インドなネパール、日本なネパール

ネパールの車のナンバーはインド数字で書かれている。読めない。日本のナンバープレートが漢数字で書かれていて、それを(中国人以外の)外国人が見て困っている、というのを想像すればいいのだが、インドですら洋数字を使っているのに、なぜネパールがそうするかね? 小包を送った受取証に代金が書いてないので聞いたところ、ここにあると言われた。インド数字で書いてあるのである。こちらのほうは日本でも漢数字で書くことはあるからわかるが、ナンバープレートは困るよ。そしてこの件のもっともおもしろいところは、なぜインドでないネパールがインド以上にインドなのか、という点だ。
王制時代にはヒンドゥー教を国教としていたそうだ。インドはそうしていないから、当時唯一のヒンドゥー教国家だったわけである。統計によると、ヒンドゥー教徒は81.3%、仏教9.0%、イスラム教4.4%だという。インド(78%)より比率がわずかに高いだけの8割でヒンドゥー教国家だなどと言ってはいけないが、要はイスラムなのだろう。ネパールにも無視できないほどいるけれど、インドの場合は13.4%で、比率のみならず数として一大勢力で、ヒンドゥー主義の主張は宗教紛争となるだけだから(なっているし)避けられる。その点ネパールは大胆になれるのだ。
仏教も大きな勢力ではあるけれど、仏教(チベット仏教)プロパーとしては山地のチベット系民族の宗教であるか、あるいはヒンドゥー教との二重信仰であるか、という形をとる。もともとインドの宗教であり、釈迦はラーマの化身であるとされてもいて、多数派ヒンドゥー教徒から見ればヒンドゥー教の異端の一派ぐらいに考えられているのかもしれない。
そもそもがインドである。山地にあり、軍隊が強く、イギリスと戦って善戦したので、植民地化されず独立を守っていて、そのためインドの一部とならなかった、ということだ(現在のインドは英領インドの後継国家である)。インドの一部として見れば、チベットへの移行空間として独特であるが、山地の少数民族は別として、ヒンドゥー教を信仰する大多数の人たちの生活文化はまったくインドだ。サリーを着るし、額に赤い印(ティカ)をつけ、女性は手にメンディーという模様を描く。食べ物も、主食が米であるところが西北インドと異なるが(東インド南インドとは同じ)、あとは豆カレー、野菜カレー、辛い漬物アチャール、ヨーグルトなど、インドと同じものが金属盆に盛って出される。牛が町中をゆうゆうと歩いている風景や牛肉を食べないこと(しかし水牛は盛んに食べる)、カーストがあること等々、インドでしかありえない。ネパール語ヒンディー語の同系語だし、文字もヒンディー語と同じデーヴァナーガリー文字である。幅150−200キロの間に標高8850メートルから70メートルまで下る国土のうち、インド国境沿いのタライと呼ばれる低地は掛け値なしのインドで、ラーマ王が婚礼を挙げたのも、ゴータマ・シッダールタが生まれたのもここである。インド文明の重要な周辺部であったわけだ。
ネパールの観光ビザは簡単に取れ、かつ窓口の係員が微笑むというインドでは考えられない対応をして、観光ビザさえ取りにくいインドとは雲泥の差を見せるが(国の基幹産業が観光業で、外国人料金を高く設定して金を搾ろうという意図も当然あろう)、就労ビザはネパールも非常に取得がむずかしく、ここではインドと対等である。


