人は権力闘争を愛す

 あの日馬富士貴ノ岩の事件をめぐる貴乃花の騒動以来、女子レスリング、アマチュアボクシング、女子体操と、スポーツ界の騒動が続いている(日大アメフトの悪質ファウルというのもあったが、あれは競技中の事件であるから、これらの場外騒動とは全然種類が違う)。本来筆者に関係ないできごとであるし、情報源はインターネットのニュースに限られ、それも丹念に追っているわけではないので、口を出すことなどないのだけれど、どうもこれらの問題についてのマスコミの取り上げ方がおかしいと思うのだ。
要するに、すべて権力闘争じゃないのか?
 問題があるのはたしかだが、その「被害者」である人々が、「加害者」を攻撃するために問題をマスコミに持ち込んだ、というのがすべてに共通する構図である。そして、時の「実権者」を攻撃し追い落とそうとする側も、かなり問題のありそうな人々であるように見える。
 マスコミは基本的に事件に群がるパパラッチであり、ヒマな読者視聴者に売りつけるネタがほしい。新聞や雑誌、番組を埋める話題がほしい。喜んで書きたて言いたて、そのスポーツに特に興味もない読者視聴者もさも知ったような意見を言う(ま、これもそのひとつであるけども)。
 攻められている側は、なるほど責められるべきことはしているものの、功績の多い人である。功績がなければそのような位置にいるはずがない。功と罪を見れば、半ばより罪のほうがだいぶ多そうなのから、功が圧倒的に多く罪はわずかというのまで、いろいろバリエーションはあるけれど、功について疑うことはできない。その一方、攻めている側の「功」は見劣りするケースが多い。
 問題はたしかにあったわけだから、そのポジションから追われてもしかたがないのだろうが、旧権力者を追い落としたあとはどうなるのか、懸念を持たずにはいられないような攻城側の面々だ。彼らが問題視して攻撃した弊害の除去には務めるだろうが、一方で新たな弊害を生みださないようにしてもらいたい。

 通り一遍の興味しかないこれらのスポーツについては、一般的な希望を述べるだけだ。しかし好きな相撲(とサッカー)については違う。
 貴乃花に憤っている。と同時に、貴乃花の行動を支持する人が多いのに驚いてもいる。
 日馬富士貴ノ岩が殴られたという発端の事件はまことに奇妙だった。殴られた翌日の巡業に貴ノ岩が出ていて、日馬富士と握手をしたという報道を見ていたのに、その後貴ノ岩は姿を消し、貴乃花の「闘争」が始まっている。あれは幽閉監禁ではないのか? 弟子を道具にしているのではないか? あの程度のけがなら必ず治る。土俵ではもっとひどいけがをする。それより、ずっと閉じ込められている間、貴ノ岩が精神的におかしくならないかを案じていた。
 暴力がいけないというのは、一般論としてはそのとおり。しかし相撲なんて、蹴るのや拳で殴るのが禁止なだけで、突いたり張ったり投げ飛ばしたりするのを見せて銭を取る「暴力芸」ではないか。暴走族のアタマになりたいなんてのが入門してくる。竹刀で叩くぐらいのことならまったくOKである。暴力全般がいけないのではない。いきすぎた暴力がよくないのだ。あれはいきすぎた暴力だった。だから横綱が引退した。以上。終わり。
 栃ノ心は下のころ規則を破って親方にゴルフクラブで叩かれたというが、その親方を慕っている。叩くのはまぎれもない「暴力」だが、それがどんな文脈で、どんな気持ちで、どんな受け止め方でなされているかによって、その価値が決まる。ケースバイケースで、是々非々なのだ。一律の硬直した対応は誤るだけだ。
 その後の損害賠償請求も、2400万円という異常な額だった。本当に貴ノ岩自身がその額を要求しているのだろうかと不思議に思っている。本当ならそれでいい。妥当な額とはまったく思えないが、気のすむようにすればいい。だが、もしその額の決定が彼以外の者によってなされているなら、許しがたいと思う。が、これについての情報はないので、経過を見るしかない。
 彼は帰化して日本に永住するのだろうか。そうでなくて、引退後モンゴルに帰るなら、モンゴルの人生のコンテクストがあるだろう。そこにおいて不利にならないように切に望む。
 貴乃花が大横綱の一人であることは間違いない。だが、それをさも一大事のように、協会執行部の親方衆が彼より格下であることを何か決定的なことのように言う意見も見たが、呆れるほかない。それでは朝青龍と同じだ。横綱になって、大関止まりの親方の言うことを聞かなくなったあのモンゴルのきかん坊と。貴乃花のファンのほとんどは朝青龍を嫌っていると思うが、なに、同種の人間なのだ。馬脚が見える。
 あの全米オープン決勝でセリーナが見せた醜態を嗤う諷刺画に対し、人種差別云々(「でんでん」じゃないよ)の非難を浴びせる人々をも想起する。あの了見の狭いアメリカ人たちの思考様態が、シャルリー・エブドを襲撃したイスラム過激派と寸分たがわぬことをはしなくも露呈している。
 筆者もあの廃業親方とやや似たところのある性格だから、人ごとのように感じられなかった。実の母や兄と絶縁したような人格的にいびつな人に、組織の改革などできるはずがない。競技においては強ければいい。競技の外ではそうはいかない。

 争いをすればするほど、当事者は戦っている相手に似てくるものだ。一連の騒動において、そのことを肝に銘じておきたい。群がる蠅は追わねばならず、物申してよいのは愛する者だけだ。

