3年生がN1だって?

ロシアというのは昔のソ連で(そのまた昔はやはりロシアだが)、超大国として友好国から多数の留学生を受け入れていたため、留学生に対するロシア語教育に力を入れていた(今も入れているのかもしれないが、それはよく知らない)。大学によってはそういう留学生のためのロシア語講座を外国人教師にも無料で受けさせてくれたので、ありがたかった。安い給料の補いとしての価値もあった。
受講するねらいとしては、もちろん日常生活に必要な程度のロシア語は身につけたいという希望が第一だが、それとともに、自分の授業を受ける学生の気持ちを感じるためということもある。われわれが日本語で日本語を教えるように、そこではロシア語でロシア語を教えているのだから、外国語で外国語を教えられる学習者の身になれる。もうひとつには、対象言語は違うけれども、同業者から教え方のヒントを得たいということもある。そういう点で有効有益であった。
チチハルにも外国人のための中国語コースがあって、それを無料受講させてもらえたので、週1回ほど教室に出てみた。近いためにロシア人が多く、そのため教師もロシア語ができる人が多い。基本的に中国語で教えるが、ロシア語の説明も多用する。ロシア人のほかに韓国人やモンゴル人もいるのだが、その人たちにとっては迷惑なことだろう。
しかし、学習者の気持ちを体験できるという点はロシアのときと同様によかったが、教授法でのヒントなどはまったく得られなかった。教科書を読ませるだけなのだ。当て方もアトランダムでなく席順通りで、緊張することもない。自分ならこんな教え方はしないという反面教師の意味はあったが。中国語は発音は難しいものの、語形変化がないので代入練習などはものすごく簡単だ。「我想吃飯」の文に「回去」を代入すると、「我想回去」となるだけ。「私はごはんが食べたい」に「帰る」を代入すれば「帰りたい」と活用の練習になる日本語とは違う。単に口慣らしになるだけだ。
練習問題の答えをピンインで書いていると、漢字で書きなさいと言われる。いやいや、漢字なら簡単すぎるよ。ほかの学生に漢字を覚えさせるためそうしているのだとはわかるが、漢字で書くならば、ロシア人学生が四苦八苦するのを尻目に、早々と書き終えて退屈する。ピンインで書かされれば私も四苦八苦するのだが。
中国語の発音は難しく、加えて四声がある。英語を考えてみればわかるとおり、これは私個人にとどまらず日本人一般の苦手とするところだと思う。この点ではロシア人に大きく劣る。会話力についてもロシア人に劣るだろうと思うが、しかし筆記試験をやらされれば、日本人は本来の能力以上の点を取るだろうと確信できる。漢字を知っているからだ。


そのことは中国人の日本語学習からも明らかだ。それは日本人の中国語学習の鏡映しであるだろう。
初めて中国で教えることになったとき、空港に学生2人が出迎えに来てくれた。それまでの非漢字圏での教授経験から推して、一人はまずまず話すから日本語能力試験のN2レベルだろう。もう一人はほとんど話せず、聞き取りもよくできていないから、N3か、あるいはそれ以下かもしれないと思った。しかし、実は両人ともN1に合格していたのである。
中国では、卒業までに地方大学でも学年の3分の1から半分がN1に合格する。優秀な大学ならもっと多いだろう。1年次ゼロから始めての話である。非漢字圏では、卒業までにN2合格を目標とする。そして、目標に到達するのは優秀な学生数人にとどまる。そのように証書の上では大きな違いがあるが、そのことは中国人学生の日本語力が高いことをまったく意味しない。全般的な能力では両者に違いはなく、読解力と漢字知識において中国人学生に大きく劣るものの、聴解力と会話力では非漢字圏学生のほうがずっと立ち勝る。
日本語能力試験では、四技能のうち「話す」と「書く」の問題はない。しかし「読む」と「書く」、「聞く」と「話す」には表裏の関係があるので、ある程度は「書く」「話す」能力も反映していると考えることはできる。とりわけ「聞く」と「話す」は不可分で、聞き取れないことは言えないし、言えないことは聞き取れない。それは発音、たとえば英語の「r」と「l」を考えてみればよくわかる。この弁別は、聞き取れないから言えないのか、言えないから聞き取れないのか、いずれにせよ言い分けられない・聞き分けられないが不可分であることを示している。だから、聞き取れないなら話すこともできないだろうと推定できるし、その逆も言える。そして、言語の本質は話すことにあり、話すことが根幹であるのはまちがいない。その点で、流暢に日本語を話す非漢字圏のN2合格者の能力は、ろくすっぽ話せない中国のN1合格者より高い。
非漢字圏学生が苦手としない(むしろ得意とする)聴解問題を、中国人学生は難しいと口々に言う。彼らは聴解に関してはN3レベルである。それはつまり、実際の実力はN3だということだ。難しいに決まっているさ、N3の者がN1を受けているんだから。しかし読解問題は逆に、N3レベルでN1の問題にまずまず答えられる。この摩訶不思議の鍵は、むろん漢字である。
非漢字圏の学生が難問とする読解問題で、漢字圏の学生は得点を稼ぐ。その光景は聴解の裏返しだ。N2(中国人N2)程度でも、対訳本(中国にはけっこうある)でない日本語の小説や新書、専門書を読んでいる者がままいるのも、漢字あるゆえだ。ただし、その「読解力」というのは「黙読」解力なのである。音読させると全然だめだ。訓読みはもちろん、音読みも難しい。音読ができないというのは、言うこともできず、聞き取ることもできないことを意味する。発語せず、文字を書いて会話する筆談という世界に類を見ないコミュニケーション方式と表裏一体の現象だ。
カタカナ習得においても漢字圏・非漢字圏の違いが現われる。中国では日本語専攻なのに2年生3年生になってもカタカナをしっかり覚えていない者がいる。彼らにとっては外来語、外国の地名人名で見るだけで優先度が低いからだ。だが非漢字圏では、まず学習者自身の名前がカタカナで書かれるし、彼らと関わりのある地名や人名がすべてカタカナだから、むしろひらがなより先にカタカナを教えてもいいくらいだ。そして、彼らの悩みの種の漢字学習においても、カタカナは重要である。カタカナは漢字の一部からできたものだから、たとえば「外」はカタカナの「タ」と「ト」、「加える」は「カ」と「ロ」というふうに覚える助けになるのだ。それはしかし、もとから漢字を知っている中国人には無用のことがらである。


インターネットである人が中国人のN1はTOEIC600点ぐらいのものだと書いていて、なるほどと思った。もちろん、これは600点以上ということで、それよりずっと能力の高い者も含むのだが、ぎりぎり合格するような者はまあその程度と考えてさしつかえない(読解力を除いて)。
TOEIC990点満点中、Cランクは470-725点、Bランク730-855点、Aランク860点以上とされるが、非漢字圏ではこのAランクがN1、BランクがN2に相当すると考えていい。
Aランクの場合、「自己の経験の範囲内では、専門外の分野の話題に対しても十分な理解とふさわしい表現ができる。Native Speakerの域には一歩隔たりがあるとはいえ、語彙・文法・構文のいずれをも正確に把握し、流暢に駆使する力を持っている」のだそうだ。いかにも、それがN1で、それ以外のものであってはならないのだ、本来。
能力の目安として、600-700点の人は「ゆっくりと配慮して話してもらえば、目的地までの道順を理解できる。入国管理官に、滞在場所、期間、旅の目的を英語で聞かれた時、質問が理解できる。自分宛てに書かれた簡単な仕事上のメモを読んで理解できる」などという悲しいことが書いてある。それはN2レベルですらない。さらに、500-600点には、「打ち解けた状況で、“How are you?” “Where do you live?” “How do you feel?” といった 簡単な質問を理解できる。電車やバス、飛行機の時刻表を見て理解できる」というもっと悲しいことが書いてある。
世界は漢字圏と非漢字圏に截然と二分される(韓国・北朝鮮も含まれるのだろうが、漢字圏は実質中国一国で、ずいぶん不均等な二分法に見えるかもしれないけれど、忘れてはいけない、人口で考えれば14億とそれ以外だから、決して不釣り合いではない)。非漢字圏のN1・N2レベルと漢字圏のそれとは大きく食い違い、2つの異なった試験のようだ。大学3年でN1合格等々の漢字圏の常識は、非漢字圏のとんでもない非常識。逆もしかり。非漢字圏では、N1はもちろん、N2でも輝かしいゴールであるのとかわり、漢字圏ではN1はこれから会話力をつけるためのスタートラインだというふうに理解すべきである。
漢字、漢字、それを使う人々を結びつけ、使わない人を遠ざける絆にして障壁。古代エジプト人だけがわかってくれる、われらの空飛ぶ足枷。

