ボルネオだより/「今は冬ですか?」

 8月に授業で生徒に「今は夏ですか」と聞かれて、さすが季節のない国、そんな温帯では当たり前のことを質問するのかとおもしろがっていたら、その数日後には「今は冬ですか」と聞かれて仰天した。乾季と雨季という季節はあるものの、気温自体はほとんど変わらないここの生活では、外国に行ったことがないか行っても近隣熱帯諸国で温帯を知らない者なら、「春」だの「冬」だのといっても、それは空気の振動、線ののたくり以外のものではない。8月はもちろん夏なので、最初の質問はそんな疑問を持たれること自体が意外だったわけだ。あとの質問については、冬かとはいったい全体どこをどうしたらそんな考えに至るのかと思われるかもしれないが、なに、ここはほぼ赤道直下だ。南すれば日本より近いところにオーストラリアがあって、そこではたしかに冬であるから、一見の印象より道理のある質問であって、北半球温帯人の先入観を捨てよと赤道付近熱帯人や南半球温帯人が教えてくれたと考えるべきだ。
 また、ここの生徒はセーターを知らない。日本の教科書にはもちろん「セーター」という単語が出てくる。念のためにと思って、セーターをもっているかと聞いてみたら、セーターが何かがわからない。ジャケットと混同していたりする。つまりもっていないのだが、必要ないのだもの、もっているはずがない。これは牧羊する欧米の冬の衣料で、冬のある日本でも江戸時代の人は知らなかったはずであり、杉田玄白らが額を寄せて「セエタアとは何のことでござろうか」と熟考検討しているさまが想像できる。

 今の世界は欧米人の世界観に覆われている。彼らは温帯人だから同じ温帯のわれわれにはよくわかることも多いが、それでもかなりの点で食い違う(今は欧米式に慣れてしまったとはいえ)。まして熱帯や寒帯の人間の世界観とは多くの点で非常に相違しているにもかかわらず、われわれはそれに無知であることを熱帯に暮らして思い知らされた。ツンドラや、熱地でも砂漠性の気候の土地なら人口も希薄だ。しかし熱帯は人口はかなり多いのだ。無知であっていいはずがないと大いに反省されられた。
 マレー人やダヤクと総称される先住民の家は高床式で、入るとき靴を脱ぐところなど、日本もそうであるから親近感がある。けれどロングハウスと言われる先住民の長屋は、長さもものすごく長いが、高さもすごい。この高床は高温多湿が理由ではない。それは理由の一部分で、高温多湿なら華南もそうだし、ここボルネオなどはもっとそうだが、漢族はそういうところでも土間式の家に住む。
 日本よりずいぶん脚の高いここの高床住宅を見ていて気づいたのは、下を水が流れていい造りなのだということだ。雨が多い土地で、増水氾濫しても大丈夫なようにできている。もっと言えば、水上住居が原型なのではないか。水上集落は今では特異な形式のように思われているが、この気候帯では実に合理的だと思う。水が汚れを流してくれるから、衛生的でもある。
 交通のためにも便利である。車というものは道がないと使えない。ある程度平坦でないといけないし、広くないといけない。道は維持されなければならないが、それが多雨地域ではむずかしい。すぐに草木が茂るから。車は乾燥地帯の交通手段なのである。
 車というやつは、山坂多くて狭い日本のようなところでは使いようがない。牛車はあったし大八車もあるが、膝栗毛や駕籠のような人力こそが環境に対して正解で、近代日本における車の発達の最初のページが人力車によって書かれるのはゆえないことではない。
 車の敵は数多い。沼沢地。砂地。坂。内燃機関が発達するまでは坂は車にとって障壁だった。泥濘。雪解けや雨季のひどい泥は大きな障害で、19世紀ロシア文学を読んだ人なら、泥にはまって車軸が折れ、立ち往生した馬車の横で御者が口汚く罵っている場面はおなじみだ。逆にロシアでは厳冬期こそが旅行に最適のシーズンで、橇で軽快に走ることができる。橇はいわば陸地の舟のようなものだろう。
 多雨地域は草木繁茂し、陸上交通が不便である一方で、水が豊富で河川が四通八達しているので、舟による交通は便利というよりまったく自然で合理的だ。海については言わずもがな。南船北馬は理の当然。そもそも舟は車よりはるかに古い交通手段である。マレー人種はマダガスカルまでも船で行く人たちだった。このあたりの「道」は川だったのであり、水辺に家を建てるのは交通の便でもあるわけだ。内燃機関発明以前は、車行はこの地球上のわずかな部分で行なわれているに過ぎず、あとの大部分は舟か馬か人の足が交通を担っていた。その風景を水上集落を見ながら思い出すといいし、下に水はあまりなくても、高床式住居を見ながらも思い浮かべるといい。高床の下の細流から人類史を思ってもいいんじゃないか?
 水に親しいということは、魚をよく食べるということだ。中国人は豚を好むものの、豚を食べないマレー人にとって肉とはほとんど鶏肉のことだから、そりゃあ魚肉をせっせと食べるに決まっている。市場を見ても魚が多く、肉は少ない。魚醤を造る人たちなのだ。
 オーストラリア旅行の印象として牛や羊を見たことをまっさきに挙げるマレーシア人の話を聞いて、北海道へ初めて行った本州人の感想に似ているなと思うと同時に、ウォーレス線とは別の線がここに引けることがわかった。世界はいろいろなところから見えてくる。

 

だめなのは本だけか?

 だめな本を2冊読んでしまった。「韓国人のまっかなホント」(金両基著、マクミランランゲージハウス、2000)と「韓国人とつきあう法」(大崎正瑠著、ちくま新書、1998)である。
 「まっかなホント」シリーズはおもしろく、いくつかを楽しく読んだ。外国人から見たその民族の目につく滑稽な特徴を揶揄するもので、根底に愛情がありつつ、底意地の悪さものぞかせながら、おもしろおかしく叙述するという作りだ。この本以外はそうだ。だがこれは、著者が在日韓国人であることから見て、英語版にはなかった日本語版オリジナルだろう。韓国人を褒めてばかりなので恐れ入る。
 たとえば「ユーモアのセンス」の項で、農村仮面劇の場面、母の脈を取るために陰部に手を当てる知恵遅れの息子とか、遊女に惑い、彼女が小便をした土をすくってその臭いを嗅ぎ、なりふりかまわず後を追う老僧などというのを例として挙げている。こういうのは直截で粗野な、下肥の匂いのする風刺である。そういうものとしておもしろくはあるが、ユーモアではない。ユーモアというのは客観的に自己を含めて相対化する笑いだ。まさにこのシリーズがユーモアにあふれているのに、それに欠けるこの本がこんな例をもって韓国人はユーモアがあると考えているのだから、そのこと自体が滑稽だ。
 外国人から見た韓国人の最大の特徴といえば火病と犬肉食いだが、それについてはまったく言及がない。それじゃいかんだろう。自国民(在日とはいえ)が自国民について書くからそうなる。ただ、彼らが自分をどう見ていてどう見られたがっているかがわかったのは、いい点だと言えるかもしれない。
 この本が書かれたあとのことだけども、ソウルでアメリカ大使が暴漢に刺されるという事件があった。そのニュースを聞いてうろたえた善良な韓国市民は、どうぞこれを食べて元気になってほしいと愛犬家の大使に犬肉料理を差し入れた。ブラックジョークじみたこの出来事などは、まさにこのシリーズにうってつけの韓国人の善良さと犬肉食をともに紹介するいい例なのだが。

 ちくま新書のほうの著者は、特に韓国と関わりがあるわけではないようだ。なぜ筑摩書房ともあろうものがこういう人にこのテーマで書かせたのか。ほかに人はいないのか不思議である。本人も自分自身の経験の乏しいのはわかっているのだろう、ほかのあまたの韓国観察書から見解やデータを集め、それを整理して提示しているので、その点で有用でなくはない。身体動作に関して不必要なことまで長々と引くなどという原稿引き伸ばしとしか思えない部分もあるけれど。日本語の起源について、定説からほど遠い安本美典の説にあたかも定説の如く依拠しているのにも面食らう(この問題に定説はないにせよ、これは定説扱いされていい説ではない。個人的に取るべき点はあると思うけれども)。
朝鮮人は、本当に怒ると正気を失うといえるかもしれない。自分の生命などどうなってもいいといった状態になり、牙のある動物になってしまう。口のまわりにあぶくがたまり、いよいよ獣めいた顔つきになる。(中略)遺憾なことだが、この怒りの衝動に我を忘れるといった悪癖は、男性だけの独占ではない。それに捉われた朝鮮の女は、(中略)すさまじい狂暴さを発揮する。女は立ちあがってひどい大声でわめくので、しまいには喉から声が出なくなり、つぎには猛烈に嘔吐する。(中略)どうも朝鮮人は、幼少のときから自分の気分を制御する術を学ぶことがないらしい。子どもも親を見ならって、自分の気に入らないことがあると、まるで気が狂ったように大あばれして、結局、我意を通すか、それとも長くかかって鎮静にもどるか、そのいずれかに落ちつく」(p.68、ホーマー・ハルバート「朝鮮滅亡」太平出版社より)。
 これは朴泰赫「醜い韓国人」(光文社)からの孫引きだが(したがってこれはひ孫引き)、前掲書の補いとしてはちょうどいい。
 ユーラシアと日本の間にはブラキストン線のような人間精神分布上の境界線がくっきり引かれている。その意味で韓国朝鮮はおもしろい。明らかにユーラシアに属していて日本と明確に異なる点(議論好きとか罵倒語とか。韓国人は人に物を差し出すとき右腕に左手を添えるが、マレーシアやウズベキスタンでもそうする。これもあるいはユーラシア的所作か)が多いけれど、韓国独自な点(怒りがここまで嵩じるのなどはそうだろう)、日本と共通している点(世界にまれなほぼ単一民族の国であることなど)もあって、移行空間だと感じられる。どうしても「日本と中国の間」という宿命的な位置から逃れられないようにも感じる。

 いま日韓関係がこじれている。その直接の原因はいわゆる徴用工補償判決だが、こういう分野の素人である筆者にも気がつく重大な問題があると思うのだけれども、なぜそれが議論されないのだろうか(たぶん識者はわかっていて、下手に言及できないので黙っているのだと思うが)。条約締結後も徴用工の個人の請求権があるのかどうかは、法律にうとい私にはよくわからない。あるのかもしれない。しかしことはそんな問題ではない。
 この裁判の原告は徴用工ではなく、会社の工員募集に応募した応募工だという。あの判決は要するに、日本の半島支配は不法であり、その不法な支配下で苦しんだ人々にはそれに対する補償の請求権がある、と言っているのだろう。だから徴用工でない応募工にも補償をしなければならないという論理で、その権利は相続されるらしいから、戦前朝鮮半島に暮らしていた人たちとその子孫、つまり韓国人のほとんど全員に請求権がある。日本には認められない論理だから、対立するのは当然だ。互いの主張がせめぎ合う高度な政治レベルの問題であるばかりでなく、歴史を書くというレベルの問題であるはずで、それを一裁判官が決めるんだって?
 韓国については「ゴールポストが動く」とよく言われる。合意したはずなのに、新たに問題を持ち出されて合意が無効になることがしばしば起こるのだ。退任した大統領が逮捕されることもよくあるどころか、ほとんど原則のようになっている。そんな状態では、うっかりすると前の政権の合意が簡単に覆されるのは当然かなと思ってしまいそうになるが、当然なはずがないだろう。
 これについて、あの国では政権交代は「王朝交代」なのだという解説を読んだ。なるほど、そう考えれば前大統領の逮捕だの合意の破棄だのもわかる。しかし、わかるというのは認めるということではない。300年も続いた王朝が打倒されたあとなら、易姓革命で権力を奪取した新王朝が前王朝を辱め政策を覆して歴史を書き直すのもよかろうが、任期5年ごとにそれを繰り返されてはたまらんよ。およそ近代国家のふるまいではない。ま、北隣には兄や叔父を粛清し暗殺する世襲「皇帝」のいる「王朝」が厳然と存在しているわけで、それよりは多少近代だが、あの国とならあまり慰めになる比較ではあるまい。
 韓国も中国も「正しい歴史認識」を持てと日本に要求する。「歴史を忘れた民族に未来はない」のだそうだが、しかし彼らの言う「正しい歴史」は彼らが主張する歴史であり、それは日本の右派の信じる偏向した歴史と同等かそれ以上に偏向した歴史(逆方向に)である。そこにあるのは歴史ではなくて政治だ。
 「日本海」名称問題などがまさに好例で、あれは朝鮮半島から見てのみ「東海」であり、日本からはそうではないどころか、その反対だ。沿海州から見たらむしろ南海だし、中国で「東海」と言えば東シナ海のことだ。なぜ彼らだけに当てはまる名を国際名称にしなければならないのか、理解不能である。彼らにとって正しいものが、相手にとっても正しく、世界にとっても正しい。彼らがすべての正邪を決定する。ひとり日本海にとどまらず、歴史についてもしかり。それですむならこんな簡単なことはない。中国が地図上に台湾を国として書くなというのとはまったく異なる。彼らは台湾は中国の一部だと主張していて、それに根拠がないわけではない。その主張を認める認めないとは別に。「東海」のほうは自尊独善以外の根拠などまったくない。それなら黄海も「西海」としなければならないわけだが、それを世界が(特に中国が)認めるのか?

