生ける少女神クマリと日本

ネパールの首都カトマンドゥにクマリという生ける少女神がいることは、ネパールに行ったことのある人なら誰でも知っている。クマリの館は観光名所になっているから。一日に一度、中庭の上の窓から姿を見せるので、そのときに居合わせれば見られる。しかしほんのわずかの間だし、撮影をすることは許されない。NHKのドキュメンタリーで見た人もいるかもしれない。
カトマンドゥのロイヤル・クマリは、カトマンドゥ盆地に住むネワールという民族のうちのシャキャという仏教徒の金工細工師カーストの3、4歳の女の子から選ばれ、月事が始まる12歳ぐらいまで務める。初潮を迎えると退き、新しく選ばれた別の子と交代する。選定には三十二相を備えるという条件があると言われ、バニヤンの木のような体、アヒルのような手と足、ライオンのような胸を持つことなどのような事柄が挙げられているが、実際には均整がとれた健康な体、整った歯、黒い目と髪、物おじしない落ち着いた性格、斜視でないこと、傷がないことなどが調べられたらしい。しかし星回りが時の国王と相性がいいというのは重要な項目で、これがよくないと候補から外される。
クマリはヒンドゥー教のタレジュ女神の化身とされる。仏教徒はヴァジュラ・ヴァーラーヒーの化身と考えていて、実際クマリの少女自身仏教徒であるし、仏教徒の僧侶カーストの者が世話をしたり行列に帯同したりすることからも仏教の関わりは深いのであるが、水牛や山羊が大量に生け贄にされるヒンドゥーの祭礼の中心であることから見て、ヒンドゥーの習わしであると考えられる。
この少女神は、家族のもとを離れ、王宮広場に面する館に籠りきりの生活をし、年に13回、9つの祭りのときに館の外へ出られるだけである。外に出るときは抱きかかえられて運ばれ、自分の足で進むときは白布の上を歩く。
カトマンドゥのロイヤル・クマリに対して、里クマリとでも言うべきローカル・クマリもいる。パタンとバクタプールは昔カトマンドゥと並んで盆地に割拠した3つの侯国の首都だったところであるから、その当時はロイヤル・クマリであったが、18世紀に侯国が滅んだあとは民間のクマリである。ブンガマティやヌワコットなどにいる里クマリは、家族といっしょに暮らし、学校へも行き、祭りのときだけクマリの衣装を着、化粧を施して現われる。
クマリが姿を見せる大祭、インドラ・ジャトラの山車には、ガネシュとバイラブというクマリによく似たいでたちの少年も乗る。彼らもシャキャ・カーストから選ばれるが、クマリと違い祭礼のときだけ務める役であって、その点わが国の稚児に似ている。
祭礼の出御のとき以外の平日には、病気その他の問題や悩みを抱える者がやってきて礼拝する。クマリの表情やしぐさから神意をうかがう。
クマリに限らずネワール人の間には少女崇拝があって、ダサインのとき寺院でも家庭でも少女に対する礼拝が行なわれる。ダサインの9日目にはこの日のために一時的に選ばれた9人のガ(集団)・クマリが集まって供養儀礼が行なわれるということもある。
南インドにもクマーリー・プージャーがあって、「七歳になる二人の少女が選ばれる。まつりの前夜は少女はミルクだけを摂り、草の床で寝る。翌朝沐浴をして白い衣服をつける。鏡のついた水差しの儀礼を行う。少女は定められた場所に坐っている。そして参拝者は少女をおがみ、マントラを唱える。少女の胸に意識を集中して禅定を行う、その後で、少女に食物をあげ、右手の親指をみながら千二百回マントラを唱える。一回ごとに白い花を供える。かくして崇拝者はシッディ(成就)に達するのである」(斎藤昭俊「インドの民俗宗教」、吉川弘文館、p.213)。パンジャブ地方にも「未婚の少女をデーヴィの表われとして年に二回供物をして祀る」ことがあるという(同書p.212)。
少女崇拝の一変種として、南インドのデーヴァダーシー(神の僕)というものも挙げられていいかもしれない。昔、そして今も(初潮前の)少女を寺院に奉納する習慣があり、この女性たちは伝統舞踊の担い手でもあるが、また娼婦にもなる。古代オリエントの神殿娼婦を思わせ、また日本でも「縣巫女は娼婦を兼ねたり」(「倭訓栞」)と言われるように、巫女と娼婦は関係の深いものであった。デーヴァダーシーはバラタナーティヤムというインド古典舞踊を伝えたことでも知られる。


1984年から91年までクマリだったラスミラ・サキャは、「回想 神から人間へ」(スコット・ベリーとの共著(*)、江崎秀隆訳、カトマンドゥ、2011)という本を出していて、神としてあがめられていた少女がその役を降り、普通人の社会に入っていくという珍しい経験が記されていておもしろいのだが、一読後、黒田清子さんが手記を書いたらこんなものになるかなと思った。
この回想記の中で彼女は、「外国からの訪問者の中で特に私が好きな人達がいました。それは日本という国から来たと教えてもらった人達で、私が窓辺に現れると必ず拍手をしてくれました。彼らが私を見る様子から私は日本の人達に理解されているように思います」(p.28)とか、「私は日本人と私達ネパール人との間にはある種の「絆」がある様にも感じました。それというのもこの日本の人達が私個人と云うことでは無く、いつも私達の文化そのものを理解し敬意を払っていてくれている様に思えたからです。その文化の密接さという観点から云うと、ネパールは西洋に比べて日本により近いのではないかと思います」(p.162)などと言っている。
これはラスミラというひとりのクマリの個人的な感想かもしれない。たぶんそうであろうが、そう言われてみて、一日本人として、なるほど、たしかにわれわれにはクマリというのは縁遠いものではないと感じる。奇妙な習俗ではあっても、奇怪ではない。感覚的に近しい。似たようなものは日本にもあるぞ、と思い返してみて、斎宮天皇、稚児、巫女などが浮かんだが、それ以上には具体的に考えが進まなかった。このことをいわばクマリからの宿題として、日本に持ち帰ることとなった。


クマリの特徴は、少女である、生き神として崇拝される、特定のカーストから選ばれる、数年で交代する(初潮を迎えたとき)というのが主要なものであるが、それに類似した日本の崇敬対象を挙げてみよう。それをクマリ(およびガネシュ、バイラブ)習俗の性格と対照させて表にすると、以下のようになる。このうちカーストというのは、日本の場合は所属する社会集団(氏子など)である。邪馬台国卑弥呼とか沖縄のノロ聞得大君などにも似たところはあるが、日本に限った(中国の文献でのみ知られる邪馬台国は除き)。

下段火焚乙女以下の民間習俗は今も続いているが、諏訪大祝以下鹿島神宮の物忌までは明治維新を期に法令をもって廃せられた(琉球王家の聞得大君も同じ。斎宮はすでに早く後醍醐天皇の時に廃絶していた)。廃止させた天皇および続いている出雲の国造も根底的と言っていいくらい変質した。廃絶したのはつまり神官制度上のもので、これはお上の命令で左右されるが、氏子習俗のほうは存続が可能であった、ということだ。
出雲大社の国造、諏訪大社の大祝、伊予大三島大山祇神社の大祝などは「現人神」と崇められる存在だった。諏訪大祝については、「御衣を八歳の童男にぬぎさせ給ひて、大祝と称し、我において体なし、祝を以て体とすと神勅ありけり」(「諏訪大明神絵詞」)とされていた。8歳の少年が即位し、息子に譲位する形で続いていたという。諏訪郡から外に出ることができなかった。
出雲国造天穂日命の子孫で、前国造が死去しても喪に服さない。遺体は菱根の池に赤い牛につけて水葬した。つまり天穂日命が永生を続けると見なされていたわけだ。国造は足を直接地面につけてはならず、常に神火を携行し、その火で調整されたもの以外は食べてはならない。明治になって千家尊福はこれらの行動の自由を妨げる戒律を撤廃し、巡教の旅を多くしたが、それでも生き神とあがめられていた。1876年9月に「愛媛県伊予国松山なる大社教会所開業式執行の為、大教正千家尊福さんが出雲国より立越されし途中、同県下野間郡浜村に一泊せられし時、近郷近在の農民等が国造様の御来臨と聞伝へて、旅宿に群衆せし老若男女数百人にて、大教正の神拝さるゝため一寸座られる新薦を、群衆の者ども打寄って掴み合って持行くもあれば又這入られし風呂の湯は、銘々徳利に入れて一滴も残さぬ程なり」(原武史「<出雲>という思想」、講談社学術文庫、2001、p.162)。
民俗学の大人たちにもその姿は記憶されている。
「街道の思い出で、出雲から但馬路を経てこの村を通過した国造家(出雲大社の千家)を迎えたことがあった。生き神様のお通りだというので、村民一同よそいきの衣装を着て道傍に並んだ。若い国造様が五、六名のお伴を従えて、烏帽子に青い直垂姿で馬で過ぎていった時、子供心に、その人の着物にふれでもすれば霊験が伝わってくるかのような敬虔な気持ちになったようである」(柳田国男「故郷七十年」、朝日新聞社、1974、p.80)。
「祖父にとってもっとも尊い神は日輪様であった。日輪様ほどおえらいものはない。これが天照皇大神のお姿であり、この日輪様の御子孫が禁裡様であると考えていた。次にえらい神様は出雲様であった。出雲様の御子孫が国造様である。けだしこの考え方は祖父ひとりではなかった。われわれ幼少の折国造様である千家尊福氏がわれわれの地方を訪れた時、土地の老人たちは土下座して手を拍って拝んだものである。私も祖父か祖母に連れられて迎えに行き、坐らされて拝んだ記憶がある。白い髭をはやした老人であったと記憶するが、神様というのはこういうお方かと幼な心に思ったことがあった」「禁裡様の方は平民分際がじきじきに拝むと目がつぶれると祖父など真面目に信じていた」(宮本常一「家郷の訓」、岩波文庫1984、p.37)。


