石高で、『石見国高郷村帳』で一二八七石、『天保郷帳』で一五〇九石。戸数は文久三年に四〇九戸、人口二〇四八人。明治の初めは戸数四二六戸、人口二〇二五人であった。享保五年に細物売一・紺屋一・酒屋三・大工二・木挽九・油屋二があり、牛は延享二年に二七七頭だというから(『角川日本地名大辞典三二 島根県』)、かなり豊かな村であったようだ。石見俳諧のひとつの中心であったのもうなずける。なお烏江は『石見人名録』に句が載っていて(また笠も穢れぬ梅の旅路かな)、「石田氏藤原縄春俗称安野ヱ門住福光村林」とある。

 広島の俳人玄蛙(一七六二―一八三五)は文政六年(一八二三)に石見を旅し、それを『萍日記』三編にしるしている(『江津市誌』下、江津市、一九八二:一〇七四。下垣内和人「翻刻『萍日記三編』」、『文教国文学』三八・三十、一九九八も参照)。

「太田の郷に行て、犂田を訪ふ。家に矍鑠たる翁あり。好て、国書を読、嘗て石見志を著し、又地理に委しく江の河の図書を撰ふ。また農家必用の書を作り、皆古書に依り、先輩の説をかうかへ、多年かき綴り、頗巻帙をなす。素り世の名を釣り、利を衒ふのたくひにはあらす。たゝ自好むところに遊ひて、性を養ふの業なりけり。かくて、天性もの覚よき人にて、常に客をとゝめて、其記憶するところを談話して日を経る事を忘る。又稀なる一畸人なり。こゝにとゝまる事、三日四日。一日雨いたく降て江河の水かさまされハ、いてやとて、犂田自網を入て、二尺余りの鯉三尾、尺に近き鮒、数口を獲て帰る。いといさきよし。かくて俎を出せハ、

 水そゝく鯉を五尺のあやめ草  玄蛙

 窓前の朝けしきは、と問はれて  玄蛙

 さと薫る軒の青葉やほとゝきす

 袷の肩にかゝる山雲  犂田

 海つらのはさりともせす夏の来て   仝

 ほこりもたゝぬ砂の夕栄  帰る

 月前の用意に小菜もまひきたし  仝

 露の草履をふるふたひ〱  田

 網代打汀を鳶の除もせす  仝

 高根おろしに白髪いらたつ  蛙

 茯苓と松の契りをものかたり  田

 しくれせしよりおこるうたかひ  蛙

 水鳥の声もこたへる腹の病  田

 入江の小浪ひとしきりつゝ  蛙

 転はしたやうに出て居宵の月  田

 刈捨てある草のやゝ寒  蛙

 宗因か笠を案山子にかふらせて  田

 桑摘こほすたしまかい道  蛙

 杣か子の雉に小弓を引張て  仝

 こゝろすハらぬ雲のむら立  田

 見破し夢の大事をわすれ兼  蛙

 浮名吹切今朝のやま風  田

 因縁を聞ハ真壁の平四郎  蛙

 いたゝく袖に霰たはしる  田

 梅椿としも三十日になりにけり  蛙

 水もよとまぬ淀の川筋  田

 旅硯筆の命毛きれもせす  蛙

 連歌の友を月に尋し  田

 粟稗の窓は鶉に明はなれ  蛙

 在所祭りの笛か聞える  田

 岩滝の流れの末に年を経て  蛙

 無理に我名を隠す竹藪  田

 村雨のかすれ〱に通るなり  仝

 孕鹿やら人もおそれす  蛙

 白かねの花咲国に迷ひこミ  仝

 脊中ほやつく草の陽炎  田」

 この「矍鑠たる翁」とは石田春葎(一七五七―一八二六)のことで、太田村の庄屋にしてタタラも経営していた。石見の地誌『角鄣経石見八重葎』や『石見名所図会』、農書『百姓稼穡元』などを著した。澗水として俳句も作った。田龍(犂田とも号す)は息子である。