ワールドカップ・漢字カップ

今回のワールドカップは中国で見たので、必然的に漢字とにらめっこすることになった。
中国でワールドカップを見ることは、つまり膨大な漢字表記の固有名詞群を解読するということである。中国に暮らしている人、中国語で生活する人には普通の日常で、何を今さらと笑われてしまうことなのだろうが、中国に生活する時間は長くても、ずっと日本語生活を貫いてきていた者には、今さらな新しい経験だった。何となく前世紀前々世紀の東洋学者になったような気分だ。
中国には周辺民族に関する記録が山ほどあって、学者にとっては宝物庫なのであるが、それが全部漢字で記されているので、それがほかの記録にあったり現在使われていたりする地名人名のどれに相当するのかを検討しなければならず、かつての東洋学の主要な任務は漢字名の解読比定であった。白鳥庫吉桑原隲蔵などのビッグネームが、大宛国貴族山城弐師城は現在のどこに当たるかをめぐって華々しく論争していたさまを、ワールドカップ出場国名選手名を見ながら追体験できる。そんな楽しみ方もあった。「颯秣建」はサマルカンド。西方の乾いた風が頬を撫でていくようだ。「烏拉圭」なんて、絶対あの頃の西域の国の名前だよ。ウルグアイピンインで書けばwulagui)と知るのはちょっと失望だ。
瑞典」「瑞士」は日本でも使うので知っていたが(ただしスイスは日本では「瑞西」)、「瑞」の発音は「rui」であって、それぞれ「Ruidian」「Ruishi」なのはおもしろい。日本語の音読み「ズイデン」「ズイシ」のほうが原音に近い。スウェーデン・スイスを「瑞典」「瑞士」と表記するようになったのがいつごろなのか知らないが、早くても明代だろう。そのころは「スイデン」「スイシ」といったような発音で、「瑞」は「スイ」だったのが、いつからか「ルイ」に変わったのだなとわかり、何となくうれしい。日本の漢字音のほうが昔に近いということも。
巴西」はひどい。ブラジルのことだが、発音は「パーシー(ピンインでBaxi)」でBrazilとは全然違ううえに、あれじゃ意味も「四川西方」になってしまうだろう。日本での漢字表記「伯剌西爾」(だから日伯協会がある)のほうが適当だと思うのだが、あの表記は日本人が独自に作ったものなのか? 日本の米・仏・独・伊・露が中国では美・法・徳・意・俄であるように、日中で異なる表記もあるけれども(西・葡・墨などは同じ)、ブラジルもその一例になる(なお、かつての中国は周辺民族にケモノ偏や虫偏の文字を当てるいやらしい国だったが、近代欧米諸国には好字を当てているのは何か事情があったのだろうか)。
「丹麦」(たんばく:デンマーク)「比利時」(ひりじ:ベルギー)は、知ればなるほどとは思うものの、これ、普通名詞に受け取られないか? 「赤い麦」とか「利を比べる時」とか。ウラジオストクは漢字で書けば「征東」とか「鎮東」の意味だそうだが、後者なら中国にもどこかにありそうだ。承徳・大慶・大同・保定等々、あの国には普通名詞(抽象名詞)と区別できない地名がかなりある。たいていうれしそうな名前だ。人名でも、令計画なんて人もいたし、丁寧という卓球選手もいる。こんなの普通名詞だろう。英米にもWhiteさんもいるしBlackさんもいるが、固有名詞は語頭が大文字なのでわかる。日本語の場合は、外国の人名地名はカタカナ表記だし、漢字名も前後が助詞(ひらがな)で囲まれているからそれとわかる。漢字はそれぞれの文字に意味があり、かつ分かち書きをしない点からも、普通名詞と固有名詞の区別がむずかしいと思うのだが、中国人はあれで大丈夫なのか? 昔の漢籍は固有名詞を普通名詞と混同しないために、固有名詞には傍線を引いていた。現代でもそれは必要なように思うのだが。
実況は中国語だから聞いたってわからないけれど、人名は何とかわかる。しかし、デンマークチームに「アレクサ」という選手がいるみたいなのだが、誰だ?と思っていたら、エリクセンEriksenだった。漢字で「埃里克森(ailikesen)」。どうもアナウンサーには、アルファベットを見て発音している人と漢字を見て発音している人がいるようだ。ポグバPogbaのことを「ポバ、ポバ」とg音がほとんど聞き取れない言い方をしている人もいた。あれはアルファベットを見て言っている。漢字なら「博格巴(bogeba)」で、日本語同様「グ」が入る発音になるはずだ。
漢字で書かれると本当に困る。「克里斯蒂亚诺·罗纳尔多」だものねえ。「梅西」ぐらいならいいんだけども。サッカーでは新しい選手が続々と現われる。どうやって彼らの漢字表記を決めているのだろう。中国語には405の音節があるというが(プラス四声)、この音節にはこの文字を当てるというのが決まっているのだろうか。たぶん機械的に当てはめているのだろうが、その際声調も考慮しているのだろうか。私が知らないだけで、きっとルールはあるのだろう。そのルールを一般の中国人も知っているのかな? 旅行中外国人と知り合いになって、その人の名前を日記に書くときはどうする? 何にせよ、面倒だ。カタカナがあってよかったとつくづく思う。


また、この大会は中国企業がスポンサーに多く名を連ね、すべての試合で漢字の広告を見ることになった。スマホvivoや家電のHisenseのように世界市場を目指している企業がスポンサーになるのはわかるのだが、国内企業に過ぎないと思われるところまで莫大なスポンサー料を払っているのは驚きだ。あれは結局国内向けなのだろう。だから漢字でいいというか、漢字でなければならない。国内消費者獲得のために、国際大会(世界一の人気で、それに見合って広告料も恐ろしく高い国際大会)に広告を出す。国内需要を満たせば巨大企業でありうる中国の事情が見える。国内事情を国際場裡で押し通す。国際常識が通じないというか、超越している。ま、おもしろい国であることはたしかだ。

獣種差別

ソウル五輪のときよりはずっと静かだったようだが、平昌五輪に際してもやはり犬肉が問題になった。だが、人を食いはすまいし、何を食べようがかまわないではないか。日本人として犬を食べるのは趣味のよいことだとは思わないが、そんな悪食の連中はバカにしてからかっていればいいだけだ。イギリス人がフランス人を「蛙食い」と呼ぶように。目くじら立てるようなことではない。それは日本人がクジラやイルカを食べるのにとやかく言われたくないのとまったく同じだ。


何を食べて、何を食べないか。それは文化によって決まるが、文化における最大の決定要素である宗教の占める役割がここでも大きく、宗教によって決まることが多い。イスラム教、ユダヤ教では豚を食べないし、ヒンドゥー教では牛を食べない。ブラーミンは肉自体を食べない。仏教僧侶も菜食である。仏教の影響を受けた近代以前の日本では原則四つ足を食べなかった。人間のために労役をしてくれ、暑い日差しのもと野良へ行く牛のために、傘をさしてやっている光景は幕末明治期の欧米訪問者の書き記すところであり、そのような牛を食べることは百姓には考えられなかった。イザベラ・バードは「奥地」旅行中何としても肉が食べたくて、当時の日本の田舎で唯一手に入る鶏を買ったが、食べるためと知って取り戻しに来た農婦もいたのだ。四つ足は食べず、足のない魚を食べて動物性蛋白質を摂っていたいた日本人が、同様に足のないクジラを食べてどこがいけない?
欧米と中国はさまざまな点で似ている。大酒飲みの豚喰らいで、紙で尻を拭くなど。逆にイスラムとインドは、肉の禁忌や酒を飲まないこと、水で事後処理することなど、共通点がいくつもある。本当に何でも食う中国人には一籌を輸するが、欧米人も基本的に何でも食べる人種だ。では、彼らは何の肉を食べ、何の肉を食べないかを考えてみよう。
肉食獣を食べない。
海棲哺乳類を食べない。
霊長類を食べない。それは彼らの居住地(北辺寒冷地である)にいないことが大きな要因だが、霊長類は(海棲哺乳類も)知能が高いことも一因だろう。
虫や蛇を食べない。ただし蛙やカタツムリは食べる(ワニも)。
そして、草食獣を食べる。
肉食獣を食べないこと自体は合理的である。捕獲がむずかしい上に、危険である。食物連鎖の頂点だから、数が少ない。数が多く、捕獲や飼育が容易であるものを食べるほうがいいに決まっている。
だから、肉食獣の獲物である草食獣を食べるのも合理的であるけれど、思うに、彼ら自身おそらく自分を肉食獣の同類と見ている。仲間だから食べない。同類のシンパシーだ。
肉食獣の例外は犬と猫である。犬猫の捕獲や飼育は容易だ。数も多く、いま先進国と言われる国でも昔は野良犬がうろうろしていたし、現実に人間の子供には食い殺される危険があった。それを捕って食べるのは合理的なはずだ。猫(野良猫は今も多い)は肉量が少ないが、同様に少ないハトやウサギは食べているではないか。
彼らを食べないのは、ペットだからというより、彼らが肉食獣だからだろうと思う。肉食獣は食物連鎖上の高位であり、狩りをするのだから知能も高い。この点がポイントだ。要するに、欧米人は彼ら独特の認識による「高等生物」を食べないのだ。それは「獣種差別」であって、その「獣種差別」は人種差別とも表裏一体である。
牛や豚を食べなかった江戸時代の日本人を見下し、あたかもそれを食べることや獣の乳を飲むことが文明人の要件であるかのように押しつけ、昔からずっと食べてきたクジラを捕ろうとすれば根拠のない非難をする。価値観の強要だ。そしてそれが行動に現れると、好戦的戦闘的なシーシェパードのような形となる。第二次大戦以後先進国(つまり欧米)において戦争は現実的な対立解決法として取りえなくなっているので、彼らの野蛮な戦闘意欲がそのような形で現われているのだろう。人種差別が一向になくならない一方でそんな不埒なことをしているのだから、おそらく犬やクジラは有色人種より高等だとさえ無意識のうちに思っているのだ。
彼らとは違う基準で食べるもの・食べないものを分けているという簡単で筋の通った理由をことさらに無視するのは、一言で言って傲岸不遜である。捕鯨反対を唱える日本人や犬食反対を掲げる韓国人もいるのだが、洗脳ということばはイスラム過激派についてでなく彼らについて言われるべきである。


人間は何を食べてもいいのである。イモムシでも、ヘビでも。文化によって何を食べ、何を食べないかは異なる。それだけのことだ。人類に普遍的な基準は存在しない。
あえてルールを考えれば、1.人間を食べてはいけない。
なぜかと問い詰められればしかとした答えはできかねるが(食人種というのもあったし、共食いをする生物はいろいろある)、やはりこれはまずいだろうし、大方の人類の賛同を得られるだろう。
2.絶滅の恐れがあるものは捕らない・食べない。
これも理性的な規定で、反対する人はいまい。本当に絶滅が危惧される鯨種を食べようと思う日本人はいないだろう。タスマニア人を絶滅させた前科者がうろうろしているから、必要なルールである。
普遍ルールの3は、殺したものは食え、食わないものは殺すな。
娯楽のための狩りをし、趣味の殺生をする白人ハンターは許しがたい。しかも卑怯な飛び道具を使って。丸腰の若年個体を無差別に銃撃するスクールシューティングはその延長だ。捕鯨よりも犬肉よりも、まずこれを何とかしろ。殺したあと食うならこのルールには抵触しないが、ルール1に反する。やはりだめである。
「獣種差別」(それは人種差別の異なった地平への現われだ)をする白人にだまされてはいけない。普遍ルールを守ってさえいれば、あれこれ言われる筋合いはないのだ。
(6月4日、避難中のSeeSaaブログ sekiyoushousoku.seesaa.net に掲載したものを再掲)