伊勢斎宮は、未婚の内親王から選ばれ、天皇の交代や父母の死によって退任交代した。
伊勢神宮の大物忌は神職の娘で、初潮前の少女がなる。初潮を迎えると退く。大物忌斎館に籠って斎戒の生活をした。
鹿島神宮の物忌は、当禰宜の初潮前の娘(適当な者がいないときは他の神職の娘)がなった。2人の候補者から亀卜によって選ばれる。死ぬまでその職にあり、終生月経がないと信じられていた。館に籠りきりの生活をし、祭事には輿に乗って本殿へ運ばれる。終身制であることを除けばクマリにもっとも近いと言えるが、物忌は神の奉仕者であって神の現われでないところが決定的に違う。物忌はおそらく神の妻であろう。
民間習俗のほうでは、祭りごとに氏子の家庭から選ばれるという形態が多く、祭りのときのみその役を務める。阿蘇霜神社の火焚き乙女は、霜害を防ぐためという火焚神事に火焚殿に籠って、昔で言えば旧暦7月7日から9月6日までの間、祖母(閉経女性)といっしょに火を焚きつづける初潮前の少女のことである。かつてはその間鳥居の外に出ることも許されなくて、2か月の間学校へも行かなかった。乙女は年端のいかぬ子供だから、実際には祖母がいろいろ手助けする。
大阪野里の住吉神社の一夜官女は7、8歳から13歳までの少女7人で、祭りのとき神饌を供える。この神社では少女だが、神饌奉呈は未婚女性が務めるほうが普通で、たとえば大津市樹下神社の御膳持ちなどがそうであるが、夜分神前でこの御膳持ちと宮司は三々九度の杯をいただく。宮司が神の代わりとなり、神と巫女との神婚が行なわれると見てよい。
祭礼の稚児は「ひとつもの」の一種と考えられる。これは祭礼の神幸行列に出るもので、特別なしるしをつけた大人の場合もあるが、多くは馬上の子供、または特殊な飾りを乗せた馬である。神のよりしろ(童児ならよりまし)である。山車に乗ったり馬に乗ったりし、少年の場合も少女の場合もある。祇園祭や春日若宮御祭りに出るものが有名だ。県内でも平田の県神社や千酌の爾佐神社の祭礼などに見られる。
一年神主は美保神社のものが有名である。一年神主になる前に、まず頭家神主を3年務め、毎晩欠かさず潮かき社参する。一年神主は加えて深夜子の刻にも潮かきをする。したがって美保関を離れることは実際上できない。喪に服さず、髪を切らず、男女の交わりを避ける等々の物忌の生活を送る。神を祭る側の人間であって神とされることはないが、しかし青柴垣神事のときに一年神主になる前の頭家神主が神がかりしたり、また昔は湯立神託といって一年神主を煮えた湯釜に入れ、息も消え入るばかりになったら引き上げて、幣帛を持たせて神意をうかがうということがあったし、それ以外にも神託を得ることができると信じられていた。


ネパールのクマリと対照してみての日本の特徴は、生き神における男性の優越と、神体であることの少なさおよび神への奉仕者であることの卓越である。そこには神への特別な奉仕者を神と見るという日本人の性癖もある(本願寺法主について、国造などと同様入浴した残り湯を神聖視するということも起こる)。「神主はただちに祭神その者であった」(中山太郎)。天皇宮中祭祀の司祭者であって、天皇霊を身につけて神聖な存在となるのだ。クマリには神への奉仕者という性格は見受けられないので、この点はかなり違う。
さらに、日本の現人神や高級巫女は血統主義である。チンギス・ハーンの血筋の者しかハーンになれないというモンゴルの伝統に似ている。民間では氏子という社会集団が出身母体になるので、ネパールに近い。このことは短期交代という制度によるので、民間習俗の場合短い任期(年ごととか)で次々に交代するため、血統主義は取りえない。
明治以前には各地に現人神がいた。上に見たように、出雲の国造、諏訪や大三島の大祝などがそうだった。天皇のそのような一人で、もちろん最高最上の一人ではあったわけだが、新政府に担ぎ出されるまでは、いわば山城に逼塞するローカル現人神であったと言ってもいいくらいだ。それが明治維新で激変した。各地の「現人神」たちは神性の大部分を奪われた。つまり明治天皇制による「現人神の独占」が行なわれたわけである。
法令によらずとも、生涯館に籠って斎戒の生活を送る鹿島の物忌のような制度は時代とともに維持不可能になり、廃絶せぬまでも大改変を受けたに違いない。明治以降も尊敬を受け続けた出雲の国造の権威が改変されつつ漸減していったように。
クマリに似た習俗ということでことさらに月事前の童女をピックアップしたわけだが、少女であることについて言えば、それは処女・未婚女性であることのひとつの少数派ヴァリエーションであり、また童児であることのやはり少数派のヴァリエーション(少年であることのほうが多い)である。つまり、ネパールでは少女であることが絶対の条件であるのに対し、日本では少女性は処女の奉仕、童児の出仕を必要とする祭礼のひとつの変種であるにとどまる。
いちばん似ているのは祭礼の稚児で、ガネシュやバイラブとはまったく対応する。稚児は神のよりきたるもの、よりましであると考えられる。思うに、素朴な少女崇拝やこのような稚児的存在からロイヤル・クマリが結晶していったのだろう。


ほかにもさまざまな類似がある。インドラ・ジャトラでクマリは山車に乗るが、山車は日本の祭りによく現われるもので、祇園祭の山車など稚児が乗る点までそっくりだ。
また、大祝のいた諏訪大社御柱を運んで立てることで有名だが、インドラ・ジャトラでも王宮広場にインドラの柱が立てられる。
そして、諏訪大社上社の御頭祭で供えられる75の鹿の頭と、ダサインで生け贄にされ、深夜クマリが出向くタレジュ寺院に並べられる108の水牛の頭。
下社の毎年春宮から秋宮、秋宮から春宮へと座を替える御神体と、パタンのクマリが親しく迎える雨季の始めを画すラト・マチェンドラナートの山車行列。このラト・マチェンドラナートは半年ごとにパタンとブンガマティに座を移すので、春宮秋宮のあり方とよく似ている。
さらに考えを進めると、諏訪大祝と平安以降江戸時代までの天皇は、「少年王」という共通点があるのではないか。古代と近代では成人が天皇となるが、その間は少年や時に幼児が即位することが多く、成人しまさに仕事に励める年齢で退位することが常態のようになっていた。8歳ほどで位につき、人として盛りの時分に譲位する諏訪大祝そのままである。少年天皇はルールではない。その間に成人天皇も何人もいたわけだから。外戚が操りやすい子供を即位させるという摂関政治や、束縛の多い天皇の位を嫌い、上皇となって自由を得たい、院政をしたいという天皇側の意向によるというふうに合理的に説明されるし、それが正しいのだろうとは思うが、小児に神性を見るという点もこの慣習にあずかっているだろう。祭政一致の古代、そして旧憲法下の近代(実際には天皇は機関であったにしても)では政務の取れる成人であることが要請されるが、祭政分離、天皇の仕事がほぼ祭祀に限られるという事情であってみれば、少年であることがむしろ望ましく、「合理的」でさえあるだろう。諏訪大祝の制度は有員に始まり、この人は桓武天皇の子とされる点も示唆的である。そして小児と神性はまさにクマリの体現するものである。


もっと言えば、明治(維新以降昭和戦前まで)は特殊異様な時代で、江戸時代は普遍的だということにも気づかされる。江戸に限らず、室町も平安も、前近代はアジア規模において普遍的であり、明治は日本にのみ特有で、世界史的に特異である。維新までの前近代はアジアと多くの共通点をもっており、明治はそうでない。自発的に西洋化に邁進し、丈にも面相にも合わぬ衣装に無理やり体のほうを合わせようと国家ぐるみ努力した時代である明治に対し、江戸時代は自生的内発的に進んでいった文明のひとつの到達点で、アジア諸国とも無理なく調和していたと言える。
鎖国さえ「普遍的」である。鎖国というのは要するに、自給自足を原則としつつ、政権にコントロールされた管理貿易と外国人の通行・居住の制限を行なう体制のことで、ケンペルの見るとおり、事情が許すならそれ自体何ら非難されるところはない。のみならず、近隣諸国もこぞって「鎖国」体制をとっていた。朝鮮がそうだし、チベットやネパールも行なっていた。ブータンは今も鎖国と大きな違いはない。清朝にしても、長崎がいくつもある「鎖国」、管理貿易体制と見てよい。清が強力である間は、それで何も問題はなかったのだ。
明治を省いて日本を見ることは、アジアと日本の関係を考える上で非常に重要であるとまでクマリは教えてくれると言ったら、それは読み込み過ぎだと叱られるだろうか?


ネパールと日本の習俗の間には系統関係も影響関係もない。それなのにというか、それだからというか、クマリというスケールを当てて日本の習俗慣習を見てみると、さまざまなことが見えてくる。クマリからの宿題として調べてみたのであるが、よい宿題を出してもらったと感謝しなければならない。


(*)この本の共著者スコット・ベリーは木村肥佐生チベット偽装の十年」の共著者でもあり、河口慧海の伝記も書いているという。

グッド・モーニング・サア!