 玄蛙はこのあと温泉津で入湯、西田の奇寉を訪ね、そこでも歌仙を巻いた。西田の名物は葛で、「葛の葛より出て葛より白きは、藍の藍より青きにひとしく、其製の精しきと、其水の清潔とによるなるべし」(『温泉津町誌』下:四九〇)と書いている。

 石田田龍が編んだ天保二年(一八三一)刊の『石見人名録』は石見の文化人名鑑のようなものであるが、そこには飯原人で松青と号す吉田方久の俳句(春の気の 匂ひ芳し おぼろ月)と上村の敬豊字五兵衛の和歌(来鳴くやと まくらに誇りのつもるらむ 幾夜まつちの 山ほとゝきす)が載せられている(同:五〇八以下)。

こ れに漢詩と俳句(さびしさを おのれも鳴か 閑古鳥 志明)を採られた多田道仙(多田功成 字子勤 号北州道仙 男温泉津人)は、おそらく温泉津の商家であろう(同:五一一、五一〇)。

 開花雨亦復摧花 開花の雨 亦また花を摧く

 近日無人来駐車 近日 人の来りて車を駐むること無し

 何事東皇帰駕急 何事ぞ 東皇 帰駕すること急なる

 春光狼藉委泥沙 春光 狼藉 泥沙に委す

 漢詩は主に儒者・医師・僧侶の詠むものであるが、時代を経るにつれ、それにとどまることはなかった。

 

 村の真宗寺院金蓮山願楽寺は文明三年の開基である。紫白庭が有名だが、これはもと墓地だった。天明五年(一七八五)の飢饉の際に、籾倉を開いて村人に米を施した。村人はお礼として労力奉仕して裏山を削りとり、墓地を移してこの庭ができた。

 昭和八年、この庭を詠んだ梅田謙敬(一八六九―一九三八)の「金蓮山庭園八勝小詩」がある(『大浜村誌』)。謙敬は妙好人浅原才市が法座に連なった小浜の安楽寺の住職であった。

 

  印月池

 池深幽趣有 魚樂幾浮沈 殊覚月明夜 金輪印水心

 

  白瀧泉

 一水懸巖落 靑楓蔽兩崖 中流石摧處 宛似白龍躍

 

  滿月燈

 石燈池上聳 終夜独煌々 晴雨毫無隔 看來滿月光

 

  龍背橋

 斜陽照來處 宛似黑龍璈 自在池蓮發 方知橋背高

 

  躑躅

 紅緋兼紫白 躑躅幾団花 積翠林丘色 暎來園景著

 

  翠壁岩

 絶巌經兩碧 十丈壓池高 老松蟠厥上 攀得但猿猱

 

  紅楓丘

 苔逕斜通處 楓外簇上丘 秋霜又秋兩 錦繍織來幽

 

  天柱石

 林樹摩天聳 中看巨石靑 千年苔色老 突兀壓園庭

 

 俳人中島魚坊(一七二五―九三)は大田南村に生まれた人で、元は商家だが、大火で家が焼かれ、また子を亡くしたことで剃髪し、俳句の宗匠として立つことにした。出東、米子、今市に庵を結び、俳匠として名を残すほかに、漢詩を民謡調に訳している(『唐詩五絶臼挽歌』。それは井伏鱒二漢詩口語訳集『厄除け詩集』の粉本となっている)。

 たとえば韋應物「聞雁」(故園眇眇何處/歸思方悠哉/淮南秋雨夜/高齋聞雁來)を、

 

 我故郷は遥に遠ひ

 帰りたひのは限りハなひそ

 秋の夜すからこのふる雨に

 役所て雁の声を聞く

 

と訳す(寺横武夫「井伏鱒二と『臼挽歌』」、『国文学解釈と鑑賞』五九―六、一九九四:八五。ちなみに「厄除け詩集」では、この詩は「ワシガ故郷ハハルカニ遠イ/帰リタイノハカギリモナイゾ/アキノ夜スガラサビシイアメニ/ヤクシヨデ雁ノ声ヲキク」)。

 魚坊は仮名詩もものした(松井立浪『俳人魚坊』、魚坊翁顕彰会、一九五〇:一〇五)。

 

