生ける少女神クマリと日本

ネパールの首都カトマンドゥにクマリという生ける少女神がいることは、ネパールに行ったことのある人なら誰でも知っている。クマリの館は観光名所になっているから。一日に一度、中庭の上の窓から姿を見せるので、そのときに居合わせれば見られる。しかしほんのわずかの間だし、撮影をすることは許されない。NHKのドキュメンタリーで見た人もいるかもしれない。
カトマンドゥのロイヤル・クマリは、カトマンドゥ盆地に住むネワールという民族のうちのシャキャという仏教徒の金工細工師カーストの3、4歳の女の子から選ばれ、月事が始まる12歳ぐらいまで務める。初潮を迎えると退き、新しく選ばれた別の子と交代する。選定には三十二相を備えるという条件があると言われ、バニヤンの木のような体、アヒルのような手と足、ライオンのような胸を持つことなどのような事柄が挙げられているが、実際には均整がとれた健康な体、整った歯、黒い目と髪、物おじしない落ち着いた性格、斜視でないこと、傷がないことなどが調べられたらしい。しかし星回りが時の国王と相性がいいというのは重要な項目で、これがよくないと候補から外される。
クマリはヒンドゥー教のタレジュ女神の化身とされる。仏教徒はヴァジュラ・ヴァーラーヒーの化身と考えていて、実際クマリの少女自身仏教徒であるし、仏教徒の僧侶カーストの者が世話をしたり行列に帯同したりすることからも仏教の関わりは深いのであるが、水牛や山羊が大量に生け贄にされるヒンドゥーの祭礼の中心であることから見て、ヒンドゥーの習わしであると考えられる。
この少女神は、家族のもとを離れ、王宮広場に面する館に籠りきりの生活をし、年に13回、9つの祭りのときに館の外へ出られるだけである。外に出るときは抱きかかえられて運ばれ、自分の足で進むときは白布の上を歩く。
カトマンドゥのロイヤル・クマリに対して、里クマリとでも言うべきローカル・クマリもいる。パタンとバクタプールは昔カトマンドゥと並んで盆地に割拠した3つの侯国の首都だったところであるから、その当時はロイヤル・クマリであったが、18世紀に侯国が滅んだあとは民間のクマリである。ブンガマティやヌワコットなどにいる里クマリは、家族といっしょに暮らし、学校へも行き、祭りのときだけクマリの衣装を着、化粧を施して現われる。
クマリが姿を見せる大祭、インドラ・ジャトラの山車には、ガネシュとバイラブというクマリによく似たいでたちの少年も乗る。彼らもシャキャ・カーストから選ばれるが、クマリと違い祭礼のときだけ務める役であって、その点わが国の稚児に似ている。
祭礼の出御のとき以外の平日には、病気その他の問題や悩みを抱える者がやってきて礼拝する。クマリの表情やしぐさから神意をうかがう。
クマリに限らずネワール人の間には少女崇拝があって、ダサインのとき寺院でも家庭でも少女に対する礼拝が行なわれる。ダサインの9日目にはこの日のために一時的に選ばれた9人のガ(集団)・クマリが集まって供養儀礼が行なわれるということもある。
南インドにもクマーリー・プージャーがあって、「七歳になる二人の少女が選ばれる。まつりの前夜は少女はミルクだけを摂り、草の床で寝る。翌朝沐浴をして白い衣服をつける。鏡のついた水差しの儀礼を行う。少女は定められた場所に坐っている。そして参拝者は少女をおがみ、マントラを唱える。少女の胸に意識を集中して禅定を行う、その後で、少女に食物をあげ、右手の親指をみながら千二百回マントラを唱える。一回ごとに白い花を供える。かくして崇拝者はシッディ(成就)に達するのである」(斎藤昭俊「インドの民俗宗教」、吉川弘文館、p.213)。パンジャブ地方にも「未婚の少女をデーヴィの表われとして年に二回供物をして祀る」ことがあるという(同書p.212)。
少女崇拝の一変種として、南インドのデーヴァダーシー(神の僕)というものも挙げられていいかもしれない。昔、そして今も(初潮前の)少女を寺院に奉納する習慣があり、この女性たちは伝統舞踊の担い手でもあるが、また娼婦にもなる。古代オリエントの神殿娼婦を思わせ、また日本でも「縣巫女は娼婦を兼ねたり」(「倭訓栞」)と言われるように、巫女と娼婦は関係の深いものであった。デーヴァダーシーはバラタナーティヤムというインド古典舞踊を伝えたことでも知られる。