戦中のボルネオを踏査した人が、奥地の村で英国人がやっていた小さなマラリア研究所にこんな掲示があったと記録している。
「規則
一、マラリア研究所員はつぎのことを守らねばならぬ。
二、仕事の上で時間を厳守すること。
執務時間中、迅速、効果的、かつ忠実であらねばならぬ。
 …
七、朝はグッド・モーニング・サア、寝るときはグッド・イーヴニング・サアといわねばならぬ」(堺誠一郎「キナバルの民」、中公文庫、1977)。
第七項には特に赤鉛筆で線が引かれていたそうだ。所長先生、挨拶もせずぬっと顔を出す現地人によほどいらいらしていたと見える。
われわれにもそれは同感できる。ネパールでも事情は同じで、ある日本語学校にはこんな校則が掲げられている。
1.挨拶をすること
2.遅刻しないこと
3.欠席しないこと
4.教室をきれいにすること
5.宿題を毎日すること
などなど、11項目が列挙されている。だいたい規則というのは、それを守らない者がいることを示すものであって、その第1項目が挨拶なのは示唆的だ。ネパールの日本語教育は日本へ行く人たちに教えることに特化しているため、日本の習慣をしっかり教え込まなければならない。日本でアルバイトして学費を稼がなければならないから、すぐクビになるようではいけない。
沢木耕太郎はインドを旅していたとき、イギリス人の女性に「英語やフランス語やたぶん中国語や日本語にもあって、ヒンドゥー語にない言葉が三つあるが、それが何かわかるか」と問われた。それは、「ありがとう、すみません、どうぞ、の三つよ」。これらの言葉は、「本来は存在するのだが、使われないためほとんど死語になっているという」(「深夜特急」3、新潮文庫、1994)。いかにも、と思う。現在のネパールでは「サンキュー」に相当する言葉はよく使われているが、それは外国からの影響であると読んだことがある。
日本人は地図(と時刻表)が大好きである。だが、外国では地図を持たないのが普通で、だから入手するのも難しい。そのため実に頻繁に人に道を聞く。路上の物売りに値段を聞くような調子で、聞かれたほうもそれ相応に答える。そして、道を教えてもらって「ありがとう」と言う人を見た記憶がない。いるとは思うのだが、思い出せない。
だいたい、地図が読めないのだ。卵が先か鶏が先かの問題と同じく、読めないから持たないのか、持たないから読めないのかわからないが、外国において地図を見せて場所を聞くのはしてはいけない誤りである。3度に1度は全然見当はずれのところを示される。正確に目的地を指してくれるのは僥倖の領域だ。ま、日本人でも女性の多くは地図が読めないから、非難する必要はないのだが。地図に関して欧米人がどうなのかは知らないけれど、日本人の男はユーラシアの突然変異なのかもしれない。
地図が読めない人の頭の中はどうなっているのか、と考える。地図が読める自分にはうまく想像ができない。文字が読めるわれわれには(この文章を読んでいる人たちはもちろん読めるし、読める人を念頭に書いてもいる)、文字が読めない人の生活や考え方がもはやわからなくなっているのと同じだ。学校でそれらを教えられる前には、それらなしで生きていたくせに。幸せな時間は学校とともに終わる。
私は楽譜が読めない。だから私は自らにおいて楽譜が読めない人間の生活と意見はわかっているはずだが、特に意識することはない。何ら生活に支障がないからだ。楽譜が読める人のことも特にうらやましく思うことはない。うらやむとしても、ほんの少しだけ。楽譜がなくても自分ののどで歌うことはできるので(もちろん下手で、ときどき音程を外すのだけど、外したらすぐ、あ、外れた、とわかる。つまり頭の中に正しい旋律があるわけで、それなら楽譜がなくてもいい)。
棋譜も読めない。だが、これが読めないことでまったく不利益はない。むしろ読める人の頭の中をいぶかしむ。地図も文字も楽譜も読めず、棋譜だけが読める人が主人公の小説を読んでみたいものだ。
閑話休題。感謝の話だった。
中国人の学生に、「先生、ありがとうと言わないでください」と言われたことがある。水くさくて他人行儀だということらしい。そういう関係を望まれるのはうれしいが、「ありがとう」がなければ日本語ではない。ちょっと残念だ。
もっと日本に特徴的なのは、「すみません」。欧米人は挨拶をしない、感謝をしないとアジア人を非難するが、そういう彼らは謝罪をしない。日本語における「すみません」の使用頻度はしらないが、きっと「ありがとう」や「こんにちは」よりずっと高いだろう。謝罪にも感謝にも呼びかけにも使え、ほとんど内実を失っているかもしれない。
それぞれの国にそれぞれの慣習がある、と鷹揚に構えるのが、この場合も正解だろう。挨拶をしろと学生にうるさく言う一方で、日本では店などに入るときに「いらっしゃいませ」「こんにちは」と言われても返さなくていいなんて不文律もあるわけだし。

VAR雑感

クラブワールドカップ(CWC)にはビデオアシスタントレフリー(VAR)制度が導入されていた。VARについては、ヤフーなどのコメントを見る限り賛成意見が多いようだが、というか圧倒的多数のようだが、私はこれに反対だ。ブラッタープラティニに断固賛成である。これを導入したところで、疑惑の判定は決してなくならない。さすがにマラドーナの神の手ゴールやランパードのゴールインしたノーゴールのような明らかな誤審はなくなるだろうが、そもそもサッカーの試合中どちらとも取れる微妙なプレーは数多く、それをいちいちビデオで確認するわけにはいかないからである。大誤審はなくなるが、小誤審はそのまま。それならゲームの流れがぶつぶつ切られるデメリットのほうが大きい。
誤審というか、微妙な判定だったのは、たとえば浦和−アル・ジャジーラ戦であったはずのハンド見逃しである。ペナルティエリア内だったからPKが与えられねばならなかったが、流された。PKなら決まっていれば同点で、延長戦になっていたと思われ、90分では負け試合だったが、延長になれば勝っていたかもしれない。浦和はこれに特に抗議しなかった。だいたいが内容が負け試合だったのにつまらん抗議をしてはいさぎよくないし、ネットを揺らしてこそゴールだというPKを低く見る美意識もあるのだろう。
だが、あれはハンドでPKだったと思う。一方で(CWCではないが)ブラジル戦で吉田が取られたファウルのPKがあるから、そのことは言っておきたい。もちろん吉田のプレーはファウルである。エリア内である。だからPKである。それは正しい。だが、主審はそれを取らずに流していた。そこへVARが介入して試合を止めさせ、ビデオで確認してPKが与えられた。ブラジルは別に大して問題にしていなかったのに。
あのPKで試合はぶちこわしになった。ブラジルと日本の間には大きな実力差がある。試合をする以上、日本のファンも自チームの勝利を願うが、実のところは勝利というより好勝負を願う。その結果が勝利なら狂喜、引き分けなら大満足、惜敗でも納得である。対して、ブラジルは日本戦に勝利など願っていない。美しい勝利を願っている。ドイツとの試合なら勝利を願い、勝利にはPKの得点も含まれる。日本戦では美しい勝利を願い、それにはPKは含まれない。フリーでシュートモーションに入っている選手が倒されたPKなら含まれるが(日本戦二つ目のPKとなったファウルのような)、一つ目のシュートと関係ないプレーでのPKのようなものは違うと思う。
忖度しろと言っているのではない。主審が取らず、悪質でもなく、相手の抗議もないなら、流しておけということだ。無駄な正しさだ。ましてや取られないPKはなおあるのだから。どうしてあれは取られてこれは取られないのかという不満は、VAR導入後も決して解消されていないし、されることはないだろう。それならば、なぜVAR?


ビデオ判定を行なうためには、プレーを止めなければならない。野球にしろテニスやバレーにしろ、プレーは止まっている時間のほうが長いのではないかと疑われるくらいだし、兄弟競技のラグビーでもプレーはしばしば止まる(もしラグビーのような激しい競技がサッカー並みに止まらなかったら、きっと死者が出る)。
サッカーという競技の特徴は、0−0や1−0がごくふつうなようにロースコアであること、プレーがなかなか止まらないことにある。カウンターの応酬になり、ゴール前から相手ゴール前まで2往復することも珍しくない。いや、さすがに2往復は珍しいが、1往復半ぐらいはあることだ。そのときスタジアムの興奮は最高潮。それがサッカーだ。
プレーが止まっているときなら、主審はビデオを見に行くことができる。問題は流れているときだ。プレーをいつ止めるか、誰が止めるか。誰がというのははっきりしていて、主審である。主審以外の者が止めることはできないし、止めてはならない。だからこの部分は、誰が主審にプレーを止めさせるかということである。止めるタイミングも非常に重要だ。エリア内でファウルがあったようなのにそれが取られず、カウンターでゴールを決めたあとで、今のゴール取り消し、相手にPKとなったら、暴動が起きかねない。
VARの運用法も固まっているわけではないようだが、今のところ、ビデオ室の担当者が主審に合図を送ってビデオで確認するよう促す、ということになっているらしい。
VARを使うならば、ということで考えてみると、主審が自分の下した判定に自信が持てず、ビデオで確認したいというならOKだ。何も問題ない。だから問題は、それ以外の「物言い」の権利を誰に与えるかである。
はっきりしているのは、ビデオ室の係員にその権利を与えてはならないということだ。最終的に判定を下すのは主審だということになっているが、こんな「介入」を許すなら、それは主審の権限を大きく損ない、主審とビデオ室の二重権威になってしまう。いや、ビデオ室のほうが上部権力にさえ見える。サッカーの美点はすべてが満目注視の中で公明正大に行なわれることであるのに、選手からもベンチからも観客からも見えないところからウィンクが送られ、試合が中断し、判定がくつがえったりするのはまったくもってよろしくない。「操作」めいている。裏から試合がコントロールされるわけで、八百長と同じ構図ではないか。こんなやり方では、ビデオ判定に影響を及ぼそうとする者が必ず出てくる。そうなれば正真正銘の八百長である。ビデオ室はビデオ再生係以上のことをしてはならない。ピッチ上のことはピッチ上で決着をつけねばならない。白日のもとで公明正大に。密室からのささやきによらず。
戦っている者には正義がある。自チームにも正義があり、相手チームにも正義がある。そして審判にも正義がある。審判行為が正義の行使だというのとは別の意味で。主審は戦っている。そのため、プレーが暴力に逸脱するとき、その対象になる。南米などでは殺されることもある。ビデオ判定が用いられるならば、それは主審を守るためでなければならない。「ビデオを見て、判定が正しかったとわかる」「ビデオを見て、判定が間違っていたとわかる」。そのどちらにおいても、前半部が重要なのである。ビデオで確認したという事実をもって審判を守る用法なら、VARには意義がある。
物言いの権利を、たとえば各チームの監督にそれぞれ2回に限って与える、ということも考えられる。旗を2本ずつ渡しておき、それが振られれば主審がプレーを止めてビデオを確認に行く。物言いがつけられるごとに第四審が旗を1本ずつ回収する、というふうにして。しかし権利というものは、与えられれば必ず本来の意図と別のところで乱用される。ファウルではないただの転倒でも相手のカウンターを防ぐために振るとか(タクティカルファウルならぬタクティカル物言いだ)、勝っている方が最終盤の時間稼ぎに使うとか。だからこれもだめだ。
結局、物言いの権利が与えられるべきは、線審(もしゴール横にも線審を配すなら、タテ線審とヨコ線審)と第四審(第六審)以外にない。旗を振って主審にプレーを止めさせ、ビデオ確認を促す。これなら選手観客のすべてに何が起こったかわかる。むろん、誤審はなくならないだろう。目を増やし、ビデオの助けが借りられるようにして、それでなお起こる誤審なら、それはサッカーというゲームの完全な一部だということだ。ファンはその「誤審」を肴にああだこうだと口角泡を飛ばす(この文章の冒頭部分のように)。それでいいじゃないか。それもサッカーの楽しみである。


