WM2018雑感

今大会ではビデオアシスタントレフリー(VAR:「モスクワの別会場に集まった国際主審4人が担当し、?得点?PK判定?一発退場?人違いの4要素に関して、「明白かつ確実な誤り」に介入することになっている」そうだ)が導入されたのが大きなトピックだった。FIFAの会長は大成功だったと結論づけているが、本当にそうか。よい点が多々あったことは確かだが、問題点はそれ以上にあったと思う。
明らかにVAR導入によってPK判定が非常に増えた。メキシコ大会は「マラドーナの大会」と言われたが、ロシア大会は「PKの大会」と呼ばれていい。得点王ケインは「PK王」だったし、決勝戦でのフランス勝利を決定したのも論議多きPKだった。
まず何よりも、サッカーにビデオ判定はなじまない。ビデオで確認する際にはプレーを止めなければならない。止まるスポーツ、得点が非常に多いスポーツ(点が入った時には当然プレーは止まる)では問題なく使用できる。こういう競技(テニス、バレーボール等々)とビデオ判定はよくなじむ。だがプレーが止まらず、得点が非常に少ないサッカーとは親和性がそもそも極めて低い。実際のところは、サッカーにはこれはPKだろうと選手や観客が声をあげるケースは非常に多い。だが、それをいちいち止めるわけにはいかないのだ。そんなことをしていては、このスポーツの魅力の大きな部分を占めるスピード感、とぎれずにゲームが進む流動感が根本的に損なわれる。
VARが導入された今大会では、誤審は確かに減った。そのためPKが増えた。なるほど、大誤審はこれによって防がれる。だが中小の誤審は結局なくならないし、むしろ混乱する。なぜこれを取ってこれを取らないのかという批判が倍増するからだ。介入した場合の判定はほとんど正しいが、100%ではなく、間違いもある。とはいえ、介入の効果はたしかにある。だが、問題はそこではない。不介入が問題なのだ。
VARの目が光っているので、よいこともある。ペナルティエリア内のファウルは減るだろう。シミュレーションも減るかもしれない。ネイマールの演技が見破られたのは選手らに非常によい教訓を与えたに違いない。だいたいがずるい連中のするこのゲームにおいて、抑止力としてよく機能した。
しかし、ハンドの問題が大きくクローズアップされる。決勝戦のがまさにそれだ。ボールが手に当たったかどうかは、審判の目だけでは見過ごされることもあるが、VARが介入しビデオで見ることになれば一目瞭然で、その事実そのものは確認できる。だが、それに対してPKを与えるかどうかは主審の判断になる。故意のハンドはPKで問題ない。しかし故意でなく手に当たった場合、取るか、取らないか。人間には手があるのだ。エリア内ではハンドを取られないよう手を後ろに回す選手も多いが、ジャンプしたり脚を思い切り伸ばしたりするときは、バランスを取るため手の助けも借りるさ。そんなときにボールが当たってしまうのはよくあることで、この大会でもよく見られた。明らかな故意と明らかな不可抗力の間の広いグレーゾーンで、反則が取られたり取られなかったりした。結局VAR導入以前と何も変わってなくて、手に当たった事実だけは明瞭になるため、問題が拡大する。VAR不介入のケースも多くあり、それもさらに状況を混乱させる。いっそ手に当たれば全部ハンドということにすればすっきりするが、それではPKだらけになるし、相手の手を狙って蹴る選手が続出するだろう。人垣に守られたゴールへ蹴るより、その人垣の手をめがけて蹴るほうが簡単だから。それではサッカーの定義が変わってしまうよ。「90分間でより多くのゴールを決めるのを競うゲーム」というのが、「90分間でより多く相手の手にボールを当てるのを競うゲーム」になってしまう。