だが、ネパールは日本とも似ているなと感じる。山国で、土地が狭く、道が狭く、だからスズキの軽が重宝される。アルトでないタクシーなんてあったっけ? 寺も非常に小さく、寺院というよりお堂という感じである。完全に木造でなくとも、木造部分が多い。屋根が多重で、三重塔とか五重塔を思わせる。
いわゆる照葉樹林文化の東端と西端でもある。タケノコを食べているのには驚いた。
地震が多いという共通点もある。地震国に対して並々ならぬ共感を覚えるのは、日本人の特性のひとつである。ネパール人のほうでもきっと共感はあるだろう。
精強勇猛なグルカ兵が有名な一方、よく微笑む人たちでもある。こちらが微笑めば、必ず微笑み返す。この点はインドと違い、むしろ東南アジアに似ている。「菊と刀」か?
国旗もおもしろい。ヨーロッパの発明した国民国家に覆われている今の世界では、ヨーロッパの決めたルールにのっとって国歌国旗をもたなければならないことになっていて、植民地から独立した国々ではヨーロッパ式に横長長方形を何色か(多くは三色)に塗り分ける旗を作って国旗でございとしているが、日本の日章旗はヨーロッパ方式とは外れて独特であり、扇や鉢巻などにも使えるなど独自のありかたをしていて誇らしく思う。しかし独特ということではネパールはさらに上手で、長方形ルールを完全に無視し、中に太陽と月を描いた三角形を重ねるという奇っ怪な形態をしている。あっぱれである。独立国であったればこそ。エンブレムを中に置いただけのヨーロッパ流三色旗である旧植民地インドとは筋合いが違う。
ネパールではヒンドゥー教と仏教が二重信仰のようなありかたをしている。ヒンドゥー寺院に仏塔や仏陀の像がある。各人はヒンドゥー教徒である、仏教徒であると一応認識しているのかもしれないが、どちらの寺院にお参りしてもかまわない融通無碍な寛容さを示す。この点も、平然と神道と仏教の二重信仰である日本人には違和感がない。ヒンドゥー教原理主義者や仏教原理主義者(そういう人もいるに違いない)から見れば、いやキリスト教徒やイスラム教徒から見ても不純で不快であろうが、なに、これでいいのだよ。
僧侶階層が妻帯しひとつのカーストをなしているのもネパール仏教の大きな特徴であり、それは司祭カーストのブラーミンが妻帯しているのに倣ったのかもしれないが、同じく僧侶妻帯の日本にも似る。日本でもお寺さんはお寺さん同士で結婚することが多く(独特の生活習慣があるので)、つまり準カーストと言っていいようなありかたに見える。これも似ている(日本でもっともカースト的なのは梨園だろう。主役を演じる家筋、脇役の家筋などが決まっているところも)。
ネパールにはクマリという生ける女神がいる。あるカーストの女の子が選ばれて、初潮を迎えるまでの間女神の化身である少女神として崇拝されるというものだ。1984年から91年までクマリだったラスミラ・サキャは、「回想 神から人間へ」(スコット・ベリーとの共著、江崎秀隆訳、カトマンドゥ、2011)の中で、「外国からの訪問者の中で特に私が好きな人達がいました。それは日本という国から来たと教えてもらった人達で、私が窓辺に現れると必ず拍手をしてくれました。彼らが私を見る様子から私は日本の人達に理解されているように思います」(p.28)とか、「私は日本人と私達ネパール人との間にはある種の「絆」がある様にも感じました。それというのもこの日本の人達が私個人と云うことでは無く、いつも私達の文化そのものを理解し敬意を払っていてくれている様に思えたからです。その文化の密接さという観点から云うと、ネパールは西洋に比べて日本により近いのではないかと思います」(p.162)などと言っている。
すべてのクマリがそんな印象を持つのかどうかは知らないし、彼女の個人的な意見かもしれない。しかし、なるほどとも思った。
クマリは斎宮を思わせるところがある。斎宮の場合は未婚で処女を通すのではあるが、女性であって、初潮前の少女とは異なる。平安時代春日大社などに奉仕した斎女は少女だったようだが、斎宮にせよ斎女にせよ神に仕えるという点では神そのものであるクマリとは違うのだけれども、似ていることはたしかだし、クマリが山車に乗って巡幸するインドラ祭では、クマリの山車のほかにガネシュ、バイラブとしてそれぞれ山車に乗る2人の少年がいるのだが、彼らはこの祭りのためだけに選ばれるのであって、まったく日本の祭りに出る稚児と同じだ。
何より、日本には最近まで現人神がいたし、「人間宣言」をしたあとも常人とは思われてない。女神でなくなったあと普通の女の子にもどるために苦労したラスミラ・サキャの回想録は非常におもしろかったが、読んでいる間感じたのは、要するに平民(もはや華族はいないから、結婚相手はどうしても平民となる)と結婚し臣籍降下した皇女だな、黒田清子さんが書けば似たものになるかな、ということだ。しかり、われわれにはクマリがよく理解できますよ、ラスミラさん。

