VAR雑感

クラブワールドカップ(CWC)にはビデオアシスタントレフリー(VAR)制度が導入されていた。VARについては、ヤフーなどのコメントを見る限り賛成意見が多いようだが、というか圧倒的多数のようだが、私はこれに反対だ。ブラッタープラティニに断固賛成である。これを導入したところで、疑惑の判定は決してなくならない。さすがにマラドーナの神の手ゴールやランパードのゴールインしたノーゴールのような明らかな誤審はなくなるだろうが、そもそもサッカーの試合中どちらとも取れる微妙なプレーは数多く、それをいちいちビデオで確認するわけにはいかないからである。大誤審はなくなるが、小誤審はそのまま。それならゲームの流れがぶつぶつ切られるデメリットのほうが大きい。
誤審というか、微妙な判定だったのは、たとえば浦和−アル・ジャジーラ戦であったはずのハンド見逃しである。ペナルティエリア内だったからPKが与えられねばならなかったが、流された。PKなら決まっていれば同点で、延長戦になっていたと思われ、90分では負け試合だったが、延長になれば勝っていたかもしれない。浦和はこれに特に抗議しなかった。だいたいが内容が負け試合だったのにつまらん抗議をしてはいさぎよくないし、ネットを揺らしてこそゴールだというPKを低く見る美意識もあるのだろう。
だが、あれはハンドでPKだったと思う。一方で(CWCではないが)ブラジル戦で吉田が取られたファウルのPKがあるから、そのことは言っておきたい。もちろん吉田のプレーはファウルである。エリア内である。だからPKである。それは正しい。だが、主審はそれを取らずに流していた。そこへVARが介入して試合を止めさせ、ビデオで確認してPKが与えられた。ブラジルは別に大して問題にしていなかったのに。
あのPKで試合はぶちこわしになった。ブラジルと日本の間には大きな実力差がある。試合をする以上、日本のファンも自チームの勝利を願うが、実のところは勝利というより好勝負を願う。その結果が勝利なら狂喜、引き分けなら大満足、惜敗でも納得である。対して、ブラジルは日本戦に勝利など願っていない。美しい勝利を願っている。ドイツとの試合なら勝利を願い、勝利にはPKの得点も含まれる。日本戦では美しい勝利を願い、それにはPKは含まれない。フリーでシュートモーションに入っている選手が倒されたPKなら含まれるが(日本戦二つ目のPKとなったファウルのような)、一つ目のシュートと関係ないプレーでのPKのようなものは違うと思う。
忖度しろと言っているのではない。主審が取らず、悪質でもなく、相手の抗議もないなら、流しておけということだ。無駄な正しさだ。ましてや取られないPKはなおあるのだから。どうしてあれは取られてこれは取られないのかという不満は、VAR導入後も決して解消されていないし、されることはないだろう。それならば、なぜVAR?