田舎観光のために

石見地域の観光業ははかばかしくない。近年海外から日本へ来る観光客の数が驚くほど増えていて、できればそれを招き寄せたいものだが、この地域には観光資源がほとんどない。わずかに津和野や石見銀山があるくらいで、それも石見全体から見れば偏った位置にある。津和野は島根県民以外には山口県と認識されているに違いないし、石見銀山は「出雲銀山」のようなもので、出雲大社から足を延ばすという訪問のされかたが多い。結局のところ、石見の観光となるといわゆる「田舎ツーリズム」によることになってしまうだろう。
その「田舎ツーリズム」にしても、外国人に対してはどういうものを提供したらいいのか。日本人が相手でも、田舎と都会の感性は異なるためいろいろ齟齬する点があるのに、外国人となると、こちらの興味の持ち方とはまるで違った感じ方をすることが多く、なかなか測りがたい部分が大きい。モニタリングが必要であるゆえんだ。
外国人観光なら、すぐ近くに旅行意欲の高い巨大人口があるのだから、これをまずターゲットとすべきである。中国人の旅行目的が一時の爆買いに見られるモノ消費から体験型のコト消費に移ってきているというのは、「田舎ツーリズム」にとっては追い風になることだが、そこでも彼らが何を望み何を喜ぶかを正しく測ることが肝要になる。
何事でもそうであるように、大切なのは「敵を知り己を知る」ことだ。自己認識と他者の認識は食い違う。人間は自分の都合のいいように考える傾向がある(田舎ほどその傾向が強い)。相手を知りたければ、こちらで勝手にこうだろうと決めつけず、相手に教えてもらうように努めるべきである。こちらで考えたものを押しつけるのでなく、自分で見つけてもらう。そのためにはモニターツアーを行なう必要があり、それについて従来のものとは違う積極的で多角的なモニタリングを提案したい。それは、日本語専攻の中国人学生を多数招くというプランである。


具体的にはこうである。
・中国の大学で日本語を学んでいる学生10人を2週間招待する。
・広島空港までは自費で来てもらい、そこからは送迎を含めて無料。
・宿舎は、大きめの空き家を借り上げて整備し、そこに共同生活。畳の上に布団。中国の大学は全寮制で、集団生活には慣れているので問題はない。Wi-Fi設備は必須。
・食事は、朝夕は炊事当番を決めて自炊。食材はこちらから地産のものを提供。もちろん毎日中華料理を作るだろうから、イノシシ肉やシカ肉、魚を与えれば、ジビエや魚料理の中華風ヴァージョンのアイデアをもらうこともできるのではないか。
・交通手段として、自転車を提供するほか、運転手つきの車3台を常駐させる。運転手は学生アルバイトで、世話係を兼ねる。
・午前中は日本語教室。地域のボランティア教室の教師の応援を頼む。日本語教師をしていない地域住民もまきこんで、歌や方言を教えてもらうのもいいだろう。生け花などの文化も教える。詩吟の手ほどきも、漢詩の日本的受容としておもしろかろう。
さらに、教えるばかりでなく、教えてももらう交流の場にもしたい。中国人学生が地域住民に簡単な中国語会話の手ほどきをするとか、太極拳や今むこうの中高年女性に大人気の広場舞を教えるなど。書道交流も考えられる。漢字については交流し、ひらがな書道を教えるというような。日本と中国の料理を相互に教え合うのもいい。学生にとっては、ただ授業を受けて教わるだけでなく、教えることで日本語の運用能力を高めることができる。
・午後および土日はさまざまな観光プログラムに参加する。
こちらでもあらかじめ各種のプログラムを用意するが、学生のほうでこんなことをしたいという希望があれば積極的に取り上げる。
こちらで用意したプログラムについても、決して全員で統一行動をとらせるのではなく、それぞれ選択自由、希望者のみが参加し、車1台に乗れるほどの少人数で行動する。できるだけ多くの経験をしてもらうことと、それぞれのプログラムの人気を測る「投票行動」ともなることを期待して。大学で言えば、午前は必修科目、午後は選択科目で、自分で選んで自分の時間割を作るということだ。
プログラムの案としては、
・県内観光旅行(津和野、石見銀山出雲大社、松江等々)
・石見神楽鑑賞、笛・太鼓・舞を習う、面作り体験
・水泳教室(中国人には泳げない者が多いので需要があるだろう)、海水浴、浜遊び、アクアス見学(バックヤード見学も含む)
江の川でカヌー教室/三瓶登山(火山の例として)/高島渡航
・キャンプ
・温泉めぐり
・磯釣り/川釣り/魚市場探訪/大魚解体実演
・紙漉き/木工/焼き物体験
・和裁(自分のゆかたを自分で仕立て、夜に庭で花火)
・ゲートボール/空手・柔道など
・旭の刑務所見学
・滝行
・祭りがあればそれを参観
等々が考えられるが、ほかにもいろいろあるだろう。


参加者の義務としては、最終日に最もよかった体験を報告する発表会を行なう。スマホがあるので写真や動画をふんだんに使うことができるだろう。地域の人たちにも来てもらう。レポートをまとめて発表するのは、彼らの日本語の勉強にもなる。それを文書でも提出し、また発表のあとディスカッションもして、人気不人気の点、問題点改善点を検討して、今後のツアー作りの参考とする。
また、SNSで発信してもらう。学生だから発信力は高くないが、かける10として数量でいくらかは補える。
基本的にすべて日本語で行ない、通訳が必要な場面では国際交流員に頼む。
これを1年だけでなく少なくとも3年間続けて、さまざまなデータや経験を蓄積する。


このプロジェクトには3つの目的があり、それぞれに効果が見込める。
主目的である
1.ツアー開発のための観光モニター
のほかに、
2.地域住民の国際交流
ともなり、地域に刺激を与え、活気を呼ぶこともできるだろう。
さらに、
3.知日派育成への貢献
もろもろの悪しきことどもの温床である無知の領域を縮め、日本語教育に力を添えて、わずか10人とはいえ中国人の日本語力を上げ石見をよく知る人材を育てるのは、よい種まきとなろう。


日本語専攻の学生を使ったこのプロジェクトは、双方にメリットがある。学生はコストが安く、フットワークが軽く、将来性もある。得るもの多く失うもののない(金銭的にも少ない)試みだと思うが、どうだろう。
(5月5日、避難中のSeeSaaブログ sekiyoushousoku.seesaa.net に掲載したものを再掲)

リトマス監督解任一件

サッカー代表監督の解任一件で、ヤフーのコメントにこんなのがあった。
「先生の新しい課題が難しいので、校長先生に言ったら先生を替えてくれて、古い課題でよくなった」。結局そういうことなのだ。ザッケローニのときも試合中の4バックと3バックの併用という課題をこなせない生徒だったし。あのときは先生が課題を取り下げてくれたが、今回は決して取り下げない頑固な先生だったので、先生のほうが取り替えられた。


実に腹立たしい事件だった。卑怯卑劣なだまし討ち。背後からいきなり斬りつける。まあだいたいがだまし討ちをするのが好きな国民性ではあるのだが。
解任せよ解任せよと無責任に書きたてるマスコミに対し、サッカー協会はそんな無責任なことはすまいと思っていたが、実は無責任だった。
長い目で見ることができない人たちにはうんざりする。マスコミも、解任を叫ぶ一般のファンも、結局目前の親善試合に多くを求める消費者の姿勢でしかない。自分で勝手にノルマを決めて、次の試合(テストマッチにすぎない試合)で結果を出せと勝手に要求して、それが出ないと解任を書きたてる程度の低い評論家が多すぎる。売れる記事を書かなければならない生業だからやむをえない面はあるが、ジャーナリズムの本質が日銭稼ぎであることを知らしめる好例となっている。
彼に与えられたミッションは、W杯予選通過と本選での結果(グループリーグ突破)のはずだ。そのひとつは果たし、もうひとつも果たすべく鋭意準備中だった。もしそれ以上に求めることがあるならそのつど監督に伝えるべきだし、次のテストマッチでこれこれの結果が見られなければそれ相応の行動を取るとでも言っておけば、それ相応の試合をしただろう。それをしないでおいて、しかも試合後には続投と言っておきながら解任するのでは、激怒するのが当然だ。
彼のサッカーが日本人に合わないという意見には同意する。時に厳格すぎると思えるくらい厳格だということも含めて。しかし日本人によく合うサッカーが世界の舞台で通用するかについては、もはやブラジル大会で結論が出ているではないか。それに改善を施さねばならないので彼が招かれたのではないのか。もの忘れの激しさには驚いてしまう。同じことを飽きもせず繰り返す根気のよさにも。弱い中国軍に連戦連勝して勝った勝ったと提灯行列をするメンタリティから抜け出せていないのだ。アメリカにコテンパンにやられたことはけろりと忘れて。アジアですら弱小だった時代を、その時代を見てきた人たちもすっかり忘れているようだとも思う。欧米に勝てるように、強豪国に競り勝つ戦いができるようにあの監督を招いたのではなかったのか。
代表に何を求めているのかをはっきりさせなければいけない。世界大会で勝つことか、親善試合でときどき勝ったり善戦したり、負けてもビューティフルゴールをひとつほど決めることなのか。ハリルホジッチは「私が厳しいのではない。ワールドカップが厳しいのだ」と言った。そのとおりだ。
いくら体格が向上したといっても、日本人はやはり背が低いし、細い。体格のハンデを敏捷性・チームワーク・テクニックで補おうというのは正しい。しかし、そうしたところで強度の問題は回避できない。強度の要求を突きつけ続けたのがハリルホジッチだった。それは無理な要求ではない。猛特訓を課したラグビーのエディージャパンを例に挙げないことにしても(ラグビーナショナルチームには血統日本人・国籍日本人でない日本在住外国人もメンバーたりうるから)、プロ野球のトップ選手11人でチームを作ったらけっこうなフィジカルモンスターチームになるはずだ。藤浪や大谷がワントップにいたら怖いよ。相撲に進んでも三役ぐらい行きそうなのもいるし。要するに、野球選手のような練習を欲しない連中がサッカーをやっていて、彼らが協会に君臨しているということではないのか、という疑問は持っていい。