 日本と関係悪化、中国とも決してよくはなく、アメリカとも問題をはらんでいる。韓国の現政権は目下北しかよりどころがなくなっている。それを見すかして、ミサイルもしこたま飛ばしつつ、北朝鮮は韓国をものすごいボキャブラリーで罵倒している。なかなかしたたかだ。きわめて粗野だが、これが外交というものだ。だてに瀬戸際外交をやってはいない。譲歩を余儀なくされるだろうし、それが同盟国との軍事協約の破棄なのかもしれない。同一民族であるだけに、韓国人は理性的に行動できないと見切られているとさえ思える。

 非理性ついでに、東京オリンピックもボイコットしたらどうだろうか。彼らのスポーツマンシップの欠如には驚くべきものがある。負けたことが認められないという根本的な欠陥があるので、勝ち負けを競うスポーツには徹底的に不向きだ。負けても負けを認めぬ阿Qの精神勝利法とは違う「喚き散らし勝利法」なので、相手は迷惑なことおびただしい。こんな連中がいなくなればキヨキヨしくなるよ。
 こんなこともあったな。ユヴェントスの韓国での試合でロナウドが出場しなかったことがあの国において大スキャンダルになっているらしい。スウェーデンまで追いかけて行ってロナウドに謝罪せよと要求する韓国人がいたとか。ロナウドSNSには韓国人の罵りの声があふれているそうだ。これが火病だね。ロナウドが45分出場するという項目が契約にあったというのだが、契約が破られたのなら謝罪して違約金を払えばそれですむことだ。謝罪はされていないようで、だから怒っているのだと思うが、その場合も謝るのはロナウド個人ではなく、契約を結んだユヴェントスである。欧米人は要するに肌の白い中国人で、面の皮がおそろしく厚い連中だからたいへんだろうと思うけれど、がんばってユヴェントスから謝罪と違約金を引き出してほしい。ロナウドからではない。なぜそんなことがわからないのか、本当に不思議だ。

 書き終えたあとで表題を見返して、「だめなのは日本だけか?」に見えることに気がついた。うん、日本もだめなんだけどね。それをはるかに超えるものがあるね。

 

ボルネオだより/本溜りから本溜りへ

 日本人がいた外国の土地なら、昔住んでいた人が置いていった本がどこかに溜まっているものだ。結果としてそんな本溜りから本溜りへ渡り歩く生活をしている。もともと捨てていった本だから、誰でも自由に借りられることが多く、それを読んで渇を癒やす。その中には日本では読むことのないような本、読むことができなかった本が混じっていることもあって、こういう機会にそれを手に取るのは海外ならではの楽しみだ。
カトマンドゥではそんな本溜りは古本屋で、金を払って求めなければならないが、読み終わった後にまた引き取ってもらえるから、実質貸本屋みたいなものだ。昔の旅人はよく本を読んでいたものだと思う一方、新しい本が少ないのは、日本人旅行者が減ってきていることのほか、最近は本を読むことが少なくなっているのではないだろうかと少しばかり懸念する。

 ボルネオにも学校や日本人スナックの奥の部屋に本溜りがある。誰が置いていったのか、箱入りの今西錦司編「ポナペ島」復刻版もあった。
 マレーシアについての本を読みたいのだが、それは意外に少ない。若竹七海加門七海/高野宣李「マレー半島すちゃらか紀行」(新潮文庫、1995)、高沢栄子「ジュンパ・ラギ」(長征社、1991)、吉川公雄「サバ紀行」(中公新書、1979)ぐらいのものだ。ほかに、マハティール/石原慎太郎「NOと言えるアジア」(光文社、1994)、渋谷利雄/加藤巌編「アジアから学ぶよい暮らし、よい人生」(八月書館、2016)とか、「日本サラワク協会会誌」、松永典子「多文化・多様化社会における日本語教育理念及び方法論の探求-南方占領地の事例より」(科研費研究成果報告書、2006)なんて非売品もあった。
 日本にいたら絶対に手に取らない。「NOと言えるアジア」は聞いたことがあったし、「すちゃらか紀行」は新潮文庫だから目に触れることはあるかもしれないが、ぱらぱらとめくることもないと断言できる。石原慎太郎だの「すちゃらか」だのだから。しかしここにいれば、ひまにまかせて読む。読めば読んだで、どんな本でも啓蒙啓発されるところはかならずある。
 「NOと言えるアジア」がなぜ出版されたのかよくわかるのに対して(露骨なくらいよくわかる。対米自立を声高に言うネット時代以前のこのころまでの右派は、今のネトウヨ輩よりずっとましだということもわかる)、「アジアから学ぶよい暮らし、よい人生」はなぜ出版されたのかよくわからない。MBAで出世というそぐわない話やいい気な旅行記などもまじっていて、まるで雑多だ。雑誌の特集記事を5倍の長さにしたようなもので、出版不況の中にこれを投じる意図は不明だが、「怒らない社会」マレーシアの観察で腑に落ちるところはいろいろある。「日本ではアジアへのこだわりを持っていないとヨーロッパ中心になってしまう」という言にもまったく同感だ。現在の日本はあきれるほど脱亜入欧してしまっているから。
 「サバ紀行」は1964-67年の学術調査の回想、「ジュンパ・ラギ」は1980年代に海外青年協力隊員としてマレー半島のタイ国境に近い村で働いていた人の生活手記、「マレー半島すちゃらか紀行」は1994年の旅行記である。マレーシアと関わった状況は大いに異なるものの、通観するとこの国の発展のようすがわかる。
 「サバ紀行」では、カンボジアがもともとの調査目的地であったのだが、許可がおりなかった。それで、カンボジアのビザを取るために大使館に行ったとき偶然に会い、再びカンボジアでも偶然に会ったインド系マレーシア人の勧めに従って、急遽マレーシアを調査地にするという、大らかなというか、行き当たりばったりないきさつがまずおもしろい。関わる人たちがみなやさしくて親切なのはどうしたことだろうと思う。マレー系やインド系マレーシア人が日本人に好意的なのはいいけれど、半島の中華系の人たちもそうなのにはちょっと驚くのだが。終戦から20年もたっておらず、まだ記憶は生々しいはずだ。シンガポールはもちろん、マレー半島でも日本軍が華僑虐殺をやっていたのを知っていて読むと、すごいなと思う。日本人がきらいな人は近寄って来ない、だから文中に現われないのだろうが、それだけでは説明できない人の好さがあるように思える。
 「ジュンパ・ラギ」では、タクシーで村に帰るときのエピソードがおもしろかった。夜7時、もうバスがないのでタクシーに乗ったら、途中で知り合いの男を勝手に同乗させる。女の子だから、どうにかされて殺されるのではないかと緊張していたら、実は運転手のほうが怖がっていた。ゲリラを。昔はゲリラが出没し、恐れられていたことがわかるし、協力隊員が派遣されるようなところならもうその心配はないはずだが、恐怖はそのあとも残っていたというわけだ。
 「マレー半島すちゃらか紀行」は、軽薄に書いているが、背筋はしっかりある。「阿房列車」が好き、金子光晴の放浪の旅にあこがれがあり、戦争のことも知っている、という旅以前の資質の部分がいいからだ。観光旅行は好きでないが、もし観光旅行をするとすればたぶんこういうところに行くだろうという趣味の一致もある。
 洗濯屋の月給が500リンギット(2万円)というのに感じるところがあった。途上国ならそのくらいであることに不思議はなく、自分自身がその程度の認識でこの地にやってきて、物価もだが、生活の質がその予期とかなり違って高いのに面食らった。3、4台車をもっているのがざらだもの。四半世紀前で認識が止まっていたわけだ。私の個人的な怠惰ではなく、おそらく少なからぬ日本人の認識はそのあたりで凍りついたままなのだろうが、世界はどんどん進んでいる。「NOと言えるアジア」で、マレーシアが2020年までに先進国入りするのを目指していると知って、先進国でこそなけれ、その手前にはたしかに達している目前の驚嘆のボルネオの状況に納得した。密林の首狩り族のイメージを捨てきれていない男など、はるかに時代に追い越されているわけだ。

 その首狩り族の時代の最末期(先の大戦末期。敗残日本兵は首を狩られたらしい)のことは「日本サラワク協会会誌」(2-6号卒読、1988-92)でうかがえる。これはいわば「戦友会誌」で、戦時中サラワクに駐留していた人たちの会として始まったもののようだ。昔を懐かしんだり、慰霊につとめたりするのはそういう会として当然と理解できるが、「戦友会の人達だから無理はないと思うが、皆さんは遺骨を掘ったり標柱を建てたり記念碑を建てる話ばかりしていて、現在の吾々に協力して国造りの為に何かをしていと云う申出を実は聞いたことがない」「率直に言わせて貰うと吾々の国の方々に戦争の思い出を残して貰うことはもうまっぴらである」「できたらこの辺で戦争の話などはやめて次の時代に役立つようなことを考えて貰いたい」などという現地の人たちの苦言を紹介しているのは、自省が働いていてけっこうだ(第2号、p.11f.)。
 そこに橋本風車「ボルネオ博物誌」というのが連載されていた。もともと出版されたものの再録らしい。戦時中石油の出るミリ(ブルネイの近く)に駐留していた人である。蟻だのドリアンだの、ものを語ることで駐留時代の回想をしている。ふつうの戦記と違い、非常におもしろい。最末期に戦闘があっただけの余裕のある恵まれた駐留だったためでもあるのだろうが、前線の兵士にしても、実際に戦っている時間より兵舎の日常を生きている時間のほうがずっと長かったはずだ。虚心に観察する人は、運転手の仕事は車を運転することではなく、車を止めて待つことだと気づくはず。それと同じである。これはのどかすぎるにしても、兵隊の仕事はのらくらすることだと道破されてもいいのではないか。描かれる南方点景も興味深い。埋もれた教養人だ。再版されてもいいと思う。

 「多文化・多様化社会における日本語教育理念及び方法論の探求」の著者も1991-93年にマレーシアで協力隊員をしていて、その後研究者になった。
 北ボルネオでの戦争中の日本語教育について調べたもので、空白部分を埋める作業である。半島部については研究が進んでいても、サバ、サラワクは手つかずの状態だから、やるべきことではあるけれど、大した教育は行なわれておらず、したがってよくわからないというのが実情だとわかる。おもしろいのは「錬成教育」で、これは率先垂範、心身を鍛錬すること、体得することを方法とするもの。それによって「国(公共)のために貢献する」「規律・規範を守る」「労働を重んじる」という価値観を教え込む。儀式的・身体儀礼的な訓練、歌による日本語の普及、実務に即した会話教育が特徴だが、日本語教授法の未熟と教員の不足によって取られた方法であるという面は否めず、考え抜かれた上で採用されたとは言えない代物だが、かえってイマージョンなどの現代の方法に通じる点がある。一定の効果をあげたのもたしかで、次のような回想もある。
「彼らは教育を通じて、私たちマレー人に農場や工場での仕事が机上の仕事以上に大切なものであることを気付かせてくれました。彼らは格好の良い仕事のみを求め、農作業などのきつい仕事を蔑視し、ただ現実離れした日常の享楽のみを追求していた私たちの勤労意識に変化をもたらしたのです。
私たちは、身分や職業が何であれ、努力を怠らず一生懸命働けば、国の発展に貢献できるということを学んだのです。この時期の経験は私の教育理念や人生観に最も強い影響を与えました」(p.52)。
 ヨーロッパ人の植民地体制は厳然たる身分制社会であったし、インドのカースト社会も、中国の士大夫社会もそうであるのに対し、上に立つ者も体を動かすことを恥じず、掃除カーストにまかせず生徒が学校の掃除をするような日本的「四民平等」社会の価値観を前面に押し出している。それは意味のないことではないと思う。
 こういう教育方法に対して、華僑、特にイギリスのエリート教育を受けた者からは、「無教育」「愚民教育」とか「強制的な奴隷化教育」などという言われようをしている。同意できる面もあるが、そういう彼らの受けていた植民地支配者による教育は「買弁教育」、中間搾取階級になるための教育だということも忘れてはならない。ここでは、「教育は如何なる場合にも必ずもとの群から出てしまい、以前の自分たちと同じ者を食いものにし、又は少なくとも彼等を家来にしようとする」(「現代科学といふこと」)という柳田国男の核心を衝く指摘を思い出すべきである。
 パラオの人々が親日的であるということはよく聞くが、「ポナペ島」探検隊も島民の日本人に対する親近感を感じていた。「兄事」するような態度だったようだ。上記マレー人の日本式教育への評価とともに考えるべきであろう。日本人は間違いなく南洋的気質を持っている。類は友を呼んで、南洋的な人々は日本に親しみを感じるのだと言えるのではないか。悪儒教的な大陸とは違う、言挙げをしない武士的ゆる儒教のありかたも関係するかもしれない。日本人も首狩り族で、戦国時代は敵の首を斬り取ることに血道をあげていたわけだし。南洋土人は日本人の兄弟だ、というより、日本人そのものかもしれない。

ボルネオだより/チキ菜食・チキ断食

 ラマダンが終わった。これはたいへんいい習慣で、トルコにいたときそのまねごとをしたことがある。だがいいかげんなインチキ断食で、要するに昼食を食べないだけ。朝食を夜明け前にとるわけでも、夕食を日没後に食べるわけでもなく、まして日中水を飲まないわけでもない。日中断食をしている学生たちにささやかな連帯の気持ちを持っただけのこと。もとよりムスリムではないので、するべきいわれはまったくない。ここボルネオでは、ムスリムのマレー人は生徒の3割程度だから、今回は別に連帯しなかった。しかし、褒むべき習慣であることは間違いない。マレーシアでは断食明けにオープンハウスという習わしがあり、誰でも家に入って飲食を受けられる。イスラムを非難するのはまず断食をしてからにしてもらいたい。
 周囲に影響されやすい人間なので、菜食もインドで実践していた。インド人の4割がヴェジタリアンだそうだが、学生には祭司・学者カーストのブラーミンが多く、彼らはみなヴェジタリアン。そういう人たちに囲まれていたので、それに倣ったわけだ。下宿先が孤児院の2階で、そこはガンジー主義の団体が運営しているから、当然宿舎の子供たちも菜食だった。それにも影響されている(なお、インド人からは相槌として首を振る癖もうつされた。いろんなものにかぶれる)。
 といっても、卵も魚も食べていた。ベンガル地方のブラーミンは魚を食べるとどこかで読んで以来、ベンガル・ヴェジタリアンと称していたが、なに、江戸時代の日本人である。こちらもインチキ菜食で、この形態なら明日からでも日本人は実行できるはずだ(はずだが、現代の日本人はすっかり四つ足喰らいになってしまっているから、案外むずかしいのかもしれない)。
 宗教行為であるラマダン断食は倣いにくいが、菜食には取り立てて宗教色はなく、あってもわれわれに親しい仏教色だし、それを離れてもまことにもっていいことだから、なるべくやりたいとは思っているが、なにせ主義でも何でもないインチキ菜食だから、すぐに掟破りをする。肉食文化の国では菜食メニューが乏しいから、そんなときは平気で肉食。誰かに招かれたときや誰かといっしょに食事するときも、出された料理勧められた料理を何のためらいもなくおいしくいただき、一粒も残さない。菜食「主義者」では全然ない。菜食メニューが豊富なら喜んで菜食するだけのことだ。
 ボルネオでは、中国人のやっている店でも菜食がけっこうある(「素」と書いてある)。豚肉命の人々だと思っていたから、ちょっと意外だ。コロミーという麺料理が好きなのだけども、それにもヴェジタリアン・コロミーがあって、もっぱらそちらを注文する。そっちのほうが肉食ヴァージョンより安いのだから、言うことない。それで、ほとんどはそういう店に通いつつ、ときに肉を口にすることがあっても気にせずに、日々を過ごしている。もちろん海鮮はいただきつつ。
 呑酒民族である欧米人中国人とばかりつきあっているので気がつかないが(日本人自身が泥酔終電乗りすごし民族だし)、酒を飲まない人々というのも世界にはけっこう多くて、これもまことにいいことだ(ムスリム移民と結婚してイスラム教徒になったイギリス人女性を取り上げた番組で、酔っ払って帰って来ないのが彼と結婚してよかったことだと漏らしていたのにはうなずいた)。しかしこれには倣う気はない。酒は神様の飲み物だからね。
 神様は獣肉を召し上がることもあるが(諏訪など)、だいたいは魚肉で満足されているようで、それならこのチキ菜食は御心にもかなうのではないか。よきかな、よきかな。神ながらだ。