VARはペナルティエリア内のファウルのみ対象とし、エリア外のファウルは対象にならない。だから長谷部が取られたファウル、グリーズマンが取ってもらったファウルのような(明らかな)誤審には介入しないのだが、それで得られたフリーキックから得点が生まれているのだから、結果として「得点に影響する誤審」となっている。長谷部のは失点しても試合結果を左右することにはならなかったが、グリーズマンのダイブは決勝であるからカップの行方に大きな影響があったと言える。もしエリア外の疑わしい判定にまで介入することになれば際限がなくなるから、これを対象外とするのはそれはそれとして正しいが、釈然としない感情は残るだろう。
二重権力になるという問題もある。最終的には主審が裁定を下すとはいえ、主審の権利と権威の少なからぬ部分がVARに奪われる。衆人環視の中で白日のもとにジャッジが行なわれるこれまでの単純素朴なありかたが根底から覆される。人目に隠れた密室から指令が送られてきて、主審はそれに耳を傾ける。このような「影の権力装置」を造れば、必ずそこへ結果を操作したい連中の黒い手が伸びる。「ビジネスチャンス」の提供だ。
さらに、そのVARは首都モスクワに置かれる。カザンやロストフが遠く離れたモスクワの指令に従う。リゾームであるべきスポーツの試合において、許しがたい中央集権管理体制である。筆者はテクノロジーなんか毛筋ほども信じない。自分が目で見、手で触れるものどもが信用の礎である。時代が百歩先を行っているのなら、百歩後を行けばいい。こんなことは許せない。
いいかげんで大らかなのがサッカーの大いなる魅力のひとつである。ゴールから遠いところでのフリーキックスローインの位置はまったく厳密でなく、スローインなんか審判を見るまでもなくセルフジャッジで行なっている。ロスタイムも大まかな目安は示されるようになったものの、秒単位の神経症的な競技と違って大雑把なものだ。そういうサッカーのよさが奪われるのは由々しきことだと思う。
VARのある試合とない試合で別のサッカーになってしまうという問題もある。同一ルールでなくなる。最高峰のワールドカップも10部リーグも草サッカーも同じように行なわれるのがサッカーで、そのためこのスポーツは「民主的」であり、それゆえ大衆の人気を博していたのに、それがエリート競技と非エリート競技のふたつに分割されてしまう。
もしビデオによる確認を行なわなければならないなら、今大会のような「介入制」でなく、前にも書いた通り、相撲のような「物言い」システムにするべきだ。VARはビデオ再生係となる。主審がジャッジするが、それがおかしいと思ったら物言いをつけて(あるいは主審自身が確信を持てない場合は自発的に)、ビデオを確認しに行く。物言いをつける権利は線審2人と、ゴールライン上に追加されたヨコ線審、そして各チームの監督にも1試合2回に限って物言いをつける権利を与えよう。物言いがついたら、主審は必ずビデオで確認しなければならない。その結果、行司差し違えにもなるかもしれないし、軍配通りかもしれない。いずれにせよ、これなら密室の介入と違い、観衆も選手も何が起きて試合が止まったのかはっきりわかる。青天白日の下で判定が下される。すでに2回の権利を使ってしまったあとでは、明らかに誤審だと思っても被害チームは指をくわえていなければならない。それはゲームの一部だ。「介入制」による不公正感は軽減される。物言いの権利にせよ何にせよ、権利は与えられれば必ず乱用されるものだが、しかたがない。これなら、試合が止まっても選手も観客もなぜ止まったかがわかり、困惑して興ざめになるどころか、むしろ興奮するだろう。勝負審判が土俵に上がると場内が沸くのと同じように。
これが最もよい解決策に思われるが、どうだろうか。


「おや、ひょっとしたら勝てるんじゃないか?」
フィールドに入ってくる前の整列の場面で、吉田麻也が自軍側だけでなく相手側のエスコートの子供たちともハイタッチをしている画面を見て、そう思った。リラックスしている。何だがいい気分になって試合を見始めたら、ものの数分で最初の絶叫となった。「撃て撃て撃て!」「撃て撃て撃て!」それで得点した上に、相手ディフェンダーが退場だからね。
