ネパールと日本の「破戒」仏教

富永仲基の「加上説」ではないが、人はあとから知ったことを先に述べたがる。人の考えや知識は時間とともに深まり広がる。つまり、今現在の考えや知識は、昔のものに上書きに上書きを重ねた結果だ。しかし、時に順序を変えて、時間軸に沿って考え直してみるのは必要であるし、誠実でもあると思う。
石見では浄土真宗門徒が多いので、真宗は空気のようなものである。子供はその環境を当たり前のこととして育つ。寺の住職に妻がいて子がいること、髪を生やしていること、肉や魚を食べ酒を飲むこと、つまりわれわれ一般人とまったく同じであって、ただ袈裟を着ているときだけ僧侶だとわかるのみである。平日には背広を着て学校とか役場で働いているのだ。田舎で成績のいい生徒はだいたい医者の子か先生の子、お寺の子と相場が決まっている。お寺の子やお寺の奥さんはごくふつうの田舎の風景で、そういうものに何の疑問も持たずに育ち、長ずるにおよんで、仏教僧は独身を守るものだと知って驚かされるわけだ。
真宗の坊さんでむしろ目立つのは、髪があることだろう。頭を丸めるのは俗世を離れたしるしであるから、有髪の僧は特異たらざるを得ない。剃髪していると洋服は似合わず、袈裟とか作務衣などを着ないとさまにならない。しかし真宗の坊さんは逆で、洋服を着ればどこからどう見ても一般人、袈裟を着けて初めて僧侶とわかる。兼業に何の差しさわりもない。
僧侶の戒律は250もあり、その中でも沙弥に課される十戒が最低限であるが、不殺生・不偸盗・不淫・不妄語・不飲酒・不塗飾香鬘・不歌舞観聴・不坐高広大牀・不食非時食・不蓄金銀宝である。現代日本の仏教僧は、さすがに不殺生・不偸盗は守っているにしても(それは僧侶に限らず市民たるもの必ず守らねばならない道徳である)、不淫・不飲酒・不歌舞観聴・不食非時食などは守られてはいない。
日本の僧侶妻帯は、真宗では宗祖親鸞以来の長い伝統なのに対し、他の宗派は明治5年の「肉食・妻帯・畜髪勝手たるべき事」という太政官布告から(大っぴらに?)それを始めたので、世俗権力がそれを推し進めたわけである。このときいわば「日本仏教の真宗化」が行なわれたとも言え、さしたる抵抗もなくこのような「解放」を受け入れた背後には、真宗がそれを用意していたということもあるのだろう。
現象的に見るならば、真宗はいろいろなものに似ている。長じて、まずこの妻帯という点が、キリスト教の新教プロテスタントに似ていることに気がついた。カトリックの司祭は結婚しないし、修道士も独身を貫く。
一方で、観光寺院から税金を取り立てようという古都税の騒動のとき、東も西も本願寺は拝観料など取らないということに気づかされた。真宗は信者に支えられているので、信者の自由なアクセスを妨げることはない。この点は神社とも同じだが、カトリックとも共通する。カトリックの教会もお祈りをしたい信者のために開放されている(プロテスタントにとっては教会は集会の場であるから、それがないときには閉められていることがままあり、閉鎖的な印象を受ける)。
本願寺法主には中世のカトリックの法王を思わせるところがあるし、異端(異安心)の取り締まりに厳しい点もカトリックの異端審問に似ていなくもない。浅原才市に代表される妙好人カトリックを始めヒンドゥー教イスラム教にも見える民衆聖者の日本版と言ってもいいのではないか。
ほとんど阿弥陀のみを頼む信仰は一神教に似たところがある。非寛容な宗派といえば他宗を折伏する日蓮宗が思い浮かぶが、易行と称する真宗はまさにそれゆえ、念仏と阿弥陀信仰専一であるゆえに、その結果として門徒もの知らずともなり、神祇不拝ともなる。一神教的な不寛容とも言えよう。
明治の廃仏毀釈ショックから立ち直った真宗は、ハワイ本願寺・上海本願寺のような海外布教や中央アジアを踏査した大谷探検隊、能海寛を始めとするチベット入りを目指す青年僧の輩出などのように、海外に向けて活発な活動を行なう。これは欧米キリスト教社会の活動に倣ったもので、帝国主義の手先ともなりかねないところまでよく似ているが、欧米のホテルに聖書が置いてあるのを模して「和英対照仏教聖典」を置くように努めたり、スリランカ仏教徒がYMCAに倣ってYMBAを作ったりしたのと軌を一にする。