  黄鳥

 日もうら〱と

 けふや初音の

 谷の古巣は

 いつか出しぞ

 長刀もなき

 我が宿なれば

 花踏みちらせ

 心やすくも

 

 ついでに『大浜村誌』からこのあたりの臼挽歌をいくつか挙げておこう。

 

 歌へ〱と攻めかけられて

 歌はでもせぬ 汗がでる

 

 しんぼしなされ しんぼは金だ

 しんぼする木に金がなる

 

 親は子と云ふて 尋ねもしようが

 親を尋ねる子はまれな

 

 田植歌では、

 

 この世のはじまりは いづ神か

 いざなぎ公は召し給ふ

 いざなぎと云ふ神は有難い神やれ

 人間に生まれ来るありがたい神やれ

 てうせう山に参りて 神の縁

 きかば何十五の菩薩が

 五穀の種となされた

 五穀の種をもとめ来て

 諸人の人の命つぎ

 

  七

 石見は「石見門徒」と言われるように真宗の土地である。上村の場合、文久三年(一八六三)に九二%が浄土真宗だった(「山陰真宗史」、浄土真宗本願寺派山陰教区、一九九八:一三七)。

 この宗派からは「妙好人」と呼ばれる篤信者がよく出る。「浄土宗信者の中に「妙好人」の名で知られている一類の人達がある。ことに真宗信者の中にそれがある。妙好というは、もと蓮華の美わしさを歎称しての言葉であるが、それを人間に移して、その信仰の美わしさに喩えたのである」。「婦人及び市井寒村の人々の中に最高級の妙好人を見出し得る」(鈴木大拙妙好人』、法蔵館、一九七六:一一、一二)。

 たとえば、『妙好人伝』(四編巻下)の「石州善太郎」(「此伝は同国上村願楽寺殿より親く承りて記ぬ」とある)で知られた有福の善太郎(一七八二―一八五六)である。

 善太郎は、若いころは「毛虫の悪太郎」ときらわれていた。幼い四人の子供を次々に先立たせ、四〇歳にして弥陀の教えに深く帰依するようになった。「有福の念仏ガニ」と言われていた。いつも口に念仏を唱え、いかつい容貌であったかららしい。

 寺は教化の場だが、社交の場でもあり、「耕す」という文化の原義の通り、互いに心を耕し耕される場であった。

「ある年、瑞泉寺報恩講に参ったものである。法座が終ったのち、本堂にのこった同行らは、善太郎さんをかこんで法談をはじめた。そして話がはずみ、それが最高潮に達したとき善太郎さんは便を催して、ふっと座を立った。ところが待てども待てども座に帰ってこない。

 ちょうどそのときその寺の坊守さんが庫裡の戸口に出たところ、便所の前で踊っている男がいた。それはなんと善太郎さんである。

「善太郎さん、早う帰んさい。本堂でみんなが待っとりますよ」と坊守さんが呼んだ。すると善太郎さんはわれにかえった。

「おう、そがあだったのう」といいながら、しずかに本堂の法談の座に帰ったとのことである」(菅真義『妙好人有福の善太郎』、光現寺内栄安講、一九八三:五七以下)。

 同じく妙好人とされる磯七という人がいた。「善太郎は予てより出羽村の磯七同行と昵懇であった、或年の春、態々磯七を訪ね徹宵法味を味ひながら互に踊つて喜んだ、然し自分の踊つた事は一向覚えずして、「磯七殿が踊つて喜ばれたが何と有難かつたよ」と云ふ、磯七も又自分の踊りし事は打忘れ「善太郎の踊りが面白くて有難かつた」と互に己れを忘れて喜んだと云ふ」(『大正新撰妙好人伝増補第一』、『瑞泉寺縁起史』所収:一六〇)。

 喜びに踊り出すその人柄が何ともうれしい。この磯七と善太郎が語り合っているのを戸のすき間から聞くと、「ありがたいよのう、ありがたいよのう」「親さまじゃのう、親さまじゃのう」ばかりだったそうだ。