ボルネオだより/読める

 ボルネオでうれしいことのひとつは、表示がわかることだ。ローマ字と漢字。ともに私の読める文字である。モスクにはアラビア文字ヒンドゥー寺院にはタミール文字を見かけることもあるけれど、それは装飾みたいなものだ。マレー語と英語はローマ字で、中国語は漢字と、それからローマ字でも表記されている。漢字では中華系(住民の3割以上を占める)以外には理解できないから。中華系でも漢字がほとんど読めない人はけっこういるし。その漢字は正字だったり簡体字だったり、左起横書きだったり右起横書きだったりしているけども(縦書きもまれに)、どれであろうと文句はない。とにかく読める。マレー語はわからないが、わからなくてもそれが読めるというのはありがたい。読めない文字ばかりで書いてあるのはつらい。位置感覚を喪失してしまう。
 行く前にロシア語もキリル文字も少しは習っていたけれど、最初の頃はモスクワの地下鉄に乗るのはけっこうなストレスだった。すべてキリル文字表記で、一生懸命解読するのだが、わずかな停車時間では無理だし、下車してからもどっちへ進んだらいいのかわからない。ふつうの列車なら風景が見えるからそれが情報を与えてくれるが、壁しか見えない地下鉄では表記の文字しかよるべがないからたいへんだった。この文字に慣れてからは、奇妙なアルメニア文字表記の間にキリル文字を見つけるとほっとしたものだが。
 私が読めるのは、日本語で使うひらがな・カタカナ・漢字・ローマ字のほかにはこのキリル文字ぐらいで、サンスクリット文字・カンナダ文字・アルメニア文字・ハングルは手ほどきを受けたことはあるが、読めない。解読できるとも言えない。それがその文字であることがわかるだけ。
 古い文明大陸であるアジアは、文字の大陸である。ユーラシアにおいてローマ字(ラテン文字)が占める面積は非常に限られている。英語やフランス語が補助言語として習われているからローマ字が読める人が多いだけで、その土地の言語がローマ字で表記されている地域は実は限られている。話を世界に広げてみると理由がよくわかる。ローマ字国というのはキリスト教国なのだ(正教は除く。正教国はギリシャ文字キリル文字だ)。そして、キリスト教はほとんど野蛮人の間(ヨーロッパがその筆頭)にしか広まらない宗教なので、新大陸やブラックアフリカをその領土としている。アジアでキリスト教なのは、文明にしっかり浴する前に植民地化されたフィリピンのみ。宗教的な理由以外でローマ字を国字として受け入れたのは、トルコやウズベキスタン、マレーシア、インドネシアベトナムぐらいであり、それぞれそうするだけの事情があった。アラビア文字イスラム文字として広まったが、あれは本来セム語表記のための子音文字で、セム語以外の言語の表記には向いていない。だからトルコやマレーシア、インドネシアはより自言語表記に適しているローマ字に乗り換えた。ベトナムは漢字圏だが、とにかくあの表意文字の漢字というのは数が多すぎて困る。韓国朝鮮はハングルというものがあったからそちらに切り替えることができたが、ベトナムの字喃はそうできるほど整ったものでなかったため、ローマ字にしたわけだけれども、やたら補助記号が多くて、残念な気がする。アラビア文字を使い続けているイランは、立ち返るには中世ペルシャの文字は欠陥が多く、世俗主義を打ち出したトルコと違いイスラムシーア派の正宗だから、よもやラテン文字に変改することはあるまい。国字以外ならローマ字表記言語はけっこう多いのだが、それらはつまり欧米の支配下に入るまで無文字言語だったということだ。
 マレーシアはイスラム教国だけれど、実はボルネオではキリスト教徒のほうが多いのではないかと思われる。ムスリムのマレー人より人口の多い無文字民族の先住民(元首狩り族)がキリスト教に改宗しているからだが、このこともキリスト教を受け入れるのがどんな人々であるかをよく示している。
 わかるのが当たり前なのではない。わからないのが当たり前なのだ、と知るべきだ。新興成り上がりでない古い文明地域では。だからわかるマレーシアの表示が心地よいのだが、よく考えてみれば、その心地よさを支えているのはあの無数の漢字の看板だ。われわれが読めて、世界の大半が読めないあの文字の。それがそのことの証明になっている。
 なお、ボルネオではひらがなカタカナもときどき見かける。日本料理店にあったり日本製品に書いてあったりするのは別に驚くことではないが、日本へ輸出するとも思われぬマレーシアの製品にまで書いてあるのにはやはり驚く。自動販売機に「ぬいぐるみの自動販売機」(UFOキャッチャーだから「ぬいぐるみの自動販売機」ではないのだが)「ハッピー自動販売機」だの、ホテルが「ボルネオホテル」だの。この国の人たちはかなが読めるのか? 紙に「かみ」と書いてあるのも不思議で、「紙」と書けば日本人も中国人もわかるから、そのほうがいいだろうに。モスクのアラビア文字ヒンドゥー寺院のタミール文字と同じく装飾の一種なのだろうが、しかしなぜという疑問は残る。かなはクールなのか? ま、これも読めるからうれしいんだけどね。

チチハルに来た日本人

「斉斉哈爾まで来るとはすごい。日本に帰ったら友達に自慢できるぞ。なにしろ国際都市・哈爾濱のエキゾチックな魅力が強すぎるために、大部分の旅行者は、日程を哈爾濱で打ち切ってしまうからね」(川村湊満洲鉄道まぼろし紀行」、ネスコ、1998)。

 おじさんが甥・姪を連れて戦前の満洲を鉄道で旅するという体裁の架空旅行記の中の言だが、まったくそのとおりだ。チチハルには満州国時代5000人の日本人が住んでいたそうで、省都でもあり、訪れた人はそれなりに多かっただろうが、物書くような人でここまで来た人は少ない。それは戦後も変わらない。

 

 この本は、子供向けの満洲紹介として甥っ子がおじさんに連れられてした満洲旅行の報告という体で書かれた田畑修一郎の「ぼくの満洲旅行記」(金の星社、1942)にヒントを得ていると思われるが、その田畑修一郎チチハルには1時間ほどしかいなかった。夜10時に到着したが、鉄道ホテルは予約が取れておらず満室だということで、ただちに11時20分の夜行でハルビンへ発ったのだ(「日記」昭和17年7月8日)。

 しかし、日記のハルビンから扎蘭屯までの車窓風景を叙した部分は、このあたりの大平原をよく写している。

「八時起床、予定の如く十一時の汽車でハルピン発、扎蘭屯へ向ふ。間もなく広い大草原但し多少起伏あり。広い畝も満人農家の家、木立なども見えてゐる。午食後一時間くらゐ眠つて目覚めると驚いた。ほんとうに平坦で丸い大草原である。地平線が見える。距離にしてどれくらゐのものだらうか、案外近くはないだらうか。はじめはただびつくりする。野の色合は内地の新緑みたいだ。その漠漠たる拡がりと雲の動いてゐる空だけだ。人の影も見えない、馬も木立も見えない。空はしかし雲が遠くまで見えるので地平線に近づくにしたがつて小さい沢山の奴が目に入る。ハルピンを出たときは曇つてうすら寒かつたが気がつくとその大草原の上の一部分を雨が通りすぎてゐる。その辺り多少土地が起伏してゐるらしく、うすく埃だつたやうな色で煙り左手には雲の切れ間があつて鮮かな緑の色が大きい縞をなしてゐる。ちやうどその中を一体どこからどこへかへるのか白牛、黒の放牧の牛の群が小さく美しく何だかゆめのやうな異常なくつきりさで光つてゐる。緬羊の群も見える。満人か白系かよく判らぬが蒼い色のは傘をさしてその少しはなれた処でぽかんと汽車の方を見てゐる。だんだん晴れて来る。はじめはただ大きいとだけ思つた野はしだいに変化のあることに気づいて来る。所々の湿地に生えた草、やがて野生の花で一面に蔽はれてゐる野甘草や野百合、そのために草原の殆ど見えるかぎりが金茶色に光つてゐるのだつた。間もなく湿地、沼、その水面に映る広く青い空と雲。いろんな水鳥がゐる。かいつぶり、白鷺、それから鍋鶴といふのか灰色の大きな鳥がゆつくりととんでゐる。だんだん紫色の花がふえて来る。桔梗に似た花でミヤマキケマンといふ由、群生してゐる。それは緑色の中を一面にぽつぽつと浮び上つてゐるので何ともいへぬ美しさだ。やがて野は少し茶がかつて来る。何かの穂が一面につづいてゐるのだ。その次には広い湿地帯と見えた葦が一面に生えてその去年の枯茎がついつい出てゐるためにずつと黄色く見えたりする。昂々溪、嫩江、富拉爾(基)、広い中での水流。草。ロシア家屋、煉瓦建、南満より美しく清潔な感じがする。成吉斯汗の駅、山を走つてゐる土手のやうなもの、成吉斯汗塁趾の云ひつたへ。但し、満蒙二族の分界境ならんと云はる。夜九時半、扎蘭屯着、駅助役に話し、満鉄保険館に案内してもらふ。がらんとした安寝台つきの部屋、ヨーロツパあたりの木賃ホテルの観あり」(「田畑修一郎全集」3、冬夏書房、1980、p.452f.)。

 

 田畑も満蒙開拓団の入植した村を見て回っているけれども、1939年に農民文学懇話会から派遣されて入植地でつぶさに見聞し、「満洲紀行」というすぐれたルポルタージュを書いた島木健作の観察は、同じものを見ていても違う。彼はハルビンチチハル間の車窓風景をこう見る。農業者の眼である。

「安達に着くと、車窓からも、アルカリ地帯に特有な相貌がながめられた。乾いた土がひわれて、アルカリが白くふき出てゐる。このアルカリを水で流して、農耕に適するやうに土地を改良することは可能だといふが、それはどのやうにしてなされるのであらう。さういふ科学の知識に欠けてゐることを、何か口惜しく思ひながら、私は一本の木もない、夏だといふのに草の短い草原の大きなひろがりを見てゐた。さうして旅に発つて来る前、私の談話が新聞にのつて、それに、「豊饒なアルカリ地帯」といふ言葉が、私が言つたものとして織り込まれてゐたことを、苦々しい気持で思ひ起した」(「満洲紀行」、創元社、1940、p.195f.)。

 昂昂溪から斉斉哈爾までの間は、「この短い線の間にもやはり湿地が見える。湿地、湿地、満洲はじつにいたるところ湿地だ。東満地方のみかと思つてゐたら決してそんなことではない。アルカリ地帯とはまた別に、これはこれでまだ適当に処理されなければならぬであらう。さうでなければ、満洲はほんたうに、「広い」とはいへぬと思ふのである。

 その湿地のひろがる向ふに、放牧される牛の群が雲が湧き出たやうに浮き上つて来た」(同、p.197)。

彼のチチハル滞在は1時間の田畑よりは長いけれども、夕方6時に着き、翌日早朝に発つまでの間である。

「六時すぎチチハルに著き、鉄道ホテルにおちついた。駅の上のホテルの窓からはチチハルの町がよく見下ろされる。駅の前の広場には一面に砂と小石が敷きつめてあつて美しい。その広場から町の方へ揃つてゆくマーチョもいい。一風呂あびてから、町を案内してもらへる人を訪ねてみたが不在だつた。(…)

 私はひとりで町なかをあるいてみた。しかしこの町はホテルの窓からでも遠望してゐた方がよかつた。天主堂の塔といふものの何といふみにくさ。これはごく近頃の建物だが、近頃の建物の何によらず品の下つて見える事実の一つの例證のやうなものである。その尖塔と向ひ合つた憲兵隊のうしろになつてゐる、今は何に使はれてゐるか知らないが、平べつたいドームなども、実にあやしげなものである。附近には、なほ、古い寺のくづれたやうな建物もあるが、しかし美しいものは何一つない。北満はすでに雨季に入つたのであらうか、日暮れの空がかきくもつて、雨が降り出して来た。私は雨を避けやうともせず、そこらの店のウヰンドウをのぞいたり、近頃では満洲でも高くなつたといふ革の旅行鞄に下つてゐる値段の数字をよみとらうとしたりしてゐた。びしよぬれてぼんやり歩いてゐることに私は異郷の旅を感じてゐた」(同、p.197ff.)。

「やがて降り止んだが、また暮れ切つてはゐない。空の低いところ、家々の屋根にすぐつづくあたりの空の、真赤なかがやき。その赤いかがやきの上は、はつきりと一つの線でわかれて、そこは黒闇々たるぶきみさである。その赤も黒も内地には見られぬ、濃く深い地獄の色で、チチハルの町も人も、よく知る機会を得られなかつた私は、その空のいろだけに、チチハルの印象を、深く心にとめて宿へ帰つた」(同、p.199f.)。

 6月だから北方では日が暮れるのが遅いのだ。自然景観を見るのが開拓者の眼であるのに対し、こちらは小説なんぞをいじくる主観的な作家の眼である。そして、チチハルに2泊を予定していたが、1泊だけで去った。

 

北原白秋の「満洲地図」(1942)には「斉斉哈爾」という詩がある。

 「斉斉哈爾

 星さへ凍る晩でした、

 汽車から降りた、黒い影

 鷲の眼のよに眼がきつく

 黒いトランク抱くやうに

 駅を出かけて見てました。

 闇を見つめてをりました。

 たつたそれだけ。風がまた

 ピシリはたいていきました。」

 彼は昭和5年(1930年)3-4月に満鉄に招かれ、「一ケ月に亘つて、北は満州里、西は鄭家屯、東は新義州、南は関東州一円を巡歴した」。そのときの作だが、歌集「夢殿」所収の「満蒙風物唱」にチチハルを詠んだ歌がないところから見て、乗り換えの一時下車程度ではなかったかと思われる。一情景の切り取りだが、気分が出ている。

 

 室生犀星昭和12年(1937年)4月に、新進作家時代以来18年ぶりに洋服というものを着て、2週間ほど満洲を旅した。彼のただ一度の海外旅行だった。彼は他の大勢と同様「ハルビン止まり族」だったが、帰国後書いた「大陸の琴」という小説(出来の悪い昼のテレビドラマのような小説)の最終章にチチハルがちらりと出てくる。