「母は娼婦です」

日本語の発音はかんたんだ。母音は5つで、ローマ字にあるのと同数だし、子音は14。こういうものは多くても少なくてもむずかしくなるが、多すぎず少なすぎない適当な数だ。thや反り舌音のような妙なものもない。開音節ばかりなのは、聞くのにはモノトーンな感じかもしれないが、言うのには言いやすいはずだ。
母語が有気音・無気音対立の中国語である人には、日本語の有声音・無声音対立がむずかしい、というように、母語によって困難がでてくることはあろう。rとlが言い分けられないわれわれにも身にしみてよくわかることがらだ。だがそれは相対的なむずかしさであり、絶対的には日本語の発音はやさしいと言い切っていいと思う。
とはいえ、特殊拍と言われるもの、わけても長音と促音はむずかしい。「きてください」「きってください」「きいてください」を聞かせてみると、ほとんどの国の学習者が区別できない。つまり発音できない。
しかし、つまる音(促音)はなるほどむずかしかろうとわれわれも想像できるが(「坂の上に住む作家はサッカーがすきだ」)、長い音と短い音が発音できず聞き分けられないのは不思議に思う。伸ばせばいいだけだろ?
「おばさん」を「おばあさん」と呼んではいけない。怒られるぞ、気をつけなさいと言い聞かせると、おばさんに向かってことさらに「おバーさん、おバーさん」とバを強調して言うので、頭を抱えてしまう。「ば」の部分が問題だと認識してはいるのだが、音の長い短いがわからないので、強く発音してしまうのだ(強く発音すると長く聞こえる)。これだったら指摘しないほうがよかったかもしれない。
山陰線には3駅はさんで大田駅と小田駅がある。「大田で降りてください」と伝えたのに小田で降りられては非常に困る。駅前には何もなく、バスもなければ、山陰線は1時間以上待たないと次の列車は来ない。日本人も大田(市とはいえ、東京基準でいけばここも駅前に何もないんだけどね。まあ比較の問題で)で待ちぼうけをくわされるわけだが、小田で降りてしまった外国人のほうがたいへんだ。
「コピー」は「コーピ」と言うし、そう書く。私の知っているすべての国の学習者がそうだった。流暢に日本語を話す者にしてなお。なぜこんなのがむずかしいかよくわからないのだが、わからないからむずかしいのだろう。「コーヒー」は「コーヒ」。「コヒー」と書かないあたりに秘密がありそうだ。
アクセントは、標準である東京アクセントのほかに、それとまったく異なる関西アクセントが一大勢力であるし、一型アクセントもあるので、発音練習において特にこだわる必要はない。しかしながら、私はスピーチの練習などではアクセントを徹底的に教え込む。というのは、長音や促音の箇所にアクセントの変わり目が当たることが多いのだ。「こうとうがっこう」なら、「こう」で上昇、「がっ」で下降。つまり、アクセント練習ではアクセントが本丸なのではない。敵は本能寺にあり。長音・促音を身につけさせる一助に、と考えてのことである。もちろんアクセントが正しければ聞きよくもあるのだし。


母語によって発音の間違いも違う。タヌキの母語は知らないが、人に化けたタヌキは「オレだ」と言えず、「オネだ」と言うのでわかるという。四川人の場合はタヌキと逆で、ナ行をラ行に発音する。つまり「尾根」が「俺」に、「カナダ」が「体」になる逆さ狸。
トルコ人は「せ」が「さ」になる。「千円です」が「三円です」になってしまう。997円も違う。そんな通訳は損するぞ。
中国人の「ません」は「ますん」に聞こえるので、「行きます」だか「行きません」だかわからない。いつも「えっ、行くの、行かないの?」と聞き返すことになる。文末の最後の部分まで聞かないと肯定か否定かわからないのが日本語の大きな欠陥だが、その部分で「ますん」じゃ困るよ。
そしてネパールでは、面接で「母は娼婦です」と答える学生が出てくる。面接の練習のためにネパール人教師がモデル問答集を作るのだが、それに「はははしょうふです」と書いてあり、学生はそれを暗記する。ハハハ。ここは「しゃ・しゅ・しょ」がうまく発音できない者が多くて、「でしょう」を「ですよ」と言う。書き取りをさせても「しゅ」を「しょ」と書いたり、その逆に書いたりする。この点と、長音の無能があいまって、「しゅふ」が「しょうふ」になってしまったわけだ。大使館での面接のような大事なものなら、日本人に見てもらうべきだろう。学生がいい物笑いだ。
ま、私たちもシラミ(lice)が主食だし、おたがいさまだけどね。しかし「母は娼婦です」の破壊力はそれをだいぶしのぐと思うよ。

