クチン日録(5)

12月1日、JLPT試験日。いつものように合格祈願に行く。今回はSJFCの近くのスーパーの屋上にある天后宮。見晴らしがいい。合格の見通しもよければいいが。
12月某日、スタジアム・サラワクでアジアマスターズ陸上競技会が開かれる。日本人も多数参加しているようだ。ワールドマスターズゲームズ関西2021の宣伝ブースで生徒がアルバイトをしているので、それを見てきた。
12月某日、今までの水曜クラスを木曜と統合し、水曜日に新しいクラスを始める。15人(男10人・女5人)。ふつう語学クラスは女性が4分の3ぐらい占めるものだが、ここは男が多い。これまでの担当クラスも女性は少なめの6割だ。1人を除いて全員中華系。かなから始めるゼロ初級をひとりで受け持つのは15年ぶりだ。
12月某日、あいにくの雨模様だったが、朝原選手らが走る400mリレーを見にまたスタジアム・サラワクへ。45歳以上の部の世界新記録(43秒27)が出た。クチンで記録を出してくれたのはうれしい。夕方にはWMG2021関西の広報スタッフの方たちがSJFC訪問。
12月某日、待降節が始まったばかりの時期だが、クリスマスパレードが行なわれた。山車やプラカートには漢字も多く、夜目でよく見えなかったが中華系が多かった。先住民の大半はキリスト教徒だというし、華人にもクリスチャンが多いなら、サラワクの宗教多数派は、儒仏道混淆の中国教でもイスラムでもなく、キリスト教なのだろう。鳴り物はほとんどブラスバンドだが、太鼓や銅鑼も見られた。しかし雨季なので、激しい雨の中の行列。
12月某日、久しぶりに晴れ間が見えたので河岸を散歩すると、広場にテントが立っていた。この週末Sitokという催しがあるのだ。先月はTenunという催しがあるのをたまたまHillsに昼食を食べに行って見かけたし、スタジアムにサッカーを見に行ってAgrofestという見本市に出くわした。ちょっと異常なくらい催しが多い。ほとんどが公費で行なわれているのだと思うが、そういう催しで賑やかしに演奏するバンドは公金で収入の下支えができるのではないか。テント設営業も食いっぱぐれがなさそうだ。
Hillsで英語の古本市をやっているので、いくつか買った。売られているのはアメリカの本ばかり。本を読むのはいいことだが、洗脳装置にもなる。アメリカ的価値観世界観に染められてしまう恐れがあることを忘れてはならない。
12月某日、Borneo Postに藤井杯作文コンクール紹介記事が載る。
12月某日、スキットコンテストの賞品が届く。
12月某日、スピーチコンテストで審査員をしてもらったK氏が授業に来る。その前で、生徒が自分の「今年の漢字」を発表。
12月22日、冬至。だがここでは日昇・日没時刻とも夏至とほとんど変わらない。
「Iban Dream」読了。渡し舟で対岸に渡り、川べりでテタレを飲みながら読んだので、この本について考えるときはきっとテタレの味とテタレ色の川が思い浮かぶことだろう。イバン人がイバン人を主人公に書いた小説で、著者は日本に留学していたらしい。
12月25日、クリスマス。朝教会を覗いてみたら、カトリックのほうがアングリカンより人出が多かった。
生徒たちの「今年の漢字」を3回に分けてブログ「クチンあれこれ」に掲載しおわる(https://ameblo.jp/suseni)。
12月某日、同僚教師後任のI氏到着。長縄跳び用の縄、手話の本受け取る。
12月某日、I氏に買ってきてもらった「フィロミナの詩がきこえる」読了。カノウィット近在のロングハウスに住み、障碍児デイセンターを作った中沢夫妻の手記。クチンにも住んでいたらしいが、今までその名を聞くことがなかった。考えさせられる。
12月某日、教師交代時の恒例歓迎&送別パーティー
12月某日、SJFCの年末年始期のディナーがあったが行かず、上帝廟の神像巡幸を見る。雨だったが、巡幸が始まるころにやむ。祭りのときはこんなことがよくあるらしく、「雨が道を清める」のだそうだ。龍舞、獅子舞など多数出る。道端に供え物載せた祭壇がいくつも置かれていて、行列の龍や獅子はその前で舞い、拝礼する。
これについてもレガッタについても、生徒に聞いても何も知らない。見たことがないというのがほとんどで、せいぜい子供の頃一度見た程度。日本語学習者は「伝統文化の敵」なんじゃないか? この祭りの日にディナーをするSJFCも同断だ。聖駕に手を合わせるおばあさんを見ながら思う。私は断然こちらの側である。
書類の不備を指摘され、JFKLにSmall Grant再申請。
12月某日、I氏とともに名誉顧問のC氏に車で町外れの漁師集落に連れて行ってもらう。集落に1軒だけ華人の商店があるところなど、19世紀のボルネオ奥地と同じで、おもしろい。
12月31日、大晦日。夜12時河岸で花火が上がる。人出がすごい。

1月1日、元日。雨が降り続いていたので、暮れには5日ほど河岸を歩くことがなかった。久しぶりに出てみると、かなり増水して水流が速い。渡し舟は直進できず、斜行する。斜めに進むと水流に押し戻されて結果的に直進になる。
1月某日、ボルネオ・ポスト紙記者への個人授業始まる。今までに8回日本へ旅行しているとのこと。
今年から報酬がRM1200に上がる。マレーシアの最低賃金がこの額になったため。
1月某日、JICA同窓会会長が来訪し、1月18日のイベントにゆかたや折り紙のブースを出してほしいと頼まれる。受諾し準備するが、キャンセルになる。これだから、受けはだめだ。攻めでないと。
1月某日、委員会。新任の委員承認、運動会その他について。
柔道クラブへ行き、運動会でする競技を紹介。
1月某日、日本郵便の年賀状コンクールに知人を通じて応募。6点。
F氏来訪。昨夜到着とのこと。賞品をいただく。藤井カップ抹茶茶碗。そのほか漆器や丹後ちりめんの風呂敷など。ありがたい。賞品に見合う作文があればいいが。
1月某日、ミニ運動会準備の会合。合気道・柔道クラブから出席するも、3つの学校からは誰も来ない。F氏とMさんも出席。Mさんから、和光大学の学生10人3月末にクチンで交流会をしたいとの話あり。
1月某日、F氏と朝食昼食を共に。明日帰国。
1月某日、申請したSmall GrantについてJFKLから回答届く。RM600のみ認めるとのこと。申請額RM1460に対し。結局辞退する。
1月某日、藤井杯作文コンクール締め切り。応募20点。翌日審査員4人に送る。
応募者は、マレー人1人を除き、あとはみな華人。もちろんこの学校の生徒は華人が圧倒的に多いということもあるが、校外から応募したのもみな華人。おそらく中華系とマレー人には作文に対する姿勢に大きな違いがあるのだろう。男女別では、男7人・女13人。男ががんばっている。他国なら男はまず4分の1以下だから。
1月某日、締め切りに遅れた作文がひとつ届いた。海外ではよくあることだが。
1月某日、階上から水漏れ。翌日午後おさまるも、翌々日からまた。
1月24日、旧暦の大晦日。花火と爆竹が新暦新年よりすごい。窓から火薬の匂いが入ってくるほど。公式的な新暦新年はまがい物、民衆的な旧暦新年が本物、ということだろう。
1月25日、旧正月。旧市街を散歩中、獅子舞を見た。店は閉まり、人通りもほとんどなく、すがすがしい。
リバーサイドマジェスティック前に水素バスが停まっていたので、乗る。廃止になった旧101と同様無料。環境にはいいのだろうが、馬力はだいぶ落ちる。運行も、前は1時間半に1本、水素バスは1時間45分に1本。前のほうがよかった。
1月某日、中華新年のオープンハウス。H氏の家に行く。中心部の商店街は軒並み休業で交通量が絶対的に少なく、グラブタクシーがなかなかつかまらない。
1月某日、サラワク川クルーズの船に乗る。RM65。日中は雨だったけれど、夕方は快晴。たった1時間半だが、満足。いつも乗る渡し舟サンパンは水面ぎりぎりで、そこから見る眺めがおもしろいのだが、この船のように2階のデッキに立って高いところから眺める沿岸風景もまた新鮮だ。帝国主義的な睥睨感もあるね。1週間の休みがあったけども、「旅」したのは結局これだけ。
1月某日、1週間の春節休みが終わり、授業再開。
 この日も獅子舞を見る。外出するとたいていどこかで獅子舞に出くわす。予約制の門付けだが、いったいクチンに何団体あるのだろう。

