人は権力闘争を愛す

 あの日馬富士貴ノ岩の事件をめぐる貴乃花の騒動以来、女子レスリング、アマチュアボクシング、女子体操と、スポーツ界の騒動が続いている(日大アメフトの悪質ファウルというのもあったが、あれは競技中の事件であるから、これらの場外騒動とは全然種類が違う)。本来筆者に関係ないできごとであるし、情報源はインターネットのニュースに限られ、それも丹念に追っているわけではないので、口を出すことなどないのだけれど、どうもこれらの問題についてのマスコミの取り上げ方がおかしいと思うのだ。
要するに、すべて権力闘争じゃないのか?
 問題があるのはたしかだが、その「被害者」である人々が、「加害者」を攻撃するために問題をマスコミに持ち込んだ、というのがすべてに共通する構図である。そして、時の「実権者」を攻撃し追い落とそうとする側も、かなり問題のありそうな人々であるように見える。
 マスコミは基本的に事件に群がるパパラッチであり、ヒマな読者視聴者に売りつけるネタがほしい。新聞や雑誌、番組を埋める話題がほしい。喜んで書きたて言いたて、そのスポーツに特に興味もない読者視聴者もさも知ったような意見を言う(ま、これもそのひとつであるけども)。
 攻められている側は、なるほど責められるべきことはしているものの、功績の多い人である。功績がなければそのような位置にいるはずがない。功と罪を見れば、半ばより罪のほうがだいぶ多そうなのから、功が圧倒的に多く罪はわずかというのまで、いろいろバリエーションはあるけれど、功について疑うことはできない。その一方、攻めている側の「功」は見劣りするケースが多い。
 問題はたしかにあったわけだから、そのポジションから追われてもしかたがないのだろうが、旧権力者を追い落としたあとはどうなるのか、懸念を持たずにはいられないような攻城側の面々だ。彼らが問題視して攻撃した弊害の除去には務めるだろうが、一方で新たな弊害を生みださないようにしてもらいたい。

 通り一遍の興味しかないこれらのスポーツについては、一般的な希望を述べるだけだ。しかし好きな相撲(とサッカー)については違う。
 貴乃花に憤っている。と同時に、貴乃花の行動を支持する人が多いのに驚いてもいる。
 日馬富士貴ノ岩が殴られたという発端の事件はまことに奇妙だった。殴られた翌日の巡業に貴ノ岩が出ていて、日馬富士と握手をしたという報道を見ていたのに、その後貴ノ岩は姿を消し、貴乃花の「闘争」が始まっている。あれは幽閉監禁ではないのか? 弟子を道具にしているのではないか? あの程度のけがなら必ず治る。土俵ではもっとひどいけがをする。それより、ずっと閉じ込められている間、貴ノ岩が精神的におかしくならないかを案じていた。
 暴力がいけないというのは、一般論としてはそのとおり。しかし相撲なんて、蹴るのや拳で殴るのが禁止なだけで、突いたり張ったり投げ飛ばしたりするのを見せて銭を取る「暴力芸」ではないか。暴走族のアタマになりたいなんてのが入門してくる。竹刀で叩くぐらいのことならまったくOKである。暴力全般がいけないのではない。いきすぎた暴力がよくないのだ。あれはいきすぎた暴力だった。だから横綱が引退した。以上。終わり。
 栃ノ心は下のころ規則を破って親方にゴルフクラブで叩かれたというが、その親方を慕っている。叩くのはまぎれもない「暴力」だが、それがどんな文脈で、どんな気持ちで、どんな受け止め方でなされているかによって、その価値が決まる。ケースバイケースで、是々非々なのだ。一律の硬直した対応は誤るだけだ。
 その後の損害賠償請求も、2400万円という異常な額だった。本当に貴ノ岩自身がその額を要求しているのだろうかと不思議に思っている。本当ならそれでいい。妥当な額とはまったく思えないが、気のすむようにすればいい。だが、もしその額の決定が彼以外の者によってなされているなら、許しがたいと思う。が、これについての情報はないので、経過を見るしかない。
 彼は帰化して日本に永住するのだろうか。そうでなくて、引退後モンゴルに帰るなら、モンゴルの人生のコンテクストがあるだろう。そこにおいて不利にならないように切に望む。
 貴乃花が大横綱の一人であることは間違いない。だが、それをさも一大事のように、協会執行部の親方衆が彼より格下であることを何か決定的なことのように言う意見も見たが、呆れるほかない。それでは朝青龍と同じだ。横綱になって、大関止まりの親方の言うことを聞かなくなったあのモンゴルのきかん坊と。貴乃花のファンのほとんどは朝青龍を嫌っていると思うが、なに、同種の人間なのだ。馬脚が見える。
 あの全米オープン決勝でセリーナが見せた醜態を嗤う諷刺画に対し、人種差別云々(「でんでん」じゃないよ)の非難を浴びせる人々をも想起する。あの了見の狭いアメリカ人たちの思考様態が、シャルリー・エブドを襲撃したイスラム過激派と寸分たがわぬことをはしなくも露呈している。
 筆者もあの廃業親方とやや似たところのある性格だから、人ごとのように感じられなかった。実の母や兄と絶縁したような人格的にいびつな人に、組織の改革などできるはずがない。競技においては強ければいい。競技の外ではそうはいかない。

 争いをすればするほど、当事者は戦っている相手に似てくるものだ。一連の騒動において、そのことを肝に銘じておきたい。群がる蠅は追わねばならず、物申してよいのは愛する者だけだ。

2018/10/21 SeeSaaBlog