CWCという大会には無理がある。前身のトヨタカップは、ヨーロッパチャンピオンと南米チャンピオンが中立地日本で世界一をかけて戦うもので、コンセプトが明瞭で条件も平等だった。なるほどアジアやアフリカなどのチャンピオンがヨーロッパや南米のチャンピオンと戦えるというコンセプトは悪くないのだが、この地上には時とところの制約があるのだ。今のような似非世界大会の形は、条件が不平等になっている。
ヨーロッパ王者の試合は見たいし、南米王者もまあまあ見たい。だが、北中米王者とアフリカ王者の試合を見たがる人は少ない。だから興行的には、開催国王者をこのトーナメントに組み入れなければならない。サッカーは所詮興行で、客が入ってナンボである。だが、開催国チャンピオンと欧州・南米以外の大陸のチャンピオンの実力差は小さいのだ。大陸王者などと言っているが、実はひとつのトーナメントの優勝チームに過ぎない。そのトーナメントは大陸一の規模と権威を有しているけれども。アジア王者浦和は準々決勝で川崎を下して勝ち上がったが、そのあとの試合で川崎に敗れているし、当該年の国内リーグ戦では7位に終わっている。その程度の紙一重の差であってみれば、ただでさえ番狂わせは起こりうるし、まして開催国王者にはホームアドバンテージがある。声援にとどまらず、馴染んだグラウンドと気候、時差も移動距離もゼロ。決勝戦はまずヨーロッパと南米代表の戦いとなるものだが、日本開催のときに鹿島、モロッコ開催のときにカサブランカのチームと、開催国代表が2度ばかり決勝に進んだことがある。それ以外の大陸王者が決勝に出たのは1度だけだから、開催国代表が有利なことは明白だ。
開催国だけのことではない。日本なら欧州チームも南米チームも時差と移動距離の点ではどちらかに特に有利ということはなく公平だったが、UAEだのモロッコだのでやられては、ただでさえ強いのに、その上さらに時差と移動距離が少なくてすむヨーロッパ王者が圧倒的に有利になる。不公平である。
よいこともいろいろあるCWCだが、制度的な欠陥も多々ある。根本的な設計の見直しが必要だ。


浦和を破ったアル・ジャジーラレアル・マドリードとなかなかおもしろい試合をした。レアルが相手を完全になめきっていたため、アル・ジャジーラが善戦したとは言えるが、レアルが苦戦したとは言えない。あまりにも実力差が明白で、結果に対する確信が揺らぐことはなかった。たとえオフサイドで取り消されたアル・ジャジーラの2点目が認められていたとしても、延長戦に持ち込むのがせいぜいで、敗北以外の結果にはならなかった。去年の鹿島とレアルの決勝戦を見ていないので知ったふうなことは言えないが、あのときもレアルはなめていただろうと思う。学習能力がない。それとも、サービス精神なのか?
あのマイアミの試合も見ていないのだが、雨あられとシュートを打たれながらキーパーのスーパーセーブ連発によってしのいだ点は同じだ。マイアミのブラジル戦を日本国民は客観的に見ることができなくて、それゆえ「伝説の試合」となった。今回日本国民は、このUAE国民にとっての「伝説の試合」を、UAE以外のほかのすべての地球人とともに客観的に見ることができた。いいことだ。自分たちの「伝説の試合」が自分たち以外の人々にどう見えたかを知ることができたわけだ。客観性は重要である。


浦和の敗れ方には既視感があった。東アジア選手権の日本−北朝鮮戦である。攻撃をはね返し、カウンターで得点をうかがう。北朝鮮チームのほうがうまくやっていて、決定機はアル・ジャジーラよりずっと多く作っていた。なのに北朝鮮が敗れ、アル・ジャジーラが勝ったのは、強力なストライカーの有無による。後者にはいて、前者にはいなかった。おそらくワールドカップで日本代表がする戦いも、アル・ジャジーラ北朝鮮が浦和やJリーグ選抜相手にやった戦い方と同じものになるだろうが、そのとき日本は北朝鮮になる。試合を決められる強力なストライカーの不在に悩むことだろう。
ACL決勝もそうで、アウェイで浦和はアル・ヒラルに圧倒され、ホームではそんなことはあるまいと思ったらやっぱり圧倒され、粘り強く守って1勝1分けの結果を得たが、それは浦和にラファエル・シルバがいたおかげである。あの優勝や川崎のJリーグ優勝のあと阿部や中村が泣いていたのはいかにもと思うが、シルバやズラタンが泣いていたのは意外だった。浦和が一丸となったいいチームであったことの証だ。
Jリーグの優勝インタビューでシルバーコレクター中村憲剛が、自分がいるから優勝できないのではないかと思ったこともあると言っているのを聞いて、感じるものがあった。原爆でひとり生き残った「父と暮らせば」の主人公が、「うちは幸せになってはいけんのじゃ」と叫ぶのを思い出して。中村がいたから弱小フロンターレが何度も優勝を争うチームになったというのが客観的な真実なのだが、主観はいつも客観にそむく。自分を責める言葉にはいつも打たれる。


今年の漢字は「北」だとか。北朝鮮関連の政治ニュースが多かった。それも不快なニュースばかり。そんな中、北朝鮮代表が日本で行われる大会に参加したのはすばらしいことだ。政治は政治、スポーツはスポーツ。ラフプレーもほとんどなく、よい印象のチームだった。朝鮮高校の生徒なのだろうか、応援もうれしそうで楽しそうでよかった。そのことを日本のために喜ぶ。
在日朝鮮人から何人も北朝鮮代表選手が出てきているが、安英学鄭大世梁勇基など、好漢が多い。好漢率が高い。ふたつの帰属の間で苦労があって、もまれているからだろう。彼らは代表に参加することで本国の選手から刺激をもらうし、彼らも本国選手に刺激を与えているに違いない。今回の讃岐の選手にも好漢っぽい印象をもった。安英学が引退したとき記念セレモニーをしていたが、されるにふさわしい。人の価値はその人間性によってしか決まらない。国籍になど全然よらない。
あの熱心で楽しそうな応援が、女子北朝鮮チームの日本に対する完勝によって報われたのもけっこうなことだと思う。強いチームが勝った。それは正しいことである。下手な上に強い意志もない日本チームは北朝鮮の引き立て役に終わった。悔しくとも、正当だ。
ま、男子の最終戦は女子どころではないみじめさだったけどね。あの惨敗で監督解任論が噴き出しているらしいが、それを論じるときには次の2点を忘れてはならない。1.ベスト16まで進んだ南アフリカ大会の前に岡田監督はクソミソに批判されていたことと、2.同じ監督に率いられたアルジェリアは韓国に快勝し、Jリーグ選抜は惨敗したこと。アルジェリア代表でできて、この代表でできなかった理由を探るべきである。だが、日本人を率いる監督は次のことをよく理解しておかねばならない。「速く、速く」という指令は、日本人の脳内では「急げ、急げ」に変換され、末端には「慌てろ、慌てろ」と伝わることだ。国民性を知りたければ、サッカーを見るのがよろしい。

ネパールと日本の「破戒」仏教

富永仲基の「加上説」ではないが、人はあとから知ったことを先に述べたがる。人の考えや知識は時間とともに深まり広がる。つまり、今現在の考えや知識は、昔のものに上書きに上書きを重ねた結果だ。しかし、時に順序を変えて、時間軸に沿って考え直してみるのは必要であるし、誠実でもあると思う。
石見では浄土真宗門徒が多いので、真宗は空気のようなものである。子供はその環境を当たり前のこととして育つ。寺の住職に妻がいて子がいること、髪を生やしていること、肉や魚を食べ酒を飲むこと、つまりわれわれ一般人とまったく同じであって、ただ袈裟を着ているときだけ僧侶だとわかるのみである。平日には背広を着て学校とか役場で働いているのだ。田舎で成績のいい生徒はだいたい医者の子か先生の子、お寺の子と相場が決まっている。お寺の子やお寺の奥さんはごくふつうの田舎の風景で、そういうものに何の疑問も持たずに育ち、長ずるにおよんで、仏教僧は独身を守るものだと知って驚かされるわけだ。
真宗の坊さんでむしろ目立つのは、髪があることだろう。頭を丸めるのは俗世を離れたしるしであるから、有髪の僧は特異たらざるを得ない。剃髪していると洋服は似合わず、袈裟とか作務衣などを着ないとさまにならない。しかし真宗の坊さんは逆で、洋服を着ればどこからどう見ても一般人、袈裟を着けて初めて僧侶とわかる。兼業に何の差しさわりもない。
僧侶の戒律は250もあり、その中でも沙弥に課される十戒が最低限であるが、不殺生・不偸盗・不淫・不妄語・不飲酒・不塗飾香鬘・不歌舞観聴・不坐高広大牀・不食非時食・不蓄金銀宝である。現代日本の仏教僧は、さすがに不殺生・不偸盗は守っているにしても(それは僧侶に限らず市民たるもの必ず守らねばならない道徳である)、不淫・不飲酒・不歌舞観聴・不食非時食などは守られてはいない。
日本の僧侶妻帯は、真宗では宗祖親鸞以来の長い伝統なのに対し、他の宗派は明治5年の「肉食・妻帯・畜髪勝手たるべき事」という太政官布告から(大っぴらに?)それを始めたので、世俗権力がそれを推し進めたわけである。このときいわば「日本仏教の真宗化」が行なわれたとも言え、さしたる抵抗もなくこのような「解放」を受け入れた背後には、真宗がそれを用意していたということもあるのだろう。
現象的に見るならば、真宗はいろいろなものに似ている。長じて、まずこの妻帯という点が、キリスト教の新教プロテスタントに似ていることに気がついた。カトリックの司祭は結婚しないし、修道士も独身を貫く。
一方で、観光寺院から税金を取り立てようという古都税の騒動のとき、東も西も本願寺は拝観料など取らないということに気づかされた。真宗は信者に支えられているので、信者の自由なアクセスを妨げることはない。この点は神社とも同じだが、カトリックとも共通する。カトリックの教会もお祈りをしたい信者のために開放されている(プロテスタントにとっては教会は集会の場であるから、それがないときには閉められていることがままあり、閉鎖的な印象を受ける)。
本願寺法主には中世のカトリックの法王を思わせるところがあるし、異端(異安心)の取り締まりに厳しい点もカトリックの異端審問に似ていなくもない。浅原才市に代表される妙好人カトリックを始めヒンドゥー教イスラム教にも見える民衆聖者の日本版と言ってもいいのではないか。
ほとんど阿弥陀のみを頼む信仰は一神教に似たところがある。非寛容な宗派といえば他宗を折伏する日蓮宗が思い浮かぶが、易行と称する真宗はまさにそれゆえ、念仏と阿弥陀信仰専一であるゆえに、その結果として門徒もの知らずともなり、神祇不拝ともなる。一神教的な不寛容とも言えよう。
明治の廃仏毀釈ショックから立ち直った真宗は、ハワイ本願寺・上海本願寺のような海外布教や中央アジアを踏査した大谷探検隊、能海寛を始めとするチベット入りを目指す青年僧の輩出などのように、海外に向けて活発な活動を行なう。これは欧米キリスト教社会の活動に倣ったもので、帝国主義の手先ともなりかねないところまでよく似ているが、欧米のホテルに聖書が置いてあるのを模して「和英対照仏教聖典」を置くように努めたり、スリランカ仏教徒がYMCAに倣ってYMBAを作ったりしたのと軌を一にする。