 

新型コロナに関する疑問

 私は素人である。医学の専門知識などまったくない。そんな人間がわずかな情報から常識のみによってこの病気について考えることにする。素人の寝言など聞きたくなければ、読まずにすませてほしい。

 この新型コロナは「コーカソイド・キラー」であるようだ。この問題を考えるときは、欧米とそれ以外は別々にする必要があるだろう。
 アジア諸国は、発源地中国にしてからがそうなのだが、その中国に隣接する諸国、ベトナム・モンゴル・台湾(北朝鮮の公式発表は何につけ信用できないので除くとしても)の驚異的な死者数の少なさに目を見張りつつ、それ以外の諸国の数字も慌てふためかなければならないようなものではない。地球にとっては人類がウィルスのようなものであり、人間が減るのは地球にとってよいことだが、実はあまり減っていないのではないか。少なくとも非欧米人地域についてはたしかにそうだ。野放図に多すぎる中国人(一人っ子政策の下でも増え続ける四則演算を超越した存在)など、ちっとばかり減ってもらいたいものだが(せっかく最初に流行したことでもあり)、死者は5000人にも満たない。大躍進の失敗や文化大革命時の死者数を考えれば、取るに足りない数である。母数は13億だから、コンマ以下切り捨てならゼロだと言ってもいい。
 WHOが「コントロールされたパンデミック」などと妙なことを言っていたが、アジア諸国に限ればそれは間違ってはいない。制御不能の欧米によってこの流行を見ると、誤る。峻別しなければならない。
 同じように国家権力の強権による封じ込めを行ないながら、このような差が現われているのはどうしたことなのか。変異した型によるのか、風土や生活習慣によるものか、あるいは人種によるのだろうか。それはわからないが(これからわかっていくことだろうが)、いずれにせよ非欧米世界ではこの病気はさまで脅威ではない。
 7時のニュースがコロナばかりというのは奇怪すぎる。この病気の恐怖がやたらに喧伝されているのは、広報が欧米に独占されていることに由来すると思う。情報知識はほとんど彼らの占有物で、彼らにより誤ったコロナ像と対処法が公布されている、という疑いは持っていい。彼らはペストやコレラと勘違いしているのではないか? 彼らのトラウマ、彼らの妄想につきあってはいけない。「悲惨」に群がるというジャーナリズムの本質がひとつと、報道の欧米独占による偏りがひとつ。今回はその欧米が悲惨であるため、(中国・韓国以外の)アジア近隣諸国は素通りし、悲惨な欧米にばかり注目する。成功は報じられず、失敗のみ声高に触れ回る。反省すべきだろう。

 昨年同時期の全病死者数と比較した統計が見たい。実はあまり違わないのではないかと思っているのだが、どうだろう(欧米は除いて)。変動があるとしても、誤差の範囲内ではあるまいか? 2020年以前にも人々は毎日死んでいた。インフルエンザでも毎年死者は多い。例年のほかの病気による死者の数を代置しているだけではなかろうか、センセーショナルでない日常の死がセンセーショナルな死に置き換えられているのではないかとまず疑ってみるべきだ。

 コロナは要するに都市生活者の問題である。都市生活者、つまり第二次・第三次産業従事者、時間を切り売りする連中の。第一次産業従事者にとってはこれはたいそうな問題ではない。気をつけましょう、で済むことだ。その人たちが今は圧倒的少数派になっていることもこの狂騒は示している。外出自粛だろうが何だろうが、時が来れば田植えをするさ。植えにゃ日本の米にならぬ。食糧が供給されなければ、自粛も何もあったものではない。
 メディアは大都市に盤踞する。知識人や専門家も都市住民だ。そのことによる偏りは常にあるし、常に念頭に置かなければならない。声の大きい人たち(欧米・都市)のために冷静に考えることができない。歪められ、踊らされている。それがこの問題を見るときに持つ感想だ。

 すっかりペストになりおおせているけれども、結局は風邪である。タチの悪い風邪、変態風邪だというのがこの病気だと理解している。無症状のことも多く、軽症ですめばこじれた風邪程度だ。
 風邪ならば、よほどひどくこじらせて肺炎にでもならないかぎり、命までとられることは少ない。しかしコロナの場合、2割が重症の肺炎になる。重症になった場合の致死率は高いみたいだし、急速に悪化することもあるようだ。
 無症状というのは健康体だということである。風邪の場合はまったくそうだ。いま私の体内には風邪のウィルスがあるかもしれない。しかいそんなことは私も他人も(医者も)気にしない。なぜなら私が「健康」であるからだ。もし発症したら、そのときに対処するだけのことだ。無症状者(=健康体)からも風邪のウィルスがうつることはあるだろうが、うつっても風邪ならば何のことはない。ただコロナだと、うつされた人が重症化するかもしれないから厄介だ。絶命するかもしれないし。発症者は入院し隔離し治療することで、方針に迷いはない。この無症状者の問題がコロナ対策の要なのだろう。
 とはいえ、やはり基本は風邪なのだ。そこを外してはいけないと思う。風邪を抑え込むことはできるのか? できない。風邪ならば、できるだけ注意してかからないようにしよう、うつさないようにしよう、というのがせいぜいだろう。コロナにも同じことが言えるのではないか?

 アメリカの若者はこの病気を「ブーマー(=ベビーブーム世代)・リム―ヴァ―」と呼んでいるそうだ。日本語で言えば「団塊取っ払い屋」である。この病気が悪化し致命的になるのは大多数が高齢者か病気持ちだからだ。つまり、死ぬのが2、3年早くなるだけというシニカルな見方も可能だ、ということだ。
 男のほうが死者が多いという事実もある。男のほうが飲酒喫煙など不健康な悪習をもつ者が多く、体の酷使もしていることが多いことを考えれば、むべなるかなである。
 「死んでもしかたがない人」という言い方は残酷で無神経だが、しかしそれは存在する。7歳以下の子供(「七歳までは神の子」)と高齢者(歯が丈夫なのを恥じて石を噛んで砕こうとするおりん婆さんの世代)だ。この病気は、遅かれ早かれ死ぬ人たち(それはわれわれすべてであるが、その中でも特に、もう時が数えられ始めていた人、という意味で)の運命を早めていると見ることはできる。それ以外が死んではいけない人で、その人たちが大勢死ぬようなら大ごとだが、そうでなければそれほどではない。ものには順番がある。非情ではあるが合理的な考え方である。人は誰しも自分がかわいいし、家族身内は大切だ。だが、そういう感情を離れて遠くから眺めれば、たしかにそうだと言えるだろう。目の前の患者のため身を危険にさらして救命に努める医療従事者の美しい姿も別にして。
 漱石は五十、鴎外は六十で死んだ。七十は古稀、古来稀なり。漱石はさすがに若すぎるが、鴎外が仕事をやり残して死んだという印象はない。不自然に、自分の功績でもないのに伸びてしまった平均寿命に現代人は惑わされてしまっている。70でも早死にだと言われかねない。誰も死にたくはないが、遅れ先立つためしなるらむ。苦しいようだし、人にうつす恐れのあるこんな病気よりも、ポックリが理想だけれども。