 善太さんはなかなかすごい金釘流であるが字が書けて、書き物をたくさん残している。

「善太郎は父を殺し、母を殺し

 その上には盗人をいたし、人の肉をきり

 その上には人の家に火をさし

 その上には親に不孝のしづめ

 人の女房を盗み

 この罪で、どうでもこうでも

 このたびとゆう、このたびは

 はりつけか、火あぶりか、打首か

 三つに一つは、どうでもこうでものがれられん」(『妙好人有福の善太郎』:二〇)。

 「地獄は一定すみかぞかし」と観じていた親鸞の言う「悪性さらにやめがたし こころは蛇蝎のごとくなり 修善も雑毒なるゆへに 虚仮の行とぞなづけたる」と同じ自己認識である。肖像画に角を描かせた才市とも共通な、自分の本性に悪を見て、それでも救ってくださる阿弥陀の親様への感謝の念へとつながるものだ。

 仕事をしながらよくひとりごとを言った。

「善太や、わりゃ地獄行きだぞ」

「やれやれどがあしましょう」

「心配すんな、せわあなあ、あみだ如来がきっと引き受けて参らせてやるけえの」

「やれやれもったいのうござります」

 

 同じく妙好人と言われ、鈴木大拙に「日本的霊性」の代表と讃嘆された小浜の下駄職人浅原才市(一八五〇―一九三二)は、おそらくもっとも有名な妙好人であろう。仕事のかたわら1万もの口アイ宗教詩をカンナ屑に書きつけた。

「わしの後生わ、をやにまかせて、

 をやにまかせて、わたしわ稼業。

 稼業する身を、をやにとられて、

 ごをんうれしや、なむあみだぶつ、なむあみだぶつ」

 善太郎さんと違い、才市つぁんはごく近年生きていた人なので、経歴もわかれば接していた人々の思い出も書き残されている。まだ「生」である。たとえば、飯原から薪を売りに行った人が才市に値切り倒されたなどという話がある。「才市さんはあれでなかなか欲でしたけーなー」と述懐したそうだが、つましい下駄作りが言い値どおりにぽんぽん払えるわけがない。これは飯原から小浜へ薪をかついで売りに出ていたことを示す例と聞こう。

 