最も新しく知った知識は、ネワール仏教である。これは、ネワール人と呼ばれる主にネパールのカトマンドゥ盆地に住む人々が信仰している仏教の一形態で、亜大陸においては滅んだとされるインド仏教の最後の生き残りであると言える。中国と違い、インドには統一王国が築かれることはなく、文明圏としてのインドに属するさまざまな国が分立していた。いくつか強大な王朝はあったが、インド文明圏を統一する王朝はついになかった。現在のインド共和国は英領インドの後継国家で、そのためネパールはそこに含まれない。ネパールは軍隊が強く、イギリスに屈服しなかったため独立を守っていたからだ。しかし、ネパールはインド文明圏に属する。辺境ゆえの特殊性はあるけれども。
ネパールの国土はインドとチベットの間で細長い短冊の形をしており、高度に従って三つの文化圏に分けられる。インドと国境を接するタライと呼ばれる低地はまったくインドそのままと言ってよく(ブッダ生誕の地ルンビニーやラーマ王が結婚した場所はネパール領内にある)、標高3000メートル以上の高地はチベット系の民族が住みチベット仏教ラマ教とも言われる)が行われるチベット文明圏である。その中間の山地盆地が特色ある文化を持つネパール本土と見なしうる。ここにネワール人が住んでいる。だが、ネワール人自身はチベットビルマ系の言語を話すなど、独特なところはいくつもあっても、国語であるネパール語はインド・アーリア系で、ヒンドゥー教が圧倒的に優勢であり、衣食など生活文化はインドそのものである。この点が同じくインドとチベットの間にあるブータンとまったく異なる。ブータンは住民もチベット系で、宗教もチベット仏教である地域であって、つまりネパールの標高3000メートル以上の地域と同じだ。チベット仏教は生き仏信仰が宗教生活の中心にあるなど、インド仏教とはかなり異なる独自の文明圏を成している。
ネパールの人口は約2500万人で、80.6%がヒンドゥー教徒、10.7%が仏教徒、そのほか4.2%のイスラム教徒などがいる(2001年の統計)。民族では、ここで見る独特なネワール仏教の担い手であるネワール人が5.4%である(しかし言語としてネワール語を母語とする者は3.6%)。「ネパール」という名称はもともとカトマンドゥ盆地を指していて、それが国の名前ともなったので、ちょうど「ヤマト」が奈良盆地一帯の名前から国全体を指す名前にまで拡張されて使われるのと似ている。そのもともとの「ネパール」であるカトマンドゥ盆地には、首都カトマンドゥ、南隣のパタン、東のバクタプール(バドガオン)という三つの町があり、1769年にゴルカ族によって征服されるまで、それぞれを首都とする三つの小侯国があった。ゴルカ王朝はヒンドゥー教徒で、この王朝のもとでヒンドゥー教の浸透はいっそう進んだであろうが、それ以前から三侯国の王はヒンドゥー教徒であった。しかし、この三つの町には800近い寺院があるが、カトマンドゥではそのうちの40%が仏教寺院であるほかに、ヒンドゥー教と仏教双方に属するとされるものが5%ほどある。仏教および仏教とヒンドゥー教双方に属する寺院は、バクタプールでは全体の2割程度にとどまるものの、パタンでは7割にも及ぶ。ヒンドゥー王の下においてもそうなのだから(ネパールは2008年まで王国だった)、現在仏教が退潮しているとしても、過去においてはかなり盛んであったことがこのことからもわかる。
ネワール仏教の特徴は、1.二重信仰と、2.カースト化にあると言えよう。
仏教と神道の二重信仰である日本では仏教信者と神道信者の数を足すと人口のほとんど2倍になるというふうに、統計の上でもはっきりと二重性を示しているのと異なり、ネパールでは自分の信仰としてどちらか一方を申告しなければならないので、仏教徒ヒンドゥー教徒は統計上で截然と分かたれる。だから多数のヒンドゥー教徒ネワール人と少数の仏教徒ネワール人がいるということになるわけだが、しかしヒンドゥー教徒ネワール人が仏教寺院に、仏教徒ネワール人がヒンドゥー教寺院に平気で詣でているばかりか、ヒンドゥー寺院に仏塔やマニ車があったり、シヴァ神のリンガに仏像が彫られていたりすることがごくふつうの風景となっている。