 この病気による悲劇は、罹患死ではない。看取られもせず、葬式も満足にあげられないのはモラルの踏みつけであるにしても、この病気が引き起こした事態の悲劇的側面としては些末なことである。悲劇は、医療従事者の感染死であり、しばしば自殺や一家離散にいたる解雇倒産、貧窮である。
 日本(緊急事態宣言前の)とスウェーデン以外のほとんどの国では、封鎖(ロックダウン)によって対処している。この病気には治療法がなくワクチンがないからうろたえているわけで、それができるまでの時間稼ぎというなら、この対処法にも意味があるかもしれない。しかし、風邪にも特効薬がなくワクチンもないではないか。風邪についてできないことが、新型コロナに対してなぜできるのか?
 「ロックダウンの思想」は拒絶排除の思想である。医療従事者やその家族に対する差別、まるで感染者であるかのように忌避されることが横行しているらしい。しかし彼らはまさに濃厚接触者そのものなのだから、「ロックダウンの思想」に依拠すれば、当然の如く排除隔離されるべきではないか。彼らを別扱いするなら、それはダブルスタンダードということになろう。「ロックダウンの思想」に染まることがおかしい、と考えてみていいのではないか。ペストのような「死んではいけない人たち」もばたばた倒れる流行病なら、封鎖もやむをえまい。だか、これはそうなのか?
 ロックダウン(それも徹底したロックダウン)が成功したのは、中国である。見る人聞く人すべてが驚く突貫工事であっという間に専用病院をふたつも建設したり、感染防止のため髪を切り丸坊主姿になった看護婦を大量に送り込んだり、驚嘆するほかない荒業を次々に繰り出した。そして一応抑え込んだ。大成功として誇らしい経験になるだろう。世界よ、これにならえ。ロックダウンが是であるならば、世界は中共を礼賛しなければならない。中共の前にひれ伏さなければならない。この思想の帰結はこれだ。

 コロナに対する勝利というのは、感染ゼロではありえない。それは実現不可能だ。風邪の感染ゼロ、インフルエンザの感染ゼロがないのに、新型コロナだけ感染ゼロになりうるはずがない。そうではなくて、感染しても軽症ですみ、重症化しても助かることが勝利だ。人間の体の持つ力によって、この新しい猛毒風邪を馴致しで、きるだけ無害化するしかないだろう。よい療養法(完治法ではない)を見つけ出して。
 風邪に対してできないことが、新型コロナに対してできるとは思えない。風邪に対してするべきことを、新型コロナに対してもするべきだ。私はそう思う。

 コロナに関連して、気になることがもうひとつある。
 日本は感染検査を十分にしていない。しないのか、できないのか。「しない」のはひとつの見識である。それは感染者数の把握の放棄であって、科学的な態度ではないが、この病気で重要なのは重症者数と死者数であるから、感染者数を重要視しないという態度はある決意を表わしているのだろう。あの検査は7割ぐらいしか信頼性がないと聞く。検査で陽性でも実は感染しておらず、陰性でも実は感染している人が3割。そんな信頼性の低い検査結果に立脚する危うさはあるわけだし。
 しかし、その方針は緊急事態宣言(ロックダウンはもちろんのこと)とは相容れない。社会活動の停止状態はいつか解除しなければならないが、それにはよるべきデータが必要で、それを持っていなければ解除できない。つまり宣言もできない、ということになるはずだ。宣言発出の前、首相は何日も「ぎりぎりで持ちこたえている」と繰り返していたが、その根拠は何なのかいぶかしく思っていた。ま、いわゆる「総合的な判断」なのだろうが。
 首相は検査数を上げると言明した。しかし実際はそうなっていない。職務怠慢か統制不能か、どちらにしても由々しき事態だ。あるいはその場を取り繕うだけの虚言ということも考えられ、あの首相はそんなことばかりやってきたからその可能性もあるわけだが、それも情けない話だ。
 あるいは、「しない」のではなくて「できない」のか? 韓国にできることが日本にできないはずがないから、この可能性は考えていなかったが、ひょっとしたら日本はもういろいろなことが「できない」国になっているのかもしれない。もしそうなら、それはさらにいっそう恐ろしいことだ。首相お得意の虚言であることを願うよ。

クチン日録(4)

10月某日、カーペンター通りの食堂(クチンで2番目にコロミーがうまい店)でコロミーを食べる。この店の主人は30年前に日本に留学していたそうで、日本語ができる。日本人にとってボルネオは身近でないが、その逆はけっこう身近なようだ。
夕方7時からシティワンで日本映画祭(3-6日)のオープニングセレモニー。授業休講。
そこを抜け出して、先日まで丁&丁スーパーだったところで古晋藝聲閩劇社の公演を見に行く。演技演奏ともお世辞にも上手とはいえないが(中国本土で見た村芝居の足元にも及ばない)、演目「寶蓮燈」はおもしろかった。はるか故国を離れて、先祖が故郷の村で楽しみにしていた芝居を今も演じているのだもの、上手下手は関係ない。またぜひ見たい。
四川で芝居を見たときは四川方言がわからない人のために普通話の字幕が出たが、ここでは英語の字幕が出る。福建語ができない観客のために字幕は必要だが、それが英語であるのは、マレー人観客(わりと多かった)のためばかりでなく、漢字ができず英語ができる華人同胞のためでもあるわけだ。華人の言語事情を映していて、おもしろい。
10月某日、朝KLへ飛ぶ。マラヤ大学でマレーシア日本語教育国際発表会。アイデア広場のコーナーでかなカードを使ったゲームを紹介。
会場の日本文化研究館AAJというのがなかなか見つからず、探し回った。点在する平屋の建物が渡り廊下でつながっている作りで、職員宿舎かと思って通り過ぎてしまったのだ。しかし、熱帯ではこういう造りのほうが涼しくて環境に適合しているだろう。クチンのイスラム博物館(昔のマレー人師範学校)もこんな造りだし。面積は必要になるけれど、傾斜地でも作れる。だが、ポスターや矢印は出しておくべきだ。初めての者はわからない。
午後は国際交流基金の図書室に行った。今回の旅行で、半年ぶりに靴下をはいた。
10月某日、紀伊国屋書店へ行く。英語書店の中に中国語・日本語のコーナーがついているという感じ。かつ日本語コーナーは中国語よりだいぶ狭い。まあ購買人口からいえばこうなるな、商売だから。マンガはマレー語・英語・中国語・日本語版がずらりと並ぶ。
夕方クチン帰着。シティワンへ行き、「アイネクライネナハトムジーク」見る。せっかくの日本映画祭だが、木・金は授業があって行けず、土・日はKLへ行っていたので、最終日最終回のこの映画しか見られなかった。
日本映画祭と学会が重なったので、どちらへ行くべきか迷った。一応学会に申し込みをしたが、SJFCがシティワンから日本文化イベントを頼まれたり、ぜひ見たい映画があったりしたらキャンセルするつもりで最後まで様子を見たけれども、幸いというか残念ながらというか、そのどちらでもなかったので、KLへ行った。イベントは自前でやれるようにしたいものだ。芸者じゃあるまいし、「お座敷がかかる」のを待つだけなのは悲しい。
10月某日、KK領事事務所から「にぽにか」24・25・26号届く。ありがたい。
10月某日、「オタキュン」というオタクイベント(シティワン、13日まで)があった。頼んで1分アフレココンテストのチラシを置かせてもらう。うちのクラスの生徒6人に会った。1人はコスプレしていて、2人は自作イラスト販売のブースに座っている。日本語学習者の半分以上はオタクだね。
マレー人の女の子はスカーフをした上でコスプレをしている。戒律は趣味の上にある。ま、ものによっては御高祖頭巾のように見えるけども。ある生徒に「先生!」と言われても気がつかなかった。彼女はスカーフをしていなかったから。ウィッグをつけていたのだ。自分の髪が見えるようにしなければ、これでもいいわけか。
夜はクチンFAの試合を見にサラワクスタジアムへ行く。日本人選手の所属チームである。首位攻防戦、2-1で勝利。彼は気の利いたプレーをしていて、中心選手なのだと知った。見たところ、選手はほとんどマレー人のようだし、観客もほとんどがマレー人みたいだった。売店をざっと見た限り、サッカー観戦につきもののビールがない。さすがイスラム圏。
10月某日、ローズ・イワナガとYoung Onceという「昔の青年たち」のバンドのコンサートに行った。この人は戦後もここに残った日本人の父と海南人の母の間に生まれ、1960年代にデビューしたそうだから、70過ぎだろう。歌や演奏(老バンドメンバーは座ったままだった)よりおもしろかったのは観衆で、50年前の若者たちが(サイズは違うにしろ)昔着ていたような服でめかしこんで、昔のステップで疲れ知らずに踊っていた。ほとんど全員が中華系だが、白人客もちらほらいて、踊りに加わっていた。60年代に欧米とボルネオは同時代の空気を吸っていたということだ。ちょっと意外で、なかなかすごい。
10月某日、授業で台風の話になり、クチンでも強い風が吹くことがあるのか聞いたら、土曜日に吹いたと言う。その日は外出していたけれど、全然気がつかなかった。その程度の強風ということだ。地震もないし火山もないし、天恵の国だ。ここは大した戦争もなかった。日本軍侵攻のときも敗退のときも、クチンはほとんど被害がなかった(サバはひどかったが)。白人ラジャ建国のときも独立のときもそうだ。クチンよいとこ音頭を作ろうか?
10月某日、10月になってから雨が多い。本格的に雨季になる前にと思って、サマジャヤ自然保護区の中にある日本庭園に行く。5年くらい前に行った生徒の話では、茶室がシロアリに食われて当時すでに閉鎖されていたそうだ。このときもたぶん閉鎖中だったが、座卓を補修する者が中にいて、脇の扉が開いていたので、入ることができた。庭は雑草がはびこっていて、まだまだ修復の必要がありそうだ。
修理の男は人が入ってきても何も言わなかった。日本ならきっと(いや、絶対)閉鎖中だと言って追い出される。大陸ユーラシアなら、入っていいよと言いながら、そのかわり、と金を要求される(日本では、金を渡そうとしたら憤然として突っ返されるだろう。だめだめ一点張りだ)。この地の緩い対応(というか、無対応)が最高であるのは言うをまたない。
夜は授業が終わってからミュージシャンの生徒が出演するジャズコンサートに行った。
10月某日、夜、大井巷で街頭劇を見る。イバン族の儀式を題材にしたものらしい。足や手の動きが日本の民俗芸能に似ていた。ムルデカ広場ではマレー人が集まってタンバリンに合わせて伝統歌唱らしきものを歌っていた。
10月某日、サラワク川でドラゴンボート競漕をやっている。本国では端午(今年は6月7日)にするものなのだけども。粽もまだ売っている。あるいは、粽を売っている間はいつでも龍舟競漕をしていいことになっているのだろうか?
10月27日、ヒンドゥー教の祭日ディワーリ(灯明祭)。近くのヒンドゥー寺院をのぞく。三々五々サリーなどのインド衣装を着て額に印をつけた参拝者が来ていた。半島部と違いインド人の少ないボルネオだが、それでもいるものだ。
10月某日、天気予報が晴れだったので、師範大学内にある旧バトゥ・リンタン捕虜収容所跡に行ってきた。博物館があるが、閉まっている。日本軍の国旗掲揚台跡やインド兵の旧兵舎(修築されたものだが、またも修築が必要な状態になっている)などを見る。日本人の訪問客は非常に少なく、オーストラリア人ほか連合国からの訪問者は多いらしい。きのうも来たというし、グラブタクシーの運転手も何回も白人を運んだことがあると言っていた。被害については語り部だの何だのと積極的に伝承する一方、加害については口をつぐみ忘れようとする日本人の性向を考えさせられた。
帰りに日本人墓地を再訪。盆前に日本人会有志が墓掃除をしたそうだが、もう落ち葉がだいぶたまっていた。熱帯での施設の維持管理はたいへんだと推測できる。
10月某日、国際交流基金にSmall Grantの申請書送る。