 11月も終わりの頃、登場人物のうちの2人はハルビンからチチハルに来ていて、西洋大街の酒場で出会う。「もう鮒も鮠も氷の下に美しい泳いだままの姿で、色も替えずに凍えている斉斉哈爾に、この苺子が来ていて大馬をつけていたとは、まるで考えもしないことだった。無教育な智恵のすくない女の色の白さは、抜け上るほどぴりぴりした新しい感じではあったが、大馬はこの雪の深い奥地まで苺子が自分を考えて遣って来たことが、さし対いになっていても変に本気になれないような不自然さであった」(室生犀星「哈爾浜詩集・大陸の琴」、講談社文芸文庫、2009、p.235)。そして大馬は「戸外の吹雪のなかに出て行った」。

 チチハルを見てもいず、大陸の冬も知らないで書いている。実際は、「氷の町」とされているチチハルハルビンとさして変わらぬ気温で、雪はむしろ少ない。チチハルを知らない内地人がチチハルに対して持っていたイメージを表わすものとして読めば、それなりにおもしろい。

 

 戦後も、1985年に高野悦子が「黒龍江への旅」(岩波現代文庫、2009)に書かれた旅行でチチハルに来てはいるのだが、黒河に行くときに18時5分に着いて駅の貴賓室で休み、21時45分発の列車に乗るまでと、そこからの帰りに、郊外の扎龍で丹頂鶴を見たあと、6時(18時)にチチハル駅、6時半にホテルで歓迎会に出て、20時30分発の北京行き列車に飛び乗るのだから、結局駅と駅前広場以外は何も見ていない。しかし彼女の場合はそれでいいのかもしれない。これは満鉄の技師であった父高野與作の事蹟をたどる旅、大石橋で生まれた自身の思い出をめぐる旅で、高野與作は哈爾濱鉄道局副局長となり、黒龍江畔黒河まで鉄路を通す事業を主導した。だから黒河へ行き黒龍江を見るのがこの旅のハイライトであり、チチハルにもよく来ていた父親はチチハル駅上階のホテルを定宿にしてたのだから、「北満随一」と謳われたその駅と駅前が見られれば十分だ。

「雨がやんだようなので、駅前広場に出てみる。昔、卜奎とよばれたチチハルは風の強いところである。清朝時代にはここに黒龍江将軍が住んでいて、ロシアに対する北の守りの中心地だった。満洲国ができたあとも、満洲北西部の行政の中心、シベリアと満洲を結ぶ交通の要路としてますます栄えた。

 かつては見渡すかぎりの大平原に、満鉄の建てた近代的建築のチチハル駅がその威容を誇っていた。上部にはホテルがあり、父のチチハルでの常宿はここだった。現在は、今も残る満鉄時代の駅に向かって右側に新駅が建てられ、旧駅は主に事務所として使われている。

 広い駅前広場は、屋台の店でにぎわい、マクワウリ、スイカなどの果物や菓子類、麺類を売っている。私は長いあいだの念願だったワンタンの立ち喰いがしたくてさがしまわり、ついに揚子江の南の安徽省から天秤棒をかついで出かせぎにきていた青年の屋台をみつけた。

 出かせぎの青年たちはグループで行動し、安徽からあちこちの見物をかねて働きながら、四千キロも離れたチチハルまで来たのだという。農村自留地政策で農村人口に余裕ができたので、青年たちの自由業がみとめられ、こうした出かせぎで小遣いをため、家を建てる資金や結婚準備にあてるらしい。

 于先生から話をきき、遠くから来た日本人のためにと、彼は熱湯で食器や箸を何回も消毒してくれた。調味料をたくさん入れたワンタンは、サービスも上々で味もよかった。なにしろ雨上がりの寒い戸外で、熱いワンタンをフウフウいって食べるだけでも、体が温まり気分がよくなる」(「黒龍江への旅」、p.303ff.)。

 

 駅と言えば、石光真清はその日露戦争前のスパイ活動の間にチチハルにもやってきているが、その記述が不審だ。

「荒寥たる旅を終えて到着した斉々哈爾は、哈爾浜に劣らず警戒厳重なロシア軍の都であった。駅前には軍需品が山のように積まれ、街には軍人がうようよしている。当時北満のロシア軍兵站路線は知多から満洲里に、ブラゴヴェヒチェンスクから斉々哈爾に、ニコリスクから哈爾浜にと、三つの線から成っていた。この中でブラゴヴェヒチェンスク斉々哈爾の情況が私の調査目的であったが、大体察知しえたところでは、小興安嶺の分水嶺にあたる老爺庿に一個小隊の守備兵がおかれ、墨爾根に兵站司令部が設けられて一個中隊の守備兵が駐屯している。ブラゴヴェヒチェンスク、老爺庿、墨爾根、斉々哈爾と連絡がとられ、この線が厳重な警戒裡に軍需品の輸送に当てられている。一回の往復に三週間余を要し、一往復二百四十ルーブルの賃金が与えられているという。治安は殆ど完全に維持されているらしい。駅前の客桟に泊ってお花を案内役に城内を見物して歩いたが、僅かの間に異常な変化を来たしたらしく、お花はしきりに感慨に耽っていた。この地の頭目もどこに行ったか行方も知れず、城の内外にいた三、四十人の配下の姿もないという。一時は将軍も手を下しえない勢力であったそうだが、ロシア軍の一撃に会って跡かたもなく滅亡されたのであろう。

 斉々哈爾に滞在三日の後、哈爾浜に向った。三百露里の大平原を行く馬車旅行は退屈極まるもので、人家もまれであり、起伏もなく、一本の樹木さえ見えない。私は毎日うとうとと居眠りをしながら馬車に揺られて行った」(石光真清「曠野の花」、中公文庫、1978、p.285f.)。

 お花は売春婦(いわゆる娘子軍)として大陸に渡り、チチハルを根拠としていた馬賊の領袖宋紀の愛妾となって愛暉の店をまかされていて、そこで真清と知り合った。だからチチハルには来たことがあったのだ。宋紀は義和団事件でロシア軍に敵対し殺された。なお真清は義和団の乱後のブラゴヴェシチェンスクでの中国人虐殺(「アムール川の流血」)を目撃している。

 このくだりを最初読んだときは何とも思わなかったが、チチハルを知ったあとで再読して、この人は実はチチハルに来ていなかったのではないかと重大な疑いを抱いた。東清鉄道にチチハル駅(今の昂昂溪駅)(1)ができたのは1902年。彼が見たはずの「斉々哈爾駅」はこれである。しかしそこはチチハル城から24キロも離れたところなので、軽便鉄道で結ぶことにした(1909年)。この軽便鉄道チチハル駅(2)は現在の駅とは違う場所にあった。今の位置にチチハル駅(3)が開業したのは斉克線ができた1928年である。満州国時代にチチハルに来た人が乗降したのは駅3だ。そこも実は奉天駅や長春駅並みに城内から離れているけれど、しかしそこからなら「駅前の客桟に泊って城内を見物して歩く」ことはできる。だが、日露戦争前にはできない。それは昂昂溪にある駅1だから、馬車で2時間も揺られないかぎり城内を見物には行けない。つまり、これは当時実際にチチハルに来たことがある人の書いた文ではない、ということになる。

 それでなくても、この四部作の手記には不審な点が多々あった。馬賊頭目宋紀の妾お花、同じく掖河の馬賊増世策の妾お君、ロシア軍の襲撃を逃れて逃避行をしていたお米という女郎が真清を助ける役回りをするが、この3人をめぐってはフィクションとしか思えない伝奇物語が語られる。戦乱を避け女郎仲間3人連れで逃げ歩き、餓死寸前になっていたお米は、真清に助けられたあとはぐれてしまうが、彼が馬賊に捕らわれの身になっていたところ、その馬賊の一人の妾として再会し、助命させいっしょに旅に出るものの、酷寒の森の中で力尽き、真清が枯木集めに出たところで姿を消す。彼はお米の杖に「お米よさようなら、ありがとう。菊池正三(真清の偽名)」と刻んで立てた、云々。

 お君は増の死後配下を率いて女頭目になり、山奥の山塞にこもっていた。のちにそこを再訪すべく探し歩いたが、草原になっていた、云々。

 お花とは宋頭目の死後偶然めぐり逢い、男装して真清がやっていた洗濯屋を手伝ったとされる。しかし、真清はラサ潜入を果たしたことで知られるスパイ成田安輝と奉天の列車で出会うのだが、そのときのようすは、

「われわれが奉天で乗りこんだ時に、支那服の堂々たる偉丈夫が鞄をボーイに持たせて乗り合わせた。別に気にも留めていなかった。ところが同行の丁殿中は秘かに観察していたらしい。

「石光先生、あの大きな支那服の男は支那人ではありません。日本人に違いない。話しかけてみてはどうですか」

こう言われて見直すと、なるほどそうらしい。話しかける必要もなかったが退屈しのぎに声をかけてみると、やはり日本人であった。成田安輝という蒙古浪人だと言った。(…)

「自分では支那人に成り切っとるつもりじゃがワッハッハ……やっぱり駄目ですかな。恐れ入りました。ワッハッハ……」

と哄笑したが、なんとなく淋しそうだった。まあ支那人になったつもりの日本人というものは、大体こんなもので、私自身も過去を顧みて心さむさを覚えた。この日以来、彼の名を聞くこともなかった。彼もまた不遇の人であったろう」(石光真清「望郷の歌」、中公文庫、1979、p.151f.)。

 浪人同士の印象的な会遇の一場面だが、チベットまでも潜入できた男が中国人に変装しても一目で見破られる。お花の場合、女が男に、日本人が中国人にと二重の変装をしている。それで店を切り盛りして、見破られないはずがない。荒唐無稽だ。そこへこのチチハル駅の件だから、疑念は極点まで達した。

 だが、疑問はやがて解けた。この本の巻頭には次のような断り書きがある。「『曠野の花』の大半は昭和十七年刊の『諜報記』が根幹になっているが、当時の社会情勢から発表を憚られた部分と脱落していた部分を新たに追補して、全面的に再整理したものである」。

「四著をなす手記とそれに関する資料は厖大複雑であり、もともと発表する意思で書かれたものではなく、死期に臨んで著者自ら焼却を図ったものである。その中には自分を他人の如く架空名の三人称で表わしたものさえ多く、その照合と考証に多くの年月と慎重な努力を要した。従って焼却された部分や脱落箇所の補綴や、全篇に亘っての考証は、編者(嗣子石光真人)が生前の著者から直接聞き正し、また当時の関係者から口述を得たものによって行ったほか、生前の著者を知る多くの人々の協力によって、全容の完成を見るに至った。しかし事実を述べるに、なんらの作為を弄せず、私見もさし挿んでいない」。

筆者自身は未見だが、この「諜報記」を読んで「曠野の花」と照合した渡辺京二は、こう結論づけている。「この四部作は原手記にもとづいて真人氏の制作した作品である疑いが濃厚ということになろう」(渡辺京二「維新の夢」、ちくま学芸文庫、2011、p.148)。

 例として、「『曠野の花』には女郎のお米を伴って老爺嶺を踏破中、お米が失踪する感動的なエピソードがある。それによると石光はお米が残して行った杖に「お米よさようなら、ありがとう。菊池正三」と刻んで凍土に打込んで去ったとある。このくだりは『諜報記』にはまったくない。お米を見失ったことははるかに淡々と記述されている。さらに、『曠野の花』によれば石光は馬賊あがりのお花を日本に帰したあと一切彼女とは会わず、十四年後に農家の主婦として堅実に暮していることを知ったとあり、「私は敢えてその所在を記さぬ」という効果的な一行がつけくわえられている。ところが『諜報記』には「数年後、偶々長崎に遊んだ時、余はお花に再会することが出来た」と明記されている。もとより、『諜報記』自体のまえがきに文体・会話の変更云々の『曠野の花』同様のことわりが記されており、この記述のほうが原手記に忠実である保証はない。ただ、いずれにせよ真人氏が編集者という域をはるかにこえた自在な立場で、あえていえば芸術的感興のおもむくにしたがって原手記からひとつの“作品”を創出したのであることは、以上の分析によって推断可能としてよいであろう」(同、p.148f.)。

 同じく「諜報記」を読んだ人のブログ(「メモ @inudais ho2013-10-10石光真清の手記』戦中版と戦後版の相違点」)には、さらに両書の齟齬する点があげられている。

「愛暉のお花がロシア軍の侵入後の虐殺をのがれなんとかハルビンまで来て石光真清と再会するのに『諜報記』では石光真清の第二回目のハルビン入りのときだとする。そして奉天行きに同行して失敗したあと日本に帰り、第三回目のハルビン入り(ウラジオから四人でのりこんですぐ帰ったとき)のときにはいなくなっていたとある。『曠野の花』では第一回目のときから会い、お花は男装し洗濯屋の番頭として店をとりしきり、真清不在のときも店を維持し、あたかも真清の諜報活動はお花がいないと成りたたないかのような具合になっている」。真清がやっていた洗濯屋について、「第一回目のハルビン滞在はロシア軍通訳の韓国人崖の世話で洗濯屋を開いて繁盛したのち、寛城子(現在の長春)に移動しようとしたことで終わるのだが、『諜報記』ではその洗濯屋の売上が多いようにみせかけ、崖に売りわたして清算したことになっている。しかし『曠野の花』ではお花に預けたことになっている。その後、『諜報記』では崖が洗濯屋の儲けがいまいちだったせいか、あずかっていた洗濯物を勝手に売ってしまったため、崖も犯罪者となってしまってどこかに消えてしまったことになっている。『曠野の花』では真清が日本軍のバックアップをうけてハルビンに菊池写真館を開くときまでお花が洗濯屋を維持しており、菊池写真館が繁盛したので他の日本人に売ったことになっている」。

 要するに、これは石光真清の手記を基にした石光真人によるノンフィクション・ノベルだということだ。息子のノベライゼーション以前に、真清自身がかなり脚色をしているのではないかとも思わなくはないが、そうとわかればそのように考えて読むから、この作品についてはそれでいい。「編集」した人が現在の位置のチチハル駅しか知らなかったので、疑いを招く記述になったということだ。しかし困ることは非常に困る。義和団事件のときの「北京籠城」戦の指揮で有名な柴五郎の自叙伝、教えられることの多い「ある明治人の記録」(中公新書、1971)は石光真人が校訂しリライトしているので、これについてもどこまで筆が加えられたか気にせずにはいられなくなったからだ。困ったことだ。

 駅の件を了解すれば、偵察任務はしっかり果たしていたようである。。

 

 考古学者で人類学者の鳥居龍蔵は、満蒙を主要なフィールドとしていて、情報将校顔負けにこの地域を縦横無尽に踏査していた。だから当然チチハルにも歩を印している。最初は大正8年(1919年)、大興安嶺の山中を狩猟民オロチョンを追ってさまよい、しかしついに遭遇せずにチチハルに出てきた。8月5日「午前九時、軽便鉄道に乗じて斉々哈爾城へ向かった。線路は砂丘の上に設けられて居る。すなわち蒙古の砂漠と続いて居る処であって、一望平濶、地形は最も大陸的である。この斉々哈爾の南の方は、内蒙古の札賚特旗であって、嫩江がこの附近に流れている。汽車の沿線には点々村落が見える。殊にそれには満洲旗人の村が大変多い」(「鳥居龍蔵全集」8、朝日新聞社、1976、p.94)。