ザッケローニのとき、メンバー固定が非難された。世代交代が言われた。海外組偏重でなくもっとJリーグの選手を使えと主張された。
ハリルホジッチは全部やったんじゃないのか?
選手選考にはもちろん自身の好みもあったし、戦術への適合性による偏りもあったけれども、かなりフェアだった。一度呼んで、失敗すると外し、調子がいいとまた呼んで重用しようとしていた大島が好例だ。好みの選手であるらしい井手口や宇佐美も、クラブで出ていないときは呼ばない。その基準をほぼアンタッチャブルのスターである本田や香川にまで適用していた。
彼は、自分は「政治」はしないと言っていた。忖度や裏取引はしないということだろう。そして思い切った「冷酷な」決断をする。その彼に対して、協会は「政治」をした。テストマッチで負けたことを解任理由にせず、「選手とのコミュニケーション」などという理由で解任を告げたが、「政治」をしないあの監督にはそれは全然通じない。


日本代表はいつの間にかロートルチームになってしまった。オーストラリアもそんなチームだったが、若返りに成功し、今や日本がかつてのオーストラリアだ。
世代交代の失敗のみじめさは、なまじW杯で優勝したばかりにその優勝メンバーの陣容が続いて、哀れな末路をさらしたドイツやイタリア、いや、何よりも身近になでしこジャパンで見ているのだから(なでしこの場合は不可解な宮間の失墜もあるが)、手を打たねばならない。だが、手は打ったのである。あの監督は積極的に若手を使ったし、国内組の選手にもチャンスを与えた。しかしそれをものにできておらず、この時期になってもどんぐりたちが背比べしている。監督の責任ではない。結局遠藤が抜けただけのブラジル組が主力のままで、まして大会直前に日本人監督に代わったのなら、ブラジル大会第一戦とほとんど同じメンバーがロシア大会第一戦の先発に並んでいるのではないかと思えてしまう。笑えない冗談だ。ドイツやイタリアは優勝という輝かしい成功のあとの凋落なのに、日本は情けない失敗のあとにさらに凋落するつもりなのか?


本田や香川が本大会メンバーから外される恐れはあった。あの監督は、調子が悪いとか使う局面がないと判断すれば、躊躇なく彼らをも外すだろう(岡田監督がカズを、トルシエが俊輔を外したように)。
これまでも、本田を外せ、香川を外せという声はあった。そう言われてしかたがない低調なパフォーマンスだった時期に。しかし、ハリルホジッチが実際に2人プラス岡崎を外すと、非難の声が湧きおこる。じゃ、どうすりゃいいんだい?
「ビッグ3」なんて言葉は、あの3人がそろって外されるまで存在していなかった。外されてから突然そんな言葉が言われだして、今ではスポーツ記者用語辞典に登録されている(「ビッグ3」と言うなら、本田・香川とインテルにいた長友だろうに。スモールクラブにしか所属したことのない岡崎ではなく)。
どうせ負けるなら本田香川で負けろということなのか? 本田には、北京五輪で監督の指示に従わなかったり、ザッケローニのときもハーフナーが入っているのにクロスを上げなかったりなどの前科がある。メッシやマラドーナなら監督をクビにしてもかまわない。彼らが気持ちよくプレーすれば勝てるのだから、監督はそのための環境整備係でいい。だが、日本にそんな選手がいるのか? まさかそれが本田や香川だと言うんじゃあるまいな? ブラジル大会の前、W杯優勝などという人に聞かれたら恥ずかしくなるようなことを真顔で言っていた選手がいた。選手の発言力に関してだけは優勝候補チーム並みのようだ。


その前のアギーレも解任されていた。彼のときにもマスコミはさんざん解任しろ解任しろと書きたていていた。彼の解任にも反対だったが、しかし消極的賛成をせざるをえなかった。八百長疑惑の先行きが見えないので。つまり、W杯直前になって裁判その他で解任せざるをえない事態になることを恐れたからだ。そんなことになったらとんでもない混乱だ。その恐れていた事態を、今回サッカー協会が自発的に(不必要に)起こしているのにはあきれてしまう。
アギーレの場合、アジア杯で敗れたタイミングで、そのアジア杯で敗れたことを理由にせず、彼のサッカーを高く評価した上で穏便に解任を納得させた。「政治」をして、このときは成功した。アギーレは今も日本に好感を持っているらしい。だからまた「政治」をして、「政治」をしない頑固な老人を激怒させている。


ブラジル大会は何だったのか?
日本が支配し圧倒して勝つという「日支事変サッカー」がああいう舞台では通用しないことをまざまざと知らされ、それゆえ強豪国に勝てるサッカーを目指したのではなかったのか? そのためにはハリルホジッチの戦術も厳格さも必要なものであった。だからあの監督は真剣に真摯に改革をしてきたのではなかったのか?
本大会出場を決めたオーストラリア戦はすばらしかった。相手がボールを持っていても決定機を作らせず、効果的に点を取った。日本がいつもやられていたパターンだっただけに、爽快だった。あれをまた見たい、対戦相手や局面に合わせて戦い方を変える変幻日本をみてみたいと思っていたのに、その希望は断たれた。
たしかにザッケローニからハリルホジッチに代わって、極端から極端に振れた感じは否めない。だが、進歩のためにはそんなジグザグの道もしかたがない。
むろんあの戦術で結果が出たかどうかはわからない。解任された今となっては永遠にわからなくなってしまった。しかしあのオーストラリア戦を見た者としては期待をしていたし、3年間の努力がどういう形になって現われるか最後まで見届けたかった。
それを直前になってご破算にする。
結局、ブラジル大会のサッカーをブラジル大会のメンバーでまたやるわけだ。4歳老けたメンバーで。やんぬるかな。
しかし、よもやむざむざとブラジル大会の再戦はすまい。この3年間の遺産がそこここに生かされることを希望するのみである。
「永遠にわからない問題」は人を魅了する。「ハリルジャパンのロシア大会」はそんなものと化してしまった。銀座パレードの幻とともに。今は、失ったものを嘆き、伝説のひとつを得たことを慰めとするしかあるまい。嘆きもまた美しいもののひとつだから。


ハリルホジッチ前監督に感謝したいことはいろいろあるが(胸に輝くくまモンバッジとか)、サッカー批評家連をふるいにかけられたというのもそのひとつだ。彼が監督になる前から信頼できるサッカー批評家とそうでない批評家はだいたいわかっていたが、彼をめぐる言動でもののみごとにはっきりした。強力なリトマス試験紙だった。目先の批判や上っ面の称賛をして飯が食える人たちといっしょにどこまで行けるのか。彼らに飯を食わせているのはそういう記事を喜ぶ日本の民衆であるし。なかなかに根の深い日本の課題である。


このような緊急事態では人の行動の美しさと醜さが際立つ。東北の大震災のとき、外国人実習生を避難させたあとで自分は津波に呑みこまれてしまった零細企業専務と、原発近くの立入禁止区域で略奪を働く卑劣な連中のように。代表で2試合しかプレーしていないのに、会見のため来日した前監督に感謝の意を伝えるため広島から飛行機でやってきた選手がいたそうだ。概して歓喜より失望のほうが多くなりがちなわれわれの行く手を照らすのは、そういう無数の美しい行為たちである。
(5月5日、避難中のSeeSaaブログ sekiyoushousoku.seesaa.net に掲載したものを再掲)

一時避難

ちょっとばかり離れていた中国にまたもどってきてみると、前には使えていたはてなブログが閲覧も投稿もできなくなっていた。そのほかにもいろいろ閲覧できないブログがある。それで、投稿できるこのブログ(閲覧はできないようだが)に一時的に避難することにした。今までの記事ははてなで見てください。
はてなだけでなく、YahooJapanでの検索もできなくなった。メールはでき、ニュースも見られるが、検索はできない。Googleは以前から使えない。これでYahooとGoogleしか入れてない私のスマホからは検索がまったくできなくなった。
それだけではない。Wikipediaの日本語版も見られない。英語版などは閲覧でき、韓国語版もできるが、日本語版、そして中文版はだめ。FacebookYouTubeニューヨークタイムズなどが見られないのは以前からわかっていたからそのつもりでいたが、こんなに制限が拡大したのには困惑する。VPNを使えば見られるようだが、そのVPNにも閉鎖の魔手を伸ばしているそうだ。サイバー万里の長城はますます高くなっていく。
国民を外国の情報から遮断するためにそうしているわけだが、みんなが習っている英語による情報へのアクセスを妨げるのはわかる。だが、日本語学習者など大して多くもないのに、なぜYahooの検索や日本語Wikipediaから遠ざけようとするのだろう。単純に日本人に対する嫌がらせなのか、あるいは日本語情報は漢字を拾い読むことでけっこう伝わるものがあるのだろうか。
政府にそんなことをされても、おとなしく国内に暮らす民衆はほとんど困らない。対応する国内サイトがあるからだ。何せ13億人だから市場は十分以上に大きいうえ、外国のサイトが万里の長城によってブロックされているのだから無敵である。そのようなサイトが中国の発明品ならそんなことをされてもしかたがないと言えようが、もちろんアメリカの作ったもののパクリである。そのパクリを国民に使わせて、本家本元のアメリカのサイトはブロックしているのだからタチが悪い。そして13億にものを言わせ、規模を誇る。
これが韓国人なら、今にそういうサイトも韓国の発明だと言い出すのだろうが、中国人はそんなことはしない。しかし国民には誰の発明であるかは決して教えず、そのような記述があれば検閲によって徹底的に削除するというやり方をするに違いない。歴史に向き合う(というか、向き合わない)東アジアのふたつの流儀である。これらの国々が「歴史を忘れるな」と叫んでいるのは噴飯ものだ。ま、日本にも愚劣さにおいて彼らに十分対抗しうる安倍流歴史修正主義というのがあるけどね。
外国(欧米+日本)からの情報発信を国民から遮断するのは、中国政府ではなく外国(欧米)の本部の指令に従うキリスト教、特にカトリックを露骨に警戒し抑圧するのと軌を一にする。リゾーム的なイスラム教や仏教が許容されるのと好対照だ。彼らが誇り、他の独裁国家に輸出しようとさえしているあの防火壁によって守られることで大きな利益をあげているインターネット会社は、当局の検閲削除に当然のごとく従う。そのことで国民の利益は損なわれているはずなのだが、彼らがそれで満足なら外から四の五の言うべきではないのだろう。とにかく、この国の驚異は数だ。9割が満足しているなら、それは12億が満足しているということで、その数の前には何もかも無力に感じる。不満な1億というのもすごい数なのだけども、12億の前にはやはり力を失う(12億は本当に満足しているのか、彼らの国内SNSでの発信も検閲し、問題がありそうだと思ったらバンバン削除しているのだから、不満をため込んでいるのではと外国人は考えるが、その不満はたぶんそんなに大きくない。金をもうけさせてくれる限りは)。