11月某日、サラワク川でレガッタが行なわれた。先週末の龍舟競漕はこれの前座だったと知る。だから端午からずいぶん遅いこの時期にやったのだ。今週のほうがずっと力が入っている。もとは川を道としていた川の民だから当然と言える。対岸の村人は見物のため川辺にシートを敷いたりテントを立てたり、露店も並んで村祭りのようだった。
夜は四方堡の両脇に立つ大きなテントで太鼓の演奏会があった。バイオリンやアコーディオンが伴奏し、男2人が腕を横にしてステップを踏みながら踊り、女が太鼓を打つ。踊り手と太鼓の女が掛け合いのように歌う。おそらく即興だ。おもしろかった。ユーラシアの踊りだ。ハンガリーウズベキスタンにいたときを思い出した。
11月9日、朝、下の道を通る歌声が聞こえたので窓から見ると、ムハンマド誕生日の長い行列だった。急いで飛び出し、ついて行く。ムルデカ広場が終点で、大集合していた。イバン族は大半がクリスチャンになったが、ムスリムとなった者もいるようで、民族衣装にスカーフを巻いて参加していた。華人の団体も昔の中国衣装を着て加わっていたが、回族ではなく、華人文化代表としての参加だそうだ。互いの文化に敬意を持つのはいいことだ。
11月某日、受講生の車に乗せてもらって、依岡神社に行く。小さなものだ。屋根がかけられているとはいえ、もはや崩壊を待つばかりのように見える。鳥居も蔓植物に寄生されて自然木に化しそうだ。神社の周囲やそのまわりの昔日本人の家があったところは、全部背の高いアブラヤシの農園になっている。16000haだそうだ。神社のほかにも、Strong Roomという土蔵式の倉など、いくつか遺物がある。堤を築いて溜池を造り、田に水が引けるようにしたり、トロッコのレールを敷いたりしたというが、それも埋もれかけている。歴史とは草木風雨の浸食のことである。
河口に位置するわけではないこの村を、日本人は「ムアラ」(マレー語で「河口」)と呼んでいたと伝わる。もちろん日本語の「むら」の訛伝だ。近くにもうひとつ「セニアワン」という名前の村があるため、この村にある道標は「Seniawan Jepon」となっている。退去させられた日本人とのつながりを、村人がこんな形でも守ってくれているのはうれしい。なお、案内してくれた村長はボーハン・サブロー氏の甥だそうだ。
11月某日、世界の日本語学習者作文コンクールに4点応募。
11月某日、アフレココンテスト締め切り。応募5点のみ。やはり空振りだった。しかしミリから応募があったのはうれしい。「サラワク」日本友好協会なのだから。審査の結果、そのミリ理科中等学校からの「ジョジョの奇妙な冒険」が1位、「ワンピース」が2位。1位の2人は15歳、2位は21歳。のべ11人が参加したが、15歳が3人、18歳が2人、21歳3人(のべ)。平均年齢の低いコンテストだった。
KKで日本語教師をしている人がSJFC訪問。授業の終わりに手品を演じてもらう。
11月某日、SJFC委員会。藤井杯作文コンクール、ミニ運動会兼文化祭について話し合う。そのあと香港麺粥家で会食。
11月某日、ムルデカ・プラザでBudayaw FestivalというBIMP-EAGA(ブルネイ、マレーシアのボルネオ2州、インドネシアカリマンタン以東、フィリピンのミンダナオという東南アジア島嶼部のうちでも周縁地域の連合)の催しが19日から23日まで行なわれている。午後その催しのうちの舞踊公演を見た。ステージ公演にアレンジされた舞踊ショーであるが、ブルネイインドネシア、マレーシア、フィリピンの舞踊のさわりが見られたのはよかった。男女2人ずつが裸足で手踊りするブルネイのがあまり加工されていないこの地域の舞踊の標準型だろうと思うが、一方マレーシアではポルトガル、フィリピンではスペインの影響を受けた踊りがあったのもおもしろかった。
クチンでは次から次にいろいろな催しや祭りがある。前には国際コダーイ学会もあったし。人口から見れば岡山くらいの町だが、文化的な催しの多さ多様さでは日本の地方都市を断然圧する。かつ、無料で見られる公演が多いのがうれしい。かなりの予算を文化・観光に投じているはずで、それは日本も見習うべきではないか。「ルック・サウスイースト」。
11月某日、朝、国際交流基金クアラルンプールのスキットコンテストの公開審査がインターネットを通じて行なわれた。SJFCの「中がいっぱい」は3位になった。
夜はサッカーの2部と3部リーグの入れ替え戦を見に行く。クチンFAとサラワクFAというクチンの2チームが昇格・残留を争う。S選手の属するクチンFAが3-1で勝利、昇格を決める。帰りはグラブタクシーがなく、歩いて帰宅。1時間強。
11月某日、藤井杯作文コンクール告知。
11月某日、ある生徒から、日本人が12月2日から開かれるアジアマスターズ陸上での広報手伝いのためアルバイトをもう1人探していると聞き、急遽心当たりに連絡を取るが、そのすぐ後にいらなくなったと伝えられる。直前にあやふやな話で踊らされた。日本人に。日本人は、自分たちは計画的で周到で時間厳守だという勝手な自画像を描いているが、海外にいると全然そうでない事例に頻繁に遭遇する。