2018/10/21 SeeSaaBlog

漢字を聞き、漢字を話す

村を歩いていて、バスに乗り遅れた。のども渇いていたので、次のバスが来るまでの間食堂で何か飲んでいようと思ったのだが、中国の田舎にコーヒーなどない。それはもとより承知だ。だから、暑くもあったのでコーラにしようと決め、「kola」をくれと言っても、全然通じない。何度か言ってだめだったので、結局ビールを注文した。「啤酒pijiu」は通じる。昼日中だし、アルコールなど飲みたくなかったのだけど。
コーラが好きなわけではないが、困ったときの「お助けコーラ」で、「kola」と言えば、それらしい店にはだいたい置いてあるし(国産のなんちゃってコーラの場合もあるけれど)、どこでも通じる。この点はアメリカニズムに感謝である。だが、さまざまな局面でそうであるように、中国は他国のように簡単にはいかない。
コカ・コーラCoca Colaは中国語で「可口可楽kekou kele」。口にすべし、楽しむべし。意も音も写した名訳とされる。字を見る分にはそのように感心もできるけれど、口にするとなると感じ入ってはいられない。「kele」は「kola」から遠いのだ。ピンイン表記の「e」は、「ア」でもなく「ウ」でもなく「オ」でもない音だが、断じて「エ」ではない。それを「e」と表記するのが困る(「k」が有気音なのも発音下手な日本人には不利に働くが、それは言わないことにして)。表記も困るが、音も困る。「kola」じゃないのだ!
タクシーtaksiも通じにくい。車体にTAXIと書いてあるのに。タクシーは意訳で「出租車」、音訳で「的士dishi」だが、これがtaksiと全然違うのだ。
外国語を移入する場合、それを意訳するか、または音訳する。言語が違えば音韻体系も違うのだから、当該言語の音韻体系に合わせる必要があり、その際けっこうな変改をこうむるのはよくあることだ(「ギョエテとは俺のことかとゲーテ言い」という川柳があるが、「ゲーテ」も「ギョエテ」同様Goetheではない。歌でも有名なハワイの山「カイマナ・ヒラ」は「Diamond Head」のハワイ語への写しだというし)。日本語もカナに音訳しているわけで、カタカナのとおりに発音しても通じないのはわれわれのしばしば経験するとおりだ。しかし中国語の場合はさらに一歩進んでいると思う。彼らは漢字に音訳する。その漢字を発音しなければならない。これがいろいろ困難の元だ。漢字は意味もからんでくるので、いっそう難度が上がる。
中国語も少し習っているが、もちろん話せるにはほど遠い。習っていてわかったのは、聞いて漢字が思い浮かぶことばは理解できる。思い浮かばなければ五里霧中。話すときも、漢字を中国語っぽく発音しているだけ。つまり、漢字を聞き、漢字を話しているのである。
奇っ怪至極な現象だが、たしかにそれは存在する。もちろん、日本人でもできる人、マスターした人は違うだろう。そうでなければ聞いたり話したりできるようになるはずがない。漢字はあまり知らずに達者に話す非漢字圏の人たちも大勢いるわけで、彼らにはそんな現象は発生しようがない。だが、私レベルの日本人に限って言えば、おそらく首肯する人は多いのではないか。
つくづく感じる。中国人も日本人も漢字と特殊な関係をもっている。それはアルファベット国民には理解も想像もできないことだ。礼賛論も撲滅論も湧き起こるのは道理だ。ひとつだけ確かなのは、非常におもしろいということだ。
2018/09/24 SeeSaaBlog

3年生がN1だって?

ロシアというのは昔のソ連で(そのまた昔はやはりロシアだが)、超大国として友好国から多数の留学生を受け入れていたため、留学生に対するロシア語教育に力を入れていた(今も入れているのかもしれないが、それはよく知らない)。大学によってはそういう留学生のためのロシア語講座を外国人教師にも無料で受けさせてくれたので、ありがたかった。安い給料の補いとしての価値もあった。
受講するねらいとしては、もちろん日常生活に必要な程度のロシア語は身につけたいという希望が第一だが、それとともに、自分の授業を受ける学生の気持ちを感じるためということもある。われわれが日本語で日本語を教えるように、そこではロシア語でロシア語を教えているのだから、外国語で外国語を教えられる学習者の身になれる。もうひとつには、対象言語は違うけれども、同業者から教え方のヒントを得たいということもある。そういう点で有効有益であった。
チチハルにも外国人のための中国語コースがあって、それを無料受講させてもらえたので、週1回ほど教室に出てみた。近いためにロシア人が多く、そのため教師もロシア語ができる人が多い。基本的に中国語で教えるが、ロシア語の説明も多用する。ロシア人のほかに韓国人やモンゴル人もいるのだが、その人たちにとっては迷惑なことだろう。
しかし、学習者の気持ちを体験できるという点はロシアのときと同様によかったが、教授法でのヒントなどはまったく得られなかった。教科書を読ませるだけなのだ。当て方もアトランダムでなく席順通りで、緊張することもない。自分ならこんな教え方はしないという反面教師の意味はあったが。中国語は発音は難しいものの、語形変化がないので代入練習などはものすごく簡単だ。「我想吃飯」の文に「回去」を代入すると、「我想回去」となるだけ。「私はごはんが食べたい」に「帰る」を代入すれば「帰りたい」と活用の練習になる日本語とは違う。単に口慣らしになるだけだ。
練習問題の答えをピンインで書いていると、漢字で書きなさいと言われる。いやいや、漢字なら簡単すぎるよ。ほかの学生に漢字を覚えさせるためそうしているのだとはわかるが、漢字で書くならば、ロシア人学生が四苦八苦するのを尻目に、早々と書き終えて退屈する。ピンインで書かされれば私も四苦八苦するのだが。
中国語の発音は難しく、加えて四声がある。英語を考えてみればわかるとおり、これは私個人にとどまらず日本人一般の苦手とするところだと思う。この点ではロシア人に大きく劣る。会話力についてもロシア人に劣るだろうと思うが、しかし筆記試験をやらされれば、日本人は本来の能力以上の点を取るだろうと確信できる。漢字を知っているからだ。