交通に寄生者多し

カトマンドゥのパシュパティナートというシヴァ寺院へ行ったとき、道を歩いていたら男に呼び止められ、1000ルピー払えと言われた。外国人は料金を払うことになっているのだと言う。ネパール人は無料。そのことはガイドブックで承知してはいたが、柵などで仕切られたエリアに入るときに払うものだと思っていた。仕切りなど何もない、人々が大勢行き交っている道である。これには驚いたし、腹が立った。肝心の寺院や周囲のいくつかの寺院はヒンドゥー教徒以外は入れない。つまり、道を歩くだけで1000円払えというわけだ。むろん払わず、背を向けて立ち去った。
施設に入るとき、あるいは柵などで囲われた区域に入るときに入場料を払うのはわかる。それが高くてもしかたがないし、自国民無料・外国人高額でも、腹立たしくはあるけれど、決まりごとならやむをえない。だが、これはただの道なのだ。寺院のかたわらを通るとはいえ。自由な通行を妨げられて金をむしりとろうとされた過去の不愉快な思い出が浮かび、条件反射的に拒絶した。
ガイドブックを見ると、ネパールにはそのような場所が多いようだ。王宮広場とか、観光価値が高いところはみなそうなっているらしい。よろしい、それならそんなところには行かない。観光はだいたいが嫌いである。観光業は餌付けに似ていて、観光業者はいわば餌付けされた猿のようなものだ。白人の餌に群れるのは見よい眺めではない。それよりも、人の顧みない小さくささやかなもの、しかし当該文化の本質がうかがい知れるようなものを好む偏った習性をもっているので、むしろ好都合かもしれない。
しかし、自分一人ならそれでいいが、お客さんが来て案内することになればそうも言っていられない。そのときは払うことになるだろう。是非もない。
思い出される不愉快の数々。ルーマニアなどでは車掌がありもしない故障を言い立てて金をむしろうとする。こっちは列車に乗っている身だから、いわば身柄を押さえられている状態なので、たちが悪い。コンパートメントに一人でいるとねらわれる。
不良警官が通行人や車を呼び止めて難癖をつけ、金をまきあげることもよくある。実によくある。実際に何か違反をしていて、目こぼしのため金を渡す運転手も多いので、彼らによって助長されている側面もあるのだが。
逆に、税関や国境検問は通行をさえぎり検査をする当然の権利も義務ももっていて、それで時間をとられることも多いが、不当な要求をされた経験はほとんどない。
タクシーは、メーターで走るなら非常に便利な乗り物だが、私が行くような国にはメーターで走るタクシーなどないのが普通だ。乗る前に値段交渉をしなければならない。むろん外国人にはふっかける。交渉がまとまっても、途中で値上げしてくることも珍しくない。雲助、胡麻の蝿の類である。世界のいたるところに江戸時代がある。
天下の大道の画竜点睛、乞食は心騒がせる存在だ。私もけっこう歳は取っているが、日本で乞食は見たことがない。浮浪者はあるが。日本の乞食は東京オリンピックとともに消えたらしい。だから異国で初めて乞食に相対したときは、途方に暮れてしまった。ムスリムにとっては施しは義務である。ムスリムでなくとも、ゆとりのある者が困っている者に施すのはあるべき行ないだろう。といって、袖を引いたりまとわりついたりする職業的とおぼしき乞食にやるのは業腹だ。いろいろ迷った末、ポケットに裸銭があるときはやる。なければやらない、という原則を定めた。つまり、財布を取り出してまではやらない、ということだ。そして、くれくれとねだる者には決してやらない。そのように自分のルールを決めてからは、心穏やかに乞食に対せるようになった。
もちろんこんな態度は最善ではない。あれこれ考えず施すのが最善だ。だが、私程度の者には最善は望むべくもなく、次善くらいが相応である。乞食諸氏は諒とせられよ。