1984年から91年までクマリだったラスミラ・サキャは、「回想 神から人間へ」(スコット・ベリーとの共著(*)、江崎秀隆訳、カトマンドゥ、2011)という本を出していて、神としてあがめられていた少女がその役を降り、普通人の社会に入っていくという珍しい経験が記されていておもしろいのだが、一読後、黒田清子さんが手記を書いたらこんなものになるかなと思った。
この回想記の中で彼女は、「外国からの訪問者の中で特に私が好きな人達がいました。それは日本という国から来たと教えてもらった人達で、私が窓辺に現れると必ず拍手をしてくれました。彼らが私を見る様子から私は日本の人達に理解されているように思います」(p.28)とか、「私は日本人と私達ネパール人との間にはある種の「絆」がある様にも感じました。それというのもこの日本の人達が私個人と云うことでは無く、いつも私達の文化そのものを理解し敬意を払っていてくれている様に思えたからです。その文化の密接さという観点から云うと、ネパールは西洋に比べて日本により近いのではないかと思います」(p.162)などと言っている。
これはラスミラというひとりのクマリの個人的な感想かもしれない。たぶんそうであろうが、そう言われてみて、一日本人として、なるほど、たしかにわれわれにはクマリというのは縁遠いものではないと感じる。奇妙な習俗ではあっても、奇怪ではない。感覚的に近しい。似たようなものは日本にもあるぞ、と思い返してみて、斎宮天皇、稚児、巫女などが浮かんだが、それ以上には具体的に考えが進まなかった。このことをいわばクマリからの宿題として、日本に持ち帰ることとなった。


クマリの特徴は、少女である、生き神として崇拝される、特定のカーストから選ばれる、数年で交代する(初潮を迎えたとき)というのが主要なものであるが、それに類似した日本の崇敬対象を挙げてみよう。それをクマリ(およびガネシュ、バイラブ)習俗の性格と対照させて表にすると、以下のようになる。このうちカーストというのは、日本の場合は所属する社会集団(氏子など)である。邪馬台国卑弥呼とか沖縄のノロ聞得大君などにも似たところはあるが、日本に限った(中国の文献でのみ知られる邪馬台国は除き)。