そのことは中国人の日本語学習からも明らかだ。それは日本人の中国語学習の鏡映しであるだろう。
初めて中国で教えることになったとき、空港に学生2人が出迎えに来てくれた。それまでの非漢字圏での教授経験から推して、一人はまずまず話すから日本語能力試験のN2レベルだろう。もう一人はほとんど話せず、聞き取りもよくできていないから、N3か、あるいはそれ以下かもしれないと思った。しかし、実は両人ともN1に合格していたのである。
中国では、卒業までに地方大学でも学年の3分の1から半分がN1に合格する。優秀な大学ならもっと多いだろう。1年次ゼロから始めての話である。非漢字圏では、卒業までにN2合格を目標とする。そして、目標に到達するのは優秀な学生数人にとどまる。そのように証書の上では大きな違いがあるが、そのことは中国人学生の日本語力が高いことをまったく意味しない。全般的な能力では両者に違いはなく、読解力と漢字知識において中国人学生に大きく劣るものの、聴解力と会話力では非漢字圏学生のほうがずっと立ち勝る。
日本語能力試験では、四技能のうち「話す」と「書く」の問題はない。しかし「読む」と「書く」、「聞く」と「話す」には表裏の関係があるので、ある程度は「書く」「話す」能力も反映していると考えることはできる。とりわけ「聞く」と「話す」は不可分で、聞き取れないことは言えないし、言えないことは聞き取れない。それは発音、たとえば英語の「r」と「l」を考えてみればよくわかる。この弁別は、聞き取れないから言えないのか、言えないから聞き取れないのか、いずれにせよ言い分けられない・聞き分けられないが不可分であることを示している。だから、聞き取れないなら話すこともできないだろうと推定できるし、その逆も言える。そして、言語の本質は話すことにあり、話すことが根幹であるのはまちがいない。その点で、流暢に日本語を話す非漢字圏のN2合格者の能力は、ろくすっぽ話せない中国のN1合格者より高い。
非漢字圏学生が苦手としない(むしろ得意とする)聴解問題を、中国人学生は難しいと口々に言う。彼らは聴解に関してはN3レベルである。それはつまり、実際の実力はN3だということだ。難しいに決まっているさ、N3の者がN1を受けているんだから。しかし読解問題は逆に、N3レベルでN1の問題にまずまず答えられる。この摩訶不思議の鍵は、むろん漢字である。
非漢字圏の学生が難問とする読解問題で、漢字圏の学生は得点を稼ぐ。その光景は聴解の裏返しだ。N2(中国人N2)程度でも、対訳本(中国にはけっこうある)でない日本語の小説や新書、専門書を読んでいる者がままいるのも、漢字あるゆえだ。ただし、その「読解力」というのは「黙読」解力なのである。音読させると全然だめだ。訓読みはもちろん、音読みも難しい。音読ができないというのは、言うこともできず、聞き取ることもできないことを意味する。発語せず、文字を書いて会話する筆談という世界に類を見ないコミュニケーション方式と表裏一体の現象だ。
カタカナ習得においても漢字圏・非漢字圏の違いが現われる。中国では日本語専攻なのに2年生3年生になってもカタカナをしっかり覚えていない者がいる。彼らにとっては外来語、外国の地名人名で見るだけで優先度が低いからだ。だが非漢字圏では、まず学習者自身の名前がカタカナで書かれるし、彼らと関わりのある地名や人名がすべてカタカナだから、むしろひらがなより先にカタカナを教えてもいいくらいだ。そして、彼らの悩みの種の漢字学習においても、カタカナは重要である。カタカナは漢字の一部からできたものだから、たとえば「外」はカタカナの「タ」と「ト」、「加える」は「カ」と「ロ」というふうに覚える助けになるのだ。それはしかし、もとから漢字を知っている中国人には無用のことがらである。


インターネットである人が中国人のN1はTOEIC600点ぐらいのものだと書いていて、なるほどと思った。もちろん、これは600点以上ということで、それよりずっと能力の高い者も含むのだが、ぎりぎり合格するような者はまあその程度と考えてさしつかえない(読解力を除いて)。
TOEIC990点満点中、Cランクは470-725点、Bランク730-855点、Aランク860点以上とされるが、非漢字圏ではこのAランクがN1、BランクがN2に相当すると考えていい。
Aランクの場合、「自己の経験の範囲内では、専門外の分野の話題に対しても十分な理解とふさわしい表現ができる。Native Speakerの域には一歩隔たりがあるとはいえ、語彙・文法・構文のいずれをも正確に把握し、流暢に駆使する力を持っている」のだそうだ。いかにも、それがN1で、それ以外のものであってはならないのだ、本来。
能力の目安として、600-700点の人は「ゆっくりと配慮して話してもらえば、目的地までの道順を理解できる。入国管理官に、滞在場所、期間、旅の目的を英語で聞かれた時、質問が理解できる。自分宛てに書かれた簡単な仕事上のメモを読んで理解できる」などという悲しいことが書いてある。それはN2レベルですらない。さらに、500-600点には、「打ち解けた状況で、“How are you?” “Where do you live?” “How do you feel?” といった 簡単な質問を理解できる。電車やバス、飛行機の時刻表を見て理解できる」というもっと悲しいことが書いてある。
世界は漢字圏と非漢字圏に截然と二分される(韓国・北朝鮮も含まれるのだろうが、漢字圏は実質中国一国で、ずいぶん不均等な二分法に見えるかもしれないけれど、忘れてはいけない、人口で考えれば14億とそれ以外だから、決して不釣り合いではない)。非漢字圏のN1・N2レベルと漢字圏のそれとは大きく食い違い、2つの異なった試験のようだ。大学3年でN1合格等々の漢字圏の常識は、非漢字圏のとんでもない非常識。逆もしかり。非漢字圏では、N1はもちろん、N2でも輝かしいゴールであるのとかわり、漢字圏ではN1はこれから会話力をつけるためのスタートラインだというふうに理解すべきである。
漢字、漢字、それを使う人々を結びつけ、使わない人を遠ざける絆にして障壁。古代エジプト人だけがわかってくれる、われらの空飛ぶ足枷。