コロンビア戦は幸運というより僥倖だったと言えよう。ハメスの負傷、PK進呈の上退場、それでも追いついて、10人対11人だから引き分けを狙ってもよかったのに、日本相手に勝ち点1は許されないとでも思ったか、攻撃的な選手を投入して勝ちにいって失敗するという悪手が重なった。相手の自滅だろうが何だろうが、勝てばいいのである。次のセネガル戦は好ゲームだった。引き分けだったが、日本が勝っていたとしてもどこからも苦情は出なかっただろう。苦情の嵐であった次戦はおいて、決勝トーナメント1回戦のベルギー戦は、結果は悔いの残る敗戦ではあったものの、誇りのもてる戦いぶりであった。よくやった。期待が低かっただけに、なおいっそうすばらしい。身を乗り出して「撃て撃て撃て!」と叫んだ場面のほとんどでシュートを撃っていたし、それがよく決まっていたから、見ているほうとしてはたまらなくおもしろい。


そんな試合を見せてくれた感謝とともに、言わなければならないことは言っておこう。
今回の日本代表は、言わば未来と引き換えに過去のチームを仕立て直して再戦したようなものだった。前任者なら確実に選んでいた中島や久保、選んだ可能性の高い浅野や井手口が外れ、彼らが入っていたら押し出されていたであろう30歳以上の何人かのブラジル組が選ばれていたわけだから。その戦いぶりはよかった。特にベルギー戦とセネガル戦。ブラジル大会のサッカーが前任者の指導によって強化されていた。しかし、相変わらず「自分たちのサッカー」以外のサッカーはできず、そのことがポーランド戦とベルギー戦の最終盤に露呈した。
おっさんジャパン、年功序列ジャパン、忖度ジャパン、いろいろな言われようをした今回の日本代表だが、温情ジャパン、支離滅裂ジャパンと呼ぶのが適当だと思う。
たとえば岡崎。大会前に負傷をかかえていたから、ハリルホジッチなら外しただろう。もし選んでいても、パラグアイ戦のあとの重ねてのけがで、そのときには確実に外しただろう。だが、西野監督は治ると信じて外さず、浅野を帰らせた。前監督は、岡崎の代表100試合目のことだったと思うが、晴れ舞台を用意し、キャプテンにも指名した。情のある人だと思った(代表から外れて長いカズを呼ぼうとしたジーコもそうだった)。しかし、こと勝負となると冷酷になれる人だ。使えないと判断したら、情に関係なく外したはずだ。しかし西野さんは選び続けた。その温情は、追い回すフォワード、潰れるフォワードとして最初の2戦では役立った(岡田監督が矢野貴章を選んだのを思い出した)。しかし第3戦で故障した。岡崎に関しては、その温情がチームにとって吉だったのかどうか断言しにくい。
断然吉だったのは乾と香川だ。この3人はけが明けで、間に合うのかどうか微妙だった。香川についてはハリルも最後まで待ったのではないかと思うが、乾はおそらく選ばれなかっただろう。彼のポジションにはいい選手が多く、中島は選んだに違いないから、けがをしていた乾のための席はなかったと思われる。西野監督が外さず選んだ乾が大活躍をしたのだから、その判断は結果として大正解であったし、褒め称えられるべきではあるが、中島がいなかったことを忘れてはいけない。
第1戦第2戦でミスをした川島を使い続けたのは、それほど温情ではないかもしれない。素人目にはよくわからないが、第2GKとの間にそれだけの実力差があるということなのかもしれないから。ハリルも同じように川島を大事な場面で使っていたし。ポーランド戦の前だったかの記者会見で川島を同席させていたのも、温情というより、多少のミスはあってもそれ以上に貢献している彼を使い続けるという監督の断固たる決意を示すもので、指揮官たるものかくあるべしという範を垂れたと理解している。