調査かどうかは知らないが

「一行」(いちぎょう・いっこう)のように、二通りの読み方のできる熟語がある。「気色」もそのひとつで、「きしょく・けしき」というふたつの読みがあり、意味もやや違う。だが、今では「きしょく」は「気色悪い」、「けしき」は「気色ばむ」という慣用句で使われるばかりだろう。
この「気色ばむ」の文例を考えてただちに思い浮かぶのは、わが国の現首相である。国会で不快な質問をされるとすぐ気色ばむよね、あの人。一国の総理大臣として、目をそむけたくなるような幼稚さだ。総理なのにヤジを飛ばすし。誰か注意する人はいないのか。誰からそんなふるまい方を教わったのか。
この人の友人は、トランプとプーチン。いいのか? 歴史に悪名をとどめるであろう人たちだよ。中国首脳とは決して友人になりそうにないのは、いいことか、悪いことか。
北朝鮮に対する硬直した態度にも残念なものがある。ミサイル実験をされるたびに、「断じて容認できない」とコメントするだけ。会見するだけ無駄だ。録画しておいて、その都度再生ボタンを押すことにすればいいだろう。言うだけで、何も打つ手がないのだ。交渉する能力も材料もない。自分の手を自分で縛っているから。アメリカはまだ軍事オプションを持っているが。北朝鮮の今の政体は、早くチャウシェスクルーマニアのように崩壊することが望まれるひどい政権だが、北朝鮮は国連にも加盟し、多くの国と国交を持つ中堅国家である。そのように見、そのように対さなければならない。日本人は世界は日米だと思っている。日米の視点が世界の意見だと思っている。国を誤りかねない僻見だ。
「印象操作」なんだそうだ。森友学園問題、加計学園問題での野党の追及は。自分のところまで手が回ることはない、犯罪立件されることはないと知っているので、そんな主張ができる。たしかに賄賂はとっていないのだろう。だから疑獄にならない。官僚の「忖度」止まりで、背任か何かで担当した官僚が逮捕されることはあっても、首相は無事。だから野党の論難は印象操作。
一方で、加計学園問題で政権に不利な発言をする元事務次官に対しては、文部省で天下りが発覚したとき責任を問われても辞任せず地位に恋々としていたと官房長官が事実に反する発言をしたり、出会い系バーなるものに通っていたことを御用新聞に書かせたり、印象操作以外の何物でもないことをしている。完全なるダブルスタンダード。恥ずかしい、恥ずかしい。
民衆について、民衆をそんなに買いかぶるものじゃない、民衆は人も殺せば強盗もする人々だ、などと言った人がいるが、そのことは、そう言うその人が、ことによれば人殺しもするかもしれず、強盗をするかもしれぬということのみを意味している。どんなに追い詰められても、人を殺したり強盗をしたりすることのできない人はけっこういるのである。
出会い系バーというのがどういうものなのかよく知らない。法に触れる存在なのか、法に触れないぎりぎりの存在なのか。通ったという当人も認めている事実によって逮捕されていないところから見て、合法なのだろうと推測するだけだ。女の子を外に連れ出してホテルかどこかで寝るというのが主な用法らしい。そういう行為をした場合、売春として処罰の対象になるのかも知らない。たぶんなるのだろうが、今までの報道を見るかぎり、そのようなことをしていたとの証言は出ていないようだから、むしろ元次官は、女の子を連れ出しても何もせず、話をして小遣いをやっていただけのようである。事実について私は何も知らない。新事実が現われるのかもしれない。だが、興味深いのは人々のそれに対する態度だ。「出会い系バーに通っていた」というのが「女を買って寝ていた」ことをのみ意味すると考える人たちがいる。圧倒的多数派だろう。その人たちは、もちろん自分がそういうところへ行ったらそうする人たちなわけだ。官房長官や首相を含め。そういう人々は、そんなところ行って女を買わない男がいるということがただちに理解できない。だが、そんな少数派が存在することは、理解もできるし、想像もできる。「貧困女性の調査」などという釈明が額面どおりに受け入れられるとは全然思わないが、彼女たちの話を聞き、いたわることに喜びを見出す男がいてはいけませんか? ドストエフスキーの愛読者には親しい人物像じゃないか? 「出会い系バー通い」から「女郎買い」の結論しか導けない俗物の最俗物たる輩どもの蠢く現代日本にそのような人がいることは、むしろ喜ぶべきことのように思えるのだが。実に卑賎な森友・加計問題の最良の部分はここにあるとさえ思う。