ワールドカップ・漢字カップ

今回のワールドカップは中国で見たので、必然的に漢字とにらめっこすることになった。
中国でワールドカップを見ることは、つまり膨大な漢字表記の固有名詞群を解読するということである。中国に暮らしている人、中国語で生活する人には普通の日常で、何を今さらと笑われてしまうことなのだろうが、中国に生活する時間は長くても、ずっと日本語生活を貫いてきていた者には、今さらな新しい経験だった。何となく前世紀前々世紀の東洋学者になったような気分だ。
中国には周辺民族に関する記録が山ほどあって、学者にとっては宝物庫なのであるが、それが全部漢字で記されているので、それがほかの記録にあったり現在使われていたりする地名人名のどれに相当するのかを検討しなければならず、かつての東洋学の主要な任務は漢字名の解読比定であった。白鳥庫吉桑原隲蔵などのビッグネームが、大宛国貴族山城弐師城は現在のどこに当たるかをめぐって華々しく論争していたさまを、ワールドカップ出場国名選手名を見ながら追体験できる。そんな楽しみ方もあった。「颯秣建」はサマルカンド。西方の乾いた風が頬を撫でていくようだ。「烏拉圭」なんて、絶対あの頃の西域の国の名前だよ。ウルグアイピンインで書けばwulagui)と知るのはちょっと失望だ。
瑞典」「瑞士」は日本でも使うので知っていたが(ただしスイスは日本では「瑞西」)、「瑞」の発音は「rui」であって、それぞれ「Ruidian」「Ruishi」なのはおもしろい。日本語の音読み「ズイデン」「ズイシ」のほうが原音に近い。スウェーデン・スイスを「瑞典」「瑞士」と表記するようになったのがいつごろなのか知らないが、早くても明代だろう。そのころは「スイデン」「スイシ」といったような発音で、「瑞」は「スイ」だったのが、いつからか「ルイ」に変わったのだなとわかり、何となくうれしい。日本の漢字音のほうが昔に近いということも。
巴西」はひどい。ブラジルのことだが、発音は「パーシー(ピンインでBaxi)」でBrazilとは全然違ううえに、あれじゃ意味も「四川西方」になってしまうだろう。日本での漢字表記「伯剌西爾」(だから日伯協会がある)のほうが適当だと思うのだが、あの表記は日本人が独自に作ったものなのか? 日本の米・仏・独・伊・露が中国では美・法・徳・意・俄であるように、日中で異なる表記もあるけれども(西・葡・墨などは同じ)、ブラジルもその一例になる(なお、かつての中国は周辺民族にケモノ偏や虫偏の文字を当てるいやらしい国だったが、近代欧米諸国には好字を当てているのは何か事情があったのだろうか)。
「丹麦」(たんばく:デンマーク)「比利時」(ひりじ:ベルギー)は、知ればなるほどとは思うものの、これ、普通名詞に受け取られないか? 「赤い麦」とか「利を比べる時」とか。ウラジオストクは漢字で書けば「征東」とか「鎮東」の意味だそうだが、後者なら中国にもどこかにありそうだ。承徳・大慶・大同・保定等々、あの国には普通名詞(抽象名詞)と区別できない地名がかなりある。たいていうれしそうな名前だ。人名でも、令計画なんて人もいたし、丁寧という卓球選手もいる。こんなの普通名詞だろう。英米にもWhiteさんもいるしBlackさんもいるが、固有名詞は語頭が大文字なのでわかる。日本語の場合は、外国の人名地名はカタカナ表記だし、漢字名も前後が助詞(ひらがな)で囲まれているからそれとわかる。漢字はそれぞれの文字に意味があり、かつ分かち書きをしない点からも、普通名詞と固有名詞の区別がむずかしいと思うのだが、中国人はあれで大丈夫なのか? 昔の漢籍は固有名詞を普通名詞と混同しないために、固有名詞には傍線を引いていた。現代でもそれは必要なように思うのだが。
実況は中国語だから聞いたってわからないけれど、人名は何とかわかる。しかし、デンマークチームに「アレクサ」という選手がいるみたいなのだが、誰だ?と思っていたら、エリクセンEriksenだった。漢字で「埃里克森(ailikesen)」。どうもアナウンサーには、アルファベットを見て発音している人と漢字を見て発音している人がいるようだ。ポグバPogbaのことを「ポバ、ポバ」とg音がほとんど聞き取れない言い方をしている人もいた。あれはアルファベットを見て言っている。漢字なら「博格巴(bogeba)」で、日本語同様「グ」が入る発音になるはずだ。
漢字で書かれると本当に困る。「克里斯蒂亚诺·罗纳尔多」だものねえ。「梅西」ぐらいならいいんだけども。サッカーでは新しい選手が続々と現われる。どうやって彼らの漢字表記を決めているのだろう。中国語には405の音節があるというが(プラス四声)、この音節にはこの文字を当てるというのが決まっているのだろうか。たぶん機械的に当てはめているのだろうが、その際声調も考慮しているのだろうか。私が知らないだけで、きっとルールはあるのだろう。そのルールを一般の中国人も知っているのかな? 旅行中外国人と知り合いになって、その人の名前を日記に書くときはどうする? 何にせよ、面倒だ。カタカナがあってよかったとつくづく思う。


また、この大会は中国企業がスポンサーに多く名を連ね、すべての試合で漢字の広告を見ることになった。スマホvivoや家電のHisenseのように世界市場を目指している企業がスポンサーになるのはわかるのだが、国内企業に過ぎないと思われるところまで莫大なスポンサー料を払っているのは驚きだ。あれは結局国内向けなのだろう。だから漢字でいいというか、漢字でなければならない。国内消費者獲得のために、国際大会(世界一の人気で、それに見合って広告料も恐ろしく高い国際大会)に広告を出す。国内需要を満たせば巨大企業でありうる中国の事情が見える。国内事情を国際場裡で押し通す。国際常識が通じないというか、超越している。ま、おもしろい国であることはたしかだ。