 時に洗われた善太さんは昇華されていると言っていい。その極まりが土地の盆踊りの善太郎口説きである(『妙好人有福の善太郎』:一六六以下)。

「広い世界をたずねてみても

 真の同行はまれなるものよ

 国は石州浜田の領地

 村は有福、善太郎同行

 若い時より法義のきざし

 これが信者と名高くなりて

 智者も学者もおろかなものよ

 真似がしたいとかかってみても

 胸に尊き信なきゆえに

 だれも及ばぬことばかり

 御身、要心、怪我でもなすな

 あわてまいぞえ、若衆どもよ

 わしもお前も前世を知らぬ

 わしは定めてお前の物を

 前の生にて盗んでおいた

 返しにゆくべきこの柿なれど

 取りにでて来て下さるそうな

 何も前世の約束なりと

 三世因果の道理を説いて

 法義話でよろこぶばかり

 口は無口でものかずいわず

 時におりおり念仏となえ

 これも仏のもよおしなりと

 自力我慢の風情もみえぬ

 いつも変わらず、こと柔らかに

 心しずかにおさまりて

 身柄かたちはつくろいもせず

 自力雑行の垢ないように

 寺へ参りて御法の水の

 ことにすぐれし大谷川の

 清き流れに心をあらう

 知らぬ他国の評判たかく

 善太、善太とそのふうみれば

 着物みじかく心は長く

 帯は解けても、あわてはせぬよ

 キンカ頭に破れた帽子

 百姓仕事の合い間の時に

 寺やお宮や市町出でて

 少々ばかりの商いめさる

 ミカン、クネンボならべておいて

 御法聴聞その尊うとさよ

 銭をとるより法義の金と

 永い未来の出立ちの用意

 ご恩、お慈悲と天にも躍り

 地にも伏しつつ喜ぶばかり

 法座おわって店棚みれば

 カキもミカンも行方が知れず

 帰る時にはあきカゴさげた

 あわれ、しほしほお念仏

 時に天保申年のことよ

 五穀実らず大飢饉

 米が一升で三百、四百

 人々乞食、飢えかつえける

 ここも盗賊、あそこも盗人

 少々もちたる善太の米を

 ある夜盗人忍んできたり

 盗みとらんとあたりをみれば

 善太そ知らぬ横顔ふりて

 人の悪さは、みな我悪き

 昔、負いたる借銭なりと

 思いまわせば南無阿弥陀仏

 善太くどきもまずこれまでよ」

 石見の地生えの文学である。

 なお、この地方の盆踊りの口説きでは「石童丸」「鈴木主水」「巡礼おつる」などが人気がある。櫓を組んでそのまわりを回る輪踊りで、有福の盆踊りは、時計方向に前進、右横一歩・二歩前進・一歩後退、一歩前一歩後、一足毎に足をそろえる。手拍子はトトトンの時に一回一つで、囃言葉は「ヨイトコセードッコイセー」「サラヨヤサノサーヨーイヤナー」、楽器は大太鼓のみ(平田正典『石見の盆踊り』、一九七七)。

 善太郎口説きは戦前利尻島でも歌われていたらしい。利尻の住民のほとんどは北陸や出羽の出身で、真宗門徒である(『妙好人有福の善太郎』:一六四)。北前船以来の日本海航路のあった時代、山陰や北陸から北海道は決して遠くなかった。一九〇二年生まれのうちの祖父が小樽商科大学に進んでいるのも、現代人はよくぞまあとこそ思え、そのころは東京などよりよほど近かったのかもしれない。

 

  八

 小浜厳島神社のお日待はもと旧暦一月一四日夜に行なわれ、太鼓を叩きながら町中を「ネータラオコセ、オーコセオコセ」と呼ばわって回り、拝殿では子供たちが「オージヤオージ、ゴロサンノオージ」と叫んで床板を踏み鳴らす。これは、昔小浜の神様に五人の子があったが、末弟五郎の王子は気が荒く、神様は四人の兄には領地を与えたが五郎には何も与えなかった。五郎の王子は怒って家々の戸を叩き大声を張り上げて夜も寝ずに飛び回った。それから五郎を荒神として祀り、火難除けとしたという伝説に基づく(『温泉津町の伝説』)。これは石見神楽で最も重要な演目とされる「五龍王」が伝説として入り込んだものであり、その筋立ては、大王が四人の息子に東西南北、春夏秋冬、木火金水を分け与えるが、大王の死後に生まれた五郎は何も与えられなかったので、四人の兄と争いになり、博士の仲裁により兄たちから土用の分を得て収まるという話である。もとは土公祭文で陰陽師の説くところだったようだが、神楽を経て習俗にまで浸透していたわけである。これを「農民の哲理」と評す人もいる。

 石見といえば石見神楽だ。神楽はもと神職が勤めていて、近隣の神職と神楽組を作って奉納していた。たとえば明和八年(一七七一)上津井での大元神楽では、注連主に波積の神職郷原氏がなり、井田長尾氏・湯里原田氏・福光森山氏などの神職一〇人が参加している(山路興造大元神楽の性格とその変遷」、『邑智郡大元神楽』、桜江教育委員会、一九八二)。大元神楽では神憑りし託宣をすることも神楽の重要な一部であった。それは七年や十三年に一度行われる式年神楽であった。