中国覚え帳/中共満州国の説

日本人は満州へ行くべきだ。満州国には東アジアの近代の達成も欠陥も凝縮されている。日本はこの奇妙な国家を作り上げた当事者なのだから、ぜひその余影を見ておくべきだ。それはまだそこここに感じられる。
たとえば長春、かつての新京。市政府を市役所と考えるのは大きな間違いである。カメラを向けてみなさい。門衛に制止される。写真を撮ることすら許されない役所が市民サービスを担う「市役所」であるはずがない。「道台」とか「衙門」と呼ぶのがいい。つまり旧中国であり、中国は一瞬だけ「新中国」になったが、すぐに元の居心地のいい、賄賂横行・上意絶対の「旧中国」にもどったように見える。
昔の関東軍司令部は今は共産党省委員会になっている。市政府の場合は写真を撮ったあとで門衛に撮影不可と言われたので、少なくとも1枚撮れたのだが、ここではカメラを出すとただちに追い払われる。撮られて困る何があるのだろう。今も軍の施設なのかと疑われる。共産党関東軍の後継者ということだ。
中国は「戦前」だと考えると、よく理解できることが多い。
大学で軍事訓練をやっている。新入生の必修科目である。全寮制であり、学生には早操と称する早朝の体操とか教科書音読などが課せられている。かつて新京にあった全寮制の建国大学で早朝全学生が集合し「建国体操」なるものをやっていたのを踏襲したかのように。いわゆる愛国主義教育は皇国史観による洗脳と同じだ。
中国政府がチベットや新疆でやっていることは、日本人が満州でやったことそっくりそのままである。圧制下に置きながら、被支配民族の福利を向上させたと誇っているところなど、実によく似ている。チベットにある「万人坑」を見れば明々白々だ。もう70年も昔の日本の侵略を非難しつづける一方で、チベットや新疆では満州国の再現をしているのだから、ダブルスタンダードもいいところだ。
尖閣諸島でしくまれた「偶発的衝突」を狙っているらしく思われるところなどは、「柳条湖」や「盧溝橋」をやろうとしているように見える。
五族協和」は満州国のオリジナルではなく、清末から唱えられていたスローガンで、民国から満州国、人民共和国を通じて国是とされてきた。民国・人民共和国のが漢・満・蒙・蔵・回の五族なのに対し、満州国では蔵・回の代わりに日・鮮が入るわけだが。それが美辞に過ぎず、結局は覇権民族の専横に終わることは満州国がよく示していて、人民共和国もそれに続いている。
満州国は近代文明を東アジアへ効率的に移植する実験場のようなものであった。そのことは、戦後の高度成長日本をデザインした人たちのかなりの部分が満州国帰りだったことからもよくわかる。戦後日本は軍抜きでアメリカ流民主主義を上塗りされた効率的近代化であったが、中国は軍込み民主主義抜きの効率的近代化(その効率性はいくつかの分野では驚嘆すべきレベルまで達している)、つまり生きている「満州国」と言っていい状態なのではないか? 満州国は今もなお東アジアの大いなる「宿題」でありつづけている。

WM予選雑感2017

UAEに負けた初戦は、日本にいなかったので見られなかった。イラク戦は中国でスマホで見ていたが、3秒動いて30秒止まるというありさまだったので、見たとはいえない。もう試合終了だというところでまた画面が止まり、次に動いたときには監督が笑顔で両手を上げていたので、何かで点が入って勝ったのだなとわかったが、これでは観戦したことにならない。
だから、見たのは先日のアウェイのUAE戦とホームのタイ戦の2戦と、再放送のサウジアラビア戦だけである。
引き分けに終わった二次予選のシンガポール戦も見ていない。というわけで、実はハリル・ジャパンのふがいない試合というのはほとんど見ていないのだ。東アジアカップぐらいだ(おそらくあれで監督のJリーグ選手への評価は決定的に低くなったのだろうと思う)。だから私のハリルホジッチに対する評価はかなり高いのである(私の評価など彼のほうでは求めていないだろうけども)。


この監督は、ロシアW杯時に年をとっている者は呼ばない、所属クラブで試合に出ていない者は呼ばない、などと言っていた。いかにも。誰でも納得できるわかりやすい基準だ。そう表明していながら、ぬけぬけとベテランの今野、試合に出ていない川島や本田や宇佐美などを呼ぶ。勝つために必要だと信じれば、前言をこともなく破る。約束は守るものだと教育され、決められた時間の5分前に来ないこと、車の通らない道の赤信号で止まらないことをほとんど犯罪と観ずる日本人記者や評論家が怒るので、多少の釈明はするけども。いやいや、なかなか戦国武将じゃないか。
この人は、やりたいサッカーはやりたいサッカーではっきりしているが、特に目前の一戦に勝つことを徹底的に重視する。それはいっそすがすがしい。私は負けると病気になる、あのUAEとの初戦を思い出すと39度の熱が出る、などと言っていた。ほほえましい。
オーストラリア戦はアウェイの戦いに徹していたらしい。監督にとっては誇るに足る戦術的な試合だったようだが、日本での評価はかんばしくなかったと聞く。その落差に驚いたことだろう。日本にはアウェイ戦というものがない。一応ホーム・アンド・アウェイで試合することになっているが、アウェイの戦い方をしないのだから「アウェイ戦」ではない。だから理解されない。逆にオーストラリアではよく理解されているだろう。
前のアギーレ監督がブラジル戦で経験の浅い選手たちを使って負けたときも非難囂囂だったのを思い出す。外国人監督を雇うのは、日本人のできないことをやってもらうためである。外国人監督に浴びせられる批判は、要するに、日本人ならしないことをしているという理由によるものばかりだ。日本人がするようにやれということだ。まったく無意味である。それでは高い金を出して外国人を雇う意味がない。