獣種差別

ソウル五輪のときよりはずっと静かだったようだが、平昌五輪に際してもやはり犬肉が問題になった。だが、人を食いはすまいし、何を食べようがかまわないではないか。日本人として犬を食べるのは趣味のよいことだとは思わないが、そんな悪食の連中はバカにしてからかっていればいいだけだ。イギリス人がフランス人を「蛙食い」と呼ぶように。目くじら立てるようなことではない。それは日本人がクジラやイルカを食べるのにとやかく言われたくないのとまったく同じだ。


何を食べて、何を食べないか。それは文化によって決まるが、文化における最大の決定要素である宗教の占める役割がここでも大きく、宗教によって決まることが多い。イスラム教、ユダヤ教では豚を食べないし、ヒンドゥー教では牛を食べない。ブラーミンは肉自体を食べない。仏教僧侶も菜食である。仏教の影響を受けた近代以前の日本では原則四つ足を食べなかった。人間のために労役をしてくれ、暑い日差しのもと野良へ行く牛のために、傘をさしてやっている光景は幕末明治期の欧米訪問者の書き記すところであり、そのような牛を食べることは百姓には考えられなかった。イザベラ・バードは「奥地」旅行中何としても肉が食べたくて、当時の日本の田舎で唯一手に入る鶏を買ったが、食べるためと知って取り戻しに来た農婦もいたのだ。四つ足は食べず、足のない魚を食べて動物性蛋白質を摂っていたいた日本人が、同様に足のないクジラを食べてどこがいけない?
欧米と中国はさまざまな点で似ている。大酒飲みの豚喰らいで、紙で尻を拭くなど。逆にイスラムとインドは、肉の禁忌や酒を飲まないこと、水で事後処理することなど、共通点がいくつもある。本当に何でも食う中国人には一籌を輸するが、欧米人も基本的に何でも食べる人種だ。では、彼らは何の肉を食べ、何の肉を食べないかを考えてみよう。
肉食獣を食べない。
海棲哺乳類を食べない。
霊長類を食べない。それは彼らの居住地(北辺寒冷地である)にいないことが大きな要因だが、霊長類は(海棲哺乳類も)知能が高いことも一因だろう。
虫や蛇を食べない。ただし蛙やカタツムリは食べる(ワニも)。
そして、草食獣を食べる。
肉食獣を食べないこと自体は合理的である。捕獲がむずかしい上に、危険である。食物連鎖の頂点だから、数が少ない。数が多く、捕獲や飼育が容易であるものを食べるほうがいいに決まっている。
だから、肉食獣の獲物である草食獣を食べるのも合理的であるけれど、思うに、彼ら自身おそらく自分を肉食獣の同類と見ている。仲間だから食べない。同類のシンパシーだ。
肉食獣の例外は犬と猫である。犬猫の捕獲や飼育は容易だ。数も多く、いま先進国と言われる国でも昔は野良犬がうろうろしていたし、現実に人間の子供には食い殺される危険があった。それを捕って食べるのは合理的なはずだ。猫(野良猫は今も多い)は肉量が少ないが、同様に少ないハトやウサギは食べているではないか。
彼らを食べないのは、ペットだからというより、彼らが肉食獣だからだろうと思う。肉食獣は食物連鎖上の高位であり、狩りをするのだから知能も高い。この点がポイントだ。要するに、欧米人は彼ら独特の認識による「高等生物」を食べないのだ。それは「獣種差別」であって、その「獣種差別」は人種差別とも表裏一体である。
牛や豚を食べなかった江戸時代の日本人を見下し、あたかもそれを食べることや獣の乳を飲むことが文明人の要件であるかのように押しつけ、昔からずっと食べてきたクジラを捕ろうとすれば根拠のない非難をする。価値観の強要だ。そしてそれが行動に現れると、好戦的戦闘的なシーシェパードのような形となる。第二次大戦以後先進国(つまり欧米)において戦争は現実的な対立解決法として取りえなくなっているので、彼らの野蛮な戦闘意欲がそのような形で現われているのだろう。人種差別が一向になくならない一方でそんな不埒なことをしているのだから、おそらく犬やクジラは有色人種より高等だとさえ無意識のうちに思っているのだ。
彼らとは違う基準で食べるもの・食べないものを分けているという簡単で筋の通った理由をことさらに無視するのは、一言で言って傲岸不遜である。捕鯨反対を唱える日本人や犬食反対を掲げる韓国人もいるのだが、洗脳ということばはイスラム過激派についてでなく彼らについて言われるべきである。


人間は何を食べてもいいのである。イモムシでも、ヘビでも。文化によって何を食べ、何を食べないかは異なる。それだけのことだ。人類に普遍的な基準は存在しない。
あえてルールを考えれば、1.人間を食べてはいけない。
なぜかと問い詰められればしかとした答えはできかねるが(食人種というのもあったし、共食いをする生物はいろいろある)、やはりこれはまずいだろうし、大方の人類の賛同を得られるだろう。
2.絶滅の恐れがあるものは捕らない・食べない。
これも理性的な規定で、反対する人はいまい。本当に絶滅が危惧される鯨種を食べようと思う日本人はいないだろう。タスマニア人を絶滅させた前科者がうろうろしているから、必要なルールである。
普遍ルールの3は、殺したものは食え、食わないものは殺すな。
娯楽のための狩りをし、趣味の殺生をする白人ハンターは許しがたい。しかも卑怯な飛び道具を使って。丸腰の若年個体を無差別に銃撃するスクールシューティングはその延長だ。捕鯨よりも犬肉よりも、まずこれを何とかしろ。殺したあと食うならこのルールには抵触しないが、ルール1に反する。やはりだめである。
「獣種差別」(それは人種差別の異なった地平への現われだ)をする白人にだまされてはいけない。普遍ルールを守ってさえいれば、あれこれ言われる筋合いはないのだ。
(6月4日、避難中のSeeSaaブログ sekiyoushousoku.seesaa.net に掲載したものを再掲)