まだグループリーグ突破も決まっていない、敗退の可能性もかなりあるポーランド戦で、先発を6人も替えたのには驚いたし、理解不能だった。それは突破の決まっているチームのすることだ。主力を休ませ、決勝トーナメントに備えるといっても、そこに進出できなければ何にもならない。これもおそらく温情だったのではないか。23人全員で戦うと掲げていたこともあるし、彼らは大会前最後の試合パラグアイ戦までは主力扱いだったのだから、ワールドカップの舞台に立たせてやりたいと思ったのではないかと想像する。しかしその「温情」は、危うくすべてを台無しにするところだった。ポーランド戦は敗戦だった。0−1だからよかったものの、まんまとはまったカウンターの場面でレヴァンドフスキに2点目を決められていたら敗退だった。
それらすべてを差し引いても、あの乾(今までシュートを外すシーンしか見ていなかったような気のする乾)の大活躍で温情はペイしたと思われるが、その対象が主としてブラジル組であったことは指摘しておかなければならない。予選やテストマッチで活躍し、選ばれる資格も出場する資格もあったはずのリオ組から中島・久保・浅野・井手口が外れ、残った大島・植田・遠藤・中村には出場機会がなかった。将来の犠牲の上での現在の勝利、という側面はあるのだ。
「おっさんジャパン」だったのにも無理からぬ点はある。2か月前にいきなり監督を任されたのでは、計算のできる経験豊富な選手に頼るしかないのだから、それをもって西野監督が責められては気の毒だ。将来が犠牲になったことの責任の所在は別のところにある。
西野監督は敗れた選手たちにすばらしいことばをかけた。「ベルギー戦が終わった後に倒れ込んで感じた芝生の感触、見上げた空の色を忘れるな。ベンチに座っていた選手は、居心地の悪いお尻の感触を忘れるな」。それにはもうひとつ、「テレビを見ていて感じた無念さを忘れるな」も付け加えなければならない。それを忘れない選手が次の大会(日本が出場できるとは決まっていないので、とりあえず次の大会の予選)で活躍してくれるだろう。
クロアチアは20年前に準決勝を戦っていたが、国中の熱狂の中であの試合を見ていて、自分がゴールを決めてチームを決勝に進出させる選手になりたいと願ったペリシッチ少年が、20年後に本当にゴールを決めてチームを決勝に導いた。これは奇跡的な例だとしても、歴史はこのように続くのだ。日本もかくあれかし。


監督についても考えさせられた。
ハリルホジッチの遺産は正当に評価されねばならない。彼が口うるさく言っていた一対一、縦パス、速い攻めがそこここで生きていた。今大会勝ったのは10人のコロンビアに対してだけ、あとは2敗1分けだと悪口も言われるが、ブラジル大会では10人のギリシャに引き分けているのだから、勝ち切ったのは大いなる進歩だ(あのギリシャ戦は間違いなく大会で最も無内容な疲れるだけの試合だった)。セネガル戦ベルギー戦はほれぼれするような戦いで、その得点はまさにハリルホジッチがやりたがっていた速い攻め、長いパスで急所をついてのものだった。
彼は選手に出場機会の確保を求め、移籍を促した。長友、原口、そして本田もそれに応じてリーグのレベルを下げても移籍し、試合勘を整えていた。清武のように移籍して失敗した例もあるが、それはけがによるものでしかたない。逆に井手口は、出場機会を失う危険を冒して移籍し、まんまと出場機会を失って失敗した。彼の場合は出られているチームにあと半年とどまるべきだっただろう。
また、基準を設けて競争を促した。ザッケローニのチームはほとんどメンバーが固定されていて、そのため熟成もしたのだが、それが驕りや停滞につながった面は否定できない。ハリルホジッチのもとでは、香川や本田のような日本人監督にはほぼアンタッチャブルな存在も、満足できない状態なら容赦なく外された。それが危機感になり、代表に対する思いを再確認することにつながっただろう。
ドイツに快勝し、前回優勝国をグループリーグ敗退に追い込んだメキシコの監督は、6か月前から対ドイツ戦の戦術を考えていたそうだ。ハリルホジッチもそうだっただろうと思うと残念だ。西野ジャパンも大健闘してうれしいのだが、それでも悔いとして残る。西野監督の采配には大いに疑問点があるだけに。