この国は国内向けにできていて、たいていのことが国内で完結するようにデザインされているようだ。
駅や空港にはwifiがあるが、これは携帯電話番号がないと使えない。電話番号を入力し、送られてきたパスワードを入れることによって使用可能になる。外国人でも在住者は携帯電話番号があるだろうから使えるが、それを持たない旅行者にはアクセスできない。
中国では何をするのにも身分証明書が必要だ。地下鉄を含む駅構内に入るのに、手荷物検査があるのはいい。安全は重要だから(イスラエルではセキュリティ検査の厳しい店ほど歓迎されるそうだ。世界はイスラエル化しつつある)。しかし身分証明書も提示する必要がある。切符を買うこと自体にも身分証明書がいる。外国人の場合はパスポートを提示することになる。切符の自動発券機や自動チェックイン機も駅や空港にあるけれど、これらは中国の身分証明書がなければだめなので、外国人には使えない。
要するに、中国は身分証明書がない人の行動は大幅に制限される国となっている。むろん、犯罪者に行動の自由がないのは悪いことではない。逃亡中の犯人を捕まえるのにも役に立つだろう。それはけっこうなのだが、政府が「犯罪者」や「テロリスト」と認定した民主運動家(それは反体制活動家と同義になってしまうのだが)や独立運動家、特定の宗教信者の自由も蹂躙されるわけだ。かつて共産党員は地下活動家であり、共匪と呼ばれ匪賊あつかいされていたのだが、自分たちが支配者になったのちはかつての自分たちのような存在は許さないのだ。正義は共産党が有し、共産党だけが有す。動乱に乗じまんまと天下を取った新皇帝がかつての自分の出自階層(匪賊や無頼漢など)を弾圧するのと同じで、笑ってしまうぐらいわかりやすい。
スマホ決済の普及が驚異的な速度で進んでいるが、これもまた外国人には利用できない。銀行口座がなければならないし、もちろんスマホもなければならない。スマホも買えない貧しい人がどれくらいいるのか知らないが、スマホが使えない老人はけっこう多いだろう。老人、子供、外国人にやさしくない国になりつつあるのではないか。スマホが使えない老人は年々世を去っていくので、遠からず国民皆スマホの社会になることは疑いないけれども。
現金というのはアナーキーな存在だ。その由来を問わず、所持人の素性を問わない。盗んだか、拾ったか、そんなことは問題にされず、いま手中にあることだけに価値がある。金、特に紙幣などというのは空しいものだ。要するに紙切れである。ちぎれる、燃える、風に飛ぶ。キューブリックの「現金に体を張れ」のラストで、強盗して金を盗んだ男が空港で捕まるラストで、風によって大量の札が飛んでいくシーンが印象的だった。そんな「吹けば飛ぶよな」空しい金札に狂奔するさまが逆説的におもしろいのだが、それを過去のおとぎ話と化そうとしているのがスマホ決済だ。しかし、これはつまりデータのやりとりである。誰が、どこで、何を、いくらで買ったか。膨大であるためチェックはほぼ不可能なはずだが、人工知能が発達すればそのような膨大なデータもじきに管理できるようになるだろう。
つまり、この国には徹底した管理社会が出現しつつあるわけだ。それは便利である。しかし従順な羊のみに便利なのだ。すべてが身分証明書の所持を基礎としている。データはまず会社が把握するのだけれども、共産党独裁国家ではそのデータはいつでも政府が入手しうる。1984どころではないような気がするのだが、杞憂だろうか。中国政府はもちろん杞憂だと主張するだろう。「12億の満足」を盾に。しかし炭鉱のカナリアたちはいろいろなことを「杞憂」しつづける。
(しかし、スマホ決済によってニセ札横行が解消されるなら、それはたしかにメリットである。ゴミのようなボロ札駆逐も。)


一度は地に落ちた(欧米と日本によって地に落とされた)中国が復活してきたのは喜ばしいことだ。しかしこの国は実に厄介で、力をつけるや否や四千年の頑固な悪癖をまたぞろ発揮しだしてきた。中華帝国の構築である。ルールは彼らが決め、関わりたければ彼らの決めたルールに従わなければならない。皇帝はいないので拝謁の際叩頭はしなくていいが、実質叩頭であるさまざまな決定(彼らが勝手に決めたもの)の順守を夷狄に課す。欧米の覇権を認めず、それに対抗しようとしている点だけは評価できるが、それ以外の点ではまったく評価どころの話ではない。
ただし、英語を、世界を理解するための道具ではなく、世界に中国を理解させるための道具だと思っている点はむしろ小気味よくて、日本など見習うべきである。
世界に数限りない多くの賞がある中で、最低最悪の賞は疑いもなくノーベル平和賞である(経済学賞は無価値であり、文学賞は無益だが無害だ)。あれは正しくノーベル西欧価値観広報賞と呼ぶべきだ(なお、最高の賞は本屋大賞であろう。全国の書店員が選ぶという選考方法がすばらしい。受賞作を読んだことはないし、おそらくこれからも読むことはないけれども)。
ノーベル平和賞が他を圧して最低最悪であるにもかかわらず、実はそれよりひどい賞がひとつだけある。孔子平和賞である。これは本当に戯画だ。中国に都合のいい人を表彰するのだから。独裁中華主義国家中国に。パロディーとしてなら秀逸だけれど、全然そうは思っていないところがさらに醜悪さを増すのだが、その点でもやはりノーベル平和賞の好一対をなしている。孔子平和賞のほうがひどいにせよ、五十歩百歩だ。
中国はアメリカの写し鏡である。独善において両国は世界に並び立つ(西欧諸国、特にフランスの独善もかなりのものだが、米中の独善ぶりからは児戯に見える。今や他国に自分の独善を押しつける力の大部分を失っているからだ。それは独善関東軍を尖兵とした大日本帝国も同様)。自分たちがとにかく正しい。だから勝手にルールを決め、勝手に改変する。自国の利益が最優先で、手を縛られるのを極端に嫌う。そして何かされれば必ず報復する。即座に、粗暴に。なおかつ鉄面皮な宣伝をする。そういうアメリカに辟易していたが、復興中国は驚くほどよく似たその双生児だ。反中感情を持つ日本人が多いようだが、彼らは中国を見るその目でアメリカを見る必要があるだろう。まったく同じものがそこにある。
中国はすばらしいが、そのすばらしさを完全に相殺してしまう欠点をもっている。それは、「中国である」ということだ。この点もまったくアメリカと同じだ。困った隣国ふたつに挟まれてしまったものだ。大国が醜悪なのは、かつて大国を目指して横暴を極めた軍国日本を想起すればよくわかる。一方で、愚劣であるためには大国である必要がないことは小国北朝鮮が示してくれている。それが慰め? いやいや、なかなかつらい東アジアである。
(5月5日、避難中のSeeSaaブログ sekiyoushousoku.seesaa.net に掲載したものを再掲)