ビデオ判定を行なうためには、プレーを止めなければならない。野球にしろテニスやバレーにしろ、プレーは止まっている時間のほうが長いのではないかと疑われるくらいだし、兄弟競技のラグビーでもプレーはしばしば止まる(もしラグビーのような激しい競技がサッカー並みに止まらなかったら、きっと死者が出る)。
サッカーという競技の特徴は、0−0や1−0がごくふつうなようにロースコアであること、プレーがなかなか止まらないことにある。カウンターの応酬になり、ゴール前から相手ゴール前まで2往復することも珍しくない。いや、さすがに2往復は珍しいが、1往復半ぐらいはあることだ。そのときスタジアムの興奮は最高潮。それがサッカーだ。
プレーが止まっているときなら、主審はビデオを見に行くことができる。問題は流れているときだ。プレーをいつ止めるか、誰が止めるか。誰がというのははっきりしていて、主審である。主審以外の者が止めることはできないし、止めてはならない。だからこの部分は、誰が主審にプレーを止めさせるかということである。止めるタイミングも非常に重要だ。エリア内でファウルがあったようなのにそれが取られず、カウンターでゴールを決めたあとで、今のゴール取り消し、相手にPKとなったら、暴動が起きかねない。
VARの運用法も固まっているわけではないようだが、今のところ、ビデオ室の担当者が主審に合図を送ってビデオで確認するよう促す、ということになっているらしい。
VARを使うならば、ということで考えてみると、主審が自分の下した判定に自信が持てず、ビデオで確認したいというならOKだ。何も問題ない。だから問題は、それ以外の「物言い」の権利を誰に与えるかである。
はっきりしているのは、ビデオ室の係員にその権利を与えてはならないということだ。最終的に判定を下すのは主審だということになっているが、こんな「介入」を許すなら、それは主審の権限を大きく損ない、主審とビデオ室の二重権威になってしまう。いや、ビデオ室のほうが上部権力にさえ見える。サッカーの美点はすべてが満目注視の中で公明正大に行なわれることであるのに、選手からもベンチからも観客からも見えないところからウィンクが送られ、試合が中断し、判定がくつがえったりするのはまったくもってよろしくない。「操作」めいている。裏から試合がコントロールされるわけで、八百長と同じ構図ではないか。こんなやり方では、ビデオ判定に影響を及ぼそうとする者が必ず出てくる。そうなれば正真正銘の八百長である。ビデオ室はビデオ再生係以上のことをしてはならない。ピッチ上のことはピッチ上で決着をつけねばならない。白日のもとで公明正大に。密室からのささやきによらず。
戦っている者には正義がある。自チームにも正義があり、相手チームにも正義がある。そして審判にも正義がある。審判行為が正義の行使だというのとは別の意味で。主審は戦っている。そのため、プレーが暴力に逸脱するとき、その対象になる。南米などでは殺されることもある。ビデオ判定が用いられるならば、それは主審を守るためでなければならない。「ビデオを見て、判定が正しかったとわかる」「ビデオを見て、判定が間違っていたとわかる」。そのどちらにおいても、前半部が重要なのである。ビデオで確認したという事実をもって審判を守る用法なら、VARには意義がある。
物言いの権利を、たとえば各チームの監督にそれぞれ2回に限って与える、ということも考えられる。旗を2本ずつ渡しておき、それが振られれば主審がプレーを止めてビデオを確認に行く。物言いがつけられるごとに第四審が旗を1本ずつ回収する、というふうにして。しかし権利というものは、与えられれば必ず本来の意図と別のところで乱用される。ファウルではないただの転倒でも相手のカウンターを防ぐために振るとか(タクティカルファウルならぬタクティカル物言いだ)、勝っている方が最終盤の時間稼ぎに使うとか。だからこれもだめだ。
結局、物言いの権利が与えられるべきは、線審(もしゴール横にも線審を配すなら、タテ線審とヨコ線審)と第四審(第六審)以外にない。旗を振って主審にプレーを止めさせ、ビデオ確認を促す。これなら選手観客のすべてに何が起こったかわかる。むろん、誤審はなくならないだろう。目を増やし、ビデオの助けが借りられるようにして、それでなお起こる誤審なら、それはサッカーというゲームの完全な一部だということだ。ファンはその「誤審」を肴にああだこうだと口角泡を飛ばす(この文章の冒頭部分のように)。それでいいじゃないか。それもサッカーの楽しみである。


CWCという大会には無理がある。前身のトヨタカップは、ヨーロッパチャンピオンと南米チャンピオンが中立地日本で世界一をかけて戦うもので、コンセプトが明瞭で条件も平等だった。なるほどアジアやアフリカなどのチャンピオンがヨーロッパや南米のチャンピオンと戦えるというコンセプトは悪くないのだが、この地上には時とところの制約があるのだ。今のような似非世界大会の形は、条件が不平等になっている。
ヨーロッパ王者の試合は見たいし、南米王者もまあまあ見たい。だが、北中米王者とアフリカ王者の試合を見たがる人は少ない。だから興行的には、開催国王者をこのトーナメントに組み入れなければならない。サッカーは所詮興行で、客が入ってナンボである。だが、開催国チャンピオンと欧州・南米以外の大陸のチャンピオンの実力差は小さいのだ。大陸王者などと言っているが、実はひとつのトーナメントの優勝チームに過ぎない。そのトーナメントは大陸一の規模と権威を有しているけれども。アジア王者浦和は準々決勝で川崎を下して勝ち上がったが、そのあとの試合で川崎に敗れているし、当該年の国内リーグ戦では7位に終わっている。その程度の紙一重の差であってみれば、ただでさえ番狂わせは起こりうるし、まして開催国王者にはホームアドバンテージがある。声援にとどまらず、馴染んだグラウンドと気候、時差も移動距離もゼロ。決勝戦はまずヨーロッパと南米代表の戦いとなるものだが、日本開催のときに鹿島、モロッコ開催のときにカサブランカのチームと、開催国代表が2度ばかり決勝に進んだことがある。それ以外の大陸王者が決勝に出たのは1度だけだから、開催国代表が有利なことは明白だ。
開催国だけのことではない。日本なら欧州チームも南米チームも時差と移動距離の点ではどちらかに特に有利ということはなく公平だったが、UAEだのモロッコだのでやられては、ただでさえ強いのに、その上さらに時差と移動距離が少なくてすむヨーロッパ王者が圧倒的に有利になる。不公平である。
よいこともいろいろあるCWCだが、制度的な欠陥も多々ある。根本的な設計の見直しが必要だ。