あのメキシコの対独戦は、前大会のアルジェリアの対独戦にダブる。おそらく参考にしただろう。韓国もそうで、ドイツはいわば4年前に何とか退けたアルジェリアに4年後にしてやられたという見方もできよう。江戸の仇が長崎で討たれたか。
また、こうも思う。ハリルホジッチが監督のままだったらどうだったか、それはわからないが、仮にベスト16に進出しても、メキシコのようなチームだったかもしれない。日本と同じくベスト16敗退に終わったメキシコは、いいチームではあったが、比べると日本のほうがより魅力的なチームだったと思う。西野ジャパンは、その最良の場面ではザックのチームとハリルのチームのハイブリッドで、だから成功も収め(日本の力からすればベスト16は上出来以上の結果だ)、魅力的だったのだろう。しかし最良以外の場面はけっこう問題だった。


西野采配の問題点は、まず何よりもポーランド戦の最後の10分間である。
両者が延々とパス回しを続けて時間を潰す「談合試合」は珍しいものではない。だが、それはこのままの結果なら両者勝ち抜けとなる場合に限られる。普通は引き分けの試合の後半最終盤に見られ、一方が負ける試合で発動されることは少ない。しかし、敗北を選択しても、それでポーランドと日本が勝ち抜けると決まっているのなら、その「談合」はありうるし、「合理的」な判断でもある。あの悪名高いドイツ―オーストリア戦のように。あのいわゆる「ヒホンの恥」の場合は、一方の負け試合であったことに加え、80分の長きにわたったことで問題になり、あれ以降グループリーグ最終戦は同日同時刻にキックオフという規定に改正されることになるほど非難囂囂だった。あのときはだから、もうひとつの試合は終わっていて、その結果を見て試合を殺してしまったのである。しかしこの日本―ポーランド戦は、同日同時刻に行なわれているコロンビア―セネガル戦の結果がわからないのに、負けている日本が攻めずに1点差で負けようとしたのだから、ものすごく新奇新機軸の、世界のどの国も考えつかないような作戦をとったわけである。勝ち点も得失点差も得点も当該国同士の戦績も同じなら、フェアプレーポイントの差で順位が決まるという奇怪なレギュレーションで(イエローカード・レッドカードの出し方は審判によって個人差があるのだから、同じ審判によって裁かれていない場合は不公平になる)、フェアプレーポイントで勝る日本が勝ち抜けた。いわば「フェアプレーの勝利」なわけだが、プレーを放棄する究極のアンフェア行為が「フェアプレーの勝利」などとは、まったく悪い冗談だ。
私見を言えば、コーナーキックの数で決めるのがいいだろう。CKが多いのは攻めていた証拠だから。フェアプレーポイントというのも悪くない考え方ではあるのだ。カードをもらわず、クリーンに戦うチームに褒美があってもいい。それがアンフェアな試合放棄をしたチームに悪用されるのが問題なだけで。イエローカードをもらわないというのは意図的にできること(自分でコントロールできること)であるが、試合の進行とともに変わっていくCKの数ならコントロールできない。まずこれを基準に定め、それも同数の場合最後の手段としてフェアプレーポイントを用いるべきだ。それも同数なら、コイントス。間違ってもFIFAランキングなどで決めてはいけない。やってみなければわからないのが勝負のおもしろさで、やる前から決まっているものを特権として持ち出すのは卑劣である。ま、卑劣はヨーロッパ人南米人の特性のひとつだけどね(と今までは悪態をついてきたが、日本が卑劣な真似をしたこれからはそれも抑制しなければならないのが悲しい)。