 

クチン日録(3)

8月某日、中華料理店でSJFC創立15周年記念ディナー。豚肉が出る。それはつまり、出席者にマレー人がいないということ。日本人2人とビダユー人1人のほかはすべて華人だから。多民族地域なのに、残念な点だ。
8月某日、コダーイ国際シンポジウムが開かれているのを知って、ひとつふたつ発表を聴きたかったが、1日単位でしか聴講できなくて、1日券は550RM。久しぶりでハンガリー語を聞いたり話したりできるかと思ったが、これでは無理だ。2日で給料が消えるよ。
8月某日、クチンFAの日本人サッカー選手S氏がSJFCを訪問。
8月某日、近くのプリント屋でA4ポスターをカラープリント。店主は日本語ができる。名古屋に9年いたとのこと。ときどき乗るグラブタクシーの運転手にも、40過ぎて妻子もいるのにアニメが大好きな人や、今年北海道旅行に行ったばかりというおじいさん、25年前に日本語を習ったことがあるおばあさんなどがいた。日本はけっこう近いみたいだ。
8月某日、生徒に誘われ、バコ―村へ行って川べりの食堂で昼食。帰りにドリアンを売る屋台が出ていたので、初めて食べた。聞いていたほど臭くはないが、聞いていたほどうまくもない。人は何でも大げさに言いたがる。
日本クチン友好協会初代会長が来砂の予定だったが、パスポート紛失によりならず、夫人と孫のみ協会を訪れる。トップスポットで協会メンバーと夕食。そのあと教室で4人のスピーチを聞いてもらう。
8月某日、SJFC創設者F氏来訪。スピーチコンテストへの支援金をいただく。ありがたい。そのあと授業も参観してもらう。いろはかるた、カタカナかるたなどする。カタカナを覚えさせるためにあの手この手だ。F氏は21日にも授業参観。
8月某日、旧裁判所の前にNTFP(非木材林産物)カーニバルなるもののテントが立っていて、いろいろな非木材林産物の売店が出ている。ステージもあり。
8月某日、リバーサイド・マジェスティック地下でコスプレコンテストをやっていた。受付にスピーチコンテストのチラシを置かせてもらう。
8月某日、きょうは俳句の日だそうだ(8・19=ハイク)。で、一句。
靴下を はかず四月(よつき)に なりにけり
8月某日、ヒルトンホテルでの外務大臣賞の表彰式にSJFCからも5人で列席。柔道クラブのフランシス・チャン氏が受賞。その後、柔道クラブを見学。青畳ならぬ赤マット。華人ばかり。マレーシアチャンピオンもいるし、4歳の女の子もいる。
8月某日、オンラインでJLPTの結果発表。私のクラスからは、N3受験4人は全員、N4受験4人は1人だけ合格。
8月某日、授業のあと9時過ぎに大伯公廟へ行くが、中元節行事はもう終わっている。
8月某日、F氏の招きで、鳩山二郎衆議院議員、秘書2名とともにSJFCに来訪。久留米大学教授、講師も同行。SJFC受講生2人がその前でスピーチする。いい練習になったし、いいアピールにもなっただろう。
8月31日、独立記念日
9月の本番にはクチンにいないF氏と旅行会社経営のSさんのために、リハーサルとしてスピーチを聞いてもらう。日本人会理事のK氏も顔を見せてくれる。学生7人来る予定が、3人すっぽかす。この場でよくスピーチできた2人をSさんがツアーガイドのアルバイトに誘ってくれたが、来なかった者はそのチャンスを失ったわけだ。罰である。

9月某日、昼にコレージュ・アブディッラーの教師からSNSが入り、今からスピーチコンテストに参加出場できるかとの問い合わせ。仰天するが、できると答えて、3時にタクシーでコレージュへ駆けつける。女生徒たちは教室でまだ作文を書いているところ。おいおい、大会は3日後だよ。土曜日と日曜日にSJFCに来させて練習。16歳の子2人、14歳の子1人が参加することに。しかし、おかげで発表者が10人の大台に乗り、参加機関も3校、SJFCからの6人がみな華人であるのに対し、3人のマレー人、1人のメラナウ人が加わったことになるのは非常にうれしかった。
海外にいると、「思いもよらないことが起こる」のは経験的に知っている。しかしそれがどのような形で現われるかはその時々によって異なる。今回はこんな形で襲われたわけだ。こう来たか。ま、人の生死に関わることでなければ些事である。こういう襲撃も楽しい。
コレージュの日本語の教室は、生徒が座卓を囲んで床に座るという造りだ。これも驚き。寺子屋か?
9月某日、SJFC委員会。その後会場設営。
9月某日、2時からSJFCの教室で第1回クチン日本語スピーチコンテスト。発表は10人(SJFC6人、クチン北科学中等学校1人、コレージュ・アブディラー3人)と折り紙実演。審査員は国際交流基金クアラルンプール事務所日本語専門家、クチン日本人会理事とマレー人のUNIMAS大学教師夫人M氏、審査休憩には早口ことば競争と歌「翼をください」。聴衆は20人弱だったろうか。3つの中等学校とUSCIの日本語教師が来たが、UNIMASからは来ない。表彰のあと、簡単なパーティーをする。
審査結果は、いちばんよく練習していた学生が1位、SJFC委員が3位なのは当然として、コレージュ・アブディッラーの生徒(16歳)が2位。彼女は前日にはまだしっかり原稿を覚えていなかったのに、人がたくさんいる前だとよく話せるという実にコンテスト向きの性格をしている。いろいろな人がいるものだと感じ入る。華人以外、SJFC以外から入賞者が出たのはいいことだ。それでこそ「クチン」弁論大会だ。
中秋節前の週、カーペンター街に夜店が出ている。H氏弟の店もあるので、寄る。街路上で素人キックボクシングの試合をやっていた。獅子舞も出るし、広場舞もしている。
9月某日、Borneo Post紙にきのうのスピーチコンテストの記事が載っている。翌日に出るのはすごい。これまでの任地では早くても翌々日、どうかすると1週間後だったから。当たり前のことが当たり前にできるのが先進国。マレーシアは先進国なのかもしれない。
9月13日、中秋。クラスの終わりに屋上へ行って、月見。月餅を食べて、しりとりをする。曇っていたが、雲を通して赤い月が見えた。
ブログ「[ボルネオ猫町] クチンあれこれ」(ameblo.jp/suseni)にスピーチの原稿掲載を始める。
9月某日、金曜日のクラスの2人が通っている合気道の道場へ行って、練習を見た。雑居ビルの最上階で、柔道の道場よりせまい。あそこは華人ばかりだったが、ここはほとんどがマレー人。小さな女の子(5歳)も練習に来ていた。
9月某日、Facebookに「クチン日本語knk」というページを作る。
9月某日、JFKLスキットコンテストのためのビデオを撮影。
9月某日、建物の入口にインフォメーションボード設置。
9月某日、鳩山氏から大量の雑誌とようかんの入った小包届く。
9月某日、受講生に誘われて、「天気の子」を見に行く。日本のアニメはすごいねえ。世界中にオタクがいる理由がわかるよ。
9月某日、Facebook「クチン日本語knk」ページ上で「1分アフレココンテスト」開催の告知。1分間のアニメのアフレコ作品を募る。募集、応募から審査まですべてネット空間でやる予定。どれだけ応募があるやら。空振りに終わる可能性もあるが、やってみる。
9月某日、クチンFCの日本人選手が授業参観に来る。
次回のスピーチコンテストは、スピーチの部とアフレコの部の2本立てでするのがいいと思った。スピーチはやはりN4ぐらいの日本語力がないとむずかしいから、参加できる者は限られる。アフレコはアニメのセリフをその役になりきって言うもの(コスプレならぬ声優プレSay-U play)だから、日本語力がそれほど高くなくてもできる(もちろん高くてもいい)。今年のアフレココンテストはビデオで応募する形式だけども、来年は会場で音を消したアニメを映し、その横に立って観衆の目前でセリフをつける形でやりたいものだ。