「斉々哈爾城は黒龍江省の首府であって、かの盛京省に於ける奉天吉林省に於ける吉林と同格のものである。ただ此処は満洲の一番奥にあるがために、かの奉天などと違って文化の影響を受けることが少なく、幾らか昔の面影が残って居り、シナの省城としてはよほど懐かしいような気風がする。領事の話によると、此処の戸数は現今漢人と満人と合わせて八千戸くらいである。廿四、五年以前には五千戸ばかりであったから、大した増加でもない。他の省城や都会と比較すると進歩の度が幾らか劣って居る。市街にはやはり新しいシナの風が吹いて来て居るけれども、まだ何となく昔のゆったりしたシナの面影が偲ばれる。商店は大概漢人の経営で、市街の状態は旧シナの町を見るような心地がする。満洲人はおおむね市外に住んで居る。この斉々哈爾は土墻を以て周囲を繞らし、四方に門があって外と交通して居るのであるが、その北門の外に満洲人が居るのである。すなわち旗人町であって、日本でいうと士族町というふうのものである。昔はこの北門外は大変威張った場所であったに違いない。

 満洲人の風俗は、今男は一般漢人と同じふうに散髪になって居る。けれども衣服は長い鼠色で染めた綿布を着て、何となく悠長な所がある。婦人はやはり新しい髪を結って居るものもあるけれども、多くは両把頭、その他旧式の結び方である。足は大きい。なお満洲婦人が束髪などに結って居るのを見ると、日本婦人とほとんど変わらない。それから家屋の有様は他省では見られない古い有様である。たとえば土塀を周囲に繞らし、その中央に母屋があって、これに相対してまた部屋がある。而してその前に鳥居式の門が立って、その門の後ろには衝立風の塀が立って居り、なおその前に神桿が立って居る。屋根は草葺きであって、上に千木が並んで居る。この屋根の上に千木が並び、家の前に鳥居式の門がある所は、よほど伊勢の大神宮等の建物に似て居る。(…)

 それから満洲人の家は総てオンドルがあって、煉瓦の煙突が外に立って居る。これは昔は旗人の外は許さなかったものである。それから、処によると、草葺き屋根の縁の処に石灰で渦巻き風の唐草模様を飾りにつけて居る処もある。此処では今いった如く神桿を立てて居るが、これは一年の祭りの時に、その上に錫でこしらえた皿のようなものに豚の肉とか何とかそういう食物を盛り、神様に捧げることになって居る。この神桿の立って居るということは、全く満洲人の古い風俗であって、漢人などには決して無い」(同、p.94f.)。

満洲人の気質は、漢人に比較するとよほどおとなしい所があるけれども、ある者はよほど漢人化して居る。満洲朝廷が倒れて中華民国になって以来、満洲人の生活がよほど苦しくなって来たために、ちょうど日本の明治維新後の士族の窮境に陥ったのと同じ状態で、自分の家具や色々のものを捨て売りすることが大変行われて居る。現に斉々哈爾市街の大道に於いて、満洲旗人がその家の系図までも売りに出て居るものがある。その他康熙帝乾隆帝から下された聖訓、御製、勧政要旨というようなものも大変売って居る。余もその内から多少買い集めた。若し今日満洲語で書いたこういうふうなものを買おうとすれば、斉々哈爾で買うと非常に安く買える。

(…)実に満洲人の今日の状態は気の毒なものである。而して彼らは今や一種の特種部落のようになりかけて居る。我々が満洲人の家に入って写真を撮ろうとすると非常に嫌う。何だか一種猜疑の眼を以て見るふうがある。これらはよほどシナ人から圧迫を加えられて居ることが考えられる。それから満洲人は満洲人同士と交わって、シナ人とは別になって居る。その家に入って見ても、貧乏士族のようなふうに格式ばかり高くて、その実は非常に生活に困って居るのである。けれども各家庭には、やはり昔風に揺籃などを棟木に掛けて、子供をその中に入れて、母親というような人がそれに紐をつけて揺すって居る所などは、よほど満洲人の面影を存して居る。要するに満洲人を研究しようとするには、斉々哈爾あたりが一番好い場処である」(同、p.96)。

「翌日又巡査部長に案内せられて、北門外の満洲旗人の町へ調査に行き、撮影などをした。それが終わると、午後二時今度はダウル人の調査に向かうことにした」(同、p.96)。

軽便鉄道に搭じて斉々哈爾駅に下車し、それより東支鉄道の線路に沿うて西の方、ダウルの村落に行った。此処は昂二溪という村で、戸数凡そ二百五十。その家屋は斉々哈爾の満洲人と同様に、草屋根であって、上に千木を並べ、前に神桿が立って居る。家の内には子供を揺すぶる揺籃もあれば、外には煉瓦の煙突も立って居る。而して女子の風俗は総て満洲風であって、両把頭も見える、此処の旗人の家は、古い建物ほど満洲風であって、停車場へ近づくにしたがって山東省辺の風と似て居る。

 これらを見ても、黒龍江省にも近年著しく山東人の勢力が及んで来て居ることが分かる。この昂二溪という村は、満洲人とダウル人の雑居して居る処で、この附近のシナ人は此処をダウルの村落といって居るけれども、実際来て見るとそうでない。併しまずダウル人が主であって、満洲人がこれに入って居ると見てよい。満洲人がシナ人に圧迫せられて猜疑心が深くなったことは前にも述べたが、ダウル人などもやはり同様で、我々がこの附近に来て、女一人の家などを尋ねると、非常に慄えて顔色を変えるというふうである。これによっても中華民国になってから、漢民族が他の民族を圧迫して居る状態がよく窺われる。ダウル人の風俗は全く満洲人と同じである」(同、p.96f.)。

 「シナ人の圧迫」はもちろん存在しただろうが、巡査が同行して男どもがどやどややってくれば、女一人なら怯えもするさ。鳥居龍蔵という人はおそろしく精力的で、毎回熱心に調査をしているが、その調査はほとんどが官憲や軍隊の後ろ盾を得て行なっているいるものである。発掘(半日や数日程度でできる発掘)や撮影、身体計測などは権力に支えられてこそよく遂行しうるが、民俗調査はまったくだめだ。前時代的というか、「帝国主義的」調査と言われてもしかたのないものだ。チチハルに来る前、興安嶺の山中をオロチョンを探して歩き回り、とうとう会えずに下りてきている。そりゃそうだ、将校や憲兵に従卒、道案内の現地のうさんくさい者ども(馬賊上がりとか)を引き連れての行軍なら、もしオロチョンが近くにいたとしても、接近を察すれば逃げるに決まっている。家を持たぬ天幕生活のオロチョンなら逃げればいいが、定住している人たちは逃げるに逃げられず、撮影を嫌がったり顔色蒼ざめたりするばかりだ。鳥居の勤勉誠実は疑いのないところ、善意と熱意に溢れていて、ロシア人中国人の学者と親しく交わり歓談できるへだてのない人だけれども、その限界はおのずと明らかである。

 昭和3年(1928年)に再訪したときは、昂昂溪から自動車でチチハルへ向かった。「途中数里は砂地であって、ネヂアヤメなどが生えて居るばかりで実に淋しい土地で、蒙古の連続地であることが解せらるる。(…)市街の光景は私の第一回に訪問した時と相違し、ハイカラ風の物品を売る店が多くなり、往来する人物もまた大いに変化して居るのに驚かされた」(「鳥居龍蔵全集」9、朝日新聞社、1975、p.313)。

 このときは北郊の三家子村を訪ねた。「それより満洲人の生活状態を見ようと思って、北門を出で、八清里の三家子にいたり、彼らを調査した。此処は満洲人の古風が残存し、その家屋や神堂の如き昔をしのぶ材料であって、屋根は草で葺き、これに千木を置き、門には鳥居形の門を設けて居る。この村落で石斧一個を採集した。此処の位置は嫩江の河畔の小高い所にあるから、昔から人の住んで居った所である」(同、p.314)。

 ちなみに、チチハルの語源はダウール語で「辺境」または「天然牧場」だとされる。チチハルと少しばかり名前が似ていて間違えられることのあるハルビンハルビンチチハルに間違えられることは決してなく、チチハルハルビンと間違えられるという関係だが)の語源は、満州語で「網干し場」、モンゴル語で「平地」を意味するなど諸説ある。

 

 林芙美子ハルビンへの旅で鳥居龍蔵といっしょの列車になったことがあるらしい。年譜を見ると、この人は5回も満洲を旅している。「放浪記」の作家だけあって、樺太や朝鮮、台湾にも行っているし、戦争中は従軍して陥落直後の南京も訪れ、攻略されたばかりの漢口に女性一番乗りをしている。仏印蘭印にも派遣された。それにより戦後戦争協力者として非難されることになったが、その非難は半分しか当たっていない。林芙美子は要するに日本庶民の生活圏を見聞しに行ったのだ。戦地に赴いた際も、彼女が見たかったのは前線の兵隊であり、「一銭五厘」で招集され奮戦する庶民の右代表のような兵士のかたわらにいたいという思いが第一だったと思われる。「戦争協力者」であったことは間違いないが、しかし当時は、出征兵士を万歳で送ったり戦勝に浮かれて提灯行列をしたり、ほとんどの庶民が「戦争協力者」であったのだ。出発点は下層庶民、成功時でも上層庶民でありつづけた芙美子としては当然だろう。事後の高みからの批判は安易だ。

 戦争との関連で言えば、これも旅の人であった鳥居龍蔵と好一対だ。彼は、日清戦争後の遼東半島調査に始まり、台湾、朝鮮、北千島などの新領土、戦争により得た勢力圏を調査して回った人である。彼の目的は純粋に学問であったが、足跡をたどれば批判したい人(事後の高みの安全地帯の人)には批判の種はいろいろあるだろう。

 芙美子は、ハルビンへ行くとき初めて洋服を買ったと書いている。「この愉しい旅行で特筆すべきことは、私は、この旅行で生れて始めて洋服を買って着てみた事です」(「一人の生涯」。川本三郎林芙美子の昭和」、新書館、2003、p.211)。その旅行は昭和5年(1930)、実際にはアルバムを見るとそれ以前にも洋服を着た写真があるので、それはフィクションであるが、実感を伴ってはいるだろう。先述のハルビン行きの際の室生犀星の洋服新調と考え合わせ、満洲のロシア都市ハルビンへ行くことは一種の「洋行」であったことがわかり、また、そのころは日常和服が一般的であったことも示している。たしかに、高度成長期までは、洋服で勤務している会社員も家に帰れば着物に着替えてくつろいでいたのだった。

 庶民を描くこの人の旅行先でパリだけは例外だが、そこへ行くときも満洲を通ってシベリア鉄道の三等列車である。その年は昭和6年満州事変勃発の年である。ハルビンを出たのが11月13日。(あとで触れる)チチハル攻略戦の始まる直前だ。奉天を通過したときには「「此間満鉄の社員が一人、ハルピンと長春との間で列車から引きずり降ろされて今だに不明なんですがね」とか、「チチハルの領事が惨殺されたさうですよ」」という噂を聞いた。ハルビンでは、「チヽハルから、今婦女子だけが全部引上げて来たと云ふニュースがはいりました。女中達は、二三日泊つて様子を見てみたらどんなものかと云つてくれますが、様子なんぞ見てゐたら、まづ困つてしまふので、どんな事があつても、午後三時出発にきめてしまひました。ハルピンからシベリヤへ行く日本人は私一人です」。そして食料ややかん、コップ、アルコールランプまで買って列車に乗り込む。満洲里では「共産軍はもうチチハルへ出発したとか、ロシヤの銃器がどしどし中国の兵隊に渡つてゐるとか、日本隊は今軍隊が手薄だとか、兵匪の中に強大な共産軍がつくられてゐるとか、風説流々です」。そこまでの車中で、「私は戦ひの声を幽かに聞きました。――空中に炸裂する鉄砲の音です。初めは枕の下のピストンの音かと思つてゐましたが、やがて地鳴りのやうに変り、砧のやうにチョウチョウと云つた風な音になり、十三日の夜の九時頃から、十四日の夜明けにかけて、停車する駅々では、物々しく満人の兵隊がドカドカと扉を叩いて行きます」(「シベリヤの三等列車」、青空文庫より)という状況だった。28歳の女の一人旅として、あっぱれなものである。

 

 ここからは兵士の記録となる。望まれざる訪問者ながら、彼らも(大挙!)チチハルにやってきた人たちだから、それも拾い集めなければならない。

 シベリア出兵従軍の体験に基づく反戦小説で知られたプロレタリア作家黒島伝治は、「チチハルまで」「前哨」(ともに1932)で満州事変のときの黒龍江省攻略戦のようすを描いている。

「十一月に入ると、北満は、大地が凍結を始める。  占領した支那家屋が臨時の営舎だった。毛皮の防寒胴着をきてもまだ、刺すような寒気が肌を襲う。  一等兵、和田の属する中隊は、二週間前、四平街を出発した。四洮線で洮南に着き、それからなお二百キロ北方に進んだ。  兵士達は、執拗な虱の繁殖になやまされだした。 「ロシヤが馬占山の尻押しをしとるというのは本当かな?」 もう二十日も風呂に這入らない彼等は、早く後方に引きあげる時が来るのを希いながら、上からきいた噂をした。 「ウソだ。」  労働組合に居ったというので二等兵からちっとも昇級しない江原は即座にそれを否定した。 「でも、大砲や、弾薬を供給してるんじゃないんか?」 「それゃ、全然作りことだ。」 「そうかしら?」  大興駅附近の丘陵や、塹壕には砲弾に見舞われた支那兵が、無数に野獣に喰い荒された肉塊のように散乱していた。和田たちの中隊は、そこを占領した。支那兵は生前、金にも食物にも被服にもめぐまれなかった有様を、栄養不良の皮膚と、ちぎれた、ボロボロの中山服に残して横たわっていた。それを見ると和田は何故とも知れず、ぞくッとした」(青空文庫より)。

「翌日未明に、軍隊は北進命令を受けた。  二十六時間の激戦や進軍の後、和田達は、チチハルにまで進んだ。煮え湯をあびせられた蟻のように支那兵は到るところに群をなして倒れていた。大砲や銃は遺棄され、脚を撃たれた馬はわめいていた。和田はその中にロシア兵がいるかと思って気をはりつめていた。ロシア人や、ロシアの銃や、ロシアの大砲はしかし、どこにも発見することが出来なかった。和田はだんだん何だかアテがはずれたようなポカンとした気持になって行った」(同)。