田舎観光のために

石見地域の観光業ははかばかしくない。近年海外から日本へ来る観光客の数が驚くほど増えていて、できればそれを招き寄せたいものだが、この地域には観光資源がほとんどない。わずかに津和野や石見銀山があるくらいで、それも石見全体から見れば偏った位置にある。津和野は島根県民以外には山口県と認識されているに違いないし、石見銀山は「出雲銀山」のようなもので、出雲大社から足を延ばすという訪問のされかたが多い。結局のところ、石見の観光となるといわゆる「田舎ツーリズム」によることになってしまうだろう。
その「田舎ツーリズム」にしても、外国人に対してはどういうものを提供したらいいのか。日本人が相手でも、田舎と都会の感性は異なるためいろいろ齟齬する点があるのに、外国人となると、こちらの興味の持ち方とはまるで違った感じ方をすることが多く、なかなか測りがたい部分が大きい。モニタリングが必要であるゆえんだ。
外国人観光なら、すぐ近くに旅行意欲の高い巨大人口があるのだから、これをまずターゲットとすべきである。中国人の旅行目的が一時の爆買いに見られるモノ消費から体験型のコト消費に移ってきているというのは、「田舎ツーリズム」にとっては追い風になることだが、そこでも彼らが何を望み何を喜ぶかを正しく測ることが肝要になる。
何事でもそうであるように、大切なのは「敵を知り己を知る」ことだ。自己認識と他者の認識は食い違う。人間は自分の都合のいいように考える傾向がある(田舎ほどその傾向が強い)。相手を知りたければ、こちらで勝手にこうだろうと決めつけず、相手に教えてもらうように努めるべきである。こちらで考えたものを押しつけるのでなく、自分で見つけてもらう。そのためにはモニターツアーを行なう必要があり、それについて従来のものとは違う積極的で多角的なモニタリングを提案したい。それは、日本語専攻の中国人学生を多数招くというプランである。


具体的にはこうである。
・中国の大学で日本語を学んでいる学生10人を2週間招待する。
・広島空港までは自費で来てもらい、そこからは送迎を含めて無料。
・宿舎は、大きめの空き家を借り上げて整備し、そこに共同生活。畳の上に布団。中国の大学は全寮制で、集団生活には慣れているので問題はない。Wi-Fi設備は必須。
・食事は、朝夕は炊事当番を決めて自炊。食材はこちらから地産のものを提供。もちろん毎日中華料理を作るだろうから、イノシシ肉やシカ肉、魚を与えれば、ジビエや魚料理の中華風ヴァージョンのアイデアをもらうこともできるのではないか。
・交通手段として、自転車を提供するほか、運転手つきの車3台を常駐させる。運転手は学生アルバイトで、世話係を兼ねる。
・午前中は日本語教室。地域のボランティア教室の教師の応援を頼む。日本語教師をしていない地域住民もまきこんで、歌や方言を教えてもらうのもいいだろう。生け花などの文化も教える。詩吟の手ほどきも、漢詩の日本的受容としておもしろかろう。
さらに、教えるばかりでなく、教えてももらう交流の場にもしたい。中国人学生が地域住民に簡単な中国語会話の手ほどきをするとか、太極拳や今むこうの中高年女性に大人気の広場舞を教えるなど。書道交流も考えられる。漢字については交流し、ひらがな書道を教えるというような。日本と中国の料理を相互に教え合うのもいい。学生にとっては、ただ授業を受けて教わるだけでなく、教えることで日本語の運用能力を高めることができる。
・午後および土日はさまざまな観光プログラムに参加する。
こちらでもあらかじめ各種のプログラムを用意するが、学生のほうでこんなことをしたいという希望があれば積極的に取り上げる。
こちらで用意したプログラムについても、決して全員で統一行動をとらせるのではなく、それぞれ選択自由、希望者のみが参加し、車1台に乗れるほどの少人数で行動する。できるだけ多くの経験をしてもらうことと、それぞれのプログラムの人気を測る「投票行動」ともなることを期待して。大学で言えば、午前は必修科目、午後は選択科目で、自分で選んで自分の時間割を作るということだ。
プログラムの案としては、
・県内観光旅行(津和野、石見銀山出雲大社、松江等々)
・石見神楽鑑賞、笛・太鼓・舞を習う、面作り体験
・水泳教室(中国人には泳げない者が多いので需要があるだろう)、海水浴、浜遊び、アクアス見学(バックヤード見学も含む)
江の川でカヌー教室/三瓶登山(火山の例として)/高島渡航
・キャンプ
・温泉めぐり
・磯釣り/川釣り/魚市場探訪/大魚解体実演
・紙漉き/木工/焼き物体験
・和裁(自分のゆかたを自分で仕立て、夜に庭で花火)
・ゲートボール/空手・柔道など
・旭の刑務所見学
・滝行
・祭りがあればそれを参観
等々が考えられるが、ほかにもいろいろあるだろう。


参加者の義務としては、最終日に最もよかった体験を報告する発表会を行なう。スマホがあるので写真や動画をふんだんに使うことができるだろう。地域の人たちにも来てもらう。レポートをまとめて発表するのは、彼らの日本語の勉強にもなる。それを文書でも提出し、また発表のあとディスカッションもして、人気不人気の点、問題点改善点を検討して、今後のツアー作りの参考とする。
また、SNSで発信してもらう。学生だから発信力は高くないが、かける10として数量でいくらかは補える。
基本的にすべて日本語で行ない、通訳が必要な場面では国際交流員に頼む。
これを1年だけでなく少なくとも3年間続けて、さまざまなデータや経験を蓄積する。