最も新しく知った知識は、ネワール仏教である。これは、ネワール人と呼ばれる主にネパールのカトマンドゥ盆地に住む人々が信仰している仏教の一形態で、亜大陸においては滅んだとされるインド仏教の最後の生き残りであると言える。中国と違い、インドには統一王国が築かれることはなく、文明圏としてのインドに属するさまざまな国が分立していた。いくつか強大な王朝はあったが、インド文明圏を統一する王朝はついになかった。現在のインド共和国は英領インドの後継国家で、そのためネパールはそこに含まれない。ネパールは軍隊が強く、イギリスに屈服しなかったため独立を守っていたからだ。しかし、ネパールはインド文明圏に属する。辺境ゆえの特殊性はあるけれども。
ネパールの国土はインドとチベットの間で細長い短冊の形をしており、高度に従って三つの文化圏に分けられる。インドと国境を接するタライと呼ばれる低地はまったくインドそのままと言ってよく(ブッダ生誕の地ルンビニーやラーマ王が結婚した場所はネパール領内にある)、標高3000メートル以上の高地はチベット系の民族が住みチベット仏教ラマ教とも言われる)が行われるチベット文明圏である。その中間の山地盆地が特色ある文化を持つネパール本土と見なしうる。ここにネワール人が住んでいる。だが、ネワール人自身はチベットビルマ系の言語を話すなど、独特なところはいくつもあっても、国語であるネパール語はインド・アーリア系で、ヒンドゥー教が圧倒的に優勢であり、衣食など生活文化はインドそのものである。この点が同じくインドとチベットの間にあるブータンとまったく異なる。ブータンは住民もチベット系で、宗教もチベット仏教である地域であって、つまりネパールの標高3000メートル以上の地域と同じだ。チベット仏教は生き仏信仰が宗教生活の中心にあるなど、インド仏教とはかなり異なる独自の文明圏を成している。
ネパールの人口は約2500万人で、80.6%がヒンドゥー教徒、10.7%が仏教徒、そのほか4.2%のイスラム教徒などがいる(2001年の統計)。民族では、ここで見る独特なネワール仏教の担い手であるネワール人が5.4%である(しかし言語としてネワール語を母語とする者は3.6%)。「ネパール」という名称はもともとカトマンドゥ盆地を指していて、それが国の名前ともなったので、ちょうど「ヤマト」が奈良盆地一帯の名前から国全体を指す名前にまで拡張されて使われるのと似ている。そのもともとの「ネパール」であるカトマンドゥ盆地には、首都カトマンドゥ、南隣のパタン、東のバクタプール(バドガオン)という三つの町があり、1769年にゴルカ族によって征服されるまで、それぞれを首都とする三つの小侯国があった。ゴルカ王朝はヒンドゥー教徒で、この王朝のもとでヒンドゥー教の浸透はいっそう進んだであろうが、それ以前から三侯国の王はヒンドゥー教徒であった。しかし、この三つの町には800近い寺院があるが、カトマンドゥではそのうちの40%が仏教寺院であるほかに、ヒンドゥー教と仏教双方に属するとされるものが5%ほどある。仏教および仏教とヒンドゥー教双方に属する寺院は、バクタプールでは全体の2割程度にとどまるものの、パタンでは7割にも及ぶ。ヒンドゥー王の下においてもそうなのだから(ネパールは2008年まで王国だった)、現在仏教が退潮しているとしても、過去においてはかなり盛んであったことがこのことからもわかる。
ネワール仏教の特徴は、1.二重信仰と、2.カースト化にあると言えよう。
仏教と神道の二重信仰である日本では仏教信者と神道信者の数を足すと人口のほとんど2倍になるというふうに、統計の上でもはっきりと二重性を示しているのと異なり、ネパールでは自分の信仰としてどちらか一方を申告しなければならないので、仏教徒ヒンドゥー教徒は統計上で截然と分かたれる。だから多数のヒンドゥー教徒ネワール人と少数の仏教徒ネワール人がいるということになるわけだが、しかしヒンドゥー教徒ネワール人が仏教寺院に、仏教徒ネワール人がヒンドゥー教寺院に平気で詣でているばかりか、ヒンドゥー寺院に仏塔やマニ車があったり、シヴァ神のリンガに仏像が彫られていたりすることがごくふつうの風景となっている。
カトマンドゥ盆地にはクマリという生ける女神がいる。サキャというネワール人仏教徒カーストの中から2、3歳の少女が選ばれて、初潮を迎えるまでの間、タレジュというヒンドゥーの女神の化身と見なされて崇拝される。初潮を迎えたらその務めを終え、別の少女が新しくクマリとなる。彼女はさまざまなヒンドゥー教の祭りで重要な役目を務める(最たるものは王国のヒンドゥー王にティカという額の印を授けることであろう)。最も華やかなのはインドラ祭のときの山車行列で、彼女は同じように着飾ったガネーシュ、バイラブ役の同年配の少年とともに山車に乗って町を巡る。このヒンドゥーの祭りには5人の仏教司祭も五仏陀として加わる。仏教徒はクマリはタレジュでなくヴァジュラ・ヴァーラーヒーの化身とするが(ちょうど祈雨儀礼の中心であるマチェンドラナートを仏教徒は観音だとしているように)、ヒンドゥー教の神であるガネーシュやバイラブをクマリと同じ仏教徒のサキャ・カーストの少年が務めているのを見ても、それはささいなことで、タレジュであって困ることはない。要するに、ここではヒンドゥー教と仏教が非常に混淆しているのだ。
仏教ではヒンドゥー教の神々が仏教を護る諸天として崇拝されているし(インドラが帝釈天サラスヴァティー弁才天ガネーシャが聖天など)、ヒンドゥー教の側では、ブッダをヴィシュヌの化身のひとつと見なすなどのように、このふたつの宗教には相互に重なり合う部分があるのは確かだ。両教の基盤にあるヨーガ、また大乗仏教興隆とほぼ同時代的に興ったバクティ(帰依)信仰や、仏教においては密教の姿となったタントリズムのように、仏教・ヒンドゥー教それぞれの中で時を同じくして現われた同じ性格の宗教性の発動という共通項もある。阿弥陀仏に一心に帰依する浄土教の信仰は明らかにバクティである。しかし、仏教はヴェーダ聖典の権威やカースト、世界の創造者としての神々を認めないので、ヒンドゥー教としては受け入れられない教理であることもまた確かである。
支配下の民衆の多くが仏教徒であっても、王家はヒンドゥー教を信奉していたので、その圧力のもと、ネワール人仏教徒は結局カーストを受け入れた。本来カーストを認めない仏教としては逸脱であり堕落であると言われてもしかたがないし、実際そう非難されてきた。だが、このことについてはもう少し考えてみる必要があると思う。