 このとき彼は従軍していなかったから、伝聞で書いたか、想像で書いたか。もとより小説であり、実景に相応するかどうかは保証できないが、日本側の見たチチハル攻略戦はこのようなものだったとは言えるだろう。しかし実際には、寒波のため(11月後半はもう湖も凍る真冬である)日本軍もかなり苦戦をしたようだ。そして中国では、負け戦であるにもかかわらず、この戦いのひとつの舞台である嫩江にかかる鉄道橋を「抗日第一槍」の地として立派な記念館を建て、そこは全国紅色経典景区・国家AAAA級旅游景区・省級愛国主義教育基地・省級国防教育基地などとされている。日露戦争のとき横川省三らが遠路苦難を冒して潜入し、東清鉄道の富拉爾基にかかる嫩江の鉄橋(「抗日第一槍」の南北橋とは別の東西橋)を爆破しようとして直前で果たせず、ロシア軍に捕まってハルビンで銃殺されたが、のちに日本が彼らのために「志士之碑」を建てて顕彰した(田畑修一郎「ぼくの満洲旅行記」参照)のと軌を一にする。満州国中華人民共和国はしばしば相似形を示す。

 この人は済南事件の取材にその地に赴き、さらに奉天ハルビンまで行っているが、チチハルに来たかどうかはわからない。

 

 康熙30年(1691年)の斉斉哈爾城の建設以来、ここはまず第一に北辺防衛の軍都であった。軍事と行政、交通の要衝であることに依拠していて、商業はそのあとについてくる程度だった。満州国時代もそれは変わらず、毒ガス研究の516部隊があったりした。細菌兵器の人体実験で悪名高いハルビン731部隊と双生児のような関係だ(毒ガスのほうが罪が浅いとは言えようが、戦後2003年になってその遺棄毒ガスによる死傷者が出た。時限爆弾になってしまった)。そのチチハル憲兵をしていた人の告白というものが刊行されている。朝日新聞山形支局「ある憲兵の記録」(朝日文庫、1991)である。

 山形県の村の貧家に生まれた優秀な少年土屋芳雄は、兵役に取られ満洲に行き、そこで憲兵となった。戦後ソ連に5年、中国の撫順戦犯管理所に6年抑留された。帰国後は中国での軍隊生活を悔い、「戦犯の実録―半生の悔悟」という手記を書いたりしていた。その体験を新聞記者が聞いて書いたものが「朝日新聞」山形版に1984-85年に連載され、のちにこの本となって刊行された。

 憲兵としての活動で、直接間接に殺したのは328人、逮捕し拷問にかけ、獄につないだのは1917人だという。たいへんに重い記録だが、しかしこれを読むとき、次のことを考えておかなければならない。「聞き書き」というものの危うさである。書くというのは非常に難しい技術で、訓練を経てない人の文章は均衡を欠き、自分だけがわかるような読みにくいものになってしまうのが普通だ。だから書くのが仕事の人に書いてもらうのは意味があるのだけれど、話した人と書いた人の考えは同一でない。結局、話者の考えを素材にして書かれた記者の考えを読むということになる。さらに、売り物にする文章ならそのための加工もほどこされているに違いない。

 ひとつの例として、慰安婦に対する態度がある。土屋は憲兵としての自分の行為は心から反省していて、1990年には中国へ謝罪の旅に行き、自分が死に至らしめた人の家族に土下座して謝っているほどだ。しかしそんな彼も、慰安所に行ったことについては罪と思っていなかった。それはそうだ。当時売春は内地でも合法だった。慰安所の制度自体を糾弾するのはまた別のこと、命が消耗品である末端の兵士、一銭五厘たちにその利用を罪に感じよというのは無理がある。記者の認識と話者の認識はくいちがい、ここでは話者とは違う記者の考えを読まされる結果となっている。

 彼がチチハルで手がけた主な事件は、共産党シンパ摘発の斉共事件、ソ連スパイの張恵民事件、鉄道爆破計画摘発、共産党抗日組織をつぶした田白工作、国民党抗日組織をつぶした貞星工作、戦時有害分子一斉検挙である。このうち、斉共事件はフレームアップであっただろう。120人逮捕、45人投獄、そのうち5人が死刑で40人が獄中にあったが、その監獄からの集団脱獄事件が起きたとき、40人は逃げなかった。逃げたりしたら本当に犯罪者になってしまうからだろう。それから2年後にこの40人は刑を残して釈放されたという。

 この人が戦前軍と社会に「洗脳」されていたのは間違いない。だが、戦後も「洗脳」されたのではないか。中共中共史観を信じる人たちによって。彼の謝罪の方向は少しおかしい。満洲憲兵や警官であれば、権力をかさに着て威張り散らし怒鳴り散らし、良民を不愉快にしていたに違いないから、まずそこから反省してもらわねばならないが、この本を読むかぎり、彼は疑わしい人間以外はしょっぴいていない。だがその数が異常に多すぎることが、体制そのものが異常だったことを示している。その中に、また巻き添えになった者の中に無実の人はいただろう。数多くいただろう。それから拷問。胸が悪くなるが、当時としてはさしたる疑いもなく行なわれていたことである。だが、これに対して罪悪感を持つのはしかるべきことで、痛切に反省してもらいたい。その拷問がもとで釈放後に死ぬ者もいたわけだから。敗戦前の彼は中国人にとってまさに「鬼子」だっただろう。これらのことについて認罪し謝罪をするのは人間の良心として当然だ。

 だが、スパイ摘発と破壊活動摘発は違う。こんな事案はいつの時代のどこの国でも重罪であり、それをかぎつければ公安や憲兵は逮捕するし、逮捕されたらまず極刑となる。当人が愛国者であるかなどに関係なく。このふたつについては、誇りにこそ思え、恥じる必要はさらさらない。日露戦のとき東清鉄道の鉄橋を爆破しようとして捕まり処刑された「愛国の志士」横川省三らを思い出せばよい。「破壊工作員」横川らを捕らえたロシア兵にとって、それは手柄以外の何であろう。ところが土屋は戦後、このソ連から金をもらっていたスパイ張恵民の家族にも謝罪しようとする。戦後の共産中国では彼のような人間は英雄とされただろうし、そのことに異議はない。だが日本軍にとっては憎むべき敵であり、逮捕処刑することに異議をさしはさまれてはならない。

 この人は根は善良であったらしいことがはしばしにうかがえる。寒村に冬も裸の子供がいるのを目にし、母親に金を与えたり、敗戦後糧秣補給廠から物資を奪い取り、入植地から逃れて市内に流入してきている日本人避難民に分配したり。また、抗日連軍の兵士で負傷し捕虜になった3人を助命したこともあった。「一人は十四支隊の副官で顧喜文、一人は軽機関銃手で唐といった。童顔の一人は、郭といい、道案内役で十八歳だった。オロチョン族の若者で、おびえるようなこともなく、なぜかニコニコしていた。結局、顧は土屋の同僚がスパイとして使うことにし、唐と郭は憲兵隊の炊事手伝いとすることにした。二人は終戦までまじめに働いていた、と土屋の目には映っていた。だが、終戦と同時に中国解放軍に走った。敗戦で混乱を極めていたさなかのことだった。土屋の妻子が収容されていた小学校を二人が軍服姿で訪ね、二十円を妻に与えて去った。二人共、少尉の軍服だった」(同、p.165)。

そもそも、どうしようもない極悪人ならこんな懺悔をするはずがない。もっとひどいことをしながら、戦後は口をつぐんで知らん顔で生きていた者はけっこういただろう。彼の場合、所与の条件下で、まじめで職務にあまりに忠実だったということだと思う。そして、「まじめで職務にあまりに忠実」なのは大いに罪になるのだということだ。

 彼はチチハルに10年住んだ。だからチチハルについては詳しい。

「土屋が敗戦までを過ごしたチチハル市は、黒竜江省政府があり、西側を松花江の支流である嫩江が流れている。西のゴビ砂漠の影響か極めて砂ぼこりの多い街だった。緯度でいえば北海道・稚内のさらに北にあり、酷寒の地でもあった。満州事変後の昭和六年暮れ、関東軍第二師団が侵攻した後、いくつかの師団が次つぎに移駐した軍都だった。歩兵二個連隊のほかに騎兵、砲兵、工兵、輜重兵がそれぞれ一個連隊、それに飛行隊もあった。野戦兵器廠や野戦貨物補給廠、一等陸軍病院、それに毒ガス部隊もいた、と土屋は記憶している。だから、日曜日などは日本兵で街があふれるほどで、新米の憲兵上等兵・土屋が巡察に出ると、敬礼の連続だった。

 憲兵分隊のあった庁舎は、二階に憲兵隊本部があり、分隊は一階だった。門は赤レンガで、この門をくぐって連行された中国人の多くは拷問などによって殺されたため、中国人の間では「不帰の門」と呼ばれ、恐れられていた。毎朝、皇居遥拝をしてから仕事を始めた。分隊には土屋ら二十人ほどの憲兵がいて、庶務、警務、特高に分かれていた」(「ある憲兵の記録」、朝日文庫、1991、p.91)。

 別の軍人はこう書いている。「チチハルの駅は広野にポツンと建っているといってもいいぐらい、在来の町から離されて造られている。そのことは、この駅が古い在来の町のためにあるのではないことを端的に示している。町の住民には不便この上もない駅までの空間は、将来の新しい都市の出現を見こして用意されたものであった。

 駅ができてからどのくらいの歳月が経っているのか、わたしは知らない。上半分はホテル用に設計された駅の渋茶色のどっしりした洋館は東支鉄道時代に造られたものではなく、あきらかに日本製であることから、たぶん二十年をこえてはいまい。駅舎の両袖にはものものしいトーチカが造りつけになっていて、満洲事変後間もない治安の不安な時代に造られたことをもの語っている。

 しかしその二十年の間に、駅と在来の町を距てた空間はつまるどころか、その可能性すら認めるのは困難である。ただ駅と町を結ぶ広い道路の両側に、運送屋だとか倉庫、鉄道官舎がとぎれとぎれに建っているだけであった。

 わたしは駅の前からマーチョを雇って、町の入口の竜門ホテルの前で降りた。ここから南へ百メートル、角に大宝洋行という二階建ての雑貨屋に毛のはえた程度のデパートがある十字路を中心とした一帯が町一番の繁華街で、いうなればチチハル銀座といったところだった。

 もっともこれは日本人に対していえることなのであって、満人が住む城壁のなかの旧市街にゆくと、にぎやかさ、雑踏という点では、チチハル銀座は足もとにも及ばない。わたしは部隊に着任した早々、先輩の見習士官に連れられて夜の旧市街に足をふみこんだことがあるが、そのときの印象はまことに強烈であった。縦横に入りくんだ狭い道路には人があふれ、その両側には、煌々とハダカ電球を照らした屋台店がならび、そこには油とニンニクと垢とそのほか一切の匂いのごっちゃに入り混じった、なんともいえない臭気と喧騒がたちこもって、内地から来た早々のわたしは息もつけない想いで立ちすくんだのであった」(吉富利通「ある初級将校の敗戦日記」、光風社文庫、1995、p.46f.)。

チチハル市には、軍専属の慰安所が三カ所あった。二カ所は朝鮮人女性で、残りが日本人女性だった。兵たちは、外出となると、この慰安所の前に列をつくった。彼女たちは、一日に二、三十人の兵を、多い時は五十人近くを相手にしていた。夜になると将校の番だった」(「ある憲兵の記録」、p.143)。

「軍専用の慰安所のほかにチチハル市には遊郭街があった。永安里といった。接客婦は、中国人だけで五、六百人もいた。大小合わせると数十軒以上の妓館があったのではないか。この中に、朝鮮人の接客婦四十人ぐらい、日本人は二十人ほどが混じって働かされていた。治安が不安定だったころ、毎月一、二回ほど土屋たちは、この歓楽街を包囲し、検問検索をしていた。だから、土屋はこの街の隅ずみまで知りつくしていた」(同、p.144)。

 憲兵密偵を手先に使った。その中には「密偵の立場を悪用して、「日本憲兵に黙っていてやる」とか「罪が軽くなるように頼んでやる」と、自分の同胞に持ちかけては金品を受けとる密偵がゴロゴロしていた。

 ひどい密偵になると、金品を要求して拒否されると、事件をデッチあげて憲兵隊に密告することもあった。中国人通訳にも、似たような例がある。憲兵に捕まった中国人の家に行き、「金を出すなら、都合がいいように通訳してやる」と、もちかける。もし、金品を出さなければ、不都合な通訳をして重罪にしてやるぞ、という脅しでもある。気味が悪いのと、藁にもすがりたい気持ちとで、家族は必ずといっていいほど金を出していたようだ」(同、p.129)。

 生殺与奪の権力のあるところ、必ず現われる現象である。これらの密偵は日本の敗戦後漢奸として断罪された。圧制権力のイヌは民衆に憎まれ、その権力が瓦解すればみじめな境遇に陥る。敗戦後土屋の首には懸賞金がかけられていたらしい。ソ連軍に捕まって幸いだった。イヌのイヌはいっそうみじめだ。土屋らはシベリアへ行かされるだけだったが、彼らはおそらく処刑場へ行っただろう。

玉音放送の翌十六日になっても、ソ連軍はチチハル市に入って来なかった。虚脱感の中で、土屋は、見納めにと市内を愛馬で巡ることを思いついた。特に目的はなく、竜門大街から南大街に向かった。馬上から見る街は、日本敗戦前の昨日とは一変していた。土屋たちが支配していた時は、押し黙った人びとの多い街路だったが、この日は違っていた。白い歯を見せた笑顔が、あちこちで手を握り合い、抱き合っている。喜びを体全体で表現している。日本の敗戦は、彼らにとっては勝利だった。それを、街の光景から土屋はあらためて思い知らされた。

 さらに、商店や住宅の戸口には、軒並みといっていいほど青天白日旗がひるがえっていた。馬車や自転車に乗っている人たちは、その小旗を風になびかせていた。朝鮮の人たちは、朝鮮の国旗を手にしていた。「こんなものを、いつ作っていたのか」。密偵市民社会の隅々にまで潜らせ、厳しく取り締まっていたはずなのに……。土屋は、呆然としながら進んだ」(同、p.211f.)。

 異民族支配の終焉は喜ばしい。だが、その旗は国民党政権の旗だ。日本軍の敗北は、その支配下では匪賊(「共匪」を含む)の襲撃以外は一応治安の保たれていた旧満州国においては、国共内戦という戦乱の始まりとなったということも忘れてはならない。東北地方の「烈士陵園」の墓標を読めば、1945年以降の没年ばかりだ。それもまた事実である。

 