カトマンドゥ盆地にはクマリという生ける女神がいる。サキャというネワール人仏教徒カーストの中から2、3歳の少女が選ばれて、初潮を迎えるまでの間、タレジュというヒンドゥーの女神の化身と見なされて崇拝される。初潮を迎えたらその務めを終え、別の少女が新しくクマリとなる。彼女はさまざまなヒンドゥー教の祭りで重要な役目を務める(最たるものは王国のヒンドゥー王にティカという額の印を授けることであろう)。最も華やかなのはインドラ祭のときの山車行列で、彼女は同じように着飾ったガネーシュ、バイラブ役の同年配の少年とともに山車に乗って町を巡る。このヒンドゥーの祭りには5人の仏教司祭も五仏陀として加わる。仏教徒はクマリはタレジュでなくヴァジュラ・ヴァーラーヒーの化身とするが(ちょうど祈雨儀礼の中心であるマチェンドラナートを仏教徒は観音だとしているように)、ヒンドゥー教の神であるガネーシュやバイラブをクマリと同じ仏教徒のサキャ・カーストの少年が務めているのを見ても、それはささいなことで、タレジュであって困ることはない。要するに、ここではヒンドゥー教と仏教が非常に混淆しているのだ。
仏教ではヒンドゥー教の神々が仏教を護る諸天として崇拝されているし(インドラが帝釈天サラスヴァティー弁才天ガネーシャが聖天など)、ヒンドゥー教の側では、ブッダをヴィシュヌの化身のひとつと見なすなどのように、このふたつの宗教には相互に重なり合う部分があるのは確かだ。両教の基盤にあるヨーガ、また大乗仏教興隆とほぼ同時代的に興ったバクティ(帰依)信仰や、仏教においては密教の姿となったタントリズムのように、仏教・ヒンドゥー教それぞれの中で時を同じくして現われた同じ性格の宗教性の発動という共通項もある。阿弥陀仏に一心に帰依する浄土教の信仰は明らかにバクティである。しかし、仏教はヴェーダ聖典の権威やカースト、世界の創造者としての神々を認めないので、ヒンドゥー教としては受け入れられない教理であることもまた確かである。
支配下の民衆の多くが仏教徒であっても、王家はヒンドゥー教を信奉していたので、その圧力のもと、ネワール人仏教徒は結局カーストを受け入れた。本来カーストを認めない仏教としては逸脱であり堕落であると言われてもしかたがないし、実際そう非難されてきた。だが、このことについてはもう少し考えてみる必要があると思う。


世界の宗教は、非婚宗教と結婚宗教に分けられる。これは聖職者が妻帯するかしないかによる外形的な区別であるが、単純に外形的と言えないほど本質に関わる部分を持っていると思う。仏教やキリスト教カトリック)、滅びてしまったが一時は勢力のあったマニ教などが非婚宗教で、イスラム教やヒンドゥー教、あるいは日本の神道などが結婚宗教だ。司祭者も家族を持つので、在家主義とも言えよう。キリスト教の中でも、プロテスタントは在家主義、ギリシャ正教は、修道士は非婚だが、司祭は家庭を持つ折衷的なありかたである。
非婚宗教は出家主義をとる。それはエリート主義宗教とも言える。このような宗教形態にはふたつの大きな問題がある。ひとつは、出家者は俗世を離れ、生産に携わらず、宗教に専念する。彼らの生活は生産者に支えられなければならない。聖なる職務に携わるというわけだが、客観的に俗なことばで言えばごくつぶしである。民衆が直接支えられるそのような「宗教エリート(=ごくつぶし)」の数は限られる。したがって、非婚宗教においては権力の庇護が必要となる。実際日本の仏教を見ても、聖徳太子以来徳川慶喜まで仏教は権力の保護を受けてきた(廃仏毀釈でその関係は新政府から断たれるわけで、太政官布告は権力からの三行半と言える)。