世界の宗教は、非婚宗教と結婚宗教に分けられる。これは聖職者が妻帯するかしないかによる外形的な区別であるが、単純に外形的と言えないほど本質に関わる部分を持っていると思う。仏教やキリスト教カトリック)、滅びてしまったが一時は勢力のあったマニ教などが非婚宗教で、イスラム教やヒンドゥー教、あるいは日本の神道などが結婚宗教だ。司祭者も家族を持つので、在家主義とも言えよう。キリスト教の中でも、プロテスタントは在家主義、ギリシャ正教は、修道士は非婚だが、司祭は家庭を持つ折衷的なありかたである。
非婚宗教は出家主義をとる。それはエリート主義宗教とも言える。このような宗教形態にはふたつの大きな問題がある。ひとつは、出家者は俗世を離れ、生産に携わらず、宗教に専念する。彼らの生活は生産者に支えられなければならない。聖なる職務に携わるというわけだが、客観的に俗なことばで言えばごくつぶしである。民衆が直接支えられるそのような「宗教エリート(=ごくつぶし)」の数は限られる。したがって、非婚宗教においては権力の庇護が必要となる。実際日本の仏教を見ても、聖徳太子以来徳川慶喜まで仏教は権力の保護を受けてきた(廃仏毀釈でその関係は新政府から断たれるわけで、太政官布告は権力からの三行半と言える)。
二つ目は、戒律の問題である。宗教エリートたちは禁欲を旨とする。だいたい、性欲と食欲は人類の生存に関わる二大欲求で、それを断ったり厳しく制限する者は聖者と見なされ、一生不犯を貫く清僧は尊敬される。しかし誰もが聖者になれるわけではない。聖職についていても、その多くはやはり煩悩具足の凡夫である。大黒、稚児、生臭坊主、般若湯などのことばが示すとおり、破戒は日本仏教の日常風景であった。カトリックでは男色が宿痾となっている。太政官布告には現状の公許の側面はたしかにあった。
一方で、イスラムには聖職者というものがいないし、ヒンドゥー教では司祭階層であるブラーミンは妻帯し家族を持つ。世界史には「イスラムの衝撃」というものがある。発祥の地インドで仏教が滅びたのは、それまでにヒンドゥー教の興隆によって衰えていたところへ、イスラム勢力によるナーランダなどの仏教僧院の破壊が直接のきっかけを与えた。西においても、キリスト教の揺籃の地パレスチナ、シリア、エジプトは東ローマ帝国からイスラム軍に奪われ、そこでのキリスト教は瓦解し、今では細々と命脈を保っているにすぎない。オスマン・トルコの進撃と時を同じくして起きたキリスト教宗教改革にも、イスラムの刺激があることは疑いない。
当時のキリスト教世界の東半分はイスラム化したわけだが、インドの場合はヒンドゥー化したのであろう。非婚エリート主義宗教は権力の保護を失うと脆いということが、このふたつの例からわかる。そして両地域は結婚主義宗教に取り込まれていった。ヒンドゥー化ということは、つまりカースト化である。ヒマラヤの山裾、カトマンドゥ盆地のネワール人は仏教を保持したが、カースト化せざるを得なかった。仏教司祭も妻帯し、ひとつのカーストとなったわけである。それはヒンドゥー教におけるブラーミンのような存在であり、ブラーミン化したとも言える。妻帯し、なぜか鶏肉や鶏卵は食べないが肉食もして、剃髪していないこと真宗のごとくである。ただ、この昔の仏教僧侶のカースト、ヴァジラチャリヤには、子供のとき一時的に剃髪し出家する儀礼を行ない、数日後に還俗するという習慣がある。今では一種の通過儀礼となっているが、形の上では出家して在家に戻り、そのあとで密教の灌頂も受けているのだから、筋は通っている在家仏教の形式である。
カーストについて言えば、カーストはそれを否定する側からばかり云々されがちであるが、カーストのある側、ヒンドゥーの側から見れば、仏教やキリスト教信者がひとつのカーストとなる、ということでもある。自分が他者を見る見方に対して、鏡合わせに他者が自分を見る見方があるのである。ネワール仏教の場合、反転して他者の見方を受け入れ、さらに細分化が行なわれたという変容を遂げたと解することができよう。
(また、日本の寺家については、特殊な職業だから寺家同士で結婚することが多いのではあるまいかと思っている。統計的にはどうなのか知らないが、もし想像の通りなら、日本の仏家もいくらかはカースト化しているとも言える。そもそも、親の仕事を子が継ぎ、同業者同士で結婚するというのは自然であるし、望ましくさえある。カーストはそのような緩い形でならどこにでも存在するものだし、合理的なものでもあるのだ。)
小さなことだが、ネパールの仏教寺院では入場料を取られることがよくある。日本の観光寺院の拝観料徴収と呼応しているように感じる。ヒンドゥー教寺院は神道神社同様無料である(ただしヒンドゥー教徒以外は入場不可という寺院もある)。こういうのもおもしろい。よってくるところはあるのかもしれない。


「破戒」妻帯宗派ができるのにはさまざまな事情があった。それを「破戒」の一点のみで判断するのは狭量だと思う。仏教にはさまざまな可能性があることを考えるべきであろう。原始仏教から(非仏説である)大乗、密教、さらには在家主義へと可能性が広がっていく柔軟さこそ、仏教の特質のひとつではあるまいか。地理的に見れば、辺境の地において在家主義が発生している。日本はアジアが太平洋に落ちるきわ、仏教世界の最果てであるし、ネパールはインド世界の最奥部である。このことも何かを示しているであろうか。さまざまのこと考えるネパールかな、である。

ネパールに「日本語熱」はあるのか

カトマンドゥには市営バスがない。バスはすべて個人経営のようだ。会社組織であっても、給料は歩合制に違いない。きれいなバスはなくはないがないに近く、汚い小型バスとやや汚い小型バスばかり走っていて(さらに小さい乗合自動車とさらにさらに小さい三輪乗合自動車もある)、そのバスには車掌と呼ぶにはためらわれる薄汚い格好でゾウリ履きの男が乗っている。集金係の助手である。子供のこともあり、女であることもまれにはある。大きな荷物は屋根の上に載せるのだが、ましらのごとく梯子をするすると登って、客の荷物の上げ下ろしをしてやる。行き先を連呼して客を威勢よく呼び込むのが主な仕事で、停留所で降りてバスが動き出すまで呼び込みをし、走り始めたバスにひらりと飛び乗るのはなかなかいなせなものだ。バスはだいたいいつも込んでいて、たまにすいているのに乗れても喜ぶことはできない。すいていれば客引きのためバス停に長く停まるのだから。客の数と稼ぎが直結しているのだろう。
外国人にとっては便利とは言いかねる乗り物だが(表示がネパール文字だから読めないのだ。数字が書いてあっても、これもインド数字だからわからない。結局客引きの兄ちゃんに行きたい場所を言って、乗れと手真似されたら乗るということになる)、ネパール人にとっては便利なのかもしれない。いずれにせよ、必要によってできた事業形態である。公共セクターとしてバス事業をすれば金がかかるし、赤字になる恐れもあろう。民間にゆだねれば、競争と工夫によって最適の形態を見つけ出す。快適とは言いがたくても、カトマンドゥの状況に対しては今のところこれが最適ではあるのだと思う。


日本語学校もこれと同じである。
ネパールは、異常な数の留学生を送り出し、国内では異常な数の「日本語学校」で生徒が日本語を学んでいる。驚くべき「日本語熱」があるように見える。
日本への留学を仲介する業者が500以上ある。正確な数は誰も知らない。日本専門の業者もあるし、いくつかの留学先のひとつとして日本を扱う業者もある。
この国の「日本語学校」というのは、仲介業者が設けている日本語を教えるクラスのことである。留学ビジネスが本業で、日本語学級はそれに付随するサービスなのだ。
1日1時間ほど、無料、随時入学可が特徴である。授業料を取るところもあるが、たいていは無料で教える。そこでもうけようと思っていなくて、留学仲介によって得られる収入によって会社は運営されている。授業料を取るといっても、手続きがすべて成功裏に終わってビザが取れてから、授業料もいわば成功報酬の一部として徴収するという「良心的」な業者もある。留学できなかった者は無料になるわけだ。
生徒はできるだけ早く日本へ行くのが望みだから、3か月とか6か月ぐらいしか学校に来ない。長くても1年未満がところだ。
日本語を教える大学が1つ、仲介業もしているが、語学学校と言えるものが1つ。それ以外はすべて「留学業者学校」である。


教師の数もしたがって多いわけだが(学校の数を考えれば1000人もいるかもしれない)、N5程度で教えている教師が多いと聞く。それ以下の人もおそらくいるだろう。
教師の数が多いのだから当然だが、JALTAN(国際言語大学の中に事務局がある)という教師会もある。だが、この「教師会」に教師は加入できない。学校単位での加入になるのだ。学校として加入を希望しても、申請書をはじめいくつもの書類を提出した上で、審査がある。その審査には5年かかるなどというとんでもないことを言われる。
これにはもちろん「日本語学校」やそこで働く教師が無数にいるという上記のようなネパールの特殊事情もあるので、資格審査なしに受け入れることができないのは理解できる。しかし、教師が非加盟の学校にかわってしまったらメンバーでなくなるということだから、「教師会」と言えるのかという疑問はつきまとう。かつ、審査に5年もかかるというのはまったくありえないことで、新規参入を認めない利権団体ともなっているのだろう。JLPTの実施、弁論大会やカラオケ大会の開催、デリーの交流基金の専門家が来て行なうセミナーの受け入れ(デリーの基金からの通知には参加無料とあるが、JALTANは1500ルピーの参加費を取る)などの活動をしているが、その一方で大使館や交流基金の援助は独占されているのだろう。なお、昨年まで弁論大会やセミナーへの参加は加盟校の教師学生に限定されていたが、今年から誰でも参加できることになったそうだ。といっても広報をしていないので、「部外」からの参加はほとんどない。
この「ネパール日本語教師会」のほかに、「ネパール日本語学校会」JALSANという団体もある。JALTANに加盟できない学校がいくつか集まって独自に自分たちの組織を作ったわけだ。これも弁論大会などを催している。教師会も他国に見られない独特なありかたをしている。


留学仲介会社の経営者は、日本留学の経験者で帰国後この仕事を始めた者もいるし、当人は日本と関係なく、ただ商売としてやる者もいる。
留学先としての日本はセカンドチョイスである。オーストラリアやアメリカに行きたい者が多い。英語はすでに知っている。日本語はゼロから始めなければならないのだから、本当に学びたいなら英語圏への留学を目指すほうが自然だ。オーストラリアなどでは卒業後働くのも永住権を取るのもむずかしくないと聞く。ただ、それにはある英語試験の成績が60%以上でなければならないし(それはとても高い水準らしい)、学費も高い。留学でなく働くためには、湾岸諸国やマレーシア、韓国などへ行く。
国内に仕事がないので外国へ行くことになるのだ。ネパールには進出企業がない。港がなく、輸送インフラがきわめて貧弱だから、いくら人件費が安くても製造業は進出できない。観光業ぐらいしかよい働き口がない。そのため、留学をして帰国しても、日本語を生かす道がない。日本語力を生かす道は、「日本語業」(留学仲介業とか教師とか)か観光業となる。「日本語業」につく者は、つまり後進が払う金の中間搾取によって生活をするわけで、無限ループの構造になっているし、おそらくは先細りなのではないかと懸念されるが、しかたがない。それしかないのだから。
セカンドチョイスということは、英語力の低い者が日本語学校に来るということだ。インドと同じく英語で教育を受けているはずなのに、生徒の英語が下手なのに驚くことがある。インドですら英語が話せる者は人口の2割、流暢に話せる者は4%だというから、イギリス植民地でなかったネパールではさらに低かろう。田舎から来た生徒が多いのも一因である。田舎はやはり英語教育のレベルが低いので。
これらの「日本語学校」の経営は、仲介手数料と日本の学校からの報奨金によって成り立っている。だから何としても「顧客」を日本へ行かせたい。そこに歪みが出る。
語学センスがない者も、それどころかそもそも頭が勉強に向いてない者も学校に来る。私は音痴だし運動神経も悪いので、歌やスポーツとは適当につきあうだけで関わろうとは思わない。ほかの自分に適性のある分野でがんばればいいと思う。だが、私などがいくらそう考えようと、そういう適性のない者もどしどし学校に来る。しかし顧客であるから、飯の種であるから、どんな学生でも世話しなければならない。
多くの学生はまじめだが、日本語が勉強したいのではなく、日本のビザを取って日本で働くのだけが目的の者もかなりいる。100万もするような授業料は「ビザ代」と考えて、その「ビザ代」を払ってアルバイトに精を出し、疲れて学校に寝に来るような者が出てくるゆえんである。
だからその「ビザ代」が惜しい者は、難民申請をしたり(それが却下されるまでの間は―もちろん却下される、難民でも何でもないのだから―学校に行くことなくアルバイトに専念できる)、不法滞在をしたりする。倫理的には不誠実で、長期的全体的には不利なのだが(彼らの行為によって入国審査が厳しくなり、後進の同胞の申請を難しくする)、短期的個人的には合理的で合目的的な方策である。つまり、構造的な問題なのだ。