 抑留生活を描いた「シベリヤ物語」で有名な長谷川四郎は、シベリアに連行される前は満洲にいた。1937年満鉄入社、大連図書館や調査部に勤め、その後42年に協和会調査部に入った。布特哈旗の事務長となり扎蘭屯に移ったが、招集されてソ連国境に配属された。「長谷川四郎全集」の年譜によると、「九日午前零時、ソヴェト軍の進攻がはじまる。扇山監視哨は全滅。満洲里の中隊は攻撃を受け、敗走。ばらばらになって逃げ、海拉爾へ行き、そこから興安嶺へ入る。興安嶺を歩いて下り、博克図で部隊に編入される。対戦車用自爆爆弾を持って待機するうちに十五日を迎え、降服。貨車でフラルキへ送られ、そこで武装解除される。そこから斉々哈爾の捕虜収容所へ送られる。脱走してしばらくの間、知人宅に匿まってもらったが、脱走兵狩りがきびしくなったので収容所へ戻った。斉々哈爾からシベリヤへ送られる最後の捕虜部隊に入れられ、満洲里を通ってソヴェトへ入った」(「鶴」、講談社文芸文庫、1990、p.282)。そのあたりのことは「鶴」所収の「脱走兵」や「選択の自由」の記述でうかがえる。

 戦闘中止の指令が出たあとのこと。「明け方、汽車は小さな駅で停まっていた。兵隊たちは下車して、見知らぬ村はずれの野原に火を燃やし飯盒で飯を炊いて食べた。長い休息がつづいて、昼食も焚いて食べた。午後、敵は依然として見えなかったが、何処からか武器放棄の命令が来た。見えない敵がついに勝利したのである。兵隊たちは又銃を解き、それを道ばたの溝の土堤の上にならべて横たえた。そして身軽になった兵隊たちは、横たわっている銃剣と平行して、道路の上に長々と列を作って並んだ。彼らは歩き出した。ゆっくりと夕ぐれが来て、彼らは夜の中へ歩いてゆき、夜もすがら歩きつづけた。夜明け、彼らは静かに流れている大きな河にかかっている鉄橋を渡った。道路が急に広くなり、遠くにチチハルの町が見えて来た。その時初めて、背後から巨大な戦車が何台も何台も疾駆して来て、彼らを追い越して行った。鉄の無限軌道が道路をふるわせた。そして、恰も巨大な無限軌道がゆっくり回転しているかのように、徐々として道路のはてに大きな門が現われて来た。

ソビエト社会主義共和国連邦の兵士たちが西田一等兵の前に捕虜収容所の門を開いていた……」(「脱走兵」)。

 短編集「鶴」の作中、「張徳義」では河北出身の苦力を、「ガラ・ブルセンツォワ」では白系露人を、「可小農園主人」では満洲人地主を、「赤い岩」ではモンゴル人を描いて、興安嶺を挟むこの地域が誰のものであるかを、あるいは誰のものでもないことをよく示している。この地域にもっとも権利を有しない日本人の姿がもっとも多いことは、作者の所属上やむをえない。

 

 与謝野寛・晶子夫妻の旅が日本人チチハル旅行記の白眉であろう。彼らは満鉄に招かれて昭和3年(1928年)5-6月満洲を旅した。その見聞は「満蒙遊記」(大阪屋号書店、1930)にまとめられている。

 しかしながら、この旅行記でおもしろいのは千山とチチハルのみと言っていい。この2箇所では中国人と関わっていて、その姿が見える。あとは日本人を訪ね日本人に案内されるばかりなのだ。それでは添乗員付きのガラス越しの見物になってしまう。

 チチハルのくだり(「斉斉哈爾」「嫩江の一夜」)はさして長くないので、全部引こう。二人は午後4時に昂昂渓に着いた。

「この昂昂渓と黒竜江省の首都斉斉哈爾と十六哩の間に、支那政府の敷設した軽便鉄道斉昂線がある。汽車は朝夕唯だ二回しか運転してゐないので、私達は宿へ手荷物を預けて置いて、直ぐに自動車を雇つて首都へ向つた。五時であるのに五月の末の内蒙古はまだ日が高い。路は相変らず沙の中の平原で、風を帯びた沙塵が白く車を撲つのであつた。或る沙丘の附近を通る時に、そこで馬賊の一群が近く支那兵に銃殺されたことを日本人の運転手が話してくれた。支那の政府は馬賊を逮捕すると裁判をせずに銃殺の刑に処してしまふ。従つて馬賊は犯跡を遺さぬために初めから残忍な事をするのだ相である。

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 私達は斉斉哈爾の城外にある満鉄公所に所長の早川正雄先生を訪ねた。公所の入口に立派な自動車が一台あつて、数人の支那兵がその附近に立つてゐるので、支那の高官の来客がある事を知つた。名刺を出すと、早川先生と令夫人とは、自ら迎へて、私達の来るのを待つてゐたと云はれ、生面の間とは思はれない程に堅苦しい挨拶を廃して、「丁度よい所です、呉俊陞さんの奥さんが来てゐられる所ですから御紹介します」と云つて客間へ案内せられた。そこには瀟洒とした服装の支那貴婦人を二人見受けた。一人は此の黒竜江省の督弁呉俊陞氏の第二夫人李氏、一人は此省の警務処処長(警視総監)で猶外に幾つかの要職を兼ねた中将劉得權氏の夫人馬氏である。私は忽ち二夫人の間に据ゑられて、早川先生御夫婦の通訳を煩はしながら、何かと多くを話し合つた。呉夫人はもと北京に住んだ人で、聡明な資質の上に熱情に富み、殊に呉氏に嫁して以来は世界の新知識にあこがれ、女子教育にも注意を払ひ、また社会改良、貧民救済などに就ても真面目に考へてゐる人だ相である。その徳望のある事は、省民から「黒竜江省には二人の督軍がある。一人は夫君の呉氏で、一人は呉夫人である」と云はれてゐる程である。督軍とは云ふが、勢力から云へば事実上の覇王である。その呉氏が夫人を愛することも深いが、夫人も呉氏を尊敬し熱愛して、七十翁の夫君が歿せられたら殉死をする覚悟で、斉斉哈爾の呉氏邸には予てから二つの柩が備へられてゐると云ふ事である。年は二十七で、その支那風の美貌が殊に若若しく見せてゐる。

 劉夫人はやや年上であるらしいが、同じく若やかに見える人である。早く夫君は日本の士官学校を卒業し、夫人も東京に学ばれたので日本語に通じてゐられる。才気と熱情と新知識の教養とに於て呉夫人と好い一対を成す人だ相である。私は満蒙へ来て教養ある支那婦人に会ふ機会が無かつたので、この偶然の会合が嬉しかつた。夫人達は「東京朝日」の竹中繁子さんの近状を問はれた。先年竹中さんも此地へ一遊して夫人達と語られたのであつた。この客間に入つた時から目に附いた事であるが、呉夫人と三尺程離れて明るい海老色の支那服を著た十二三の童女が不動の姿勢で直立してゐる。その緑色の目も白晢の容貌も一見して支那人では無い。早川婦人のお話に由ると、呉夫人が革命後の露西亜の孤児を憐んで侍女にしてゐられるのである。童女は左の腋に美くしい篋を挟んでゐて、呉夫人が命じると篋から細巻の煙草を抽いて捧げ、それに火を点じるのである。さうして相変らずもとの直立不動の姿勢を続けてゐる。私は斯様な事が支那の貴婦人の一つの誇りであらうと思つて奇異に感じるのであつた」(青空文庫より)。

「私達は日の暮れない間に斉斉哈爾の城内を一巡し、併せて日本の領事館を訪うた上で、宵の汽車に乗つて昂昂渓(アンアンチイ)に引返し、深夜の午前二時五十分の汽車で哈爾賓に向ふ予定であつたから、其事を云つて公所を辞しようとすると、呉夫人が遮つて、城外にある劉夫人の水荘へ私達を招待して詩人達のために旅中の興を添へたい。実は自分の邸へ来て頂きたいが、主人が北京へ行つた留守であるから、嫩江の景色をお見せすると云はれる。私達の予定が其れを許さないのでお断りすると、夫人は私達のために特別列車を仕立てて深夜に昂昂渓までお送りするから、是非とも今から水荘へ同行しようと勧められる。早川さん御夫婦も劉夫人も熱心に勧められるので、私達はその御厚意に従ひ、やがて男達は早川先生の自動車に、早川夫人と私とは二夫人の自動車に分乗した。

 斉斉哈爾の城内に入り、殷賑な市街を通り抜けて、更に反対な方の城門を出で、暫くして嫩江(ノンチャン)の畔にある劉中将の水荘へ著いたのは薄暮であつた。水荘の門を衛つてゐる一団の兵士が突然士官の号令の下に、両側に並列して捧銃の礼を私達にしたのには驚かされた。早川夫人か加藤さんかが「督軍夫人の貴賓としてのあなた方に対する礼です」と囁かれた。私は思はず顔が赤くなるのを感じた。水荘は洋風の平家建で、河に面したサロンが瀟洒としてゐる。四方の庭に花園が作られてゐるが、まだ花を著けてゐる木は無く、北地の気候の相違が想はれた。公所から電話で打合されてあつた為めか、主人の劉得權氏が先に来てゐて出迎へられた。よく日本語の出来る人で、督軍呉俊陞氏に愛重されてゐる明敏な壮年中将である。呉夫人は私達を案内して前の河へ下り立たれた。私達は内蒙の大河である嫩江に来たことを喜んだ。水際の沙の珍らしく白い中に種種の美しい色の小石が散在し、その中に瑪瑙が交つてゐるのは、数年前に一遊した佐渡の相川の浜のやうである。日は既に遠く川上の平沙の末に落ちて、猶その柔かい赤紫を帯びた余光が河に反映し、河辺の沙を照し、一行の逍遥する姿を染めてゐる。其中で殊に呉劉二夫人の白い顔、濃いい水色の地に銀糸の入つた絹のマントオ、さうして瑪瑙を自ら拾つては私に下さるきやしやな手の浮んで見えるのが美しかつた。佐藤、加藤の若い二人も頻りに瑪瑙を拾つて歩かれた。二隻の舫が主人の命に由つて渚に私達を待つてゐる。落日の余光の中に三日月が不思議にも翡翠の色をして光を加へ、北へ渡る雁が幾つか鳴いて過ぎた。一つの舫には男ばかりが乗つて劉氏が櫓を取られ、私達婦人ばかりの舫は呉夫人が櫓を取られた。風は無く、空は晴れて、蒙古の沙の世界の事とは全く思はれない程、なごやかに美しい宵である。二つの舫は明浄な水に泛んで静かに私達を河の中洲に送つた。其処には一帯に楊柳の若木が茂つてゐる。私達は舫から上がつて楊柳の中に入つたが、小鳥が驚いて幾羽も飛び立つた。その鳴く声を聞くと我国の行行子(よしきり)である。支那の名では「葦雀(ウィジャア)」であると劉氏から教へられた良人は、両国の名が自然に一致して葦に縁のあるのを喜んだ。 

 楊柳は若木であるが、誰れも其の茂みの中に姿を失ふ程の高さであつた。私は柳の枝に倚りながら暫く翡翠色の月を見上げた。其時また雁が鳴いて通つた。早川夫人に促されて再び舫に乗ると、呉夫人は自ら手折られた一束の柳の枝を抱へて乗られ、やがて其れを舫の両側に分けて挿された。私はこの戦国の支那に貴女の風流の存してゐる事が涙の出るほど嬉しかつた。空は濃いい瑠璃色に星屑の金を鏤め、五月の末にもう天の河がべつとりと乳を流してゐる。舫の上では、月と水明りとが呉劉二夫人の水色のマントオを白く見せるのであつた。また気さくな呉夫人が櫓を取られた。

 水荘のサロンには電灯が附き、俄に城内から運ばれた夜食が用意せられて居た。呉劉二夫人と劉氏とは十年の交りであるかのやうに私達を歓待せられた。支那の宴会の接客法だと云つて、二夫人自らの箸で屡料理を私の皿に載せられもした。主人の漢詩が示されたので良人は漢詩を作り、佐藤さんは俳句を、私は歌を書いた。快濶な早川先生御夫婦は私の歌を訳して二夫人に告げられるのであつた。

 宴席の給仕がすべて督軍附の兵士であるのも私には異様の経験であり、支那の歴史で読んだ塞外舎営の光景のやうに感ぜられた。私は昨夜の洮南の宿の佗しかつたのに比べて、環境のロマンチツクな変化に心を躍らせて居たが、快よく酔はれた佐藤さんは、立つて踊るやうな姿勢をしながら人人と語られた。寡言で沈著な加藤さんは少し酔つて顔を染めながら、煙草をくはへて、少年のやうな優しい微笑の中に此の光景を眺めてゐられた。酒量の無い良人は早く支那酒に酔ひながら頻に筆を執つてゐた。何よりも併し早川先生の卒直と深切とに満ちた快弁がサロンの情調を引立てる中心を成して居た。先生は有数の支那通で、督軍の呉氏とは早くから義兄弟の親交を続けてゐる人である。日本と満蒙との関係が先生の過去二十余年の貢献に由つて、どれだけ幸ひしてゐるか知れないと云ふ事である。私は満鉄が適材を適所に任じてゐる賢い仕方を心窃かに喜んだ。私はまた先生と共に早川夫人にも敬意を捧げるのであつた。夫人は曽て教育家として英語を旅順の女学校で教へられて居たが、今では夫君と同じく支那語をも善く話され、その敏活な性情は内助のみならず、外助を以て夫君の事業に貢献せられてゐる。満洲に在住する日本の女子達が支那語を学ぶことに冷淡なのを遺憾に思ふ私は、特に早川夫人が中年から支那語に精通せられるに至つた用意の深さを難有く思ふのであつた。

 食事の終つた頃、呉夫人と劉夫人とは、支那の織物を見せようと云つて私を別室へ伴はれた。そこには既に多くの目の覚めるやうな織物が卓の上に陳ねられ、糸房(織物商)の手代が一人待つて居た。呉夫人が手に取つて示される物は、電灯の下に何れも虹がなびくやうである。私が「おお美しい」と云ふと、夫人は「それでは是れを差上げたい」と云はれる。私が褒める物を「それでは是れもどうぞお持ち帰り下さい」と云はれるので、私は初めて、私の土産にするために城内から特に電話で糸房の手代を呼ばれてゐたのである事を知つた。私は褒めることが出来なくなつてしまつた。夫人は其中から撰んで「東京の竹中繁子さんにも上げて下さい」と云つて托されるのであつた。