下段火焚乙女以下の民間習俗は今も続いているが、諏訪大祝以下鹿島神宮の物忌までは明治維新を期に法令をもって廃せられた(琉球王家の聞得大君も同じ。斎宮はすでに早く後醍醐天皇の時に廃絶していた)。廃止させた天皇および続いている出雲の国造も根底的と言っていいくらい変質した。廃絶したのはつまり神官制度上のもので、これはお上の命令で左右されるが、氏子習俗のほうは存続が可能であった、ということだ。
出雲大社の国造、諏訪大社の大祝、伊予大三島大山祇神社の大祝などは「現人神」と崇められる存在だった。諏訪大祝については、「御衣を八歳の童男にぬぎさせ給ひて、大祝と称し、我において体なし、祝を以て体とすと神勅ありけり」(「諏訪大明神絵詞」)とされていた。8歳の少年が即位し、息子に譲位する形で続いていたという。諏訪郡から外に出ることができなかった。
出雲国造天穂日命の子孫で、前国造が死去しても喪に服さない。遺体は菱根の池に赤い牛につけて水葬した。つまり天穂日命が永生を続けると見なされていたわけだ。国造は足を直接地面につけてはならず、常に神火を携行し、その火で調整されたもの以外は食べてはならない。明治になって千家尊福はこれらの行動の自由を妨げる戒律を撤廃し、巡教の旅を多くしたが、それでも生き神とあがめられていた。1876年9月に「愛媛県伊予国松山なる大社教会所開業式執行の為、大教正千家尊福さんが出雲国より立越されし途中、同県下野間郡浜村に一泊せられし時、近郷近在の農民等が国造様の御来臨と聞伝へて、旅宿に群衆せし老若男女数百人にて、大教正の神拝さるゝため一寸座られる新薦を、群衆の者ども打寄って掴み合って持行くもあれば又這入られし風呂の湯は、銘々徳利に入れて一滴も残さぬ程なり」(原武史「<出雲>という思想」、講談社学術文庫、2001、p.162)。
民俗学の大人たちにもその姿は記憶されている。
「街道の思い出で、出雲から但馬路を経てこの村を通過した国造家(出雲大社の千家)を迎えたことがあった。生き神様のお通りだというので、村民一同よそいきの衣装を着て道傍に並んだ。若い国造様が五、六名のお伴を従えて、烏帽子に青い直垂姿で馬で過ぎていった時、子供心に、その人の着物にふれでもすれば霊験が伝わってくるかのような敬虔な気持ちになったようである」(柳田国男「故郷七十年」、朝日新聞社、1974、p.80)。
「祖父にとってもっとも尊い神は日輪様であった。日輪様ほどおえらいものはない。これが天照皇大神のお姿であり、この日輪様の御子孫が禁裡様であると考えていた。次にえらい神様は出雲様であった。出雲様の御子孫が国造様である。けだしこの考え方は祖父ひとりではなかった。われわれ幼少の折国造様である千家尊福氏がわれわれの地方を訪れた時、土地の老人たちは土下座して手を拍って拝んだものである。私も祖父か祖母に連れられて迎えに行き、坐らされて拝んだ記憶がある。白い髭をはやした老人であったと記憶するが、神様というのはこういうお方かと幼な心に思ったことがあった」「禁裡様の方は平民分際がじきじきに拝むと目がつぶれると祖父など真面目に信じていた」(宮本常一「家郷の訓」、岩波文庫1984、p.37)。


伊勢斎宮は、未婚の内親王から選ばれ、天皇の交代や父母の死によって退任交代した。
伊勢神宮の大物忌は神職の娘で、初潮前の少女がなる。初潮を迎えると退く。大物忌斎館に籠って斎戒の生活をした。
鹿島神宮の物忌は、当禰宜の初潮前の娘(適当な者がいないときは他の神職の娘)がなった。2人の候補者から亀卜によって選ばれる。死ぬまでその職にあり、終生月経がないと信じられていた。館に籠りきりの生活をし、祭事には輿に乗って本殿へ運ばれる。終身制であることを除けばクマリにもっとも近いと言えるが、物忌は神の奉仕者であって神の現われでないところが決定的に違う。物忌はおそらく神の妻であろう。
民間習俗のほうでは、祭りごとに氏子の家庭から選ばれるという形態が多く、祭りのときのみその役を務める。阿蘇霜神社の火焚き乙女は、霜害を防ぐためという火焚神事に火焚殿に籠って、昔で言えば旧暦7月7日から9月6日までの間、祖母(閉経女性)といっしょに火を焚きつづける初潮前の少女のことである。かつてはその間鳥居の外に出ることも許されなくて、2か月の間学校へも行かなかった。乙女は年端のいかぬ子供だから、実際には祖母がいろいろ手助けする。
大阪野里の住吉神社の一夜官女は7、8歳から13歳までの少女7人で、祭りのとき神饌を供える。この神社では少女だが、神饌奉呈は未婚女性が務めるほうが普通で、たとえば大津市樹下神社の御膳持ちなどがそうであるが、夜分神前でこの御膳持ちと宮司は三々九度の杯をいただく。宮司が神の代わりとなり、神と巫女との神婚が行なわれると見てよい。
祭礼の稚児は「ひとつもの」の一種と考えられる。これは祭礼の神幸行列に出るもので、特別なしるしをつけた大人の場合もあるが、多くは馬上の子供、または特殊な飾りを乗せた馬である。神のよりしろ(童児ならよりまし)である。山車に乗ったり馬に乗ったりし、少年の場合も少女の場合もある。祇園祭や春日若宮御祭りに出るものが有名だ。県内でも平田の県神社や千酌の爾佐神社の祭礼などに見られる。
一年神主は美保神社のものが有名である。一年神主になる前に、まず頭家神主を3年務め、毎晩欠かさず潮かき社参する。一年神主は加えて深夜子の刻にも潮かきをする。したがって美保関を離れることは実際上できない。喪に服さず、髪を切らず、男女の交わりを避ける等々の物忌の生活を送る。神を祭る側の人間であって神とされることはないが、しかし青柴垣神事のときに一年神主になる前の頭家神主が神がかりしたり、また昔は湯立神託といって一年神主を煮えた湯釜に入れ、息も消え入るばかりになったら引き上げて、幣帛を持たせて神意をうかがうということがあったし、それ以外にも神託を得ることができると信じられていた。