WM2018雑感

今大会ではビデオアシスタントレフリー(VAR:「モスクワの別会場に集まった国際主審4人が担当し、?得点?PK判定?一発退場?人違いの4要素に関して、「明白かつ確実な誤り」に介入することになっている」そうだ)が導入されたのが大きなトピックだった。FIFAの会長は大成功だったと結論づけているが、本当にそうか。よい点が多々あったことは確かだが、問題点はそれ以上にあったと思う。
明らかにVAR導入によってPK判定が非常に増えた。メキシコ大会は「マラドーナの大会」と言われたが、ロシア大会は「PKの大会」と呼ばれていい。得点王ケインは「PK王」だったし、決勝戦でのフランス勝利を決定したのも論議多きPKだった。
まず何よりも、サッカーにビデオ判定はなじまない。ビデオで確認する際にはプレーを止めなければならない。止まるスポーツ、得点が非常に多いスポーツ(点が入った時には当然プレーは止まる)では問題なく使用できる。こういう競技(テニス、バレーボール等々)とビデオ判定はよくなじむ。だがプレーが止まらず、得点が非常に少ないサッカーとは親和性がそもそも極めて低い。実際のところは、サッカーにはこれはPKだろうと選手や観客が声をあげるケースは非常に多い。だが、それをいちいち止めるわけにはいかないのだ。そんなことをしていては、このスポーツの魅力の大きな部分を占めるスピード感、とぎれずにゲームが進む流動感が根本的に損なわれる。
VARが導入された今大会では、誤審は確かに減った。そのためPKが増えた。なるほど、大誤審はこれによって防がれる。だが中小の誤審は結局なくならないし、むしろ混乱する。なぜこれを取ってこれを取らないのかという批判が倍増するからだ。介入した場合の判定はほとんど正しいが、100%ではなく、間違いもある。とはいえ、介入の効果はたしかにある。だが、問題はそこではない。不介入が問題なのだ。
VARの目が光っているので、よいこともある。ペナルティエリア内のファウルは減るだろう。シミュレーションも減るかもしれない。ネイマールの演技が見破られたのは選手らに非常によい教訓を与えたに違いない。だいたいがずるい連中のするこのゲームにおいて、抑止力としてよく機能した。
しかし、ハンドの問題が大きくクローズアップされる。決勝戦のがまさにそれだ。ボールが手に当たったかどうかは、審判の目だけでは見過ごされることもあるが、VARが介入しビデオで見ることになれば一目瞭然で、その事実そのものは確認できる。だが、それに対してPKを与えるかどうかは主審の判断になる。故意のハンドはPKで問題ない。しかし故意でなく手に当たった場合、取るか、取らないか。人間には手があるのだ。エリア内ではハンドを取られないよう手を後ろに回す選手も多いが、ジャンプしたり脚を思い切り伸ばしたりするときは、バランスを取るため手の助けも借りるさ。そんなときにボールが当たってしまうのはよくあることで、この大会でもよく見られた。明らかな故意と明らかな不可抗力の間の広いグレーゾーンで、反則が取られたり取られなかったりした。結局VAR導入以前と何も変わってなくて、手に当たった事実だけは明瞭になるため、問題が拡大する。VAR不介入のケースも多くあり、それもさらに状況を混乱させる。いっそ手に当たれば全部ハンドということにすればすっきりするが、それではPKだらけになるし、相手の手を狙って蹴る選手が続出するだろう。人垣に守られたゴールへ蹴るより、その人垣の手をめがけて蹴るほうが簡単だから。それではサッカーの定義が変わってしまうよ。「90分間でより多くのゴールを決めるのを競うゲーム」というのが、「90分間でより多く相手の手にボールを当てるのを競うゲーム」になってしまう。
VARはペナルティエリア内のファウルのみ対象とし、エリア外のファウルは対象にならない。だから長谷部が取られたファウル、グリーズマンが取ってもらったファウルのような(明らかな)誤審には介入しないのだが、それで得られたフリーキックから得点が生まれているのだから、結果として「得点に影響する誤審」となっている。長谷部のは失点しても試合結果を左右することにはならなかったが、グリーズマンのダイブは決勝であるからカップの行方に大きな影響があったと言える。もしエリア外の疑わしい判定にまで介入することになれば際限がなくなるから、これを対象外とするのはそれはそれとして正しいが、釈然としない感情は残るだろう。
二重権力になるという問題もある。最終的には主審が裁定を下すとはいえ、主審の権利と権威の少なからぬ部分がVARに奪われる。衆人環視の中で白日のもとにジャッジが行なわれるこれまでの単純素朴なありかたが根底から覆される。人目に隠れた密室から指令が送られてきて、主審はそれに耳を傾ける。このような「影の権力装置」を造れば、必ずそこへ結果を操作したい連中の黒い手が伸びる。「ビジネスチャンス」の提供だ。
さらに、そのVARは首都モスクワに置かれる。カザンやロストフが遠く離れたモスクワの指令に従う。リゾームであるべきスポーツの試合において、許しがたい中央集権管理体制である。筆者はテクノロジーなんか毛筋ほども信じない。自分が目で見、手で触れるものどもが信用の礎である。時代が百歩先を行っているのなら、百歩後を行けばいい。こんなことは許せない。
いいかげんで大らかなのがサッカーの大いなる魅力のひとつである。ゴールから遠いところでのフリーキックスローインの位置はまったく厳密でなく、スローインなんか審判を見るまでもなくセルフジャッジで行なっている。ロスタイムも大まかな目安は示されるようになったものの、秒単位の神経症的な競技と違って大雑把なものだ。そういうサッカーのよさが奪われるのは由々しきことだと思う。
VARのある試合とない試合で別のサッカーになってしまうという問題もある。同一ルールでなくなる。最高峰のワールドカップも10部リーグも草サッカーも同じように行なわれるのがサッカーで、そのためこのスポーツは「民主的」であり、それゆえ大衆の人気を博していたのに、それがエリート競技と非エリート競技のふたつに分割されてしまう。
もしビデオによる確認を行なわなければならないなら、今大会のような「介入制」でなく、前にも書いた通り、相撲のような「物言い」システムにするべきだ。VARはビデオ再生係となる。主審がジャッジするが、それがおかしいと思ったら物言いをつけて(あるいは主審自身が確信を持てない場合は自発的に)、ビデオを確認しに行く。物言いをつける権利は線審2人と、ゴールライン上に追加されたヨコ線審、そして各チームの監督にも1試合2回に限って物言いをつける権利を与えよう。物言いがついたら、主審は必ずビデオで確認しなければならない。その結果、行司差し違えにもなるかもしれないし、軍配通りかもしれない。いずれにせよ、これなら密室の介入と違い、観衆も選手も何が起きて試合が止まったのかはっきりわかる。青天白日の下で判定が下される。すでに2回の権利を使ってしまったあとでは、明らかに誤審だと思っても被害チームは指をくわえていなければならない。それはゲームの一部だ。「介入制」による不公正感は軽減される。物言いの権利にせよ何にせよ、権利は与えられれば必ず乱用されるものだが、しかたがない。これなら、試合が止まっても選手も観客もなぜ止まったかがわかり、困惑して興ざめになるどころか、むしろ興奮するだろう。勝負審判が土俵に上がると場内が沸くのと同じように。
これが最もよい解決策に思われるが、どうだろうか。


「おや、ひょっとしたら勝てるんじゃないか?」
フィールドに入ってくる前の整列の場面で、吉田麻也が自軍側だけでなく相手側のエスコートの子供たちともハイタッチをしている画面を見て、そう思った。リラックスしている。何だがいい気分になって試合を見始めたら、ものの数分で最初の絶叫となった。「撃て撃て撃て!」「撃て撃て撃て!」それで得点した上に、相手ディフェンダーが退場だからね。
コロンビア戦は幸運というより僥倖だったと言えよう。ハメスの負傷、PK進呈の上退場、それでも追いついて、10人対11人だから引き分けを狙ってもよかったのに、日本相手に勝ち点1は許されないとでも思ったか、攻撃的な選手を投入して勝ちにいって失敗するという悪手が重なった。相手の自滅だろうが何だろうが、勝てばいいのである。次のセネガル戦は好ゲームだった。引き分けだったが、日本が勝っていたとしてもどこからも苦情は出なかっただろう。苦情の嵐であった次戦はおいて、決勝トーナメント1回戦のベルギー戦は、結果は悔いの残る敗戦ではあったものの、誇りのもてる戦いぶりであった。よくやった。期待が低かっただけに、なおいっそうすばらしい。身を乗り出して「撃て撃て撃て!」と叫んだ場面のほとんどでシュートを撃っていたし、それがよく決まっていたから、見ているほうとしてはたまらなくおもしろい。


そんな試合を見せてくれた感謝とともに、言わなければならないことは言っておこう。
今回の日本代表は、言わば未来と引き換えに過去のチームを仕立て直して再戦したようなものだった。前任者なら確実に選んでいた中島や久保、選んだ可能性の高い浅野や井手口が外れ、彼らが入っていたら押し出されていたであろう30歳以上の何人かのブラジル組が選ばれていたわけだから。その戦いぶりはよかった。特にベルギー戦とセネガル戦。ブラジル大会のサッカーが前任者の指導によって強化されていた。しかし、相変わらず「自分たちのサッカー」以外のサッカーはできず、そのことがポーランド戦とベルギー戦の最終盤に露呈した。
おっさんジャパン、年功序列ジャパン、忖度ジャパン、いろいろな言われようをした今回の日本代表だが、温情ジャパン、支離滅裂ジャパンと呼ぶのが適当だと思う。
たとえば岡崎。大会前に負傷をかかえていたから、ハリルホジッチなら外しただろう。もし選んでいても、パラグアイ戦のあとの重ねてのけがで、そのときには確実に外しただろう。だが、西野監督は治ると信じて外さず、浅野を帰らせた。前監督は、岡崎の代表100試合目のことだったと思うが、晴れ舞台を用意し、キャプテンにも指名した。情のある人だと思った(代表から外れて長いカズを呼ぼうとしたジーコもそうだった)。しかし、こと勝負となると冷酷になれる人だ。使えないと判断したら、情に関係なく外したはずだ。しかし西野さんは選び続けた。その温情は、追い回すフォワード、潰れるフォワードとして最初の2戦では役立った(岡田監督が矢野貴章を選んだのを思い出した)。しかし第3戦で故障した。岡崎に関しては、その温情がチームにとって吉だったのかどうか断言しにくい。
断然吉だったのは乾と香川だ。この3人はけが明けで、間に合うのかどうか微妙だった。香川についてはハリルも最後まで待ったのではないかと思うが、乾はおそらく選ばれなかっただろう。彼のポジションにはいい選手が多く、中島は選んだに違いないから、けがをしていた乾のための席はなかったと思われる。西野監督が外さず選んだ乾が大活躍をしたのだから、その判断は結果として大正解であったし、褒め称えられるべきではあるが、中島がいなかったことを忘れてはいけない。
第1戦第2戦でミスをした川島を使い続けたのは、それほど温情ではないかもしれない。素人目にはよくわからないが、第2GKとの間にそれだけの実力差があるということなのかもしれないから。ハリルも同じように川島を大事な場面で使っていたし。ポーランド戦の前だったかの記者会見で川島を同席させていたのも、温情というより、多少のミスはあってもそれ以上に貢献している彼を使い続けるという監督の断固たる決意を示すもので、指揮官たるものかくあるべしという範を垂れたと理解している。
まだグループリーグ突破も決まっていない、敗退の可能性もかなりあるポーランド戦で、先発を6人も替えたのには驚いたし、理解不能だった。それは突破の決まっているチームのすることだ。主力を休ませ、決勝トーナメントに備えるといっても、そこに進出できなければ何にもならない。これもおそらく温情だったのではないか。23人全員で戦うと掲げていたこともあるし、彼らは大会前最後の試合パラグアイ戦までは主力扱いだったのだから、ワールドカップの舞台に立たせてやりたいと思ったのではないかと想像する。しかしその「温情」は、危うくすべてを台無しにするところだった。ポーランド戦は敗戦だった。0−1だからよかったものの、まんまとはまったカウンターの場面でレヴァンドフスキに2点目を決められていたら敗退だった。
それらすべてを差し引いても、あの乾(今までシュートを外すシーンしか見ていなかったような気のする乾)の大活躍で温情はペイしたと思われるが、その対象が主としてブラジル組であったことは指摘しておかなければならない。予選やテストマッチで活躍し、選ばれる資格も出場する資格もあったはずのリオ組から中島・久保・浅野・井手口が外れ、残った大島・植田・遠藤・中村には出場機会がなかった。将来の犠牲の上での現在の勝利、という側面はあるのだ。
「おっさんジャパン」だったのにも無理からぬ点はある。2か月前にいきなり監督を任されたのでは、計算のできる経験豊富な選手に頼るしかないのだから、それをもって西野監督が責められては気の毒だ。将来が犠牲になったことの責任の所在は別のところにある。
西野監督は敗れた選手たちにすばらしいことばをかけた。「ベルギー戦が終わった後に倒れ込んで感じた芝生の感触、見上げた空の色を忘れるな。ベンチに座っていた選手は、居心地の悪いお尻の感触を忘れるな」。それにはもうひとつ、「テレビを見ていて感じた無念さを忘れるな」も付け加えなければならない。それを忘れない選手が次の大会(日本が出場できるとは決まっていないので、とりあえず次の大会の予選)で活躍してくれるだろう。
クロアチアは20年前に準決勝を戦っていたが、国中の熱狂の中であの試合を見ていて、自分がゴールを決めてチームを決勝に進出させる選手になりたいと願ったペリシッチ少年が、20年後に本当にゴールを決めてチームを決勝に導いた。これは奇跡的な例だとしても、歴史はこのように続くのだ。日本もかくあれかし。