あれは賭けであった、と言えば耳ざわりよく聞こえるが、つまり丁半博打だったのだ。勝つ確率のほうが高い博打であったが、博打であることに変わりはない。自分でコントロールできないことに運命を託すのは、博打以外の何物でもない。コロンビアが勝つ可能性は確かに高かっただろうと思う。しかし得点せねば敗退のセネガルは当然必死に攻撃する。サッカーは点の入りにくい競技だ。だが、入るときはおよそばかげたゴールも決まってしまう競技でもある。シュートでも何でもないロングキックが得点になってしまうのを、われわれはカザフスタン戦の井原、オーストラリア戦の中村で見ているではないか。ベルギー戦の単なる折り返しのヘディングがゴールに収まってしまう場面を数日後に見てしまうことになっていたではないか。キーパーのミスだってある。チャンピオンズリーグ決勝という大舞台でやらかしたGKがいたように。オウンゴールもあるし、今大会非常に多いPK(特にエリア内のハンドによるPK)もありうる。それにこの大会ではロスタイムにやたらめったゴールが決まっている。そんな中でどうして命運をコロンビアの勝利に賭けていいのか。コロンビアはかりに1点失って引き分けても突破なのだ。
賭けをするときには、それによって得られるものと失うものを秤にかけなければならない。この賭けは、得られるものに比べて失うものが大きすぎる。スポーツの試合は、名誉のために戦っているのである。この丁半博打には勝ったが、負けていたらどうなる? 世界から未来永劫嘲笑されるのだぞ。卑怯な数字合わせをして試合放棄して、滑稽にもそれまでの善戦健闘の誇りのすべてを失ったみじめなチームとして。ベスト16に進出するための苦渋の決断だ? ベスト16が何ほどのものだ。前大会、前々大会のベスト16敗退国を覚えているか。優勝国ドイツを追い詰めたアルジェリアぐらいなら覚えてもいようが、ほとんどの国は忘れ去られている。日本の名誉は、その程度の報酬のためにたかだか2か月前に就任したばかりの監督が賭け金に使っていいような安いものではない。昔ならば切腹ものだ。
決勝トーナメント1回戦に勝たなければ意味のないことばかりしていた、というのが客観的な事実だ。先発メンバー6人替えもそうである。ベルギー戦に勝つために温存したとしか考えられないのだが、そんな先のことでなく目前のポーランド戦に勝つか引き分けなければならないその状況がわかっているのかと普通の人間は思う。
あきれたことに、多くの日本人は結果がよかったのですべて許してしまって、あまつさえ名采配だの名監督だのと言っているが、それは休み休み言う類のものである。博打に負けていたらどうなっていたかが考えられないのは、想像力の欠如である。国の名誉を危うくする西野監督のこの決断に、賛否が半々だという。賛成が半数だと? この国民はどこまで名誉心を失っているのだろう。ブラジルでは「日本人」というのはサッカーが下手な人の代名詞だったそうだ。韓国では「永遠の格下」などという言われようをしていた。そのようなかつての弱小の頃でさえ、捨てていい名誉などない。ましてや先人の営々と重ねた努力によってアジアで1、2を争う国になった今では。
次のベルギー戦の大善戦で、日本を褒める人が増え、日本の名誉は高まった。その事実をもってしても、あるいはそのポテンシャルがあるからなおさらに、してはならぬことである。勝負は時の運だ。ベルギー戦の結果は敗戦とはいえ上々だったが、あれが惨敗だったら、あんなさもしい真似をしてまで上に進んでこのざまかと、賭けに負けたとき並みの嘲笑を受けた。その危険はあった。原口の得点の直後のアザールのシュートがポストに当たらず決まっていたら、日本お得意の大逆転を早々にやられていた可能性は高い(ああ、寝起きの悪い大逆転負けを何度見せられてきたことか。日本代表のファンであることはつらい)。
近代日本史は戦争史であり、その戦争の多くは宣戦布告なしに行なわれていたことを決して忘れるべきでない。謀略工作は日本軍の代名詞だった。「日本人はずるい」というのは残念ながら国際的な定評だ。それを裏書きするようなことを衆人環視(決勝戦なら世界10億人が視聴するのだ)の中でやってしまったことの意味を、日本人はしかと考えなければならない。