八百長疑惑を書き立てられ、マスコミによって追い出されたかっこうのアギーレ前監督は、今UAEのクラブチームの監督をしているそうで、UAE戦の前に取材に来た日本のマスコミにアドバイスをしていた。日本に対して悪感情を持っていないようで、それどころか好感情を持ちつづけているようで、うれしいことだ。
ポドルスキーが神戸に来ると決まったが、その話が出たとき、リトバルスキーノヴァコヴィッチが日本を褒め、ぜひ行けと言っていたのもうれしい。日本でプレーし監督をした人には日本好きが多いと思うのはひいき目だろうか。クラマーさんもそうだったように思う。現監督もどうやらそうらしいと感じる。
日本人はよい弟子であることに長けた国民であり、学ぶことが大好きで、言われたことはしっかり守る(むしろ、言われたことしかしないまでに守りすぎる)。指導者にとって気持ちよい国だろうと思う。礼儀正しく、安心安全で、人を立てる文化がある。しかるべき高いポジションにある外国人にはきわめて居心地がいいだろう(そうでないポジションの人にとってはこの限りでないが)。
ただし、日本人は言い訳するのを極端に嫌う。いさぎよくない人は、ただそれだけでほかの数ある美点もろともに人格否定される。言い訳せず、部下の失敗はすべて自分の責任だとするのが上に立つ者のあるべき態度だと信じて譲らない。それはいいことだと思う。その点をあまり理解していなかったため、ハリル監督も日本人にとっての「地雷」を踏みそうになったことがあるが、だんだんわかってきたようで、けっこうだ。


UAE戦でびっくりしたのは、今野の起用はともかく(少しは驚くが、長谷部がいないのだから納得できる)、川島を使ったことだ。
監督は試合で使う選手を招集する。使う局面がないと判断すれば、実績のある選手ほど招集すべきでない。使わずずっとベンチに座らせておけば、チームに悪影響を与えるから。岡田監督がカズを切ったのがその最たる例で、トルシエ中村俊輔を切ったのもそうだ。逆に、使われなくても全然腐らず、チームを活気づける役割を担える選手なら、呼んでもいい。ゴン中山や秋田のように。
3人のゴールキーパーの1人に川島が呼ばれたのも、こういう「ゴン・秋田枠」だと思っていたのだが、どっこい、この監督は使うつもりで呼んでいた!
たしかに、第一候補だったと思われる東口が負傷でおらず、試合の重要性を考えればいきなり林というわけにはいかない。最近不安定だった西川と川島の二択なら、川島は全然ありだとあとで気づくわけだが、でもこれは勝負師のやり口だよ。その起用にみごとに応えた川島もえらい。これをしびれると言わなくて何と言う。


タイ戦については、結果の4−0を見れば文句のない快勝だが、内容を見れば文句は大いにある。押されすぎ、シュートを打たれすぎている。内容だけなら互角である。だが結果はこれ。批判されなければならないし、選手は反省しなければならない。しかし、このゲームについてはむしろタイ側から見たほうがいい。
たしかアジアカップで、何度もディフェンスラインを破ってチャンスを作り、明らかにタイのほうがいいサッカーをしていて、オーストラリアはつまらなくくだらないサッカーだったにもかかわらず、結果が0−3か0−4だった試合があったのも思い出す。
いい試合をしながらゴールが決められず敗れる彼らを見て、「これはわれわれだ」と思った。かつて試合内容で上回りながら敗れ去る日本代表に泣いた経験を忘れた人たちは、真性の健忘症である。あのときの日本チームを今タイチームに見ているではないか。160センチにも満たない小さな選手の俊敏な好プレーは、欧米の巨人に立ち向かう小柄な日本選手にダブる。
見ていないが、どこか第三国でやって0−3か0−4で負けたブラジル戦、本田が満足した旨のコメントをしていたのが印象的だったあの試合とか、岡田さんのときアウェイで0−3で負けたオランダ戦。内容は善戦健闘だが、結果では大差がつく。まるでこの日泰戦のように。言うなれば、日本はタイにとっての「ブラジル」なのだ。
日本代表チームが弱かったころタイは好敵手だったが、日本が力をつけるにつれて差が大きく離れた。その差はまた詰まってくるだろう。日本はいつまで「タイにとってのブラジル」でありつづけられるか。とりあえず、札幌に来るという「タイのメッシ」が楽しみである。