 

クチン日録(2)

6月某日、ある受講生にラマダンバザールを案内してもらう。するめがあった。
彼女はクオーター日本人だと知る。祖母は引き揚げのとき現地人に預けられたというから、つまり残留孤児だ。前任者も河畔で偶然クオーター日本人に会ったとブログに書いていた。案外そういう人が多いのかもしれない。
6月4日、ラマダン最終日、夜12時に河岸を散歩。対岸のマレー人村で花火。
6月某日、激しいスコールで、裏の階段から浸水。
6月某日、マレー人地区を歩いていたら、ある邸宅の前に人だかりがあった。結婚式かと思って聞くと、断食明けのオープンハウス。門内の前庭にテントを立てて、有力者が人々に軽食をふるまう。入ってふるまわれてみたら、出るときに金までくれた。10RM。お年玉みたいなものらしいが、いいおっさんが施しをもらっちゃったよ。しかしおもしろい習慣ではある。
翌日は日本語を習っている主婦の家のオープンハウスに他の教師やH氏たちと招かれた。この日は家(けっこうな邸宅)の中に入り、サラワク川の岸辺のテラスで料理をいただく。
6月某日、日本語クラブを始める。自由参加、毎週火曜18:00-19:20。週1回の授業だけではいかにも少ないので、こういうものを始めることにした。6時では来られない人もいるが、ほかに時間がないのでしかたがない。アニメを見てアフレコ、かるたをする。
6月22日、夏至にあたって調べてみた。ここの夏至の日の出は6時33分、日の入り:18時46分。冬至の日の出:6時35分、日の入り:18時37分。ほぼ同じ。わずかな違いが赤道から1度分なのだろう。夏至冬至春分秋分も関係ない世界だ。ちなみに前任地チチハル(北緯47度)の夏至の日の出は3時47分。冬至は7時28分。
6月某日、ヴィヴァシティのドラえもんフェアに行く。いくつかグッズを買った。
午後、Wさんの勤める全寮制のクチン北科学中等学校へ行き、5年生に茶摘み・アルプス一万尺の手遊びを教える。ここはマレーとダヤクの生徒ばかりで中華系がいない。
外出は月に2回だけ、携帯電話所持禁止、外部からの訪問は事前に届け出が必要だという話。全寮制中等学校については何の知識もないのだが、世界中どこでもこんな規則なのだろうか? 少年院みたいだなと思った。まあ少年院はそもそも外出ができないが。
6月某日、旧DUNでSIFMAガラコンサートを見る。台湾・中国・香港・フィリピン・シンガポール・豪・英などからミュージシャンやダンサーが来ていた中に、日本からも扇寿栄之丞という人が三味線と日舞を披露したのだが、一人で紋付袴の素踊りだったかから、広い舞台には映えない。しかし、フィナーレでの拍手を聞くと、けっこう喜ばれていたようだ。理由は、本来の自文化の伝統芸を見せたからではないかと推察する。ほかのはみな西洋の物真似だったり(ボルネオの女の子のバレエ!)、西洋流にアレンジされた歌や踊りだったりするのだから(北京ダンスアカデミーの演目などその典型)。そのほかによかったのは、台湾の竹楽器楽団とイギリスのミュージカルのさわりを歌う3人組。やはり自文化オリジナルがいちばんおもしろい。
6月某日、旧裁判所にRanee展を見に行ったら、本を売っていたので、つい買ってしまった。“The History of Architecture in Sarawak before Malaysia” “Masa Jepun” “Sarawak Folktales” “Iban Stories”の4冊、計367RM。4月も5月も足が出てしまっていたので、今月は節約し、500RM余らせていて、これをスピーチコンテストに使うつもりでいたが、6月最終日にいっぺんに吐き出してしまった。ここは本が異常に高い。9500円ですよ。日本並みだ。読まない本を買うのが趣味なのに、つらい。

7月某日、夜7時から教師交代に伴う送別会兼歓迎会。授業なし。現地の人と結婚した日本人が2人来た。3か月たって初めて派遣教師(と藤井氏)以外の日本人をクラブの中で見た。
7月某日、夕方は用事が詰まる。6時から月曜クラスのJLPT受験者のために1時間ほど補講し(パーティーでつぶれた授業の代替)、7時から翌日日系企業の面接を受ける学生のために練習をして、7時半からは正規の授業。面接を受けた学生は無事採用となった。
7月某日、国際交流基金未来のミライ」上映会。シティワンで。
7月7日、JLPT。私の担当クラスからはN4・N3各4人受験。
スピーチ作文が完成した受講生から練習を始める。そのあとヒンドゥー寺院に詣で(恒例合格祈願)、午後は同僚教師の引っ越しの手伝い。SJFCの階上に移る。隣のビルからだから水平距離は短いが、4階から運び下ろし4階へ運び上げるので、のべ垂直距離はかなりのものだった。地震でエレベーターの壊れたマンションの10階から荷物を運び下ろしたことがあったが、あれは登りは空手だったから、こっちのほうがずっとたいへんだ。
7月某日、未明雷雨。騒音が静まってまことにけっこう。きょうだけと言わず、毎晩12時から3時まで雨に降ってもらいたい。
7月某日、日本語クラブやめる。参加者少ないのがひとつと、スピーチコンテストの練習優先がひとつ。
7月某日、委員会。授業料値上げなどが議題。スピーチコンテストの開催決定。作文コンクールも提案(1月ぐらいに)。終了後また引っ越し手伝い。
 引っ越しにあたって感じる。住居もそうだし、教室のあるアパートにも壊れた電気製品が数多く並んでいる。テレビ数台、テープレコーダー数台、コピー機数台、電子レンジ、掃除機… 死屍累々である。みな日本製だが、たかが15年の間にこんなに壊れてしまうほど日本製品はボロいのか?「メイド・イン・ジャパン」が「安かろう悪かろう」を意味する時代があった。それが技術者の努力によっていつのまにか「高品質」の意味に180度転換したことに誇りを持っていればこそ、盛田昭夫は著書を「メイド・イン・ジャパン」と題したのであろうに、自信を失わせる眺めである。大丈夫か、日本?と思ってしまう。
7月某日、カタカナのテストをする。ほんとうはひらがなのテストをやりたいくらいひらがなの怪しいのもいるのだが、カタカナはずっとひどいので、やってみた。「ボルネオホテル」「ハッピー自動販売機」「フライパン」「ペットボトル」など、クチンの街角や店内で見かけるカナ表記のものばかり出題。結果は案の定なのだが、どうしたものか。
7月某日、引っ越し終わる。壊れた電気機器も一掃、燃えないゴミに。
むかし日本兵は住民にやたらビンタをしていたそうだ。よくないことだが、ビンタする側の気持ちが少しわかった。日本人なら30分ですむ作業が、3倍の時間がかかる。指揮する者がおらず、作業行程が見えず、行き当たりばったりだ。これでは月月火水木金金で絞りあげられている日本兵は怒るよ。ま、3倍時間をかければいずれ終わるのだけども。時間を有限資源と見るか、無限資源と見るかの違いだが、戦争を遂行する軍隊にとってはもちろん有限資源で、そして時間が無限資源のゲリラに正規軍がしばしば敗れるのもまた事実である。マレーシア人が戦争するなら、ゲリラだね。
7月某日、ある受講生が先週欠席した理由としてKLに行っていたと言い、さらにその理由は3か月に一度の出境だったと言った。彼女はここでフリーランスとして生活しているのだが、半島部のマレーシア人はサラワクには3か月しかおられず、3か月たつ前に半島部・サバないし外国に出て「入国」しなおす必要があるのだそうだ。きのうはサラワク独立記念日で、一日雨だったので昼食を食べにしか外出していないが、その短い間にもサラワク「国旗」を何本もはためかせ、「Sarawak for Sarawakians」というスローガンを掲げた車が走っているのを何台も見て、独立運動が存在していると知ったのだが、運動達成を待つまでもなく、出入「国」管理に関してはすでに「独立国」であるわけだ。
7月某日、きのうからクチンフェスティバルが始まった。池の上の舞台でInternational Friendship Cities Nightを見る。日本から三州足助太鼓が出演。韓国からK-Popのグループ、中国から糸操り人形、横笛、歌、ファッションショー。伝統芸能は足助太鼓と糸操り人形だけ。思うのは、K-Popは人気があるけれど、要は伝統芸がないから思い切り現代に特化しているということ。遅れていた国がしがらみなく技術革新でいきなり最先端に踊り出るのと同じだ。日本は、「伝統から現代まで各種取り揃えております」。文化の厚みを示していると言える一方、時にそれが遅れともなるかもしれない。
7月某日、コタキナバルへ行き、この日と翌日、夏休みで家に帰っている学生にスピーチの練習をさせる。8月25日まで帰って来ないのだからしかたがない、出張練習だ。
7月某日、KKの領事事務所訪問。スピーチコンテストのことでお願いを3つ。
本屋へ行ったら「風の下の国」「三人は還った」の日本語訳書があったので、買う。エッセイ集が70RM、ほぼ2000円ってどうなの? 日本並みの値段だ。節約した金が月末に購書で消えることが続いている。
7月某日、国王戴冠式とかで休日になった。それを知ったのは前日。半島部の祝日だが、サラワクも受け入れて祝日にしたそうだ。こういうのを見ると、独立からは遠いとわかる。それとも、休みになるなら何でもいい?
7月某日、タクシーであの外出できない少年院式の名門校に行き、生徒とスピーチの練習を始める。身銭を切っての出前練習。彼らの上達を報酬に見込んで。