このばかげた「丁半博打」がまんまと成功してしまったので、悪い前例ができてしまった。これからは、同じような状況になったらまたやるのではないかという恐怖とともに生きていかねばならない。そのくらいなら、いっそ今回セネガルに得点してもらったほうがよかったとさえ思える。とにかく、支離滅裂なやり方に、見ているほうは愕然とし兢々としてしまう試合だった。
ボール回しが10分でなく最後の5分だったら、おそらく非難もこれほど大きくなかっただろう。監督解任が2か月前でなく4か月前だったらというのと同じだ。時間のマネージメントも非常に重要だと知らされた大会であった。
帰国した韓国代表チームに生卵が投げつけられた。いいことだと思う。ドイツに劇的に勝ったことでそれまでの情けない試合が全部許されるわけではない。1試合でそれまでの全試合(W杯2試合およびアジア予選でのふがいない数々の試合)をなかったことにするわけにはいかない。「なかったことにしたい人たち」に対して否をつきつけた。ま、そういう人たちは卵のひとつやふたつで恥じ入ることはないけどね。
もしこの次こんな博打をして失敗したら、責任者には切腹してもらいたい。比喩的意味で言っているのではない。


一言で総括すれば、今大会ですばらしかったのは監督の力であり、足りなかったのも監督の力だった。
西野続投を願う声があるそうだが、ありえない。日本人監督か外国人監督かについても、議論の余地はまったくない。選手は世界のトップレベルから遠くないところまで追いついてきているが、監督は全然追いついていない。
そもそも、クラブチームしか率いたことのないザッケローニでだめだったから、代表監督としてW杯で戦った経験のある人を呼ぼうということだったのに、ハリルホジッチでコミュニケーションがうまくいかなかったから、その問題のない日本人にしよう、代表監督歴・W杯指揮経験は不問、というのでは、まったく一貫性がないばかりか、近視眼の極みではないか。
西野さんを悪く言うことはない。準備もなく、2か月前にいきなりW杯の監督になったのだ。そりゃいたらぬ点は多々あるさ。限られた時間資源とも戦いながら、あの躍動するベルギー戦セネガル戦を見せてくれたことに対しては、まず彼に感謝すべきなのだから。
とにかく、この日本代表というやつはおそろしくナイーブである。まさにそれが魅力であるのだが。勇敢に攻める姿は小気味いい。しかし一方で、トルシエの言ったとおり、守備の文化がない。
ベルギー戦はポーランド戦のまったく逆で、攻めて勝ち切ろうとした。ここでこそ時間稼ぎもボール回しもすればいいのに。おそらくポーランド戦の反動だろう。西野氏は恥を知る人だと思う。恥を知って、逆をやった。実にナイーブだ。
1点取れば勝ち抜けがほぼ決まる。1点失えばほぼ敗退する。このままの1点差負けでも勝ち抜ける可能性はあるし、その可能性は低くない。この状況では、失点はせず、機を見て得点を狙う戦い方をするべきである。あのボール回しは、それができないと宣言しているようなものだ。そしてそれは、ベルギー戦の、あくまで得点を狙い、結局最後の最後に失点したのを見れば、たしかにそうなのだ。つまり、惨めなポーランド戦の最終盤か無邪気なベルギー戦の最終盤か、どちらかしかできない。そんな国には本来ベスト16の資格はないし、ベスト8などはおこがましい。それがはっきりした。果敢な玉砕か、卑怯な試合放棄か。この二者択一。それじゃだめだよね。
デカいのを入れてゴリゴリ押せば決壊するという悪癖もまた目の当たりにした。ドイツ大会オーストラリア戦の悪夢ふたたびだ。
ハリルホジッチは、自分が監督なら2−0からの逆転負けはありえないと語ったそうだ。それに対して、あんたならグループリーグ敗退だとかそもそも2点も取れないという反発があるのは当然だが(負け惜しみに聞こえるし、日本人は負け惜しみや言いわけを極端に嫌う)、一面真実でもある。彼に限らず、W杯で指揮を執ったほどのサッカー先進国の監督なら誰でも、あんなナイーブな負け方はしない。最低延長戦にはなって、結局延長で敗れるかもしれないが、あんな負け方にはならない。