ネパールのクマリと対照してみての日本の特徴は、生き神における男性の優越と、神体であることの少なさおよび神への奉仕者であることの卓越である。そこには神への特別な奉仕者を神と見るという日本人の性癖もある(本願寺法主について、国造などと同様入浴した残り湯を神聖視するということも起こる)。「神主はただちに祭神その者であった」(中山太郎)。天皇宮中祭祀の司祭者であって、天皇霊を身につけて神聖な存在となるのだ。クマリには神への奉仕者という性格は見受けられないので、この点はかなり違う。
さらに、日本の現人神や高級巫女は血統主義である。チンギス・ハーンの血筋の者しかハーンになれないというモンゴルの伝統に似ている。民間では氏子という社会集団が出身母体になるので、ネパールに近い。このことは短期交代という制度によるので、民間習俗の場合短い任期(年ごととか)で次々に交代するため、血統主義は取りえない。
明治以前には各地に現人神がいた。上に見たように、出雲の国造、諏訪や大三島の大祝などがそうだった。天皇のそのような一人で、もちろん最高最上の一人ではあったわけだが、新政府に担ぎ出されるまでは、いわば山城に逼塞するローカル現人神であったと言ってもいいくらいだ。それが明治維新で激変した。各地の「現人神」たちは神性の大部分を奪われた。つまり明治天皇制による「現人神の独占」が行なわれたわけである。
法令によらずとも、生涯館に籠って斎戒の生活を送る鹿島の物忌のような制度は時代とともに維持不可能になり、廃絶せぬまでも大改変を受けたに違いない。明治以降も尊敬を受け続けた出雲の国造の権威が改変されつつ漸減していったように。
クマリに似た習俗ということでことさらに月事前の童女をピックアップしたわけだが、少女であることについて言えば、それは処女・未婚女性であることのひとつの少数派ヴァリエーションであり、また童児であることのやはり少数派のヴァリエーション(少年であることのほうが多い)である。つまり、ネパールでは少女であることが絶対の条件であるのに対し、日本では少女性は処女の奉仕、童児の出仕を必要とする祭礼のひとつの変種であるにとどまる。
いちばん似ているのは祭礼の稚児で、ガネシュやバイラブとはまったく対応する。稚児は神のよりきたるもの、よりましであると考えられる。思うに、素朴な少女崇拝やこのような稚児的存在からロイヤル・クマリが結晶していったのだろう。