このプロジェクトには3つの目的があり、それぞれに効果が見込める。
主目的である
1.ツアー開発のための観光モニター
のほかに、
2.地域住民の国際交流
ともなり、地域に刺激を与え、活気を呼ぶこともできるだろう。
さらに、
3.知日派育成への貢献
もろもろの悪しきことどもの温床である無知の領域を縮め、日本語教育に力を添えて、わずか10人とはいえ中国人の日本語力を上げ石見をよく知る人材を育てるのは、よい種まきとなろう。


日本語専攻の学生を使ったこのプロジェクトは、双方にメリットがある。学生はコストが安く、フットワークが軽く、将来性もある。得るもの多く失うもののない(金銭的にも少ない)試みだと思うが、どうだろう。
(5月5日、避難中のSeeSaaブログ sekiyoushousoku.seesaa.net に掲載したものを再掲)

リトマス監督解任一件

サッカー代表監督の解任一件で、ヤフーのコメントにこんなのがあった。
「先生の新しい課題が難しいので、校長先生に言ったら先生を替えてくれて、古い課題でよくなった」。結局そういうことなのだ。ザッケローニのときも試合中の4バックと3バックの併用という課題をこなせない生徒だったし。あのときは先生が課題を取り下げてくれたが、今回は決して取り下げない頑固な先生だったので、先生のほうが取り替えられた。


実に腹立たしい事件だった。卑怯卑劣なだまし討ち。背後からいきなり斬りつける。まあだいたいがだまし討ちをするのが好きな国民性ではあるのだが。
解任せよ解任せよと無責任に書きたてるマスコミに対し、サッカー協会はそんな無責任なことはすまいと思っていたが、実は無責任だった。
長い目で見ることができない人たちにはうんざりする。マスコミも、解任を叫ぶ一般のファンも、結局目前の親善試合に多くを求める消費者の姿勢でしかない。自分で勝手にノルマを決めて、次の試合(テストマッチにすぎない試合)で結果を出せと勝手に要求して、それが出ないと解任を書きたてる程度の低い評論家が多すぎる。売れる記事を書かなければならない生業だからやむをえない面はあるが、ジャーナリズムの本質が日銭稼ぎであることを知らしめる好例となっている。
彼に与えられたミッションは、W杯予選通過と本選での結果(グループリーグ突破)のはずだ。そのひとつは果たし、もうひとつも果たすべく鋭意準備中だった。もしそれ以上に求めることがあるならそのつど監督に伝えるべきだし、次のテストマッチでこれこれの結果が見られなければそれ相応の行動を取るとでも言っておけば、それ相応の試合をしただろう。それをしないでおいて、しかも試合後には続投と言っておきながら解任するのでは、激怒するのが当然だ。
彼のサッカーが日本人に合わないという意見には同意する。時に厳格すぎると思えるくらい厳格だということも含めて。しかし日本人によく合うサッカーが世界の舞台で通用するかについては、もはやブラジル大会で結論が出ているではないか。それに改善を施さねばならないので彼が招かれたのではないのか。もの忘れの激しさには驚いてしまう。同じことを飽きもせず繰り返す根気のよさにも。弱い中国軍に連戦連勝して勝った勝ったと提灯行列をするメンタリティから抜け出せていないのだ。アメリカにコテンパンにやられたことはけろりと忘れて。アジアですら弱小だった時代を、その時代を見てきた人たちもすっかり忘れているようだとも思う。欧米に勝てるように、強豪国に競り勝つ戦いができるようにあの監督を招いたのではなかったのか。
代表に何を求めているのかをはっきりさせなければいけない。世界大会で勝つことか、親善試合でときどき勝ったり善戦したり、負けてもビューティフルゴールをひとつほど決めることなのか。ハリルホジッチは「私が厳しいのではない。ワールドカップが厳しいのだ」と言った。そのとおりだ。
いくら体格が向上したといっても、日本人はやはり背が低いし、細い。体格のハンデを敏捷性・チームワーク・テクニックで補おうというのは正しい。しかし、そうしたところで強度の問題は回避できない。強度の要求を突きつけ続けたのがハリルホジッチだった。それは無理な要求ではない。猛特訓を課したラグビーのエディージャパンを例に挙げないことにしても(ラグビーナショナルチームには血統日本人・国籍日本人でない日本在住外国人もメンバーたりうるから)、プロ野球のトップ選手11人でチームを作ったらけっこうなフィジカルモンスターチームになるはずだ。藤浪や大谷がワントップにいたら怖いよ。相撲に進んでも三役ぐらい行きそうなのもいるし。要するに、野球選手のような練習を欲しない連中がサッカーをやっていて、彼らが協会に君臨しているということではないのか、という疑問は持っていい。


ザッケローニのとき、メンバー固定が非難された。世代交代が言われた。海外組偏重でなくもっとJリーグの選手を使えと主張された。
ハリルホジッチは全部やったんじゃないのか?
選手選考にはもちろん自身の好みもあったし、戦術への適合性による偏りもあったけれども、かなりフェアだった。一度呼んで、失敗すると外し、調子がいいとまた呼んで重用しようとしていた大島が好例だ。好みの選手であるらしい井手口や宇佐美も、クラブで出ていないときは呼ばない。その基準をほぼアンタッチャブルのスターである本田や香川にまで適用していた。
彼は、自分は「政治」はしないと言っていた。忖度や裏取引はしないということだろう。そして思い切った「冷酷な」決断をする。その彼に対して、協会は「政治」をした。テストマッチで負けたことを解任理由にせず、「選手とのコミュニケーション」などという理由で解任を告げたが、「政治」をしないあの監督にはそれは全然通じない。


日本代表はいつの間にかロートルチームになってしまった。オーストラリアもそんなチームだったが、若返りに成功し、今や日本がかつてのオーストラリアだ。
世代交代の失敗のみじめさは、なまじW杯で優勝したばかりにその優勝メンバーの陣容が続いて、哀れな末路をさらしたドイツやイタリア、いや、何よりも身近になでしこジャパンで見ているのだから(なでしこの場合は不可解な宮間の失墜もあるが)、手を打たねばならない。だが、手は打ったのである。あの監督は積極的に若手を使ったし、国内組の選手にもチャンスを与えた。しかしそれをものにできておらず、この時期になってもどんぐりたちが背比べしている。監督の責任ではない。結局遠藤が抜けただけのブラジル組が主力のままで、まして大会直前に日本人監督に代わったのなら、ブラジル大会第一戦とほとんど同じメンバーがロシア大会第一戦の先発に並んでいるのではないかと思えてしまう。笑えない冗談だ。ドイツやイタリアは優勝という輝かしい成功のあとの凋落なのに、日本は情けない失敗のあとにさらに凋落するつもりなのか?


