グッド・モーニング・サア!

戦中のボルネオを踏査した人が、奥地の村で英国人がやっていた小さなマラリア研究所にこんな掲示があったと記録している。
「規則
一、マラリア研究所員はつぎのことを守らねばならぬ。
二、仕事の上で時間を厳守すること。
執務時間中、迅速、効果的、かつ忠実であらねばならぬ。
 …
七、朝はグッド・モーニング・サア、寝るときはグッド・イーヴニング・サアといわねばならぬ」(堺誠一郎「キナバルの民」、中公文庫、1977)。
第七項には特に赤鉛筆で線が引かれていたそうだ。所長先生、挨拶もせずぬっと顔を出す現地人によほどいらいらしていたと見える。
われわれにもそれは同感できる。ネパールでも事情は同じで、ある日本語学校にはこんな校則が掲げられている。
1.挨拶をすること
2.遅刻しないこと
3.欠席しないこと
4.教室をきれいにすること
5.宿題を毎日すること
などなど、11項目が列挙されている。だいたい規則というのは、それを守らない者がいることを示すものであって、その第1項目が挨拶なのは示唆的だ。ネパールの日本語教育は日本へ行く人たちに教えることに特化しているため、日本の習慣をしっかり教え込まなければならない。日本でアルバイトして学費を稼がなければならないから、すぐクビになるようではいけない。
沢木耕太郎はインドを旅していたとき、イギリス人の女性に「英語やフランス語やたぶん中国語や日本語にもあって、ヒンドゥー語にない言葉が三つあるが、それが何かわかるか」と問われた。それは、「ありがとう、すみません、どうぞ、の三つよ」。これらの言葉は、「本来は存在するのだが、使われないためほとんど死語になっているという」(「深夜特急」3、新潮文庫、1994)。いかにも、と思う。現在のネパールでは「サンキュー」に相当する言葉はよく使われているが、それは外国からの影響であると読んだことがある。
日本人は地図(と時刻表)が大好きである。だが、外国では地図を持たないのが普通で、だから入手するのも難しい。そのため実に頻繁に人に道を聞く。路上の物売りに値段を聞くような調子で、聞かれたほうもそれ相応に答える。そして、道を教えてもらって「ありがとう」と言う人を見た記憶がない。いるとは思うのだが、思い出せない。
だいたい、地図が読めないのだ。卵が先か鶏が先かの問題と同じく、読めないから持たないのか、持たないから読めないのかわからないが、外国において地図を見せて場所を聞くのはしてはいけない誤りである。3度に1度は全然見当はずれのところを示される。正確に目的地を指してくれるのは僥倖の領域だ。ま、日本人でも女性の多くは地図が読めないから、非難する必要はないのだが。地図に関して欧米人がどうなのかは知らないけれど、日本人の男はユーラシアの突然変異なのかもしれない。
地図が読めない人の頭の中はどうなっているのか、と考える。地図が読める自分にはうまく想像ができない。文字が読めるわれわれには(この文章を読んでいる人たちはもちろん読めるし、読める人を念頭に書いてもいる)、文字が読めない人の生活や考え方がもはやわからなくなっているのと同じだ。学校でそれらを教えられる前には、それらなしで生きていたくせに。幸せな時間は学校とともに終わる。
私は楽譜が読めない。だから私は自らにおいて楽譜が読めない人間の生活と意見はわかっているはずだが、特に意識することはない。何ら生活に支障がないからだ。楽譜が読める人のことも特にうらやましく思うことはない。うらやむとしても、ほんの少しだけ。楽譜がなくても自分ののどで歌うことはできるので(もちろん下手で、ときどき音程を外すのだけど、外したらすぐ、あ、外れた、とわかる。つまり頭の中に正しい旋律があるわけで、それなら楽譜がなくてもいい)。
棋譜も読めない。だが、これが読めないことでまったく不利益はない。むしろ読める人の頭の中をいぶかしむ。地図も文字も楽譜も読めず、棋譜だけが読める人が主人公の小説を読んでみたいものだ。
閑話休題。感謝の話だった。
中国人の学生に、「先生、ありがとうと言わないでください」と言われたことがある。水くさくて他人行儀だということらしい。そういう関係を望まれるのはうれしいが、「ありがとう」がなければ日本語ではない。ちょっと残念だ。
もっと日本に特徴的なのは、「すみません」。欧米人は挨拶をしない、感謝をしないとアジア人を非難するが、そういう彼らは謝罪をしない。日本語における「すみません」の使用頻度はしらないが、きっと「ありがとう」や「こんにちは」よりずっと高いだろう。謝罪にも感謝にも呼びかけにも使え、ほとんど内実を失っているかもしれない。
それぞれの国にそれぞれの慣習がある、と鷹揚に構えるのが、この場合も正解だろう。挨拶をしろと学生にうるさく言う一方で、日本では店などに入るときに「いらっしゃいませ」「こんにちは」と言われても返さなくていいなんて不文律もあるわけだし。