 今日の石見神楽の隆盛を招いたきっかけは、明治三、四年ごろに出されたという神職演舞禁止令と神憑り禁止令である。神楽舞を禁止された神職は、農民町民に神楽を教えた。浅井の田中清見が細谷社中に、市山の牛尾菅麿が井沢社中に教えたように。しかし、そのように伝習を受ける前から、民衆は舞いたがっていた。江戸時代末期、天保の初年に浜田藩は村の若者が舞うのを禁止したというが、禁じられたというのはつまりそれがしばしば行われていたということだ。神職に対する禁令によって、言うならば虎が野に放たれた。伝承に何の苦労もいらず、舞い手囃子方希望者が女性を含む若者に絶えず、俗化ショー化のそしりもものかは、石見の人々を引きつけてやまない現代の石見神楽の隆盛をもたらしたのは、愚かしい明治の神道政策とその禁令であった。神職演舞禁止令のほうは守られることによっていわば神楽を水を得た魚にしたわけだが、神懸り禁止令は山中の村で守られずに、こっそり続けられた(八戸、山内など)。上の政策に対し下の対策の両様が見られると言っていい。明治は神楽がそれを愛する者の手にゆだねられた再生の時であったと言える。一番の人気演目「大蛇」の蛇胴はそのころ考案されたし、面も重い木面から軽くて舞いやすい和紙面となるというふうに、創意工夫が重ねられた。調子も速くなった。「アマチュア」の原義にそむかず、舞い手は愛する人でありつづけ、愛する人のもとで神楽は人気をいや増す。石見人は石見神楽を誇るが、石見神楽も石見人を誇るべきであろう。

 

  九

 日本の国土の四分の三は山である。海辺から少し入れば山ばかり。その山にはよほどの奥でない限りどこでも人が住んでいて、「文化生活」を営んでいた。かつての日本を下からしっかり支えていたなつかしい村里は、今や「限界集落」なるものになってゆきつつある。猿や鹿、猪に領分を譲り渡しつつある。本当に失われ切ってしまいそうな今この時代に、それをしるしておくことは無駄ではなかろう。

 滅び去るものには必ず理由がある。真理である。だが、その真理の彼岸に、父母を、そのまた父母を、そのまた父母、父母、父母たちを慕う心がある。事績を尋ねる所以である。

 さてさて、幽蘭女史にいざなわれた村里文化たどりも、まずこれまでよ。

 

 

(資料として特に『大浜村誌』、『温泉津町誌』下巻、『江津市誌』下巻、ブログ「私の生まれ育った温泉津町・飯原」(https://geolog.mydns.jp/www.geocities.jp/elblanco_43:半田武晴氏)を参考にした。父と瀧光寺新治弘念師の調べの引継ぎである。)

 

春暁という画家

 拡張現実ならぬ拡張記憶というものがある。父母、祖父母など、上の世代から聞いた話によってもたらされた記憶である。自分で見たり聞いたりしたわけではないので、不正確でもあれば脚色誇張もまじってはいるだろうが、オーラル・ヒストリーはそれによって作られているのだ。

 祖母は大きな音を恐れた。それは、日本海海戦のとき母のお腹にいたからだと。あの日、このあたりでは遠雷のような音が不気味に響いていたそうだ。海戦の砲音だったわけだが、それを胎内で聞いていたのでそうなった、と言っていた。これで私にも父母未生以前の記憶ができたことになる。遠く日露戦争までも。

 子供のとき、よくおばあさんに連れられて寺参りをしていた。御院家さんの説法を神妙に聴いているとき、ときどきかじま屋の爺さんが「ありがたーい」と叫んで跳びあがったという。あのじいさん、次はいつ跳びあがるかなと楽しみにしていたそうだ。その小造りな老人が妙好人として名高くなった浅原才市である。

 裕福な家が何かで不如意になると、家蔵の書画骨董を売るのだが、そのとき子供に小遣いを与え町中を「○○にセリもんがあるけえセリへ出ないと」と節をつけて触れて回らせていたそうだ。子供が歩く範囲なら近隣に限られる。港町だったため、財を築くのも早いが失うのも早い。昔栄えた家で今はここにない家は数多い。才覚ある男の一代で成り上がった家は、財をなせば骨董集めを始め、また一代で家を傾けた子孫がそれを売って金を作る。近隣での骨董のやりとりで、異種の互助とも言えよう。書画骨董はのしあがった家になくてはならぬものであり、需要があった。画工は世の中に必要な仕事だった。

 若死にしてしまったため知る人少なく、おそらく「かじま屋の爺さん」の角のある肖像を描いた人としてのみ名を残している若林春暁という画家がいた。彼について父が略伝を書いているので、それを転載する。