日本へ行くには関門が3つあって、まず日本の日本語学校の面接(スカイプのことが多いが、直接日本から誰か来て面接することもよくある。お得意さま回りということだろう)、在留資格(COE)取得、大使館の面接。ほかの国ではCOEが取れたというのはビザが取れたというのと同義だが、ここではそのあと大使館の面接に合格しなければビザがもらえない。
本の学校の面接を受けるのは、ひらがなカタカナを習った程度、「みんなの日本語」の2・3課までぐらいしか勉強していない連中だ。それに面接練習をほどこす。想定問答を覚えこませるわけで、犬に芸をしこむようなものだ。「日本語はどうですか」と聞かれると、一人残らず「日本語はおもしろいですが、漢字はむずかしいです」と答える。想定問答集の通りに。授業ではまだ「これはボールペンです」「ここは教室です」などとやっている連中だから、しかたがない。歳を聞かれて、「8歳です」(18歳)「46歳です」(26歳)と答えたりもする。数字もまだ十分に入っていないのだ。
これに合格すると、そのうち3分の1ぐらいは学校に来なくなる。目先のことしか見ていないし、そもそも日本語を勉強したくないのだから。そして、習ったことを忘れてしまったころになって、大使館の面接を受ける準備のためにやってくる。また犬の芸だ(前回のは、いずれ習うことを先取りして教えるということであるわけだから、犬にたとえてはシニカルにすぎるけども、こちらのほうはまったく勉強していない者の一夜漬け表面糊塗だから、犬を持ち出してはむしろ犬に失礼だ)。


本の学校の面接がだめで行くのをやめる者もいるが、これは傷が浅い。まだ留学仲介業者にも日本の学校にもお金を払っていないから。
入学許可をもらってCOE取得のための手続きを始めるとき、仲介業者に手数料を払い、COEを取ったあと日本の学校に学費その他を払うので、すべて準備が完了したあとに大使館の面接で不合格となりビザがもらえなくなると金と時間の大損になるわけだが、目の前のことしか見ない彼らはその深刻さを理解していない。平然と田舎へ帰って授業に来なくなる。そして直前に犬の芸。
COEは書類審査だから、日本語力は関係ない。教師がやれることはない。書類の不備でこれがもらえない者も一定数必ずいる。半数を超えることもあるようだ。中にはまじめに勉強してかなりできるのもいるのだが、COEがもらえないとなると、彼らも日本語の勉強を即座にやめる。日本へ行くことだけが目的だから、そうなる。がっかりである。


COEはそういう審査だからしかたがないが、面接の結果も日本語力や努力と正比例しない。箸にも棒にもかからないのは落とされるが(落とされない場合もけっこうある)、箸にかかった者の中から誰が選ばれるかは多くは印象による、という印象を持っている。当人の学力や努力は教えている教師がよく知っている。どうしてこっちがだめでこっちが、と思うことはしばしばある。
大使館の面接でも、学力と努力が正当にはかられるわけではない。だいたいあからさまに日本語力のない者がふるい落とされているとは言えるが、例外はいくつもある。
試験なら学力・努力をかなり反映した結果になるからこれに依拠してほしいのだが、大使館独自で筆記試験を行なうのは難しいだろうとは思う。さりとて現行の民間の試験はカンニング横行で信頼できない。
このカンニングの問題。まあ半分ぐらいはカンニングする。「みんなの日本語」2・3課程度習っただけの者が大勢N4レベルの判定を受けている。試験を実施する者も監督する者もかつて大いにカンニングしていたわけだから、克服しがたい業病のようなものだ。日本人が監督の任に当たらなければだめだろう。日本人が関わっているJLPTは信頼できるようだが、ほかは信用できない。
そのようなもろもろの結果、日本へ行けるかどうかは多分に運の問題となってしまう。よく勉強した者も、行けることもあれば、行けないこともある。まったく勉強しなかった者も、行けないこともあれば、行けることもある。やんぬるかな。


COEがもらえず日本へ行けなかったけれど、その後も日本語の勉強を続けてN3ぐらい取って、学校で日本語を教えている人たちもいて、N2試験を目指して独学で勉強したり、教師研修セミナーなどに参加したりしている。辞書や参考書を作っている教師もいる。不十分な出来の辞書だとしても、作ろうという意図そのものがよい。
こういう人たちこそ留学させたいのだが、書類の不備で留学できなかった彼らにチャンスを与えないような体制になっているのは本当に残念だ。


このようなネパール人留学生らが貢ぐ金によって日本語学校や一部の大学・専門学校が支えられているわけである。情けないことではある。
「留学」と言うなら、本当に勉強する力のある者に制限すべきであって、JLPT合格者は面接を免除したうえで(今年一瞬だけそう決められたが、すぐ撤回された。しかしこれは外務省外郭団体も運営に当たる半公的な試験だから、民間の試験とは一線を画されてよい)、一夜漬けの効かない漢字についての問題を取り込むことによって、厳格公正化を図るのがいいだろう。
一方で、名のみの留学でなく、韓国のように語学力審査をした上で労働力として受け入れる制度も導入するべきだと思う。年間受け入れ人数や滞在年限等、さまざまな制限は必要だろうが。


日本人が直接法で教えるのは、長期的視野のもとにのみ可能であって、せいぜい半年しか勉強しない者にはネパール人がネパール語で教えるのが適当である。学期やクラスが確定していないと、直接法は効果を発揮しがたいのだ。学期もクラスも融解しているネパールでは、日本人教師の必要性はほとんど認められない。1日1時間、無料、随時入学可、来たければ来て休みたければ休む、というのが結局ネパールの実情に合っている。日本語学習者の異常な多さに比べて、日本人教師が異常に少ない理由もそこにある。カネがかかるのに効果が薄い日本人教師を経済的に脆弱な極小規模の業者が招くわけがないということだ。


ネパールが親日的なのはたしかである。だいたいみんな日本が好きだ。しかし日本については何も知らない。大使館や日本人会が日本文化紹介の催しをよくしているが、こんなにいる日本語学習者のごく一部しか参加しない。概念的に好きなだけなのだ。
つまり、「日本渡航熱」はあるが、「日本語熱」があるとは言えない。そして「日本渡航熱」は外国への「出国熱」の一部でしかない。いや、「熱」は一時的なものについて言うので、これは恒常的な(恒久的でないことを願う)ものだから、むしろ「若者の進路選択肢のひとつ」と言うべきだろう。留学後働いてのち帰国するなら出稼ぎ、住みつづけるなら移住である。そういう大きなコンテクストの中にネパールの日本留学・日本語学習はある。
きわめて特異で独自なネパールの日本語教育事情である。


ではネパールで教えることを人に勧めないかというと、そんなことはない。このような諸事情をわきまえた上なら、薄給で働くのもいいのではないか。おもしろい国、気持ちのいい人たちだから。ただ、これらの事情は所与である。

インドなネパール、日本なネパール

ネパールの車のナンバーはインド数字で書かれている。読めない。日本のナンバープレートが漢数字で書かれていて、それを(中国人以外の)外国人が見て困っている、というのを想像すればいいのだが、インドですら洋数字を使っているのに、なぜネパールがそうするかね? 小包を送った受取証に代金が書いてないので聞いたところ、ここにあると言われた。インド数字で書いてあるのである。こちらのほうは日本でも漢数字で書くことはあるからわかるが、ナンバープレートは困るよ。そしてこの件のもっともおもしろいところは、なぜインドでないネパールがインド以上にインドなのか、という点だ。
王制時代にはヒンドゥー教を国教としていたそうだ。インドはそうしていないから、当時唯一のヒンドゥー教国家だったわけである。統計によると、ヒンドゥー教徒は81.3%、仏教9.0%、イスラム教4.4%だという。インド(78%)より比率がわずかに高いだけの8割でヒンドゥー教国家だなどと言ってはいけないが、要はイスラムなのだろう。ネパールにも無視できないほどいるけれど、インドの場合は13.4%で、比率のみならず数として一大勢力で、ヒンドゥー主義の主張は宗教紛争となるだけだから(なっているし)避けられる。その点ネパールは大胆になれるのだ。
仏教も大きな勢力ではあるけれど、仏教(チベット仏教)プロパーとしては山地のチベット系民族の宗教であるか、あるいはヒンドゥー教との二重信仰であるか、という形をとる。もともとインドの宗教であり、釈迦はラーマの化身であるとされてもいて、多数派ヒンドゥー教徒から見ればヒンドゥー教の異端の一派ぐらいに考えられているのかもしれない。
そもそもがインドである。山地にあり、軍隊が強く、イギリスと戦って善戦したので、植民地化されず独立を守っていて、そのためインドの一部とならなかった、ということだ(現在のインドは英領インドの後継国家である)。インドの一部として見れば、チベットへの移行空間として独特であるが、山地の少数民族は別として、ヒンドゥー教を信仰する大多数の人たちの生活文化はまったくインドだ。サリーを着るし、額に赤い印(ティカ)をつけ、女性は手にメンディーという模様を描く。食べ物も、主食が米であるところが西北インドと異なるが(東インド南インドとは同じ)、あとは豆カレー、野菜カレー、辛い漬物アチャール、ヨーグルトなど、インドと同じものが金属盆に盛って出される。牛が町中をゆうゆうと歩いている風景や牛肉を食べないこと(しかし水牛は盛んに食べる)、カーストがあること等々、インドでしかありえない。ネパール語ヒンディー語の同系語だし、文字もヒンディー語と同じデーヴァナーガリー文字である。幅150−200キロの間に標高8850メートルから70メートルまで下る国土のうち、インド国境沿いのタライと呼ばれる低地は掛け値なしのインドで、ラーマ王が婚礼を挙げたのも、ゴータマ・シッダールタが生まれたのもここである。インド文明の重要な周辺部であったわけだ。
ネパールの観光ビザは簡単に取れ、かつ窓口の係員が微笑むというインドでは考えられない対応をして、観光ビザさえ取りにくいインドとは雲泥の差を見せるが(国の基幹産業が観光業で、外国人料金を高く設定して金を搾ろうという意図も当然あろう)、就労ビザはネパールも非常に取得がむずかしく、ここではインドと対等である。