監督についても考えさせられた。
ハリルホジッチの遺産は正当に評価されねばならない。彼が口うるさく言っていた一対一、縦パス、速い攻めがそこここで生きていた。今大会勝ったのは10人のコロンビアに対してだけ、あとは2敗1分けだと悪口も言われるが、ブラジル大会では10人のギリシャに引き分けているのだから、勝ち切ったのは大いなる進歩だ(あのギリシャ戦は間違いなく大会で最も無内容な疲れるだけの試合だった)。セネガル戦ベルギー戦はほれぼれするような戦いで、その得点はまさにハリルホジッチがやりたがっていた速い攻め、長いパスで急所をついてのものだった。
彼は選手に出場機会の確保を求め、移籍を促した。長友、原口、そして本田もそれに応じてリーグのレベルを下げても移籍し、試合勘を整えていた。清武のように移籍して失敗した例もあるが、それはけがによるものでしかたない。逆に井手口は、出場機会を失う危険を冒して移籍し、まんまと出場機会を失って失敗した。彼の場合は出られているチームにあと半年とどまるべきだっただろう。
また、基準を設けて競争を促した。ザッケローニのチームはほとんどメンバーが固定されていて、そのため熟成もしたのだが、それが驕りや停滞につながった面は否定できない。ハリルホジッチのもとでは、香川や本田のような日本人監督にはほぼアンタッチャブルな存在も、満足できない状態なら容赦なく外された。それが危機感になり、代表に対する思いを再確認することにつながっただろう。
ドイツに快勝し、前回優勝国をグループリーグ敗退に追い込んだメキシコの監督は、6か月前から対ドイツ戦の戦術を考えていたそうだ。ハリルホジッチもそうだっただろうと思うと残念だ。西野ジャパンも大健闘してうれしいのだが、それでも悔いとして残る。西野監督の采配には大いに疑問点があるだけに。
あのメキシコの対独戦は、前大会のアルジェリアの対独戦にダブる。おそらく参考にしただろう。韓国もそうで、ドイツはいわば4年前に何とか退けたアルジェリアに4年後にしてやられたという見方もできよう。江戸の仇が長崎で討たれたか。
また、こうも思う。ハリルホジッチが監督のままだったらどうだったか、それはわからないが、仮にベスト16に進出しても、メキシコのようなチームだったかもしれない。日本と同じくベスト16敗退に終わったメキシコは、いいチームではあったが、比べると日本のほうがより魅力的なチームだったと思う。西野ジャパンは、その最良の場面ではザックのチームとハリルのチームのハイブリッドで、だから成功も収め(日本の力からすればベスト16は上出来以上の結果だ)、魅力的だったのだろう。しかし最良以外の場面はけっこう問題だった。


西野采配の問題点は、まず何よりもポーランド戦の最後の10分間である。
両者が延々とパス回しを続けて時間を潰す「談合試合」は珍しいものではない。だが、それはこのままの結果なら両者勝ち抜けとなる場合に限られる。普通は引き分けの試合の後半最終盤に見られ、一方が負ける試合で発動されることは少ない。しかし、敗北を選択しても、それでポーランドと日本が勝ち抜けると決まっているのなら、その「談合」はありうるし、「合理的」な判断でもある。あの悪名高いドイツ―オーストリア戦のように。あのいわゆる「ヒホンの恥」の場合は、一方の負け試合であったことに加え、80分の長きにわたったことで問題になり、あれ以降グループリーグ最終戦は同日同時刻にキックオフという規定に改正されることになるほど非難囂囂だった。あのときはだから、もうひとつの試合は終わっていて、その結果を見て試合を殺してしまったのである。しかしこの日本―ポーランド戦は、同日同時刻に行なわれているコロンビア―セネガル戦の結果がわからないのに、負けている日本が攻めずに1点差で負けようとしたのだから、ものすごく新奇新機軸の、世界のどの国も考えつかないような作戦をとったわけである。勝ち点も得失点差も得点も当該国同士の戦績も同じなら、フェアプレーポイントの差で順位が決まるという奇怪なレギュレーションで(イエローカード・レッドカードの出し方は審判によって個人差があるのだから、同じ審判によって裁かれていない場合は不公平になる)、フェアプレーポイントで勝る日本が勝ち抜けた。いわば「フェアプレーの勝利」なわけだが、プレーを放棄する究極のアンフェア行為が「フェアプレーの勝利」などとは、まったく悪い冗談だ。
私見を言えば、コーナーキックの数で決めるのがいいだろう。CKが多いのは攻めていた証拠だから。フェアプレーポイントというのも悪くない考え方ではあるのだ。カードをもらわず、クリーンに戦うチームに褒美があってもいい。それがアンフェアな試合放棄をしたチームに悪用されるのが問題なだけで。イエローカードをもらわないというのは意図的にできること(自分でコントロールできること)であるが、試合の進行とともに変わっていくCKの数ならコントロールできない。まずこれを基準に定め、それも同数の場合最後の手段としてフェアプレーポイントを用いるべきだ。それも同数なら、コイントス。間違ってもFIFAランキングなどで決めてはいけない。やってみなければわからないのが勝負のおもしろさで、やる前から決まっているものを特権として持ち出すのは卑劣である。ま、卑劣はヨーロッパ人南米人の特性のひとつだけどね(と今までは悪態をついてきたが、日本が卑劣な真似をしたこれからはそれも抑制しなければならないのが悲しい)。
あれは賭けであった、と言えば耳ざわりよく聞こえるが、つまり丁半博打だったのだ。勝つ確率のほうが高い博打であったが、博打であることに変わりはない。自分でコントロールできないことに運命を託すのは、博打以外の何物でもない。コロンビアが勝つ可能性は確かに高かっただろうと思う。しかし得点せねば敗退のセネガルは当然必死に攻撃する。サッカーは点の入りにくい競技だ。だが、入るときはおよそばかげたゴールも決まってしまう競技でもある。シュートでも何でもないロングキックが得点になってしまうのを、われわれはカザフスタン戦の井原、オーストラリア戦の中村で見ているではないか。ベルギー戦の単なる折り返しのヘディングがゴールに収まってしまう場面を数日後に見てしまうことになっていたではないか。キーパーのミスだってある。チャンピオンズリーグ決勝という大舞台でやらかしたGKがいたように。オウンゴールもあるし、今大会非常に多いPK(特にエリア内のハンドによるPK)もありうる。それにこの大会ではロスタイムにやたらめったゴールが決まっている。そんな中でどうして命運をコロンビアの勝利に賭けていいのか。コロンビアはかりに1点失って引き分けても突破なのだ。
賭けをするときには、それによって得られるものと失うものを秤にかけなければならない。この賭けは、得られるものに比べて失うものが大きすぎる。スポーツの試合は、名誉のために戦っているのである。この丁半博打には勝ったが、負けていたらどうなる? 世界から未来永劫嘲笑されるのだぞ。卑怯な数字合わせをして試合放棄して、滑稽にもそれまでの善戦健闘の誇りのすべてを失ったみじめなチームとして。ベスト16に進出するための苦渋の決断だ? ベスト16が何ほどのものだ。前大会、前々大会のベスト16敗退国を覚えているか。優勝国ドイツを追い詰めたアルジェリアぐらいなら覚えてもいようが、ほとんどの国は忘れ去られている。日本の名誉は、その程度の報酬のためにたかだか2か月前に就任したばかりの監督が賭け金に使っていいような安いものではない。昔ならば切腹ものだ。
決勝トーナメント1回戦に勝たなければ意味のないことばかりしていた、というのが客観的な事実だ。先発メンバー6人替えもそうである。ベルギー戦に勝つために温存したとしか考えられないのだが、そんな先のことでなく目前のポーランド戦に勝つか引き分けなければならないその状況がわかっているのかと普通の人間は思う。
あきれたことに、多くの日本人は結果がよかったのですべて許してしまって、あまつさえ名采配だの名監督だのと言っているが、それは休み休み言う類のものである。博打に負けていたらどうなっていたかが考えられないのは、想像力の欠如である。国の名誉を危うくする西野監督のこの決断に、賛否が半々だという。賛成が半数だと? この国民はどこまで名誉心を失っているのだろう。ブラジルでは「日本人」というのはサッカーが下手な人の代名詞だったそうだ。韓国では「永遠の格下」などという言われようをしていた。そのようなかつての弱小の頃でさえ、捨てていい名誉などない。ましてや先人の営々と重ねた努力によってアジアで1、2を争う国になった今では。
次のベルギー戦の大善戦で、日本を褒める人が増え、日本の名誉は高まった。その事実をもってしても、あるいはそのポテンシャルがあるからなおさらに、してはならぬことである。勝負は時の運だ。ベルギー戦の結果は敗戦とはいえ上々だったが、あれが惨敗だったら、あんなさもしい真似をしてまで上に進んでこのざまかと、賭けに負けたとき並みの嘲笑を受けた。その危険はあった。原口の得点の直後のアザールのシュートがポストに当たらず決まっていたら、日本お得意の大逆転を早々にやられていた可能性は高い(ああ、寝起きの悪い大逆転負けを何度見せられてきたことか。日本代表のファンであることはつらい)。
近代日本史は戦争史であり、その戦争の多くは宣戦布告なしに行なわれていたことを決して忘れるべきでない。謀略工作は日本軍の代名詞だった。「日本人はずるい」というのは残念ながら国際的な定評だ。それを裏書きするようなことを衆人環視(決勝戦なら世界10億人が視聴するのだ)の中でやってしまったことの意味を、日本人はしかと考えなければならない。
このばかげた「丁半博打」がまんまと成功してしまったので、悪い前例ができてしまった。これからは、同じような状況になったらまたやるのではないかという恐怖とともに生きていかねばならない。そのくらいなら、いっそ今回セネガルに得点してもらったほうがよかったとさえ思える。とにかく、支離滅裂なやり方に、見ているほうは愕然とし兢々としてしまう試合だった。
ボール回しが10分でなく最後の5分だったら、おそらく非難もこれほど大きくなかっただろう。監督解任が2か月前でなく4か月前だったらというのと同じだ。時間のマネージメントも非常に重要だと知らされた大会であった。
帰国した韓国代表チームに生卵が投げつけられた。いいことだと思う。ドイツに劇的に勝ったことでそれまでの情けない試合が全部許されるわけではない。1試合でそれまでの全試合(W杯2試合およびアジア予選でのふがいない数々の試合)をなかったことにするわけにはいかない。「なかったことにしたい人たち」に対して否をつきつけた。ま、そういう人たちは卵のひとつやふたつで恥じ入ることはないけどね。
もしこの次こんな博打をして失敗したら、責任者には切腹してもらいたい。比喩的意味で言っているのではない。