ほかにもさまざまな類似がある。インドラ・ジャトラでクマリは山車に乗るが、山車は日本の祭りによく現われるもので、祇園祭の山車など稚児が乗る点までそっくりだ。
また、大祝のいた諏訪大社御柱を運んで立てることで有名だが、インドラ・ジャトラでも王宮広場にインドラの柱が立てられる。
そして、諏訪大社上社の御頭祭で供えられる75の鹿の頭と、ダサインで生け贄にされ、深夜クマリが出向くタレジュ寺院に並べられる108の水牛の頭。
下社の毎年春宮から秋宮、秋宮から春宮へと座を替える御神体と、パタンのクマリが親しく迎える雨季の始めを画すラト・マチェンドラナートの山車行列。このラト・マチェンドラナートは半年ごとにパタンとブンガマティに座を移すので、春宮秋宮のあり方とよく似ている。
さらに考えを進めると、諏訪大祝と平安以降江戸時代までの天皇は、「少年王」という共通点があるのではないか。古代と近代では成人が天皇となるが、その間は少年や時に幼児が即位することが多く、成人しまさに仕事に励める年齢で退位することが常態のようになっていた。8歳ほどで位につき、人として盛りの時分に譲位する諏訪大祝そのままである。少年天皇はルールではない。その間に成人天皇も何人もいたわけだから。外戚が操りやすい子供を即位させるという摂関政治や、束縛の多い天皇の位を嫌い、上皇となって自由を得たい、院政をしたいという天皇側の意向によるというふうに合理的に説明されるし、それが正しいのだろうとは思うが、小児に神性を見るという点もこの慣習にあずかっているだろう。祭政一致の古代、そして旧憲法下の近代(実際には天皇は機関であったにしても)では政務の取れる成人であることが要請されるが、祭政分離、天皇の仕事がほぼ祭祀に限られるという事情であってみれば、少年であることがむしろ望ましく、「合理的」でさえあるだろう。諏訪大祝の制度は有員に始まり、この人は桓武天皇の子とされる点も示唆的である。そして小児と神性はまさにクマリの体現するものである。


もっと言えば、明治(維新以降昭和戦前まで)は特殊異様な時代で、江戸時代は普遍的だということにも気づかされる。江戸に限らず、室町も平安も、前近代はアジア規模において普遍的であり、明治は日本にのみ特有で、世界史的に特異である。維新までの前近代はアジアと多くの共通点をもっており、明治はそうでない。自発的に西洋化に邁進し、丈にも面相にも合わぬ衣装に無理やり体のほうを合わせようと国家ぐるみ努力した時代である明治に対し、江戸時代は自生的内発的に進んでいった文明のひとつの到達点で、アジア諸国とも無理なく調和していたと言える。
鎖国さえ「普遍的」である。鎖国というのは要するに、自給自足を原則としつつ、政権にコントロールされた管理貿易と外国人の通行・居住の制限を行なう体制のことで、ケンペルの見るとおり、事情が許すならそれ自体何ら非難されるところはない。のみならず、近隣諸国もこぞって「鎖国」体制をとっていた。朝鮮がそうだし、チベットやネパールも行なっていた。ブータンは今も鎖国と大きな違いはない。清朝にしても、長崎がいくつもある「鎖国」、管理貿易体制と見てよい。清が強力である間は、それで何も問題はなかったのだ。
明治を省いて日本を見ることは、アジアと日本の関係を考える上で非常に重要であるとまでクマリは教えてくれると言ったら、それは読み込み過ぎだと叱られるだろうか?


ネパールと日本の習俗の間には系統関係も影響関係もない。それなのにというか、それだからというか、クマリというスケールを当てて日本の習俗慣習を見てみると、さまざまなことが見えてくる。クマリからの宿題として調べてみたのであるが、よい宿題を出してもらったと感謝しなければならない。


(*)この本の共著者スコット・ベリーは木村妃佐生「チベット偽装の十年」の共著者でもあり、河口慧海の田記も書いているという。