WM予選はまだ続く。しかし、どうやら前の3試合が見られなかったのと同じ理由で残りの試合は見られそうにないので、ここで感想を書いておく。最終的によい結果に終わることを願ってやまない。

中国覚え帳/満州三異人

終戦時の満州には150万人の日本人がいたというから、満州生まれ満州育ちの戦後日本人も大勢いるわけだ。小沢征爾など有名人も多い。しかし、たとえば加藤登紀子ハルビン生まれと聞くとなるほどと大いに感じ入るが、1943年生まれだから、そこに生まれただけで満州の記憶はほとんどあるまい。親はきっと満州生活の影響を浴びていて、その話を聞いて育つことで事後の記憶は形成されたかもしれないが。
そうではなくて、ものごころがついてのち、少年期、あるいは青年期まであの地に暮らし、はっきりと「満州育ち」と言える人の中で、いかにも「満州」だと思われる代表的人物は誰だろうか、と考えてみる。そうすると、文芸の分野では、安部公房別役実赤塚不二夫の三人が「三傑」ではないか、と思った。
この三人には共通する匂いがある。その作品は論理的だが、その論理がねじれている。あるいは、始まる前から論理が脱臼している。
乾いているのも大きな特徴だ。日本の風土の特性である湿気が感じられない。抽象性が高い。いわば無国籍、あるいは根無し草の感覚がある。
そして、演劇性が強い。劇作家の別役はいわずもがな、マンガは絵による演劇ないし映画表現と言える。安部公房は、日本の小説家の中で演劇に関わりが深かった点で三島由紀夫と双璧である。単に劇作が多いというにとどまらず、安部公房スタジオという演劇集団を作って活動してもいた。
さらに、この三人は満州時代についてほとんど書いていない。満州を売り物にする「満州屋さん」になっていない。安部公房は、いくつか文章はあるし、「けものたちは故郷をめざす」という敗戦後の満州が舞台の怪作を書いているが、彼の文業全体の中ではほんの一小部分だ。
満州国の日本人、特に俸給生活者たちは、周囲の「現実」、土や油や草の匂いの中で地に足をつけて彼らの確かな手ざわりの生活を生きていた人々から遊離して、囲われた小世界の中に暮らしていた。そしてその子供たちは、引き揚げを経て、祖国という名の異郷で故郷喪失者になった。そのような経歴がのちの人生に影響を及ぼさぬはずがない。
赤塚不二夫には自伝「これでいいのだ」があって、その中にはもちろん満州時代の思い出も書かれている。彼の父は特務警察官だったし、敗戦に遭遇したので、人が殺された場面も何度も見ている。感傷もなく淡々と、敗戦後それまで威張って中国人をいじめていた日本人が一家惨殺に遭ったという話がぽんと出てくる。逆に、中国人に親切だったり公正だったりした者は、戦後引き揚げまでの間に中国人に助けられたという話もよく聞く。敗戦の混乱は一種の人民裁判だったのだなと思う。剥き出しの「民主主義」でもあろうか。
敗戦前も敗戦後も、赤塚少年は中国人の子供といっしょに遊んでいた。ただ敗戦前は、彼は中国人の子供に「遊んでやるから、頭を殴らせろ!」と言った。敗戦後は、中国人の子供に「遊んでやるから、最敬礼しろ!」と言われた。そしていっしょに楽しく遊ぶ。民族の垣根はあるという原則と民族の垣根はないという、矛盾しているようで矛盾していないらしい原則が並存している。それに、どうも日本人のほうが粗暴であるようだ。
赤塚漫画のルーツが満州にあることは明らかだ。そして、同じことは安部公房別役実にも言える。失われてなお、満州は日本文化に貢献している。正確に言えば、失われたからこそ、だが。