だが、ネパールは日本とも似ているなと感じる。山国で、土地が狭く、道が狭く、だからスズキの軽が重宝される。アルトでないタクシーなんてあったっけ? 寺も非常に小さく、寺院というよりお堂という感じである。完全に木造でなくとも、木造部分が多い。屋根が多重で、三重塔とか五重塔を思わせる。
いわゆる照葉樹林文化の東端と西端でもある。タケノコを食べているのには驚いた。
地震が多いという共通点もある。地震国に対して並々ならぬ共感を覚えるのは、日本人の特性のひとつである。ネパール人のほうでもきっと共感はあるだろう。
精強勇猛なグルカ兵が有名な一方、よく微笑む人たちでもある。こちらが微笑めば、必ず微笑み返す。この点はインドと違い、むしろ東南アジアに似ている。「菊と刀」か?
国旗もおもしろい。ヨーロッパの発明した国民国家に覆われている今の世界では、ヨーロッパの決めたルールにのっとって国歌国旗をもたなければならないことになっていて、植民地から独立した国々ではヨーロッパ式に横長長方形を何色か(多くは三色)に塗り分ける旗を作って国旗でございとしているが、日本の日章旗はヨーロッパ方式とは外れて独特であり、扇や鉢巻などにも使えるなど独自のありかたをしていて誇らしく思う。しかし独特ということではネパールはさらに上手で、長方形ルールを完全に無視し、中に太陽と月を描いた三角形を重ねるという奇っ怪な形態をしている。あっぱれである。独立国であったればこそ。エンブレムを中に置いただけのヨーロッパ流三色旗である旧植民地インドとは筋合いが違う。
ネパールではヒンドゥー教と仏教が二重信仰のようなありかたをしている。ヒンドゥー寺院に仏塔や仏陀の像がある。各人はヒンドゥー教徒である、仏教徒であると一応認識しているのかもしれないが、どちらの寺院にお参りしてもかまわない融通無碍な寛容さを示す。この点も、平然と神道と仏教の二重信仰である日本人には違和感がない。ヒンドゥー教原理主義者や仏教原理主義者(そういう人もいるに違いない)から見れば、いやキリスト教徒やイスラム教徒から見ても不純で不快であろうが、なに、これでいいのだよ。
僧侶階層が妻帯しひとつのカーストをなしているのもネパール仏教の大きな特徴であり、それは司祭カーストのブラーミンが妻帯しているのに倣ったのかもしれないが、同じく僧侶妻帯の日本にも似る。日本でもお寺さんはお寺さん同士で結婚することが多く(独特の生活習慣があるので)、つまり準カーストと言っていいようなありかたに見える。これも似ている(日本でもっともカースト的なのは梨園だろう。主役を演じる家筋、脇役の家筋などが決まっているところも)。
ネパールにはクマリという生ける女神がいる。あるカーストの女の子が選ばれて、初潮を迎えるまでの間女神の化身である少女神として崇拝されるというものだ。1984年から91年までクマリだったラスミラ・サキャは、「回想 神から人間へ」(スコット・ベリーとの共著、江崎秀隆訳、カトマンドゥ、2011)の中で、「外国からの訪問者の中で特に私が好きな人達がいました。それは日本という国から来たと教えてもらった人達で、私が窓辺に現れると必ず拍手をしてくれました。彼らが私を見る様子から私は日本の人達に理解されているように思います」(p.28)とか、「私は日本人と私達ネパール人との間にはある種の「絆」がある様にも感じました。それというのもこの日本の人達が私個人と云うことでは無く、いつも私達の文化そのものを理解し敬意を払っていてくれている様に思えたからです。その文化の密接さという観点から云うと、ネパールは西洋に比べて日本により近いのではないかと思います」(p.162)などと言っている。
すべてのクマリがそんな印象を持つのかどうかは知らないし、彼女の個人的な意見かもしれない。しかし、なるほどとも思った。
クマリは斎宮を思わせるところがある。斎宮の場合は未婚で処女を通すのではあるが、女性であって、初潮前の少女とは異なる。平安時代春日大社などに奉仕した斎女は少女だったようだが、斎宮にせよ斎女にせよ神に仕えるという点では神そのものであるクマリとは違うのだけれども、似ていることはたしかだし、クマリが山車に乗って巡幸するインドラ祭では、クマリの山車のほかにガネシュ、バイラブとしてそれぞれ山車に乗る2人の少年がいるのだが、彼らはこの祭りのためだけに選ばれるのであって、まったく日本の祭りに出る稚児と同じだ。
何より、日本には最近まで現人神がいたし、「人間宣言」をしたあとも常人とは思われてない。女神でなくなったあと普通の女の子にもどるために苦労したラスミラ・サキャの回想録は非常におもしろかったが、読んでいる間感じたのは、要するに平民(もはや華族はいないから、結婚相手はどうしても平民となる)と結婚し臣籍降下した皇女だな、黒田清子さんが書けば似たものになるかな、ということだ。しかり、われわれにはクマリがよく理解できますよ、ラスミラさん。

「母は娼婦です」

日本語の発音はかんたんだ。母音は5つで、ローマ字にあるのと同数だし、子音は14。こういうものは多くても少なくてもむずかしくなるが、多すぎず少なすぎない適当な数だ。thや反り舌音のような妙なものもない。開音節ばかりなのは、聞くのにはモノトーンな感じかもしれないが、言うのには言いやすいはずだ。
母語が有気音・無気音対立の中国語である人には、日本語の有声音・無声音対立がむずかしい、というように、母語によって困難がでてくることはあろう。rとlが言い分けられないわれわれにも身にしみてよくわかることがらだ。だがそれは相対的なむずかしさであり、絶対的には日本語の発音はやさしいと言い切っていいと思う。
とはいえ、特殊拍と言われるもの、わけても長音と促音はむずかしい。「きてください」「きってください」「きいてください」を聞かせてみると、ほとんどの国の学習者が区別できない。つまり発音できない。
しかし、つまる音(促音)はなるほどむずかしかろうとわれわれも想像できるが(「坂の上に住む作家はサッカーがすきだ」)、長い音と短い音が発音できず聞き分けられないのは不思議に思う。伸ばせばいいだけだろ?
「おばさん」を「おばあさん」と呼んではいけない。怒られるぞ、気をつけなさいと言い聞かせると、おばさんに向かってことさらに「おバーさん、おバーさん」とバを強調して言うので、頭を抱えてしまう。「ば」の部分が問題だと認識してはいるのだが、音の長い短いがわからないので、強く発音してしまうのだ(強く発音すると長く聞こえる)。これだったら指摘しないほうがよかったかもしれない。
山陰線には3駅はさんで大田駅と小田駅がある。「大田で降りてください」と伝えたのに小田で降りられては非常に困る。駅前には何もなく、バスもなければ、山陰線は1時間以上待たないと次の列車は来ない。日本人も大田(市とはいえ、東京基準でいけばここも駅前に何もないんだけどね。まあ比較の問題で)で待ちぼうけをくわされるわけだが、小田で降りてしまった外国人のほうがたいへんだ。
「コピー」は「コーピ」と言うし、そう書く。私の知っているすべての国の学習者がそうだった。流暢に日本語を話す者にしてなお。なぜこんなのがむずかしいかよくわからないのだが、わからないからむずかしいのだろう。「コーヒー」は「コーヒ」。「コヒー」と書かないあたりに秘密がありそうだ。
アクセントは、標準である東京アクセントのほかに、それとまったく異なる関西アクセントが一大勢力であるし、一型アクセントもあるので、発音練習において特にこだわる必要はない。しかしながら、私はスピーチの練習などではアクセントを徹底的に教え込む。というのは、長音や促音の箇所にアクセントの変わり目が当たることが多いのだ。「こうとうがっこう」なら、「こう」で上昇、「がっ」で下降。つまり、アクセント練習ではアクセントが本丸なのではない。敵は本能寺にあり。長音・促音を身につけさせる一助に、と考えてのことである。もちろんアクセントが正しければ聞きよくもあるのだし。


母語によって発音の間違いも違う。タヌキの母語は知らないが、人に化けたタヌキは「オレだ」と言えず、「オネだ」と言うのでわかるという。四川人の場合はタヌキと逆で、ナ行をラ行に発音する。つまり「尾根」が「俺」に、「カナダ」が「体」になる逆さ狸。
トルコ人は「せ」が「さ」になる。「千円です」が「三円です」になってしまう。997円も違う。そんな通訳は損するぞ。
中国人の「ません」は「ますん」に聞こえるので、「行きます」だか「行きません」だかわからない。いつも「えっ、行くの、行かないの?」と聞き返すことになる。文末の最後の部分まで聞かないと肯定か否定かわからないのが日本語の大きな欠陥だが、その部分で「ますん」じゃ困るよ。
そしてネパールでは、面接で「母は娼婦です」と答える学生が出てくる。面接の練習のためにネパール人教師がモデル問答集を作るのだが、それに「はははしょうふです」と書いてあり、学生はそれを暗記する。ハハハ。ここは「しゃ・しゅ・しょ」がうまく発音できない者が多くて、「でしょう」を「ですよ」と言う。書き取りをさせても「しゅ」を「しょ」と書いたり、その逆に書いたりする。この点と、長音の無能があいまって、「しゅふ」が「しょうふ」になってしまったわけだ。大使館での面接のような大事なものなら、日本人に見てもらうべきだろう。学生がいい物笑いだ。
ま、私たちもシラミ(lice)が主食だし、おたがいさまだけどね。しかし「母は娼婦です」の破壊力はそれをだいぶしのぐと思うよ。