クチン日録(1)

3月某日、マレーシア航空でクチン到着。40分遅れ。砂日協会A会長とH事務局長迎えに来てくれる。
3月某日、前任者の送別会兼われわれの歓迎会。優秀学生の表彰。
H氏は翌週のうちにビザ取得、銀行口座開設、名刺作成、SIMカード購入などてきぱきとやってくれる。謝礼が月初の先払いなのはありがたい。
4月某日、授業開始。
4月某日、委員会会合。20日のイベントの打ち合わせおよび炭坑節の練習、そのあと教室の床面シート張り替え。
 会議は英語で行なわれた。われわれには聞き取りづらいマレーシア英語なのだが、彼らにとっては支障なく意見感想を述べあい聞き取れ、意思疎通しあえる第二の母語となっているさまを目の当たりにして、なるほどと思った。出席者は全員中華系だったが、みなマンダリンができるとは限らず、福建語広東語客家語では互いに理解しあえない。それに日本人も2人いたのだから英語は当然と言えるが、しかしなかなかたいへんだった。おのれが話すのが下手なのはもとより承知、だからせめて聞き取りはしっかりしたいと臨むけれど、ここでも無力なのにはへこたれる。H氏の英語には非常に苦労する。それでなくても独特な発音のマレーシア英語の上に、とんでもない早口なのだから。あの発音、「クアラルンプール」が「コロンボ」に聞こえるぞ。初めはなぜ突然スリランカの話なんだととまどった。文法もかなり正則から外れている気がするが、これは自分の英語もずいぶん間違いをやらかしていると自覚しているから、対等感がもててけっこうだ。
4月某日、イオンモールで日本文化紹介イベント。炭坑節、ゆかた着付け、折り紙、けん玉、アニメ画。自己完結しているのに感心する。日本人が手伝う必要はほとんどない。全部自分たち委員会メンバーでやってしまえる。すばらしい。
 私はゆかたを着せることもできず(帯が結べない)、知っている折り紙は3つ4つだけ、けん玉も下手、炭坑節は踊ったことはあるから何度か練習すればできる程度。ついでに言えば料理もできない。結局、炭坑節をみんなと踊るだけの参加だった。
成功裏に終わったが、しかしなお改善したい点としては、砂日友好協会の宣伝ができていなかったこと(ポスターとか垂れ幕を出したい)、ゆかた・折り紙などの個々の催しの案内掲示がなかったこと、炭坑節に見物を巻き込むことができなかったこと(振りを教えていっしょに踊ってもらうようにしたい)などである。次の機会があれば、日本についてのクイズもやりたいものだと思う。
 得ていた情報では、隣の4階の宿舎は日中水が出なくて汲み置きしなければならないということだったが、実際にはそんなことはなかった。未明の騒音は聞いていた通り。騒音源からやや離れている教室後ろの私が入居した部屋でもうるさいのだから、道に面した4階はさぞやと思われるが、耐えられる人もあり耐えられない人もあるという分水嶺上あたりなのだろう。12時ごろから3時ぐらいまでの時間に騒いでいるわけだが、この連中は翌日仕事がないのか不思議に思う。最近は少し静かになった。しかしカミナリ族は相変わらず爆音を響かせている。

5月某日、冷房の人工的な涼しさがきらいなので、自分の部屋では冷房を入れなかった。扇風機だけ。夜はそれもつけず、窓を閉めて寝ていたが、とても寝られない。この日から夜冷房を(最弱に)入れて寝るようにした。窓を開ければ風が通って寝られると思うのだが、網戸がないし、閉めていてもひどい騒音が開けたらさらに倍加する。しかたがない。つけても29度。つけていなかったときの温度はどれくらいだったのか空恐ろしい。つけたらやはりいやな感じはあるが、運転音で騒音が聞こえにくくなるのはいい点だ。
5月某日、旅行会社のSさんにロータリークラブの植林活動に誘われ、同行。帰りには教会への寄贈品を渡すため立ち寄った村のロングハウスに上がる。
 行ってみれば、木を植えるべき場所は土地のイバン人によってまわりを刈り払われ、穴も掘ってある。われわれがするのは苗木をそこに入れて埋めるだけ。彼らが下準備をすべてやり、お客さんが最後の部分をちょいちょいと。お客さんが出す金で経費がまかなわれているとはいえ、ほぼセレモニーである。「殿様のお手植え松」みたいなものだ。仕事はほとんど全部植木屋がして、名目だけ最後に土をかけた殿様の仕事。ま、それで外国から来たパトロンも満足感が得られ、下働きにも事業主体にも旅行会社にも利益があり、森も回復するなら、四方一両得のよいシステムだとは言える。しかし違和感は非常にある。
5月某日、ラマダン開始。昼を食べないのはそれほどたいへんだとも思わないが、日中水が飲めないのは想像するだにつらい。とてもできそうにない。
5月某日、同僚教師のクラスで新規コース開始、12人。火曜日のコースが2人に減ったのでそれを木曜日に合流させ、新しいコースを始めたのである。
5月某日、日本人墓地へ行く。ここにもからゆきさんの墓がある。
この日と翌日は墓地を歩いた。中国人墓地は草地の丘の上に散在していて、英国の墓地のようだ。War Memorialというのも見たが、先の戦争中の日本軍による犠牲者は獄死・処刑の13人だけで、あとは戦後のゲリラとの戦闘による死者。この数字にはほっとする。サバ州では戦闘も虐殺も「死の行進」もあって戦死者が多いようだから。
 この日もバスに乗った。前日はバスで中央バスターミナルに行ってみたのだが、バスの利用価値の乏しさを思い知った。特に、途中のバス停で乗るのは愚だ。待っている間に飛行機4機と小型機1機が飛び立っていった。
5月某日、スウィンバーン工科大学の日本語部を訪ねて、アニメを見せ、百人一首を紹介する。この日来ていたメンバーは全員中華系だった。ブミプトラ政策のため国立大学への進学が制限されているので、オーストラリアの大学の分校のようなこういうところは中華系の学生が多くなるわけだ。
5月某日、せっかくプロジェクターがあるのに、私のPCにはつなげないので、学生に手伝ってもらってSpringでアダプターを買った。89RM。高い。だがこれで使える。
 釈尊生誕祭なので、行き帰り途中の寺に立ち寄って徒歩で往復。参詣客はさすがに多かったが、灌仏はしていなかった。午後にするのだろうか。
5月某日、JLPTの試験日が近づいてきたので、今週から7月の受験者・12月の受験希望者がいるクラスで聴解問題をやらせる。
5月某日、受講生の書いた作文を載せるため、「ボルネオ猫町・クチンあれこれ」というブログを作る。ameblo.jp/suseni
 今月は101、K8、K3A、K11、K7のバスに乗り、バスには乗るべきでないことがわかった。あまりにも運行系統も運行本数も少なく、時刻表もない。使いものにならない。交通手段には悩まされる。今までの派遣教師で中古車を購入した人がいたというのもうなずける。しかし、無駄なことは割合好きなので、残りのK10A、K17、B2にもいつか乗ってみようと思う。暇はあるのだし。趣味の領域だが。