          ×

 一行が好い気持に満ちながら水荘を辞し、早川先生御夫婦と共に城外の満鉄公所へ帰り著いたのは十一時前であつた。早川夫人のお心遣ひに由つて、此処にも支那料理の夜食が用意せられて居たが、私達は御厚意を謝しながら、一椀のお茶漬を頂くに留めた。御夫婦も私達も共に今夜の思ひがけない歓会を喜び合ふのであつた。併し特別列車に乗る時間が迫るので、早川先生御夫婦に教へて頂きたいと思つて居た斉斉哈爾の事情を問ふ間が無く、まことにあわただしい別れである。見送つて下さる御夫婦と一所に斉昂線の停車場へ来て自動車を出ると、此処でも督軍夫人の賓客として、突然一団の兵士が士官の号令の下に捧銃の礼を私達にした。私は心の中で済まない事だと思ふと共に、また顔の赤くなるのを感じた。外に一人の客もゐない駅はひつそりとしてゐた。呉夫人から命ぜられた臨時特別列車が私達を待つてゐるので、乗らうとすると、呉劉二夫人が自動車で見送つて下さつた。こんな深夜に二夫人が城外へ出られる事は滅多にない事だと聞いて、私は二夫人の御深切に感激するのであつた。二夫人は各自の写真に自署したのを携へて来て私に恵まれた。私は別れを惜んで夫人達と握手しながら、頻りに感傷的な気持になつた。もう生涯の中に此地で斯うして此の人達と出会ふことは望まれないと思つた。それで二夫人に「是非近く東京へ一度来て下さい」と繰り返しつつ云つた。二夫人も日本旅行を望まれてゐるからである。  汽車が動き出したので、車内に入ると、卓の上に清素な幾品かの料理が用意せられて居て、支那人の給仕が麦酒と茶とを侑めた。室の隅には護衛の兵士が控へて居た。すべて督軍夫人の周到な心づかひからであらう。汽車は機関車の外に車輌が唯だ一つ附いてゐるので動揺が甚だしい。偶然にも私達はまた、営口から大石橋への特別列車の経験を繰返したのである。窓の外には嫩江で宵に見た月が平沙の末に落ちかかり、他は蒼みを帯びて薄暗い空に疎らな星が望まれる。良人は唐代の詩人の「塞上行」の境地が窺はれると云つて居た」(同)。

 結局彼らもチチハルにいたのは半日とも言えぬ一夕だけであるが、なんとまあ印象深い一夜であることよ。この歓待ぶりはどうだろう。辛亥革命の前後が日本と中国の関係が密接で、中国人の日本に対する好意も留日意欲も高かった時代であるのだが、中央ではとうに薄れたその時代のよき記憶が、辺境のチチハルでは時代遅れにまだ続いていたのかもしれない、とも思う。

 しかし、話はこれだけでは終わらない。与謝野夫妻はそのあと奉天に行き、駅の上階にあるヤマトホテルに泊まるのだが、

奉天駅へ午後八時三十分に著いて、満鉄の社会主事河村牧男さんのお出迎へを受け、駅の楼上にある大和ホテルへ泊つた。新聞を見ると大元帥張作霖がいよいよ北京を退き、今日天津を立つて京奉鉄道で奉天へ帰ると云ふ事である。(…)

 ホテルは深夜にも汽車の出入する汽笛や響きのために殆ど眠られなかつた。翌朝私は早く起きて東京の子供に送る手紙を書いてゐると、へんな音が幽かに聞えた。顔を洗つてゐる良人も其れを聞いた。二人は唯だ騒音の多い所へ来たと思つてゐた。それから二十分も経たぬ中に、階下の駅の構内で俄かに人の往来の騒がしいのを感じたが、猶私達は乗客の込み合ふためであらうと思つてゐた。一時間の後に別室に泊つてゐられた森さんと加藤さんとが意外な変事を告げられた。満鉄京奉両線の交叉するガアドの下で、京奉線の汽車が四台まで爆破され、張作霖と共に黒竜江省督軍の呉俊陞も殪れ、其他にも支那官人と婦人との死者が多い様子だと云ひ、また爆破と同時にガアドの上の満鉄線を守備してゐた日本兵と京奉線の番をしてゐた支那兵との間に銃火が交換されたと云ふのである。私達は初めて今先のへんな爆音の正体を知つたと共に、厭な或る直覚が私達の心を曇らせたので思はず共に眉を顰めた。さうして斉斉哈爾で一週間前に逢つた呉夫人がどんなに慟哭せられることであらうと想つて心が傷んだ」(同)。

この事件の直後、与謝野鉄幹はこんな歌を詠んだ。

「わが兵士きて鹿柴(ろくさい)を立つるなり 人の国なる瀋陽の市

若くして異国を恐れ 遠く来て 今日この頃は故国を恐る」

その後大連で李氏は夫呉俊陞のあとを追って殉死したという話を聞き、彼女を悼む歌を詠んでいる。そのときの歌は、

「大連にて、斉斉哈爾なる李夫人の殉死を聞きて

もろともに嫩江に見し夕月は また照せども帰らざる君

李夫人の死を悲めば 冷たくも心に流る嫩江(ノンカウ)の水」(寛)

 「誤りたる呉夫人の訃報を得たりし時

 嫩江の月夜とおなじ世とも無き世をたちまちに見たまひし君

 斉斉哈爾を夜半に立ちつる旅人は 月見るたびに君をこそ思へ

 呉夫人の生死(しやうじ)を知らず 初めより夢の花ぞと思ひけらしな」(晶子)

チチハルで詠んだ歌としては、

「嫩江の劉荘に、督軍呉俊陞夫人李氏其他と会して、船を泛ぶ。

 天の川しろし五月の宵ながら斉斉哈爾の沙こほろぎの鳴く

 東京に君と逢ふ日を契れども また見るべきや嫩江の月」(寛)

 「斉斉哈爾

 我身をば中華の貴女の逍遥の車に見出づ夕月のもと

 嫩江を前に正しく横たへて 閻浮檀金(えんぶだごん)の日の沈み行く

 月夜よし 夫人手兵をともなひて われを送れる ちちはるの城」(晶子)

 しかし、晶子が「誤りたる」と書いているように、李氏は自殺しなかった。「この李夫人は、その後生きる決意をして、名を又生と改め、黒龍江省の女性たちにとって何が一番重要であるか、教育であるという考えから、その莫大な財産を公共事業や教育に寄付し、自らも「助君学校」を作っている」(川崎キヌ子張作霖事件」、「勉誠通信」4,2009.2、p.13)。よかった。だが、この事件後夫人が日本に対して抱いていた好意はどう変わっただろうか。昭和戦前の日本は敵を作るのに邁進していたようだ。すべてよきものはその愚劣と驕慢によって踏みつぶされ、敗戦という破滅に至った。日本に対する感情がどうなったにせよ、与謝野夫妻に対する好意は変わらずにあったらよいのだが。爆殺事件直後このような歌を詠んだ人だから。

「畑青し 東三省は滅ぶ無し 煩らふなかれ よき隣人よ」(晶子)

 

 最近では、関満博編「中国東北辺境の重工業と食糧基地」(新評論、2010)というプロジェクトチームによる地域産業調査がある。中国各地で毎年のように調査をしているグループが、東北内陸の調査地としてチチハルを選んで行なったものだ。視察は2009年。現在の中国では、こういう調査の寿命は5年程度だと思われる。10年もたてば歴史文献になるだろうと思わせるほど近年の変化は急激だから。

 また、細谷良夫編「清朝史研究の新たなる地平」(山川出版社、2008)に柳沢朗「駐防城チチハルの風景―康熙五十年代を中心に」という論文がある。駐防城チチハル満洲人、ダウール人、ソロン人、バルガ人と多民族であり、漢人が「少数民族」で流人や奴僕などから成っていたことがわかる。

 関心は軍事から経済へ移り、学術については持続し、しかし文学的興趣は消えた。それが戦前と戦後の日本人のチチハルとの細々とした関わりの総括であろう。日本人がチチハルを見るばかりではない。チチハルも日本人を見ている。日本の姿を見るよい鏡だ。

タイムリミット

 「島根の近代化遺産一覧」(島根県教育委員会、2002)にリストアップされている益田市七尾町の旧若林医院の主だった若林明文(1903-78)は、温泉津の出身で、東京大学医学部を卒業し、医学博士号を取ったあと満洲に渡り、チチハル・北安・営口の満鉄病院に勤めた。
 チチハルの満鉄病院は今チチハル医学院付属三院となっている。2011年までは昔の2階建ての建物が問診部として残っていたことが旅行者の写真からわかるが、2018年にはもうなくなっていた。今は24階建ての円形ビルが聳え立っている。
 ハルビン駅前の旧満鉄病院も古い建物が消えていた。一等地を2階建て3階建ての、現代中国の基準から言えばちっぽけな建物が占めているのだから、新築は時代の必然だ。大きいものでもせいぜい4階か5階。取り壊されて巨大ビルを建てられてもしかたがない。今では8階とか10階建て以上がデフォルトだ。道幅も大拡張された。片側5車線、両側で10車線の上に、自転車路も広い歩道も取ってある。薄汚れて、改修かしからずんば倒壊かの岐路が近づいている古い建築物など、どんどん整理されるのは理の当然という話である。21世紀になってからの中国のすさまじい発展と、建築物の運命である経年劣化の進度を考えると、ちょうど今あたりがそれが交差するポイントとなっていると思しい。
 北安の旧満鉄病院は今は第四人民病院で、昔の建物が改修されて使われている。昔を懐かしむ人にはうれしいかもしれないが、住民にとってはうれしいことかどうか。それだけ発展が遅れているわけだから。あるいは、当時は「第一」だったはずの病院が「第四」となるまでにほかの新規の病院に追い越され、そこに安住のポジションを得ているということかもしれない。

 チチハルに今も残る日本人が建てた戦前戦中の建物といえば、まずかつて「北満随一」と言われた立派な駅舎(1936)。隣に戦後の新駅舎があり、今はそちらが使われているが、古びたとはいえおもしろみのない新駅舎に美しさでは断然勝るものの、大きさでは新駅舎に勝られる。駅前にある体育館(一部が遊泳館)も満鉄時代のものという。
 おそらく駅長とか高級駅員の社宅だったと思われる日式住宅が、駅の近く、鉄道関係者の住む区域にある。平屋や2階建ての個人商店個人住宅は市の中心部ではすっかり消え失せて、商店はビルの1階部分、住居は集合住宅になってしまっているから、このように一戸建ての個人住宅が駅前一等地にあるのは珍しく、築80年以上でも十分価値があるのだろうと想像する。その近くには、昔の武道館が図書館となって残っている。
 電報大楼(1936)。市の中心広場にあり、今は中国移動が入っている。軍艦のようなシルエットで、昔は目立ったかもしれないが、今はビルの中に埋もれ、タイルもところどころ剥げ落ち、壁や屋根に草が生えている。もはや命運は風前の灯と見えるが、敷地面積が狭いので、再開発して高いビルを建てるには適していないため、案外しぶとく残るかもしれず、そうしている間に古い建物を評価する動きが出て、改修保存になればいいとひそかに願う。
 かつて巨大な忠霊塔が立っていたところには、戦後巨大な毛沢東像を前にした宮殿のごとき工人文化宮が建つ。その前方の片隅に、むかし手水舎(洗手亭)だったものが残されている。歴史(国恥)を忘れないためにそれだけ取り壊さなかったのだ。今では犬や人の立小便の場である。
 日本人が建てたもの以外では、まず清真寺で、これは古い。1684年の創建である。チチハル城の建設が1691年だからそれより古い。1700年に改建、以後1852年、1893-94年、1897年、1911年と拡張重修を経て、1924年に現在の姿になったという。中国式の寺廟風モスクとして代表的なもののひとつに挙げられるだろう。
 それから、聖彌勒爾大教堂(1931)。高さ43メートルの塔は、当時「市内のどこからでも見える」と言われていて、昔の写真を見ればたしかにそうなのだが、今では正面からでなければ見えない。周り中が塔より高いビルばかりだから。
 五教道徳院(1933)。儒仏道の三教にキリスト教イスラム教を合わせたものだそうだが、実質道教施設である。
 督軍署。もと1908年ごろ建てられたようだが、改修というより復元ではあるまいか?
 龍沙公園内の万巻閣(1930)と関帝廟(1739年創建、1818年重修、1980年修繕増築)。
 それ以外はすべて21世紀の建物だと言ったら、もちろん過言ではあるが、大きな過言ではない。90年代以後の建物だと言えば、過言の幅はぐっと縮まる。戦後の改革開放までの建物も少ないのだが、北小路健・渡部まなぶ「満洲の旅1982チチハル・チャムス・牡丹江」(国書刊行会、1982)という写真集を見れば、そこに写された街は平屋や2階建て3階建てばかりと言っていいくらいで、その当時まではほとんど満州国時代の延長だったように思える。だが、その面影は今やまったく消えた。
 郊外の昂昂溪はかつての東清鉄道の斉斉哈爾駅だったところで、かわいらしい駅舎や旧鉄道クラブの建物のほかに、ロシア人鉄道関係者の住んでいたロシア式住宅が多く残っており、いくつかはきれいに改修されている。この駅のブリッジは日本時代に作られたそうだ。日式住宅というのも残っているが、ロシア式住宅に比べると素っ気ない単純な造りだ。
 しかし、チチハル市の中核部分にはロシア建築はない。この昂昂溪が東清鉄道大切当時は「チチハル」と呼ばれていたのだが、ここから本来のチチハルへは24キロも離れていて、そこは旧中国・満州の都市でありつづけ、そこに中国人および日本人が近代建築を建てていったわけである。

 チチハル満鉄病院のごとくごく最近取り壊されたものも多い。ハルビンの日本総領事館など、ガイドブックには載っているが、行ってみるとなかった。長春の旧満州国文教部、興農部の建物も消えていた。あとには大きな新築のビルが建っている。
ち なみに、残っている満州国の政府官庁の建物はほぼ全部が吉林大学の所管になっている。ここの学長になれば満州国皇帝の気分が味わえるか?
 満洲の神社はすべて消えただろう。侵略の象徴だから消えてかまわない。ひとつぐらい残してもいいように思うが、そうもいくまい。ハルビン工業大学博物館に中国人学生が描いた神社の設計図があった。中国人も神社を設計していたという意外な事実だけで満足すべきかもしれない。
 ただ、寺では大連に本願寺の建物が残っている。長春にもあった。
 そろそろ大改修か撤去かの「タイムリミット」が近づいている20世紀初頭の建物は、「選択と集中」の対象となるわけだ。残す価値があると認められたら改修、でなければ取り壊し。ハルビンに中華巴洛克(バロック)と呼ばれる中国人による特徴的な西洋建築が多くあったが、まるでテーマパークのようにきれいに改修された建物がその名も「中華巴洛克」という一画に集中的に残されているほかは、その外側の建物が荒れ果てて崩壊に任されているのが露骨にその事情を物語っている。

 だが、日本の近代化遺産にも修復の必要なものがいくつもある。他国の21世紀をあれこれ言うより、自国の戦後を考えたほうがいいかもしれない。タイムリミットはどこでも迫っている。