本田や香川が本大会メンバーから外される恐れはあった。あの監督は、調子が悪いとか使う局面がないと判断すれば、躊躇なく彼らをも外すだろう(岡田監督がカズを、トルシエが俊輔を外したように)。
これまでも、本田を外せ、香川を外せという声はあった。そう言われてしかたがない低調なパフォーマンスだった時期に。しかし、ハリルホジッチが実際に2人プラス岡崎を外すと、非難の声が湧きおこる。じゃ、どうすりゃいいんだい?
「ビッグ3」なんて言葉は、あの3人がそろって外されるまで存在していなかった。外されてから突然そんな言葉が言われだして、今ではスポーツ記者用語辞典に登録されている(「ビッグ3」と言うなら、本田・香川とインテルにいた長友だろうに。スモールクラブにしか所属したことのない岡崎ではなく)。
どうせ負けるなら本田香川で負けろということなのか? 本田には、北京五輪で監督の指示に従わなかったり、ザッケローニのときもハーフナーが入っているのにクロスを上げなかったりなどの前科がある。メッシやマラドーナなら監督をクビにしてもかまわない。彼らが気持ちよくプレーすれば勝てるのだから、監督はそのための環境整備係でいい。だが、日本にそんな選手がいるのか? まさかそれが本田や香川だと言うんじゃあるまいな? ブラジル大会の前、W杯優勝などという人に聞かれたら恥ずかしくなるようなことを真顔で言っていた選手がいた。選手の発言力に関してだけは優勝候補チーム並みのようだ。


その前のアギーレも解任されていた。彼のときにもマスコミはさんざん解任しろ解任しろと書きたていていた。彼の解任にも反対だったが、しかし消極的賛成をせざるをえなかった。八百長疑惑の先行きが見えないので。つまり、W杯直前になって裁判その他で解任せざるをえない事態になることを恐れたからだ。そんなことになったらとんでもない混乱だ。その恐れていた事態を、今回サッカー協会が自発的に(不必要に)起こしているのにはあきれてしまう。
アギーレの場合、アジア杯で敗れたタイミングで、そのアジア杯で敗れたことを理由にせず、彼のサッカーを高く評価した上で穏便に解任を納得させた。「政治」をして、このときは成功した。アギーレは今も日本に好感を持っているらしい。だからまた「政治」をして、「政治」をしない頑固な老人を激怒させている。


ブラジル大会は何だったのか?
日本が支配し圧倒して勝つという「日支事変サッカー」がああいう舞台では通用しないことをまざまざと知らされ、それゆえ強豪国に勝てるサッカーを目指したのではなかったのか? そのためにはハリルホジッチの戦術も厳格さも必要なものであった。だからあの監督は真剣に真摯に改革をしてきたのではなかったのか?
本大会出場を決めたオーストラリア戦はすばらしかった。相手がボールを持っていても決定機を作らせず、効果的に点を取った。日本がいつもやられていたパターンだっただけに、爽快だった。あれをまた見たい、対戦相手や局面に合わせて戦い方を変える変幻日本をみてみたいと思っていたのに、その希望は断たれた。
たしかにザッケローニからハリルホジッチに代わって、極端から極端に振れた感じは否めない。だが、進歩のためにはそんなジグザグの道もしかたがない。
むろんあの戦術で結果が出たかどうかはわからない。解任された今となっては永遠にわからなくなってしまった。しかしあのオーストラリア戦を見た者としては期待をしていたし、3年間の努力がどういう形になって現われるか最後まで見届けたかった。
それを直前になってご破算にする。
結局、ブラジル大会のサッカーをブラジル大会のメンバーでまたやるわけだ。4歳老けたメンバーで。やんぬるかな。
しかし、よもやむざむざとブラジル大会の再戦はすまい。この3年間の遺産がそこここに生かされることを希望するのみである。
「永遠にわからない問題」は人を魅了する。「ハリルジャパンのロシア大会」はそんなものと化してしまった。銀座パレードの幻とともに。今は、失ったものを嘆き、伝説のひとつを得たことを慰めとするしかあるまい。嘆きもまた美しいもののひとつだから。


ハリルホジッチ前監督に感謝したいことはいろいろあるが(胸に輝くくまモンバッジとか)、サッカー批評家連をふるいにかけられたというのもそのひとつだ。彼が監督になる前から信頼できるサッカー批評家とそうでない批評家はだいたいわかっていたが、彼をめぐる言動でもののみごとにはっきりした。強力なリトマス試験紙だった。目先の批判や上っ面の称賛をして飯が食える人たちといっしょにどこまで行けるのか。彼らに飯を食わせているのはそういう記事を喜ぶ日本の民衆であるし。なかなかに根の深い日本の課題である。


このような緊急事態では人の行動の美しさと醜さが際立つ。東北の大震災のとき、外国人実習生を避難させたあとで自分は津波に呑みこまれてしまった零細企業専務と、原発近くの立入禁止区域で略奪を働く卑劣な連中のように。代表で2試合しかプレーしていないのに、会見のため来日した前監督に感謝の意を伝えるため広島から飛行機でやってきた選手がいたそうだ。概して歓喜より失望のほうが多くなりがちなわれわれの行く手を照らすのは、そういう無数の美しい行為たちである。
(5月5日、避難中のSeeSaaブログ sekiyoushousoku.seesaa.net に掲載したものを再掲)