 

札幌東京マラソン

 いささか旧聞だが、IOCによる強引なマラソンの開催地変更という事件があり、それについていろいろな意見があった。
 いわく、一生懸命準備をしてきたのに、IOCがそれを覆して一方的に決定し押しつけるのは不愉快だ。同意する。
 いわく、夏にやるのが根本的な間違いだ、秋にやれ。同意。しかし夏の時期にやるという条件で候補を募り、立候補して選ばれたのだから、そのあとでそれを言うのも根本的に間違いだ。
 要するに、オリンピック招致の際に嘘をついたということだ。7・8月の東京が「温暖」? 大嘘コンコンチキ、へそが茶を沸かす類である。福島の事故が「アンダーコントロール」などと首相みずから大見得切って大嘘ついたし。「コンパクト五輪」というコンセプトは結果的に嘘となったが、見通しの甘さはあったにせよ、こと志と反したのだろうからそれは責めないとしても。
 嘘つきなどと日本人だけが言われる筋合いはない。欧米や中国の嘘つきぶりにも大概なものがある。南米なんて嘘以外のことを何か言っているのかと思うしね。人類はそもそもホモ・ウソツキエンシスであって、言語を有し、したがって物語を有してそれを愛するのが人類だが、物語というのは嘘のことであるのだから。
 けれども、日本人がそう言われて反論できないのもまた事実である。韓国に対する輸出制限措置でも、明らかな報復なのに、輸出管理の問題だなどと誰も信じないことをいけしゃあしゃあと言っている。あんなのを信じるのはばかなネトウヨぐらいだ(いや、ネトウヨだって信じたふりをしているだけだろう。そうでないならあまりに愚かだ)。韓国がその措置に怒り狂っているのも、幾分かはその見え透いた嘘によるのだろう。
 「狡猾なジャップ」というステレオタイプは残念ながらまだ消えていない。たとえばラグビーワールドカップでのスコットランド協会会長の発言である。試合中止の場合は引き分けとするという項目がある大会規定に同意していながら、いざ台風襲来で日本戦が試合中止になりそうになると、引き分けでは自国はグループリーグ敗退になるので、延期してでも必ず実施せよ、中止されれば法的措置を取るなどと恫喝したあの件だ。引き分けでグループリーグ突破となる「狡猾なジャップ」が小ずるいことをやってくると警戒したのだろう。わが身が危うくなれば地金が出る。欧米人の本性が見えた真実の瞬間だ。

 この問題によってあらわになった日本人の特質、その1:日本人は間違いに気づいても正すことができない。
 間違いに気づいてそれを正すのはよいことだ。ドーハの世界選手権でのマラソンの惨状を見れば、これはまずい、こんなところでやるのは間違いだったと誰でもわかる。する前からわかるべきだが(これも誰でもわかるさ、きっとわからないふりをしていたのだ)、したあとで悟るのも次善である。データを見れば、真夏の東京はドーハと同じだ。それで対策を考えるのは当然のこと。まずいとわかったのちも、決まったことだからと粛々と破綻への道を進むのが日本人だが、百戦錬磨の戦争国家で育った欧米人(国民国家とは戦争国家のことである)はそうしない。手を打とうとするだろうよ。
(さらに言えば、日本には一度悪事を犯した人の更生を認めない狭量さも昨今認められるように思う。)
 その2:日本人は合理的な思考ができない。
 おそらくそれは欧米のエスタブリッシュメントの間では常識なのだろう。事実そうなのだし。東京の暑さ対策を見れば、打ち水だの朝顔だのと書いてある。のけぞるだろうね。
 札幌移転となったあとで、札幌も暑い云々と言っている人たちに議論させても無駄だ。暑さは最高気温によってはかられない。最低気温と湿度によってはかられる。朝夕涼しければ、その時間にやればいいのだ。最高気温を見るならば、シベリアだって夏は30度を超えるさ。
 東京で5時からというのは悪くない案だと思うが、早朝すぎてまずい。3時からというのは論外。単なる思いつきだ。河口湖のあたりでやればいいという意見もあった。賛成である。東京からも遠くなく、富士の麓でとてもいい。みずから早い段階でそう決めていればよかったのだ。札幌と決められたあとで言っても空しいだけだ。
 その3:日本人は決断ができない。
 札幌への移転を提案という形で持ち出せば、決断のできない日本人はああだこうだ言いながら責任回避を続け、時間切れでやっぱり東京になってしまう。断言できる。ならもう強権的に決めて押しつけるしかない。この事態の責任の大半は日本人の特性にある。五輪マラソンが救われたことに対し、IOCには非難どころか感謝すべきだろう。非難すべきはみずからの無能さだ。
 その4:問題をカネの問題、メンツの問題に矮小化する。
 それがもっともわかりやすいということだが、ことの本質を見極めようとしない性向とも一致する。残念なことだ。トライアスロンのようにほかにも開催地を変えたほうがいいものがあるのに、メンツを立ててこれ以上の開催地変更はないと政治決着してしまった。人身御供にされたわけだ。
 結論として言えば、この一件は日本人論のよい事例となった、ということだ。
 しかし一方で、日本人は、一見不可能に見えるが、チームとして力を合わせてがんばれば可能かもしれない目標を与えられたとき、ままそれを達成してしまう特性も持っている。先のラグビーで甚大な台風被害の直後にスコットランド戦実施を可能にしたスタジアムのスタッフのように。だから準備期間の短い札幌マラソンも成功させるだろうと信じている。

 東京都が怒っていい理由はたしかにあるが、日本全体を見ればこの決定はよいことだ。オリンピックも一都市開催でなく、サッカー、ラグビーのワールドカップのように広域開催するのが望ましい。光を一点に集中させるのではなく、より多くの人たちが光を浴びられるようにするほうがいいに決まっている。その最初の例にこのオリンピックがなるならば、もって瞑すべしなのではないか。
 しかしこの件で白日にさらされたのは、スポーツというのがそもそも温帯人による温帯人のためのもの、さらに正確には欧米人による欧米人のためのものであるという身もふたもない事実だ。東京の夏はほとんど熱帯である。つまり、熱帯や亜熱帯はスポーツをするところではない、と白人どもに宣告されたわけである。ただの一般マラソン愛好者であったコメディアンが、国籍変更すれば熱帯国のマラソン代表選手になれるという事実は、熱帯人はマラソンなんかしないし、する意味がないということを端的に証明している。冬季オリンピックなんていう雪が降らない、氷が張らないところの人間には参加すらできないものもやっているわけだし。雪も降り氷も張る温帯に一応属する東アジア人は、オリンピックを後生大事にして、欧米人による欧米人のためのものであったこの競技会をやたら尊んでいるけれども、夏の暑熱や湿気、台風襲来というこの国の自然に対し顔をしかめられるのは不愉快なことだ。スポーツするのはよいことだが、その根本特性にはよろしくない部分がいろいろある。