ハリルにプレー強度を向上させてもらったように、次の監督には試合運びや選手交代の妙、いくつもの戦い方を叩き込んでもらいたい。次期監督にはそれができる歴戦の強者を招かなければならない。


ナイーブさは、勝負を考える場合大いなる欠点だが、観戦する場合はすばらしい魅力となる。日本サッカーは少年の喜びに満ちている。少なくともこの西野ジャパンはそうだった。
サッカーは単なる楽しいスポーツなのに、サッカー先進国ではそれがスポーツ以上(あるいは以下)のものになってしまっている。それをめぐって襲撃や殺人が起きるというのは、どう見ても正常ではない。スター選手の移籍金や年俸の異常極まる高騰もしかり。莫大な利益を生む一大産業になってしまっていて、明らかに奇形とか堕落といっていいような様相も呈す。技術や戦術をこれでもかと磨き上げ、身体能力も特殊部隊並みに鍛え上げて、なるほど強かろうが、モラルを伴わぬ何のための強さかと思ってしまうことがないでもないヨーロッパや南米の強豪国の姿に慣らされているのだが、しょせん球蹴りである。本来不必要なもろもろの負荷によっていびつになった南米的ヨーロッパ的形態をのみ見慣れている人たちには、サッカーをする喜びに満ちた日本の試合は清涼剤だっただろう。世界の舞台で高校選手権をやっていた。ほかの国に高校サッカーの全国大会が存在しているのかどうか知らないが、たとえあっても会場を満杯にできるほど人気があるとは思えない。高校選手権出身者が多い日本の試合は、いわばサッカーの「青春の姿」なのかもしれない。
日本のサッカーがこうなのは、たぶん女の子たちがいるからだ。全国大会で惜敗したらいっしょに泣いてくれ温かく迎え入れてくれるやさしい女子生徒たちが、彼らの果敢さを背後で支えている。日本のスタジアムには女の子や親子連れが安心して見に来れる。それは結果ではなくて、原因なのだ。女の子が来るから、日本のサッカーは無邪気であってなかなか勝負に強くなれないなれない一方、無垢な喜びが保証されているのだ。
セネガル戦は後進国同士が戦い合った。セネガル代表は、スタッフに白人の顔も1人2人見えたけれども、しかしほとんどが黒人ばかりだった。大陸が違い、人種が違い、スタイルが違っていても、日本と同様すれっからしにならない無邪気さがあった。そういうのがワールドカップの大きな魅力である。イタリア代表やオランダ代表、チリ代表が出場しないのにひきかえ、レベルの低いアジアから5チームも参加していることを申し訳なく思う意見は聞かなくていい。試合のレベルを問題にするなら、ヨーロッパ選手権南米選手権を見ていればいい。ワールドカップは祭りで、日本やセネガルなど、弱小かもしれないけれど清新な楽しいチームを見るために存在していると言っていいのだ。


とにかく、ベルギー戦とセネガル戦はすばらしかった。課題は、あの負けや引き分けを勝ちに変える一層の守備力の向上とゲーム運びの習熟であるとはっきりわかったことも、さらによかった。日本人は、日本人である限り常に向上を目指さなければならない。それが日本人であることの宿命である。


パナマというのもおもしろいチームだった。あの監督は、ピンチにもニコニコ、チャンスにもニコニコ、得点にもニコニコ。体型も少年サッカー団の監督といったふうに見える。イングランド戦は、開始早々にイングランドが1点を取り、力量差歴然だったので見るまでもないと思い、消して寝てしまった。あとでテレビをつけると、6−0になっていた。そのあとパナマが1点を返したのだが、そのときの客席の喜びようはすごかった。ここからテレビをつけた人は、この狂喜乱舞を見て、歴史的番狂わせが起きたのかと錯覚してしまうだろう。得点表示を見ると、6−1。えっ、パナマが6−1でイングランドをリード?と驚いて目をこすると、パナマは1点だけ。なあんだ、とソファにもたれこんで大笑い。そんな人も世界にはいたかもしれない。この国はワールドカップ初出場が決まった日を祝日にしたんだっけ?
こういうのもいい。すごくいい。世界がみんな「日本」だったら、息がつまる。