二つ目は、戒律の問題である。宗教エリートたちは禁欲を旨とする。だいたい、性欲と食欲は人類の生存に関わる二大欲求で、それを断ったり厳しく制限する者は聖者と見なされ、一生不犯を貫く清僧は尊敬される。しかし誰もが聖者になれるわけではない。聖職についていても、その多くはやはり煩悩具足の凡夫である。大黒、稚児、生臭坊主、般若湯などのことばが示すとおり、破戒は日本仏教の日常風景であった。カトリックでは男色が宿痾となっている。太政官布告には現状の公許の側面はたしかにあった。
一方で、イスラムには聖職者というものがいないし、ヒンドゥー教では司祭階層であるブラーミンは妻帯し家族を持つ。世界史には「イスラムの衝撃」というものがある。発祥の地インドで仏教が滅びたのは、それまでにヒンドゥー教の興隆によって衰えていたところへ、イスラム勢力によるナーランダなどの仏教僧院の破壊が直接のきっかけを与えた。西においても、キリスト教の揺籃の地パレスチナ、シリア、エジプトは東ローマ帝国からイスラム軍に奪われ、そこでのキリスト教は瓦解し、今では細々と命脈を保っているにすぎない。オスマン・トルコの進撃と時を同じくして起きたキリスト教宗教改革にも、イスラムの刺激があることは疑いない。
当時のキリスト教世界の東半分はイスラム化したわけだが、インドの場合はヒンドゥー化したのであろう。非婚エリート主義宗教は権力の保護を失うと脆いということが、このふたつの例からわかる。そして両地域は結婚主義宗教に取り込まれていった。ヒンドゥー化ということは、つまりカースト化である。ヒマラヤの山裾、カトマンドゥ盆地のネワール人は仏教を保持したが、カースト化せざるを得なかった。仏教司祭も妻帯し、ひとつのカーストとなったわけである。それはヒンドゥー教におけるブラーミンのような存在であり、ブラーミン化したとも言える。妻帯し、なぜか鶏肉や鶏卵は食べないが肉食もして、剃髪していないこと真宗のごとくである。ただ、この昔の仏教僧侶のカースト、ヴァジラチャリヤには、子供のとき一時的に剃髪し出家する儀礼を行ない、数日後に還俗するという習慣がある。今では一種の通過儀礼となっているが、形の上では出家して在家に戻り、そのあとで密教の灌頂も受けているのだから、筋は通っている在家仏教の形式である。
カーストについて言えば、カーストはそれを否定する側からばかり云々されがちであるが、カーストのある側、ヒンドゥーの側から見れば、仏教やキリスト教信者がひとつのカーストとなる、ということでもある。自分が他者を見る見方に対して、鏡合わせに他者が自分を見る見方があるのである。ネワール仏教の場合、反転して他者の見方を受け入れ、さらに細分化が行なわれたという変容を遂げたと解することができよう。
(また、日本の寺家については、特殊な職業だから寺家同士で結婚することが多いのではあるまいかと思っている。統計的にはどうなのか知らないが、もし想像の通りなら、日本の仏家もいくらかはカースト化しているとも言える。そもそも、親の仕事を子が継ぎ、同業者同士で結婚するというのは自然であるし、望ましくさえある。カーストはそのような緩い形でならどこにでも存在するものだし、合理的なものでもあるのだ。)
小さなことだが、ネパールの仏教寺院では入場料を取られることがよくある。日本の観光寺院の拝観料徴収と呼応しているように感じる。ヒンドゥー教寺院は神道神社同様無料である(ただしヒンドゥー教徒以外は入場不可という寺院もある)。こういうのもおもしろい。よってくるところはあるのかもしれない。


「破戒」妻帯宗派ができるのにはさまざまな事情があった。それを「破戒」の一点のみで判断するのは狭量だと思う。仏教にはさまざまな可能性があることを考えるべきであろう。原始仏教から(非仏説である)大乗、密教、さらには在家主義へと可能性が広がっていく柔軟さこそ、仏教の特質のひとつではあるまいか。地理的に見れば、辺境の地において在家主義が発生している。日本はアジアが太平洋に落ちるきわ、仏教世界の最果てであるし、ネパールはインド世界の最奥部である。このことも何かを示しているであろうか。さまざまのこと考えるネパールかな、である。