 

 日本画家若林春暁 その略歴

 温泉津の生んだ不遇の天才画家、若林春暁について、その略歴を述べます。彼の本名は若林好人といい、明治29年11月6日、大浜村大字小浜ロ108-4番地の魚屋(若林)に生れる。両親は岩太郎及びかヨであります。魚屋は平野屋(若林朋太郎)、魚野屋(若林恒夫)、石田屋(若林周五郎)、若葉屋(若林好夫)、若島屋(若林茂見)の本家筋にあたる旧家であります。然し彼が生まれた頃は、家庭は相当苦しくなっておりました。

 彼は幼いときから絵画を好み、小学校時代から次第に頭角を現わし、長ずるに従って愈々その才を発揮しました。明治44年広島県の呉尋常高等小学校を卒業し、海城中学校へ入学しましたが、家庭の都合で1学年だけで退学しています。明治45年5月より6年間(16才~22才)、当時関西随一といわれていました大阪市の南春濤先生に師事し、そのときから雅号を春曉と名乗り、この道の研鑽につとめたのであります。「大正2年第4回浪華絵画展へ「遊鯉図」を出品して授賞される。鯉と美人を得意とするも、その他花鳥山水いずれも可ならざるはない前途洋々として春秋に富み、その将来が嘱目されている」と当時の島根県人史に書いてあります。

 大正7年10月より大正9年3月(22才~24才)まで、広島・鳥取・島根・九州・奈良の各地を漫遊して研鑽を重ねました。温泉津の生んだ有名な妙好人、浅原才市翁の頭に角のある肖像画は彼の23才のとき描かれたものであります。現在才市翁と由かり深い梅木長七氏宅に所蔵されており、その他のものは、その写しであります。

 大正12年4月より2年間(27才~29才)、日本画の大家である京都市の西村五雲先生の塾へ入門し、本格的な研鑽を重ねました。この二曲一双の屏風の「孔雀図」はこの時代に完成されたものと思われます。

 昭和2年(31才)に上京し、東京府下沢村下馬677に居を構え、上野で個展を開き、大変盛大であったと聞いています。当時帝展審査委員であった荒木十敏先生にも師事し、帝展出品のため、日夜心血を注いで創作中、不幸にして病に倒れ、昭和6年2月1日、35才という若さで他界いたしました。次に示すこの未完成の「遊鯉の図」も現在筆者の所蔵しているものでありますが、その並々ならぬ才能が窺われ、もう十年長生きしておれば必ず大成したであろうと思われ、その早逝が惜しまれてなりません。

 彼の妻康子も昭和9年に病没しておりますが、その間に二女に恵まれ、長女美紀子は分家である若葉屋の長男若林好夫を夫に迎え、現在東京都千代田区九段南に居を移して平穏に暮しています。

(若林謙太郎)

 

WBC雑感

 日本が世界大会で優勝してうれしくなくはないのだけども。

 ちょっとこれ、おかしくないか。球場は満員、中継の視聴率はすべて40%超え、準決勝イタリア戦では48%だったそうだ。だが、その相手は?

 予選リーグで対戦したのは、中国・韓国・チェコ・オーストラリア。韓国以外は敵ではないでしょう。チェコで野球をやってる人がいるなんて知らなかったよ。まあ、日本でもクリケットをやっている人がいるのだから、いてももちろんいいのだけど、サッカーならワールドカップみたいな大会に出場できるレベルとはとうてい思えない。

 準々決勝の相手はイタリア。悪いけど、サッカーならタイとかベトナムのレベルなんじゃないか? W杯でベトナムやタイがベスト8にいる図なんて想像できないんだが。やる前から勝利確定の試合だと思うが、その試合が最高視聴率。この人たち、本当に野球の試合が見たいのか? その多くは、「勝つ日本」が見たいだけじゃないのか? 勝つのがわかっている相手に勝って、「勝った、勝った」と提灯行列しかねないのは不気味だ。

 サッカーで、公式予選でモンゴルやネパールと対戦したって、客も来ないし視聴率も取れない。得点が少なければ批判され、失点でもしようものなら糾弾される。そのレベルの試合が世界大会の本戦ならば、あきれたり非難したりすべきなんじゃないの?