浦和を破ったアル・ジャジーラレアル・マドリードとなかなかおもしろい試合をした。レアルが相手を完全になめきっていたため、アル・ジャジーラが善戦したとは言えるが、レアルが苦戦したとは言えない。あまりにも実力差が明白で、結果に対する確信が揺らぐことはなかった。たとえオフサイドで取り消されたアル・ジャジーラの2点目が認められていたとしても、延長戦に持ち込むのがせいぜいで、敗北以外の結果にはならなかった。去年の鹿島とレアルの決勝戦を見ていないので知ったふうなことは言えないが、あのときもレアルはなめていただろうと思う。学習能力がない。それとも、サービス精神なのか?
あのマイアミの試合も見ていないのだが、雨あられとシュートを打たれながらキーパーのスーパーセーブ連発によってしのいだ点は同じだ。マイアミのブラジル戦を日本国民は客観的に見ることができなくて、それゆえ「伝説の試合」となった。今回日本国民は、このUAE国民にとっての「伝説の試合」を、UAE以外のほかのすべての地球人とともに客観的に見ることができた。いいことだ。自分たちの「伝説の試合」が自分たち以外の人々にどう見えたかを知ることができたわけだ。客観性は重要である。


浦和の敗れ方には既視感があった。東アジア選手権の日本−北朝鮮戦である。攻撃をはね返し、カウンターで得点をうかがう。北朝鮮チームのほうがうまくやっていて、決定機はアル・ジャジーラよりずっと多く作っていた。なのに北朝鮮が敗れ、アル・ジャジーラが勝ったのは、強力なストライカーの有無による。後者にはいて、前者にはいなかった。おそらくワールドカップで日本代表がする戦いも、アル・ジャジーラ北朝鮮が浦和やJリーグ選抜相手にやった戦い方と同じものになるだろうが、そのとき日本は北朝鮮になる。試合を決められる強力なストライカーの不在に悩むことだろう。
ACL決勝もそうで、アウェイで浦和はアル・ヒラルに圧倒され、ホームではそんなことはあるまいと思ったらやっぱり圧倒され、粘り強く守って1勝1分けの結果を得たが、それは浦和にラファエル・シルバがいたおかげである。あの優勝や川崎のJリーグ優勝のあと阿部や中村が泣いていたのはいかにもと思うが、シルバやズラタンが泣いていたのは意外だった。浦和が一丸となったいいチームであったことの証だ。
Jリーグの優勝インタビューでシルバーコレクター中村憲剛が、自分がいるから優勝できないのではないかと思ったこともあると言っているのを聞いて、感じるものがあった。原爆でひとり生き残った「父と暮らせば」の主人公が、「うちは幸せになってはいけんのじゃ」と叫ぶのを思い出して。中村がいたから弱小フロンターレが何度も優勝を争うチームになったというのが客観的な真実なのだが、主観はいつも客観にそむく。自分を責める言葉にはいつも打たれる。


今年の漢字は「北」だとか。北朝鮮関連の政治ニュースが多かった。それも不快なニュースばかり。そんな中、北朝鮮代表が日本で行われる大会に参加したのはすばらしいことだ。政治は政治、スポーツはスポーツ。ラフプレーもほとんどなく、よい印象のチームだった。朝鮮高校の生徒なのだろうか、応援もうれしそうで楽しそうでよかった。そのことを日本のために喜ぶ。
在日朝鮮人から何人も北朝鮮代表選手が出てきているが、安英学鄭大世梁勇基など、好漢が多い。好漢率が高い。ふたつの帰属の間で苦労があって、もまれているからだろう。彼らは代表に参加することで本国の選手から刺激をもらうし、彼らも本国選手に刺激を与えているに違いない。今回の讃岐の選手にも好漢っぽい印象をもった。安英学が引退したとき記念セレモニーをしていたが、されるにふさわしい。人の価値はその人間性によってしか決まらない。国籍になど全然よらない。
あの熱心で楽しそうな応援が、女子北朝鮮チームの日本に対する完勝によって報われたのもけっこうなことだと思う。強いチームが勝った。それは正しいことである。下手な上に強い意志もない日本チームは北朝鮮の引き立て役に終わった。悔しくとも、正当だ。
ま、男子の最終戦は女子どころではないみじめさだったけどね。あの惨敗で監督解任論が噴き出しているらしいが、それを論じるときには次の2点を忘れてはならない。1.ベスト16まで進んだ南アフリカ大会の前に岡田監督はクソミソに批判されていたことと、2.同じ監督に率いられたアルジェリアは韓国に快勝し、Jリーグ選抜は惨敗したこと。アルジェリア代表でできて、この代表でできなかった理由を探るべきである。だが、日本人を率いる監督は次のことをよく理解しておかねばならない。「速く、速く」という指令は、日本人の脳内では「急げ、急げ」に変換され、末端には「慌てろ、慌てろ」と伝わることだ。国民性を知りたければ、サッカーを見るのがよろしい。