一言で総括すれば、今大会ですばらしかったのは監督の力であり、足りなかったのも監督の力だった。
西野続投を願う声があるそうだが、ありえない。日本人監督か外国人監督かについても、議論の余地はまったくない。選手は世界のトップレベルから遠くないところまで追いついてきているが、監督は全然追いついていない。
そもそも、クラブチームしか率いたことのないザッケローニでだめだったから、代表監督としてW杯で戦った経験のある人を呼ぼうということだったのに、ハリルホジッチでコミュニケーションがうまくいかなかったから、その問題のない日本人にしよう、代表監督歴・W杯指揮経験は不問、というのでは、まったく一貫性がないばかりか、近視眼の極みではないか。
西野さんを悪く言うことはない。準備もなく、2か月前にいきなりW杯の監督になったのだ。そりゃいたらぬ点は多々あるさ。限られた時間資源とも戦いながら、あの躍動するベルギー戦セネガル戦を見せてくれたことに対しては、まず彼に感謝すべきなのだから。
とにかく、この日本代表というやつはおそろしくナイーブである。まさにそれが魅力であるのだが。勇敢に攻める姿は小気味いい。しかし一方で、トルシエの言ったとおり、守備の文化がない。
ベルギー戦はポーランド戦のまったく逆で、攻めて勝ち切ろうとした。ここでこそ時間稼ぎもボール回しもすればいいのに。おそらくポーランド戦の反動だろう。西野氏は恥を知る人だと思う。恥を知って、逆をやった。実にナイーブだ。
1点取れば勝ち抜けがほぼ決まる。1点失えばほぼ敗退する。このままの1点差負けでも勝ち抜ける可能性はあるし、その可能性は低くない。この状況では、失点はせず、機を見て得点を狙う戦い方をするべきである。あのボール回しは、それができないと宣言しているようなものだ。そしてそれは、ベルギー戦の、あくまで得点を狙い、結局最後の最後に失点したのを見れば、たしかにそうなのだ。つまり、惨めなポーランド戦の最終盤か無邪気なベルギー戦の最終盤か、どちらかしかできない。そんな国には本来ベスト16の資格はないし、ベスト8などはおこがましい。それがはっきりした。果敢な玉砕か、卑怯な試合放棄か。この二者択一。それじゃだめだよね。
デカいのを入れてゴリゴリ押せば決壊するという悪癖もまた目の当たりにした。ドイツ大会オーストラリア戦の悪夢ふたたびだ。
ハリルホジッチは、自分が監督なら2−0からの逆転負けはありえないと語ったそうだ。それに対して、あんたならグループリーグ敗退だとかそもそも2点も取れないという反発があるのは当然だが(負け惜しみに聞こえるし、日本人は負け惜しみや言いわけを極端に嫌う)、一面真実でもある。彼に限らず、W杯で指揮を執ったほどのサッカー先進国の監督なら誰でも、あんなナイーブな負け方はしない。最低延長戦にはなって、結局延長で敗れるかもしれないが、あんな負け方にはならない。
ハリルにプレー強度を向上させてもらったように、次の監督には試合運びや選手交代の妙、いくつもの戦い方を叩き込んでもらいたい。次期監督にはそれができる歴戦の強者を招かなければならない。


ナイーブさは、勝負を考える場合大いなる欠点だが、観戦する場合はすばらしい魅力となる。日本サッカーは少年の喜びに満ちている。少なくともこの西野ジャパンはそうだった。
サッカーは単なる楽しいスポーツなのに、サッカー先進国ではそれがスポーツ以上(あるいは以下)のものになってしまっている。それをめぐって襲撃や殺人が起きるというのは、どう見ても正常ではない。スター選手の移籍金や年俸の異常極まる高騰もしかり。莫大な利益を生む一大産業になってしまっていて、明らかに奇形とか堕落といっていいような様相も呈す。技術や戦術をこれでもかと磨き上げ、身体能力も特殊部隊並みに鍛え上げて、なるほど強かろうが、モラルを伴わぬ何のための強さかと思ってしまうことがないでもないヨーロッパや南米の強豪国の姿に慣らされているのだが、しょせん球蹴りである。本来不必要なもろもろの負荷によっていびつになった南米的ヨーロッパ的形態をのみ見慣れている人たちには、サッカーをする喜びに満ちた日本の試合は清涼剤だっただろう。世界の舞台で高校選手権をやっていた。ほかの国に高校サッカーの全国大会が存在しているのかどうか知らないが、たとえあっても会場を満杯にできるほど人気があるとは思えない。高校選手権出身者が多い日本の試合は、いわばサッカーの「青春の姿」なのかもしれない。
日本のサッカーがこうなのは、たぶん女の子たちがいるからだ。全国大会で惜敗したらいっしょに泣いてくれ温かく迎え入れてくれるやさしい女子生徒たちが、彼らの果敢さを背後で支えている。日本のスタジアムには女の子や親子連れが安心して見に来れる。それは結果ではなくて、原因なのだ。女の子が来るから、日本のサッカーは無邪気であってなかなか勝負に強くなれないなれない一方、無垢な喜びが保証されているのだ。
セネガル戦は後進国同士が戦い合った。セネガル代表は、スタッフに白人の顔も1人2人見えたけれども、しかしほとんどが黒人ばかりだった。大陸が違い、人種が違い、スタイルが違っていても、日本と同様すれっからしにならない無邪気さがあった。そういうのがワールドカップの大きな魅力である。イタリア代表やオランダ代表、チリ代表が出場しないのにひきかえ、レベルの低いアジアから5チームも参加していることを申し訳なく思う意見は聞かなくていい。試合のレベルを問題にするなら、ヨーロッパ選手権南米選手権を見ていればいい。ワールドカップは祭りで、日本やセネガルなど、弱小かもしれないけれど清新な楽しいチームを見るために存在していると言っていいのだ。


とにかく、ベルギー戦とセネガル戦はすばらしかった。課題は、あの負けや引き分けを勝ちに変える一層の守備力の向上とゲーム運びの習熟であるとはっきりわかったことも、さらによかった。日本人は、日本人である限り常に向上を目指さなければならない。それが日本人であることの宿命である。


パナマというのもおもしろいチームだった。あの監督は、ピンチにもニコニコ、チャンスにもニコニコ、得点にもニコニコ。体型も少年サッカー団の監督といったふうに見える。イングランド戦は、開始早々にイングランドが1点を取り、力量差歴然だったので見るまでもないと思い、消して寝てしまった。あとでテレビをつけると、6−0になっていた。そのあとパナマが1点を返したのだが、そのときの客席の喜びようはすごかった。ここからテレビをつけた人は、この狂喜乱舞を見て、歴史的番狂わせが起きたのかと錯覚してしまうだろう。得点表示を見ると、6−1。えっ、パナマが6−1でイングランドをリード?と驚いて目をこすると、パナマは1点だけ。なあんだ、とソファにもたれこんで大笑い。そんな人も世界にはいたかもしれない。この国はワールドカップ初出場が決まった日を祝日にしたんだっけ?
こういうのもいい。すごくいい。世界がみんな「日本」だったら、息がつまる。