試合というのは、何度も「ああ、ああ」と意図せぬ声を不本意に漏らしながら見るものだ。心臓に悪いハラハラドキドキが観戦の醍醐味である。最終的に勝っても負けてもいい。もちろん勝つのが断然いいから応援するのだが、相手だって勝つつもりなんだから、そうそういつもうまくはいかないものだと知っている。それを含んだ上でのスポーツ観戦だ。

 結局、日本が本戦をしたのは準決勝メキシコ戦と決勝アメリカ戦、韓国戦を加えても3試合だけで、あとは練習試合でしょう。それで大勝して喜んで、あんな視聴率出してていいのか? 自己満足自画自賛の極みのようで、ちょっと怖い。

 この大会で私が見たのは、メキシコ戦の9回裏だけだった。あれはいい試合だった。メキシコの監督が試合後言った「勝ったのは野球だ」は至言である。しかし、試合後ローカル局のニュースでこのあたりに住む在日メキシコ人にインタビューしていたが、「メキシコで野球好きな人は知らないです。自分の関係ではゼロです。このゲーム全然知らなかった」などと答えていたのがおもしろかった。母親が「サッカーの方が人気ですが、北部の方では野球は人気ですよ」と補足していたけれども。負けても全然悔しそうじゃなかった。サッカーで負けたら、絶対にこんな対応じゃない。バドミントンで日本がマレーシアに負けても淡々としているだろうが、サッカーや野球ではそうはいかないのと同じだ。

 

 組み合わせや試合日が直前に変更されるということもあった。考えられない。ボスの一存で決定されるなんて、全世界に「われわれはマイナースポーツだ」と宣言するようなものだ。小学校の運動会でオーナー理事長が強引に自分の息子の出る競走の組み合わせを変更するみたいな話でしょう。小学校なら児童や父兄が憤懣をぶつぶつ言うだけかもしれないが、世界大会でそれでいいのか。つまり、アメリカは世界の傍若無人な「オーナー理事長」であることを図らずも露してしまっているのだ。ことは野球にとどまらないと思うよ。規則は俺が決める。アメリカという国の本質である。そんな国がまわりに押しつけたがっている「民主主義」がどれほどのものか、疑いを抱かせるに十分だ。

 そんな強引で突然の自国有利な変更をしたら、サッカーなら大使館前で暴動が起きる。投石される。飛んでくるのは石だけじゃなく、ナイフや弾丸かもしれない。そのくらい真剣なのだ。「民主的」でもある、と思う。

 

 WBCのこんな盛り上がりは、コロナ対策緩和も大きく影響しているだろう。緩和されるずっと前からすでに不必要だったのに、ばかばかしく続けられていたあの規制がようやく終わり、声を出して応援できるようになった。同じ時期に開催されていた大相撲春場所も満員御礼が続いた。横綱大関がいないのに。規制解除の喜びを絵に描いたのがあの満員の図であっただろう。

 そして、大谷翔平だ。メキシコW杯はマラドーナのための大会と言われたが、あの大会のマラドーナに匹敵する選手がこの大会の大谷だったと言えるだろう。「大谷のための大会」であった。女子サッカーW杯でも日本は優勝したことがあるが、あの大会の澤穂希は「ベッケンバウアー」ぐらいだった。それでもすごいけども。

 しかもこの「マラドーナ」は、麻薬などやらず、「神の手」など使わず、優勝後に「日本だけじゃなくて、韓国もそうですし、台湾も中国も、その他の国も、もっともっと野球を大好きになってもらえるように、その一歩として優勝できたことが良かったなと思いますし、そうなってくれることを願っています」などと言うことのできるすばらしい「マラドーナ」だ。日本サッカーから「マラドーナ」は決して出ないが(「マナドーナ」なら出たが)、野球では出てくれた。「マラドーナ」であるためには、優勝していなければならない。つまり、やはり優勝はいいことだ、という結論である。